――― 若、若、おねぼうさんですよ。
 ――― そろそろ、起きてくださいな。天気がいいので、布団を干してしまいたいんです。

 女はそう言って、頭やら頬やらを撫でてくる。
 この手が冷やっこくて、くすぐったい。
 くすくすと笑う声もまた、耳に心地よい。
 こうして起こされるなど、いつ以来だろう。

 余程の理由がない限り、朝は己で起きて布団を畳み、着替えをするようになった。これができるようになると、守役女は大袈裟なほど己を褒めちぎったくせに、己が見ていないと思って油断しているところを盗み見れば、どこか寂しそうなので、休みの日は、時々寝坊することにした。

 するとこうして、嬉しそうに、己を呼んでくる。

 ――― 若、リクオ様、おねぼうさん。

「ああ、今、起きるよ、 ――― 」

 最後に呼ぼうとした名は、その途端、遠ざかってしまった。

 目を開けると、あたりはまだ夜明け前、うっすらと東の空が白み始めたばかり。
 夜通し騒いでいた連中が、ようやく寝静まった頃であろう。

「……まったく、起こすんなら、もう少し後にしてくれればいいのによ。いくらなんだって、この時間は早すぎるっての」

 まだリクオは、夜の姿に化生したままであった。
 床につく前、いくらか酔っていたが、これも寝ている間に妖気とともに立ち上ったか、醒めてしまっていた。寝なおすには酒気が足りない。
 もう少し後に目覚めたなら、童子姿と一人寝も手伝い、陽が目に染みたせいにして少し枕を濡らしもできたろうに、この姿では意地が先立つ。苛立たしいばかりだ。

 家人の誰も起きている様子がないので、気配を殺して濡れ縁に出た。
 西に傾いた月は、まだ僅かに光を放っている。

 朝の支度をするにしても、早すぎる時刻だ、がたごとやり始めては寝静まった者を起こしてしまうだろうし、この姿では気だるくて、細かな作業をしようにもつい乱暴になりがちだと知っていたから、そこに座り込んで、夜明けを待つことにした。

 丑の刻までは、本家の和子さまが今年で三つにおなりなのと、そこで初めて端午の節句も祝うことになったので、笛や琴やら琵琶やらが文字通り他の妖怪どもと一緒に大騒ぎして大変だったが、暁7つが過ぎた頃かという今はもう、屋敷中がしんと静まり返っている。
 それもそのはず、そろそろ陽の気が満ちる頃。わざわざ、一晩力を蓄えたお天道様が、その日一番に力を放つ瞬間を拝みたいなどと考える、物好きな妖怪は居ない。せいぜいがリクオくらいのものだ。リクオにとって、朝陽は忌むべきものでなく、一晩中、己に纏わりついた鬱陶しい紫雲のようなものを、さあと払ってしゃきりとさせてくれる、冷水のようなものだった。夜に己が纏う紫雲があり、朝陽にこれを払われ冴え冴えとする己があり、この二つが揃って初めて己なのだと思うだけのこと。どちらも忌むべきものではない。

 陽が昇るのを待ちながら、東の空を見上げてぼうっとしていたリクオだが、ぴくと気づいて、居住まいを正した。

「こんなところで、酔い覚ましかい」
「眠気覚ましの方ですよ。そろそろ、今日一番の陽が拝める時分なもんで。総大将こそ、風に当たりに?」

 気配も無く、リクオの傍らに佇んでいらしたのは、奴良屋敷の主にして、奴良組総大将。
 少しも休んでいなかったのだろうか、徳利と盃を手にされた姿でそこにおられた。

「皆、寝ちまったからな。今まで月しか相手にしてくれなんだ。少し、付き合え」
「朝っぱらからですかい?」
「迎え酒と言うじゃろう。お天道さんを待ちながら飲むのも一興じゃ」
「陽を待つ奇特者なんざ、オレだけだと思ってましたがね」

 言いつつ、徳利をうやうやしく受け取り酌をする。
 盃こそ交わしていない食客の身を通しているものの、総大将の器の大きさには、ここ一二年で感服することはあれ、嫌う理由は何もない。

 注がれた酒を上手そうに飲み干され、

「どうじゃ、リクオ」

 同じ盃を向けられたが、苦笑するにとどめた。

「もうじき、朝になっちまう。酔いが残ったまま飯を炊くと、酷い目に合うんで遠慮します」
「リクオは生真面目じゃのう」
「これが性分で」
「せっかく浮世に生じた身なれば、愉しむだけ愉しまねば損よ。酒も、煙草も、こっちもな」

 総大将、最後に小指をぴんとして。

「……総大将は、そっちはいささか奔放というか、破天荒にすぎますぜ」
「何を言う。人間どもだって、やっておるではないか。たいして惚れてもいないくせに、囲うだの通うだの、花を手折ることばかりに熱心で、花を愛でることを忘れておる。なんとも風情のないことよ。それに比べて、ワシはちゃんと、花それぞれを愛でておるぞ。リクオ、お前もそろそろ他の野原に目を向けてみい、あんまりにも情が薄すぎると、化猫横丁から苦情が来ておるわ」
「少しでもそういう気を起こそうとすると、枕元に降るんですよ、うちの六花は。おかげで二夜と同じ女を酌に呼べやしない」
「ふむ ――― 」

