鯉伴さまは、奴良組二代目におなりである。威光ときたら、関東一円にひれ伏さぬ物の怪は無いほどだ。

 幼さなど、十代半ばを過ぎた頃にはとうに消え、以来、黒曜石の瞳で視線をちらと流されれば、もう一度その瞳に映りたいと妖怪ならば誰もが想い、強さを見ればたちまち心服して平伏し、笑顔を見せられれば傍に居続けたくなる。父君の強さと母君の優しさが、一人の中でつぶらに溶け合い、四百年の時を経て、半妖鯉伴は今や、押しも押されもせぬ、魑魅魍魎の主である。
 御隠居された初代総大将などは、「まだまだ、甘えたがりの抜けぬ青二才よ」としゃがれた声で仰せであるが、我に続けと先駆けた、まさしく戦国乱世生え抜きの初代とは違い、「ちょいとお前の力を貸しちゃくれねえかい」と愛嬌ある様子で甘えられる二代目に、不思議となぜか、皆が力を貸したくなるのであった。

 その二代目、浮世は夢のようであると、幼い頃にあね姫さまが言っていたのを、思いだす。

 四百年の時は、決して短くなかった。
 徳川幕府は栄え、そしてまた盛者必衰の理のままに滅び、日ノ本の国は幕末という乱世を迎え、外つ国がこの小さな島国を切り取ろうと躍起になる中、嵐の中を掻い潜った船のようにぼろぼろになりながらも、どうにか近代国家の体裁を整えた。
 かと思えば日ノ本を憂う志士たちの想いを受け継いだ者たちはやがて、外つ国へ矛先を向け、結果、敗戦。
 どちらが正義かと言えば、もちろん勝った方が正義である。世の中はそういうものだ。
 これについて、初代も二代目も、多くを語らない。ただ、多くの者が死にすぎた。その中には、親しいものが多くあった。哀しいと言えるほど、傷も癒えていない。それだけだ。

 焦土になった日ノ本の国を、生き残った者たちが再び生き抜き、昭和の時代は終わった。
 そして、平成。人どもは、まだ百年と経たぬうちに、凄惨な過去の焦土の風景を忘れ去った。
 幼い頃に馴染みであった者たちは皆おしなべて黄泉路へと旅立ち、あの頃の絵姿を見たとしても、瞼に浮かぶものとは似ても似つかぬ。近年、写真、などという便利なものができたけれど、これは流石に、過去に失われたものまでを映し出してはくれなかった。

 なので、二代目が己の若君を胸に抱いたとき、おやと思われたのは、単なる思い違いであったかもしれない。
 四百年の昔の面影など、薄ぼんやりとしていて、不確かなのだから。
 なにせ、今の奥方を最初に見たときも、おや似ているなと、思われたのだし。

 そう、四百年の時を生き、まさか昭和の終わりから、今更人間の娘と恋の真似事をすることになろうとは思いもしなかったが、やがて七転八倒疾風怒濤のあれこれの末に娘を娶り、祝言を挙げ、子を成した。
 産屋にしつらえた屋敷の一室で、時折聞こえる産みの苦しみの声に、びくりびくりと身をかたくしながら待っていたところへ、朝靄の中、轟いた赤子の声。
 やがて小走りに廊下を駆ける音が聞こえ、毛倡妓が疲れた顔に喜色を浮かべて、「和子さまです!」と申し上げたときの、二代目の喜びようときたら例えようも無かった。「三代目だ」と即座に立ち上がって産屋に走ると、向かい合わせに座っていた初代が「せわしないのう」と、嬉しそうに笑った。

 生まれたばかりの、首もすわらぬ和子さまが、身を清められ、御包につつまれてようやく二代目の胸におさまったとき、しかし、確かに思われたのだ。

 おや、と。

 おや、の次は、そうか、と。















 四百年の時を経て、そうか、己はもうすぐ死ぬのだなと、悟った。















 悟ったが、悪い気はしなかった。別れ際、泣きそうな顔で、「次に会うときがあるのなら、それは鯉伴さまが間もなく黄泉路へ旅立たれる時です。だからできるだけ、私に会いたいなどと思いませんように。私に会ったとしても、遠ざける方がよいでしょう。決して側に寄せず、遠ざける方が良いでしょう」と告げた、守役を思い出せば、悪い気がするはずがなかった。
 なぜだ、なぜそんな事を言う、おれはお前を守りたいだけだ。
 何も判らずそれだけを言ったあのときに、あの守役はなんと言ったか。

