【「夢、十夜」、後書きにかえて木公の脳内においてのリクオさん考察とかを勝手気まま正解無しの結論至らず、つまり『俺設定』】


こんばんわの方もこんにちわの方も、またもいらっしゃいませ皆様。木公です。よっぱらいです。
うぇへへへへ、書いた。書いた。たーのしかったー。しかし、肌が荒れた。そして眠い。
真白だ。おやっさん、真白だよ……。もうなんにも……みえねぇ、よ……。
何を削るって、仕事を休むわけにいかんので、飯を食う時間と寝る時間です。

夢十夜、おわりました。最後まで読んでくださった方、拍手くださった方、ご感想くださった方、大変励みにさせていただきました。ありがとうございます。

えー……本日は、木公なんぞの脳内工場にご興味をお持ちいただいた方がいらっしゃったので、ぐちゃぐちゃした汚部屋をちらっと、タイトル通りのカオスな感じで、酒の勢いを借りてご紹介いたします。



<まず素材を用意します。「鯉伴は文句なしに強い。リクオはどこまで追えるのか」>

本日のお供は「千歳鶴・『燗上がり』」、燗にすると味があがるとゆー、わたくしめが燗酒のときに飲む庶民の味方です。地酒。そして例の「冬のさんぽ」、こちらは冷で。
ツマミは虎屋の黒砂糖入羊羹「おもかげ」。……って言ったら、友達がみんなへんな顔するんです。「酒に、羊羹だと?!」と。いいじゃねーか、結局それ、おはぎってこったろ。甘党の酒好きです。母に言ったら「お前は爺ちゃんの血筋だ」といわれました。あー、なるほど……。

さて本題。
半妖と四分の一と、そりゃあ血脈としては半妖の方が四分の一より強いんじゃないのか。
普通の設定だとそう思うんですが、ぬら孫の違うところは、奴良リクオというやつの姿が二つあるというところ。それが《人間》と《妖怪》の姿に、きっぱり分かれているというのが特徴というか、面白いというか、考えるに値するところだと思うのです。
とは言え、これは木公がいつものごとく、よっぱらってふわふわしながら書いている駄文。
こんな風なことを考えつつ、書いてるんだよーという、レジュメのよーなモンです。
原作者さまの意図とは別のところにあるでしょうし、正解では断じてない、たんなる「読み方の一例」でございますので、あしからず。



<素材がどういう味のするものなのか、生のまま見極めます>

鯉伴は作中こう言っている。
「おれは半分妖怪だから、お前等の力を借りるのが一番だと思うのよ」

リクオは作中こう言っている。
「(今は)ボクは、人間だ」 →vs竜二(vs花開院戦)
「妖怪だよ。今はな」 →対ゆら(vs花開院戦後)

この違いがどういう意味なのか。

つまり、鯉伴の半妖っぷりは、「化生しない」半妖であり、力の度合いとしてはまさに「人間50%、妖怪50%」であったのかと思われる。林檎と蜜柑を混ぜたフルーツジュースってことです。
そこで編み出したのがあの《鬼纏》で、二代目は己の力というより絆の力で百鬼夜行を率いたのではないか、と。首無相手に戦ってたエピソードがちらっとありましたが、「お前も守られてるんじゃねーか」と、嬉しそうに話しておられた様子からは、誰かが誰かを守る絆こそを、彼自身が無上のものとしてたからなのではと。仲間なんてうぜえとか言う妖怪もあるだろう中で、鯉伴がああして認め合うことを重要視していたのは、己の妖怪としての限界を、人としての心で補っていたからではないかと、思うんですね。

対して、リクオはどうか。
昼と夜とそれぞれの姿が、それぞれの属性に特化している。
昼姿は「人間100%」であり、夜姿は「妖怪100%」である。
昼は林檎だが夜は蜜柑になる、そういう不思議な生き物っつー話なんじゃないかと思うわけです。
それぞれ100%なんですよ。
つまり、夜姿のときの戦闘能力は、今はまだ年若いので成長過渡期ではありますが、例えばこの先鯉伴さまと同じように同じ様に四百年生きたとしたら、鯉伴さまを越えるのではないかと。先祖返りってわけじゃないだろうけど、夜姿は初代総大将に瓜二つ。鬼童丸がしばらく気づかないで人違いしながら数ページ戦いふっかけたぐらい似てるわけですから、これは間違いない。だとしたら、鯉伴よりも強く、初代総大将のように生き胆を取られもしない(これからはわからんが)、リクオはどこまで強くなるのか、薄ら寒くなるほどでございます。しかも《鬼纏》使うんでしょ。

