あの大震災より三ヶ月が経とうとしております。 今もまだ故郷を離れて暮らしている方々や、日々のたつきを失われた方々、この夏に節電を余儀なくされる都心部の方々、もう言葉もないです。募金をしても免罪符を払っているような心苦しさしか残らないがせずにはいられない。 ニュースを見て動悸が激しくなったりもして、これって確かアレだ、見てるだけで 震災後、『歌は力になる!』など、メディア等で報道されもしましたけれど、自分はこういうとき、言葉って本当に無力だと痛感いたしました。 事実は小説よりナンとやら?いやなんかそれ違う。 こういうのはどう表現したらいいのか。茫然自失というのが一番ぴったりだったのだけども。 可哀相だとか、これからどうなるのとか、いやいやもうそういう次元じゃないでしょう色々と。 忘れられない、だが迂闊には触れられない、でも腫れ物に触れるように扱うのもなんか違う。 とりあえず自分口下手なのでこれ以上は避けておきますが、あの日のことおいら忘れてない。 で、あの日以降、酒断ちしました。そしてそろそろ耐えられなくて飲みました。 なので久しぶりに酔っ払いました。こんにちはの方もこんばんはの方も、ようこそ酔っ払いの汚部屋へ。 管理人の木公でございます。 あちこちのサイト様でリクつらー!な素敵小説や素敵絵が増えていらして、美味しくもぐもぐさせていただいております。しかし前述の震災影響で、イベント中止になったり節電対策されたり、サイト運営自粛されている方もいらしたりして、致し方なしとは思いつつ、一抹の寂しさも感じております。 言葉って無力ですしね。 本気で辛い想いをしている方がいるのに、萌えだのwktkだの言ってられんと。 いうことを自分も一時考えたんですが。しかし。 結局不謹慎かもしれんが何事もなかったかのように続けてみようと思い今に至ります。 無力だとわかっているのに尚も筆を取る。 まあいつもいつも考えるんですけども、こんな諦めの悪い自分にとって、あるいは、無力であると知りながら物語を求める人々にとっての、物語・フィクションとは何か。 自己表現である。心の栄養である。憂さ晴らしである。 与謝野晶子が君死にたもうことなかれと叫んだのが時代の暗部に対する挑戦であり自己表現であったとするなら、正岡子規が病の床で詩ったのは理不尽に対しての自分の立ち位置を確立させるための自己探求であったとするなら、そのどちらも内包する文章とは。 昔の偉い坊さんは、人も動物も、言葉である、とか何だとか言ったらしいですけども。 それ等のいずれにしろ書き手にとっても読み手にとっても、一つのものを選んだり読んだり書いたりするまでには、どうしてそれを読もうと思ったかーとか、どうしてそれを書こうと思ったかーとか、なんでまたそんなものを気に入ってしまったかー、という事があり、それが原動力になるんじゃないかと愚考し前提に据えた上で、またも無駄に語る、「ぬら孫作品論」。 つまり自分的萌えポイントだよそうだよごめんよ……。 今回は小説版「京都夢幻夜話」より『冥闇の館・少女と狐』をやります。 名前で(勝手に)読み解くゆらちゃんはどこ飛んでった。 いやそれも併せてこれでやろうかな、って。 もしかしたらちょっと辛口かもしれませんが、木公はこの本、好きです。 特にこの『冥闇の館・少女と狐』は、物語というものを深く考えさせられる材料になったので、ほほーう、となりましたですよ。 でも色々辛口だと思うので、批判的な文字は読みたくないという人は挑戦なさらないでくださいませ。 +++
アレを読んで、駄目だったひとが相当いるんじゃないかなと苦笑いしました。 結果から申し上げるなら、面白い面白くない以前に、物語ではないんじゃないかと。 物語=フィクション性が感じられなかったので。あれは完全なる、ノンフィクションではないのか。 あの御話、一貫して「私」の視点でした。 父親が出て行き、酒びたりの暴力母が男を連れ込む家で育った「私」。 母親のようにはなりたくない、本の世界に閉じこもる「私」。 暴力母の男が「私」に目をつけ、乱暴されそうになり、家にいられなくなって、飛び出す。 うーん……。と、一つ唸るわけです。 漫画作者様の後書で、「ダークである」とありましたが、ダークだダークじゃない以前に、これ物語じゃなくて、いくらでもいるじゃないですか、こういう方。もしかしなくても、その時だけはこういう環境を忘れられるからって「ぬら孫」の漫画とか小説とか開いてんじゃねーのかよ。と、ちょっとべらんめぇにもなるわけです。 救われなかった存在=「私」、名前すら無い彼女に起こった「物語性」と言えば、 ・登下校途中という「日常」の中で、「狐様(羽衣狐)」と出会い、友達ごっこをしたこと。 ・「狐様(羽衣狐)」が、あれほど嫌だった母親も、その男も、最後に通力で殺してしまったこと。 ・「私」も最後には「狐様(羽衣狐)」の餌食になったこと。その最期の瞬間に幸せ、救いを感じたこと。 かろうじて、この三つ。 しかしこの三つも、「狐様」という登場人物が非日常感を出しているか、ぬら孫的部分を匂わせているだけで、結果だけを見るならなんだろう、誰のトラウマを掘り出してきたの貴方、という。 「私」の名前に全く触れられていないのがまた、匿名性を高めて、誰にでも当てはめられるようになっちゃってるんでしょう。閉鎖的と思うことも多いモラトリアムの中では、登場人物と自分がどれだけ共通点があるかとか、自分がもしこの話に入るならこういう役割で、こういうところでこの人と出会いたいな、という風に考えたりもして遊ぶもんでしょうから、ある意味ではそれをシニカルに表現したとも取れる。 フィクションの中にすらノンフィクションがあり、いくら自分以外の何かに当てはめようとしたところで「私」という形骸からは逃げ出せない。「汚濁」と表現されるものは物語の中ですら絡みついて「私」を最後には殺してしまうのだと。 あるところに救われない少女が一人おりまして、とても綺麗な女のひとと友達になりました。 しかしその綺麗なひとは実は生き胆を喰らう妖怪でありまして、救われない少女は友人もろともばくりと喰われてしまいました。とっぴんぱらりのぷう。 つまりそういう話でおk? そこにRomanはあるのだろうか(笑)。 悲劇は物語として在っていい。そこにRomanはあるからな。最終的にデウス・エクス・マキナによって丸くおさまる悲劇も、三文芝居なんて呼ばれたりもするけど三文で芝居が見れて楽しめてすっきりするならそれでいいじゃねぇか。この「私」が欲するエンディングは、悲劇じゃなくて救いがある物語の方じゃなかったのかなー。 いやきっと、人によってはこの話も「物語」なのでしょう。 ただ木公が過敏に反応して、いやこれは、と首を傾げてしまって興味深げにしげしげ眺めてるだけなんでね。 では、木公という「私」は、この御話の「私」にどういう役割を期待していたのか。 ノンフィクションではなくフィクションであるなら、「私」はどう立ち回り、誰にどうされるべきで、誰の手を掴むのが正しかったのだろうか。 と、ここまで考えたときに、木公は物語というものに対して、自己探求でも自己表現でもなく、やっぱりエンターテイメント性を求めているのだなあと再認識したわけであります。 救われない少女が最後まで救われないってそれおめぇ、任侠的にありかよ、と。 シンデレラになれとは言わんが、ちょっぴりだけ、「救い」があっていいんじゃないのか、と。 現実は優しくない、物語は優しい、だから「現実」≠「物語」の温度差がありすぎるとまたつまらんのだけれども、あとほんのちょっぴり「物語」はぬるくていいんじゃないかなー、そうあってほしいなぁー。なんて。 というわけで、木公の中でこの話はフィクションではなく、無記名のノンフィクションであると判断されたわけです。「私」小説なのかなー。 好き嫌いはともかく、しかし読んでしまう。何度も読んでしまう。 読んで読んで読みまくった挙句、この「私」は、つまり「誰」なのだろうかと思い至ります。 名前がついていない。モブキャラだから?読み手が重ねるべき「私」であるから? それだけではなく、この話の中に「主」がないためではないかと。物語の主役の不在、つまりリクオの不在こそが、この話をノンフィクションに仕立て上げ、さらに「私」に名前が無い要因ではないのか。「狐様」はあだ名だけを欲し、「私」の名前を欲さなかった、「私」も名乗りたいと思わなかった、「私」は「私」にこだわりが無かった、「私」であることが嫌だった。「私」以外のものでありたいと想い、「私」の生活以外のところへ導いてくれる存在=「狐様」に惹かれた。 この「私」の側に、もし「ぬらりひょんの孫」の主人公たる奴良リクオという存在があったら、この「私」は何と名乗ったろうか。主人公である彼は、無記名の「私」を許しませんからね、「○○ちゃん」「○○さん」、と名前を尋ねるはずです。 というわけで、「三千世界の鴉を殺せ」では、あの名前になりました。 ちょっと霊感があって、妖怪に魅入られ、そして普通の少女である。「向こう岸で、一番こちら側に近い存在」、彼方の存在であるからには、その名前が一番相応しいと思ったのでございます。 じゃあ、浮世絵町の彼女はどうなっているのか。 