 そう、「もう守ってもらったよ」、と。「たくさん、守ってもらったよ」、と。
 それはそれは、幸せそうに。嬉しそうに。哀しそうに。

 そして旅立った。いや、戻って行った。
 ここは浄土、行く先は地獄、けれど、そここそを、己の浄土にせねばならぬと。



「 ――― それで、和子さまのお名前は、お決めになりましたので?」



 じいっと、お生まれになったばかりの和子さまを見つめたまま、二代目が何とも嬉しそうに微笑んでばかりおられるので、じれた首無が、皆の心の内を代弁して尋ねた。
 ああでもない、こうでもないと悩んでおられたのを知っているから、さて、お部屋で半紙に書き散らかされた名前のいずれに決まるものかと、集まった妖怪どもが、固唾を呑んで二代目を和子さまを見つめている。

「ああ、決まってる。リクオだ」
「リクオ様」
「奴良リクオ様、か」
「リクオ様、リクオ様」
「若さま」

 そんな名は、名づけの候補にも上がっていなかったが、皆はこれをすぐに受け止めて、リクオ様、リクオ様と赤子に優しく呼びかける。
 古くから屋敷に住む妖怪たちは、昔そんな名前をした妖怪が、屋敷にほんの少しの間住んでいたことを、なんとなく思い出したが、ただなつかしい気持ちになっただけで、二代目も手前等と同じように、なつかしい気持ちで恩あるその妖怪にちなんだのだろうとばかり思うのみ。
 不思議な縁になど、気づくはずもない。
 初代総大将も、小物どもが名づけをやんやと騒ぎながら屋敷を練り歩きはじめ、ようやく二代目と奥方との部屋が静けさを取り戻したときに入ってきたが、小さな孫息子に、でれでれと顔をゆるめるばかり。しかし、やはりちなんだ名前の主のことを思い出し、それで二代目と二言三言交わされた。

「お前のガキの頃と言やあ、あの守役にべったりだったからのう。ずいぶん甘やかしてもらっておったのを、憶えておったか。恩知らずに育たんで、親としてこれはほっとしておくべきかのう」
「まあ、鯉伴さんの守役さんのお名前だったんですか。呼び捨てなどして、バチが当たりませんか?」
「かまわねえさ、おれだって呼び捨てにしっぱなしだったんだ。それで怒るような奴じゃねえし、母親のお前が『リクオさん』じゃ、しまらねえだろ。リクオの母親はお前で、お前はおれの女房なんだ、胸張ってくれ、若菜。……よく、やってくれた」
「おぉ、おぉ、お熱いお熱い。こりゃあ爺はお邪魔じゃったな。若菜さん、ほしいもの、してもらいたいことがあったら、何でも呼びつけておくれ。何かあったらすぐに家の奴等が飛んでくるからのう。誰も飛んでこんかったら、ワシが飛んでくるからのう。無理はせんで、養生しておくれ」
「ありがとうございます、お義父さん」

 初代が挨拶だけを済ませて部屋をさると、ようやく夫婦ばかりの、いや、今はもう二代目の胸で眠られる和子さまがおられるので、家族だけの時間である。

「よくやってくれた」

 と、二代目はもう一度、慈しむような目で奥方を見つめ、仰せになった。
 少し眠るといい、とも言ったが、なんだか胸がいっぱいで、眠れないなどと、奥方が出会った頃そうしたように拗ねて見せると、二代目は一つくつりと笑い、「そうだなあ、ではどんな御伽草子を語ろうか」と、優しく応じられるのだ。