んで、それじゃあ《昼》と《夜》、「どちらが《主》なんだ?」という淡島のセリフは、ちらっとしかなかったんだけど、これはもしやぬら孫という話全体に関わってくる重いテーマなんじゃないだろうか。
淡島は、「己の父性が主で、母性は従」と自ら決めてかかってる。
じゃあリクオだって、それぞれの姿が「人間」「妖怪」って言ってるだろうって、いやそりゃそうなんだけども、淡島のときのように、互いのどちらが本当っていうのが無いわけです。どちらも本当で、どちらもそれぞれの役割がある。
姿がいくつもあって、それぞれを内包するとなると、もうその存在って妖怪じゃないんじゃあ……と。
思うんですね。



<ここから、これまでの味付けを元に、オードブル、サラダを用意します>

新しい神に追われて古参の神が世界各地に逃げて神性を失ったように、日本でもまた、征夷大将軍に《夷》と呼ばれて追われた鬼たちがあり、ご存知の通りこの鬼たちは、土着の神だったり古参の神だったり、またそれに従った人々であり、やがてこの鬼たちが、妖怪だの何だのと貶められていくわけです。
貶められればそりゃあ憎い。辛い。奪われればそりゃあ恨むし奪い返したくなる。鬼たちが暴れて人々を苦しめるのは当然なのです。正当な復讐ですから。
では、三代目がそれを「許さない」のは何故か。
復讐を禁じた。何故なら、それは、他ならぬ初代、二代目の意思を踏みにじることになるからですな。
初代は人と交わるのを決めた。しかもそれは、奇しくも「公家」の姫だった。

原作でちゃんと「ある公家屋敷」って紹介されてるので、珱姫さまは公家です。
ちなみにあの時代、「公家」と呼ばれるのは、殿上人の中でも、三位以上の、ちゃんとやんごとなき家格に生れた人だかって決まってたらしいです。三位ってどれくらいかっつーと、えーと、あの時代だと徳川家康が正一位。以降、代々の徳川家将軍は正一位。征夷大将軍だし。
私の大好きな奥州筆頭はCooLに正四位。だったかな。死んだ後に従二位。YA-HA-。
つまり珱姫さま、生きてる間は政宗さまより朝廷内では立場が上?そこんところはすみません、自分、北に追いやられた人間の子孫なので詳しいことわかんねっす。
公家っつーのは発祥が元々藤原に沿ってたりするんだろうけど、つまりこれは、「征夷大将軍側の人間」、土着神を廃したり、追いやったりした側の人間に他ならん。そう考えると、「追われた側の総大将」と、「追いやった側の、さらに神通力を持つ珱姫」の、なんつー恋愛スペクタクル。
初代総大将の時点で、奴良組は、追われた場所を取り戻したり、奪われたものを奪い返すのは、とうにやめているんです。恨み辛みで動かずに、陽気を身上に「落ち延びる」のではなく、「新たに根付く」ことを決めたと。そして生まれた鯉伴は、ただの半妖ではなく、「《夷》の大将と、《天孫》の姫の子」としても受け取れんのかなーなんて。皇族ではないですが、朝廷内なんてあっちこっちくっついて回ってる上、臣下に下ったりもしてるので、珱姫の中にその血が混ざっていても、おかしくはない。
二人にとっちゃただ「らぶらぶじゃのうv」「はい妖さまv」な毎日だったのかもしれんが、深く読もうとすればするほど初代夫婦は深い。

で、鯉伴は半妖であることにあまり深く悩まなかったんじゃないかなーと、思われます。生れた環境もさることながら、江戸時代には息子が家業を継ぐのは当然でしょうし、周囲がそうなら自分もそうなる、ぐらいにしか思わないだろうし、鯉伴はそれでよかった。二人の血を受け継ぐ受け皿としての生き方としての生き様でよかった。天孫と夷が交わった後、そこで根付くに至った(=奴良組が最大の勢力を誇った)のは、鯉伴がその両方の血を、すとーんと、悩むことなく受け入れたからに違いないと思うわけです。



<ここらで箸休めします。目覚ましのシャーベットをどうぞ>

ところがですよ、問題はその後四百年の時の後、またも「妖怪」と「人間」が分かたれたかのような孫が生まれたことなんです。それぞれが100%、それって、下世話な話をいたしますと、昼に子作りに励んだら人間生まれるって事なんじゃないの、と。逆に夜に子作りに励んだら、妖怪になるんじゃないの、と。
なんだよこれじゃあ、四百年前に逆戻りじゃん!