花霞さんが奴良さんより一個年上なのは、実は「浮世絵町の幼馴染」との完全な別離=気がつかないところで取りこぼす、ということをちょっと意識したためでございます。ぬら孫原作ではぽろぽろ取りこぼす仲間だとか、死んでしまうひと(玉章の側近たちや、猩影のお父さんや、二代目、山吹さん等)を死なせなかったり、仲魔にならなかったひとを仲魔にしてみたり、一見すると花霞さんはやっぱり強くてニューゲームってなもんなんですが、実はその裏で、色々取りこぼしてるわけですよ。若菜さんは大きな取りこぼしというか、父母の生死逆転すると、これほど大きな人になったというか。 清継くんはバス事故に合っていないはずなので(あれは幼い若を狙ったガゴゼの企みだったし)、妖怪なんて居ない!と言う現実的な中学生になっているはず。 花霞さんが元服を既に迎えている=浮世絵町の彼女はこの歳だと既に、雲外鏡の餌食になっていると思われます。 あるいは二代目がしっかり睨みを利かせていたおかげで、命は助かったかもしれない。いずれにしても浮世絵町の方の「彼方」の名前を持つ少女は、花霞さんと触れ合わないので物語にはならない。物語の外側で、「私」のまま消えていくわけです。それは物語ではない。 なので、浮世絵町の方の「私」が物語の舞台に上がらないとき、それは別の町の「私」に、「彼方」の名前がつくのかなーとか思ったりしたんであの名前にしました。 ……というところまで考えたところで、はたり、と気づく。 いや待て、ノンフィクション性がどうのとか言ったが、妖怪って被差別というノンフィクションにフィクション性を持たせるためのそれこそ化けの皮ではなかったか。しまった自分で言ってたことなのに忘れてたよ。そうだよ、妖怪を書くor描く=問題を浮き彫りにする、ってことだからそうだ合ってるんだこれで。そこにRomanは在るかどうかは別として、「ぬら孫」としてこの話は実に正しい。……のか? うーん、まだ読み込みが足りない。もうちっと読もう。まだまだ浅い……。 首無さんと毛倡妓さんのお話より読み返している気がする、このお話。 +++
というわけで、「主」が在る場所に応じて、「私」に名付けられるのが「彼方」なのだとすれば、「主」が在る場所がどこであれ、「その人」としてそこにででんと鎮座する我等がヒーロー花開院ゆらとは、どういう存在なのだろうか。 いや、もうこれ、言うまでもなくヒーローだろ。魔王に対しての勇者だろ。 WJ王道の、「戦って、挫折して、強くなっていく」主人公タイプだもの。 ゆら、という名前を見て、読み手の皆さまは何を想像したのでしょうか。 「布瑠の言」を連想した人はたくさん居るじゃろーと思っておるので、おいらも今更知ったかぶりして書いておく。 ここは日記代わりだと思って。 『ひふみよいむなやここのたり ふるべ ゆらゆらとふるべ』 物部氏の祖神「ニギハヤヒノミコト」が降臨する際に「タカミムスビノミコト」に授けたという言霊で、この言霊には「十種神宝(とくさのかんたから)」を意味するものが含まれ、言霊の中で神宝を使うことで霊的な秘技を確立するそうな。 十種神宝はまぁ、広範囲で三種の神器かもしれない(曖昧)。 これを使うときに、上記の言霊を唱えながら使うというわけなんですよ。 で、使うとどうなるかというと、死者蘇生するとか、それほどの呪力を発揮するというわけなのですな。 ゆらちゃんの底無しの精神力はここから来ているのかしらん。 で、「ゆらゆら」というのは、玉の鳴り響く音だそうですが、木公が「ゆら」という名前で連想したのはもう一つ。 「揺らぐ」という意味でございます。 揺らぐ=物事の基盤が不安定。 こっちの方がぴったりなのかしらと、ゆらちゃんを見ていて思うわけですよ。彼女、妖怪の主を友達に持ったことで「揺らいで」たわけですよね。お兄ちゃんに楯突くぐらい揺らいでいた。まあその際の「これも愛だ!」とか言ってた気持ち悪い竜二が私の中でデフォルトになってしまったのはさておき、ゆらちゃんは、人間と呼ぶには呪力が大きすぎ、妖怪では決してない、中途半端な存在と言うところではリクオさんとタメを張ります。 陰陽師なんてものがこの現代社会で簡単に友人たちに受け入れられたとは思えず、まあ浮世絵中学は地盤が地盤なので、清継くんとかはさくっと受け止めていたけれど、本来、あんなふうに同級生と気軽に遊んでいられる子ではないんじゃないかなー。妖怪は黒、という教えに対しても揺らいでいて、これという確固たる基盤は確かに無い。迷いの中で、自分を高めていくような、柳のような不安定感がある。 だけどこれだけの「揺らぎ」ではないような気がするわけです。 確かにゆらちゃんは迷うし、悩む。