「その、守役さんのお話が聞きたいな。どんな方だったの?」
「ん?どんなって……そうだなあ、優しかったな。たくさん甘やかしてくれたよ。だからおれは、甘え方を知ったし、甘やかし方も知った。回りは妖怪連中ばかりで、人間と言えば、公家出の母と、やはりどこぞの豪族出身の血のつながりの無い姫が、姉のようにいるばかりだったからな。
 公家の姫は自分が育つときも実の母や父より、乳母に育てられているから勝手がわからなかったようだし、自分が子を生んでもそうなるものとしてしか育てられていなかったから、ずいぶん困っていたらしい。おれが赤子の頃、それを見かねて、ふらりとやってきた奴がな、そのままおれの守役になったんだ。
 昼は童形、夜は立派な大和男子に化生する、不思議な妖怪で ――― いや、昼はほとんど妖力が使えなかったから、人間に近かった。優しいが、ほんの少し生真面目で融通のきかないところがあって ――― そこはお袋に似ているところがあった。だが嘘泣きが得意で、親父などは、それでよく辟易としていたよ。逆に夜は短腹なところがあってな、自分で『こっちは考え事に向かない』なんて言いやがる。おまけに行儀もいささか悪い。そのくせ、おれの手習いのことなんかは、昼に怠けてたことをきちんと見ていて、目つきの悪い夜姿で見張ったりされてな」

 幼い頃、ほんの一時だけ、己を世話してくれていた守役の話。
 最初は兄のようで、やがて同年代の友人になり、そしていつの間にか己の方が目線が上になって。

 騒動もあったが、概ね愉快に過ごしたあの一時を、二代目は、別れのときを端折って奥方に物語るのであった。

 二人がどういう風に別れたのか、聡い奥方さまは、お尋ねにならなかった。
 別れの話など、したいものでもあるまい、それほどなつかしげに語られるのであれば尚のこと、悲しい別れなど思い出したくもあるまいと、二代目の心を慮ってのことであったが、こういった、奥ゆかしい優しさが、二代目の心をずいぶんと癒してくれるのだ。

 そして、今となって考えてみればあのリクオも、人の心に聡い者であった、この母があってのことだったろうと一人、得心するのであった。

 やがて、寝入った奥方に、優しく布団をかけなおしてやると、二代目は同じようにすうすうと腕の中で眠る和子さまを、そっと、小さな布団に入れてやる。
 いとけなく眠る和子さまの、小さくふくよかな頬をそっと指で撫でてやりながら、ようやく告げたのだ。




















「 ――― おかえり、リクオ。また会ったな。そうか、そういうことだったんだな」




















 そうか。そういうことか。

 なあリクオ、おれはお前を守って死ぬんだな。



 なんと甘美な最期だろう。
 死んだ後に、守りたいものがきちんと生き残っていることを、おれは知っている。
 だからおそらく未練は無い。なにが死だ、お前は教えに来てくれただけじゃないか。
 お前が、おれが死んだ後もちゃんと生きて、立派に妖怪と人との橋渡しをしていけるのだと、見せに来てくれただけじゃないか。



 しかも、どうやらその時は、もう少しばかり先だ。
 四百年を想えば瞬きのようかもしれないが、瞬きの一瞬こそを、おれの人の心は、永遠と呼ぶのだ。



 他人のような気がしなかったはずだ、お前はおれの子なのだもの。
 覚悟しておけよ、お前がおれを甘やかした分にたっぷり利子をつけて、それこそお前が一生かかっても忘れられないくらい甘やかしてやる。おれの守役をやってたお前はずいぶんと大人びちまってて、本当にかわいげがないったら、なかった。
 お前が言う、地獄とやらが、よほど苦労を強いたのだろう。

 だから、そんな風に早くに大人にならぬよう、歩くようなはやさで、ゆっくりと大人になれるよう、全身全霊でお前を守るし、甘やかしてやるよ。
 なるべく、死なないようにも気をつけよう。
 そんなに早死にしちまったら、せっかく夫婦になった若菜を、きっと悲しませちまうからな、頼むから、もう少しだけ待ってくれよ、おれの死神さんよ。

 お前と歩む一瞬一瞬、これからが本当に楽しみだ。










 お前をたくさん甘やかそう。お前に教えてもらったように、人も妖も愛せるように。

 お前にたくさん手習いもしてやろう。その日の分が終わるまで、手加減してやらないからな。

 やっとうも、ちょいと教えてやらんといかんだろうな。嘘泣きは勘弁してくれよ。




















 まさしく、浮世は夢のよう。一瞬こそが永遠にもなる。




















「強くてかっこよくて、優しい親父になるからな。せいぜい、期待していてくれ」


<夢、十夜/了>











...夢、十夜...
なあ、おれの背中は、あのときお前が言ったように、大きくあったかになってるかい。