原作中で、「昼」「夜」が、それぞれの意志で話し合っているような場面もあったりして、それじゃあまるで、鯉伴さまの存在が無くてもよかったかのようじゃないか、と。
いや違う。それは断じて、あってはならない。

二代目が、天孫と夷の半々を注がれた器であったなら、三代目は、さらにこれを昇華して、追われた夷の恨みを丸め込み、天孫の子等が満ちた世界への道標でなくてはならないはずだ。
「こいつが象徴なのさ」という二代目の言葉には、四百年の重みがあるはずなんだ。
反抗期が終わるまで(8歳〜12歳)のリクオさんの中で、昼と夜が何故分かれてたのかは、10.12/10の別項をご参照いただくとして、それが終わっても尚、どうして、夜と昼は溶け合った姿ではないのか。あれが本当の姿だとわたし信じてるんですけど。神々しすぎて眩しいんですけど。
そう、今だに夜と昼の姿は、分かれたまま。人と妖の境界線が、はっきり分かれたままだから?
いやでも、リクオさんの中で、血はたしかに混ざり合って、夷は人に溶け始めているはず。
なのに、何故。
二つの属性が彼の中で交じり合うのではなく、分かれたままなんだろうか。
やっぱ意識は双子なのか(まだ引きずる)。いやいやいやいや……。

と、悩んだんですよ。ここまで色々、好き勝手書いている間に。
好き勝手書いてるのに悩むのかとゆーと、好きだから好きで悩むんです。作品を納得するために、えへらえへらしながら悩んでるんです。あー楽しい。



<メインディッシュ前にスープを>

で、これの今のところの答えが、原作の中、ふと感じた違和感にありました。
総大将が煙管を探して、仏壇のところ探してる場面。
遠野編の前ですね。そして、遠野編の後、同じ仏間でリクオさんが会得した鏡花水月を爺ちゃんに見せるところでも。
仏壇があるじゃないですか。
爺ちゃんが、珱姫さまを偲んでるのかなーとかしか最初思わなかったんですけども、それにしたって、神仏に追われたはずの妖怪が、神仏に祈るのかい、と、すごく違和感を抱いたんですな。しかし違った。総大将は「交わる」と仰せになられた。それは、人が祈る対象である「神仏」にですらあったのではないかと、愚考した次第なんです。夷として追われた、かつての土着の神が、追われた恨みからではなく、己等があらためて根付くための交わりと祝言。これならどうだろうか。
すると、そこでふと、「そういやあ、妖怪じゃなくて、神仏になら、表と裏の顔があるな」と。思ったわけです。そして、それがちゃんと交わるのは、多分、夷を追った神仏すらが力を失いかけた、この平成の世じゃないと無理なんじゃないかねとか。

あ。酔いまわってきた。冷酒はきく……。



<さて、メインディッシュです>

リクオさんがそれでは、どういう存在に今後昇華されていくかと参りますと、人間と妖の力がそれぞれ100%であるからには、一人で畏の具現と、畏の履行、両方がかなうということであります。
日本神話で、スサノオがアマテラスのところに乗り込んで言ったとき、アマテラスは女神ながら勇ましくみずらを結ってこれに立ち向かおうとしたと。まあ彼女を主神と考えるのは伊勢派の方なので、詳細考えるとまたちょっと違うんだけども、畏の具現と履行、これを一柱の神や仏が、周囲の別の神仏に頼まず己のみで行うというのは、インドとか、中東とかのあたりの考え方であるのかなあと。
そして日本に流れ着いた神仏のルーツも、結局は遠くそこらから流れてきたものも多い。
まあ、姿が二つどころかいくつも持ってるようなのもいるけれど、リクオさんの場合、わかりやすく「昼」と「夜」に分かれている上、爺ちゃんが拝んでいるのが仏さまなので、わかりやすく、如来と明王の表裏一体かと思ったわけです。

大日如来と不動明王、同一の存在でありながら違う姿。
菩薩の師である如来と、救い難いものすら救うために調伏する明王。
で、それぞれ拝まれたりする。違う姿を持っている。
それぞれが100%の姿であり、50%ずつではない。