 少し、間が空いた。

「今日はそれで早起きかい」

 からかうように、図星を突かれる。
 容赦の無いおひとだ、と、リクオは少し眉を寄せたが、構わず総大将は唐突に盃を目上に掲げ、夢の六花などお忘れになったように。

「鯉伴が、三つになった」
「ええ、目出度い」
「人としてのやや子の育て方など、知る者はおらなんだから、鯉伴が一つ咳をするたび、一夜熱を出すたびはらはらしておったが、お主が来てから、ずいぶんたのもしくなった。珱姫はもうお前を他人の子とは思うておらぬし、鯉伴もお主によく懐いておる。珱姫は縁者がおらぬから、大変心強く思っておることじゃろう。礼を言うよ」
「居候の身で、できることと言えばそればかり。言われるほどのことは、何も」
「人の子が、三つ、五つ、七つのときに祝うなど、初めて知った」
「そりゃ、総大将は妖怪であらせられるから」
「人の子が、五月五日にやはり節句を祝うなど、お主が言わねば珱姫も口をつぐんだままじゃった」
「災いを払うのが良いとは言えど、亭主が妖怪じゃ、言ってよいもんかどうか、珱姫さまも悩まれた末のご判断でしょう。悪く思われますな」
「守役、よくつとめてくれておるな」
「己がされてきたことを、こうだったああだったと、思い返しながらやってるんで、拙いにもほどがありますが、いくらか御恩返しができているんなら……」
「それに、小物どもの《小》大将も、よくつとめておるのう」
「お恥ずかしい」
「最近、街の人間どもが、小物であれば使いにやっても驚かぬそうじゃな」
「昼過ぎから夕暮れどきまで、寺に集まるガキどもと、遊戯をやっているんでね。手前のガキの遊び相手が来た、ぐらいにしか思わない。愕かしがいの無いこった。ま、気のいい連中は、いちいち驚いたふりをしてくれるし、面白がって寝物語にもしてくれるから、小物どもも面目保ってはいますぜ」
「おかげで、ずいぶんと住みやすくなった。闇が薄くなる太平の世、ワシ等のような妖怪どもは、どこまで追いやられるかと思っておったが」
「らしくもない」

 くつくつと、二人、よく似た顔を見合わせ。

「色々あったな、小大将」
「ええ、色々に、総大将」
「それほど経つのに、お主は、まだここに馴染むつもりがないようじゃ」
「ここは浄土のような良いところだ、嫌ってるつもりは、甚だないんですがね」
「 ――― お主が素直に根を明かす、この夜のうちに言うがよ、リクオ」
「 ――― 」
「盃、受けちゃくれないかい」

 金の毛並みの妖が、盃をずいと差し出せば。

「過ぎた申し出です。どうか、お気を悪くされますな」

 銀の毛並みの妖は、遠慮がちに、しかし頑なにこれを拒む。

 少しの時もおかずに拒むので、これ一度きりの誘いにしようと思われていた総大将は、大変残念に、また無情に感じられ、少し脅してみたなら飲むのではないかと、ちらとやましいこともお考えになった。
 悪の総大将であらせられる。器が大きいと慕われはすれど、己の《畏》をさらに大きく強いものにせんとするところは、やはり妖怪なのである。今までも、手段を問わず、手に入れたいものをまず手に入れ、それから心を開かせたこともあるのだ。

 ここで、夜が、明けた。

 妖怪が何より厭うはずの、お天道様の一番の力がこもった朝陽を浴びて、水干姿の立派な男子が、絡まった綾がほどけるように童子に姿を変え、不機嫌な表情を一変させて、にっこりと綻ぶように笑い、「さ、総大将、もう一献」可愛らしく首を傾げて徳利を傾けてくるのだから、ため息も出ようというもの。

「卑怯者め。その姿相手でさらに強いては、ワシは稚児に迫るエロ妖怪ではないか」
「おや、違うおつもりでしたか?」
「昼のお主は素直でなく、大人びてしまって、可愛げがない。皆、よう騙されておるわ。こちらの方がよほど口説きにくいというのに。無理を強いて、その姿でもしも、ほろほろと泣かれでもしたら珱姫に怒られるし、なんだか小物虐めでもしているようで、気分も悪くなる」

 苦い顔で盃を干された総大将に、お許しを、と、こればかりは何の裏も込めず、リクオはただただ頭を下げる。
 それから少し、二人無言で、桜色に染まりあがった東の空を見つめていたが、時刻になると、リクオは礼儀正しく一礼し、毎日するように折り目正しく、朝の支度へと向かった。

 陽に照らされて、流石に気だるくなられた体を、尚、縁に寝そべらせ、総大将は一人ぽつりと言った。

「 ――― それほどの六花、果たしてこの浮世に、咲いておるのかのう」

 和子さまが乳飲み子であったときから、リクオはこうして変わらぬ姿で奴良屋敷に居るのだが、件の好い女とやらは、見つかる気配が無かった。


<夢、十夜/第二夜・了...三夜へ続く>











...夢、二夜...
太平の世はまるで浄土。この平らかな世のどこに、お前は咲いているのだろう。