これなら辻褄が合いやしないか。さらには、かつて己等を追いやった神仏に溶け込む、交わるという意味ならば、リクオさんが象徴というのも、頷けはしないか。

だとすると、リクオさんは鯉伴さんに追いつけるかどうか、というもんじゃなく、やっぱり繋げるために二代目があり、受け取るためにリクオさんが居た、と考えるほうがすとーんと来る。
来るのはワタシだけですすみません。いやいや我に返っちゃいけない。でも恥ずかしい。

そういうつもりで、「夢、十夜」、書いてみましたYO。
「八夜」で書いた中で、「昼は人間、夜は妖、そんなヤツがいるもんか」と思うのが一般的だと書いたのは、妖の中に如来や明王が混ざっているなんて思わないからです。あの時点で、リクオさんという存在はかなり異質で、鯉伴さまがまだ元服するかどうかなんで、次に繋げるための器としても完成されていなかった。あれはまだ菩薩の段階で、だからミトラ=弥勒菩薩=未来救済の存在。まあ、近い先(四百年先)ですけども。
そしてミトラはキリスト教が流行る前に中東あたりでずいぶん信仰を集めたらしいっすが、古代インドではミトラとヴァルナ(水天宮)が表裏一体、「契約の言祝ぎ」と「契約破棄に対する戒め」の履行を行っていたとかで、徐々に徐々に東に追いやられてくるわけです。日本では大日如来と同一化しているのかな。ゾロアスター教に溶け込んだ時点で、密教のルーツにはなっていると思われる。でも弥勒菩薩に響きを貸していたりする。思想って面白いス。
で、「本当にそんなヤツいるのんか」って話になったとき、外来種の伊佐がすとんと信じられたのは、ミトラとヴァルナの表裏一体を知っていて、実際にそういう存在があるということを知っていたからであると、いうわけです。こういう説明抜きでもフツーに話通じるし、お話って説明するためじゃなくて感じるために書きたいなってところがあるので、省くんですけど、決めてはあるわけで、で、せっかく決めた俺設定勿体ないじゃない、どっかで話したい語りたいじゃない、とか思ってTALKになるわけです。素面になったらまたこっぱずかしいんだろうな。
伊佐は結局じゃあ、何だったの、ですが、最後に洪水を起こすことがきまっていたので、リヴァイアサン=鯨=伊佐、でした。外来種のどっかの神様《だった》んだろう、ってことが伝わればいいかなーなんてー。
ノアの箱舟を起こすと決めたのはヤーウェ、実際に履行したのは超巨大な鯨であるリヴァイアサン。天使メタトロンが履行したとかいう説は、獣=人間ではない=悪として、追放した側の考え方じゃないかと木公は思うんですわー勝手に。
一神教とするためには、他の存在は同一の格にあってはならない。だったら、下るか、敵になるか。

一神教が悪いとは言いませんですし、信仰深い方は素晴らしいと思うです。
なので、気を悪くなさらないでほしいのでございます。
木公がだらだら考えているのは人の歴史とか思想であって、信仰ではナイ。



<というところでデザートにいたしましょうか>

というわけで、「夢、十夜」、こんなことを考えつつだらだら書いてみました。
四季が巡る日ノ本には、季節が巡るという考え方があるためか、一神教の「ただ一度の生」よりも、「輪廻転生」の方が身近に感じるような気がしなくもない。いやむしろぬら孫で清明さんはそれやろうとしてたっけ。ということは少なくともぬら孫世界感は、多神教世界である模様。

ならば、夷はいずれ溶け込める。
溶け込んで、どれがどれのルーツになったかわからないぐらいの時を経たら、夷だった事実は消えてなくなっているかもしれない。これが交わりなんじゃないかと。繋がる、という事なんじゃないかと。今は悪と呼ばれようとも、自ら悪を背負おうとも、やがては、昔に悪と呼ばれていたことが、権利と呼ばれる時代が来るわけだから。
但し、「仁義にもとる行為は許されない」(笑)わけですよ。
それは悪じゃなく、外道、鬼畜の類、誇れる畏では無いって、若さま1巻で言ってたもん!

オチたかな。オチたことにしよう。

では最後にこれだけ言って終わりにして寝ます。





鳴けば撃たれる鳥。
しかし雉は、日本の国鳥であります。





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