けれど絶対に前に進むでしょう。 何なんだろうねあの安心感は。この奇妙な安堵感は一体どこから来るんだろうね。 で、今回、草食さんの話で彼方ちゃんを出す実験をしてみたところで、あー、そういうことなのかなと思ったことが一つ。 三千世界のどこの世界でも、きっと、ゆらちゃんはゆらちゃんで在り続ける。 「私」のように、名前とは裏腹に、うつろうことが無いのでございます。中身と名前がセットでどこにでも現れる。それが「ゆら」。 「ゆら」いでいるがために、カメレオンのように溶け込む。 つららさんが雪女だという特殊性を持っているのと同様、ゆらちゃんにも陰陽師という特殊性、物語性があるからでしょうか。 どこの世界にも揺らいで、そこに居続ける、ゆらちゃんはそういう安堵感を齎してくれる「人間」なので、すごく安心します。 逆に、常に「揺らぎ」の中に在るから、「主」の立ち居地によっては、簡単に敵になるんだと思う。 例えばリクオさんが、つららさんを失って本気で魔王を目指すフラグが立ってしまったら、彼女には伝説の勇者フラグが立つんだと思う。 どうよ、かつては友情のようなものを育てたはずの、魔王vs伝説の勇者。 「奴良君、こんなことしたらあかん、こんなことして、無くしたモンが戻って来るはずないやん。もう……もう、充分やろう!」 「最初にこの手から奪って行ったのは、人間どもだ。武器を持って攻めて来たのは、そちらだ。……後戻りは、できないんだよ、花開院さん。 さあ、そろそろ始めようか、最後の、宴をな」 焦土と化し、紅に染まる世界。 黄昏が訪れた世界に、人々が見出す一条の光。 しかし魔王を討つはずの光は、闇が失ったものの大きさを知り、人々の傲慢さも知りつつ、それでも斬り込んでいく。 人々のためではない、彼女の正しさと、かつての友人の暴挙を止めるために。 なぁんて長編、読みたいな。 最後は「魔王が齎す新たな闇の世界 ED」、ゆらちゃんを倒した魔王さんが、その血を浴びて完全な妖として覚醒して此の世を統べる。 「此の世は真白の淡雪に ED」、ゆらちゃんに倒された魔王さんのところに、季節外れの雪が降ってきて、満足そーな顔をしてリクオさんが眠りにつく。辺り一帯はその後氷雪に閉ざされて、妖たちの楽園となる。 などなど、まだまだ分岐しそうなんですが、そのほかの分岐がありましたら是非教えてください。 勇者さまのがんばり次第で世界樹の花を手に入れて、つららさんを甦らせて魔王さまを仲魔にするって手もありだと思います。 この場合、つららさんが殺されたのは実は人間たちのせいではなくて、魔王さまに人間を滅ぼさせ、さらには勇者と戦わせて最後は自分が甘い汁を吸おうとした妖怪側の黒幕のせいだということになり、最後は魔王さまと勇者さまが力を合わせて黒幕と戦うということになるんですが、このEDへ行き着くためにはリメイク版を待った上に、一週目はフツーEDを見なくてはならないわけなんです(何の)。 デ/ス/ピ/サ/ロが仲魔になったときの喜び具合ときたらアンタ……(話が逸れました)。 つららさんを失ったリクオさんが、つららさんに似た美女数千人を集めて侍らせて、飽きてはポイ捨てする極悪非道な魔王になっているのはデフォルトでお願いします。お前どこまで肉食だ。 どんなEDでも、ゆらちゃんはゆらちゃん。悩み、迷い、揺らぐ、でも前に進む。 主の立ち位置や進み方で、ゆらちゃんも揺らぐので、立ち位置が変わる。 揺らぐが、うつろいはしない。 ……お、酔っ払ってる割にはオチたか。オチたな。そういうことにして、そろそろ終わりにします。 名前の問題が出てきたついでに、最後にいくつか思いつきを蛇足。 「夢、十夜」のお話を書いてたときに、古部はゆらちゃんの先祖だったり親戚だったりするのか〜とご質問いただいた気がするんですが、古部(ふるべ)の名前は上記の「布瑠の言」から取ったので、名前的な親戚と言えるような言えないような、かもしれません。血縁は考えておりませんでございます。 そして小説版狐話の「私」が狐様に名乗った渾名がすんげー気になります。主人公からとったってことは、その小説の主人公は女性ですか。 木公は、初対面の人に名乗ってもイタくない名前、つまり本名っぽくて、ティーンエイジャーが読んでておかしくない、ライノベ作家じゃなく、寡作の「作家」が出した本で、どこか別の世界に行きたいと思うような少女が憧れる女性主人公が出てくる「小説」って、別世界の十二個の国のうちの一つの国に唐突に招かれて王様にさせられる日本人の女の子の話しか思いつかんのですが。主上、新刊が読みたいです。 以上です。 ブラウザを閉じてお戻りください...<2011/6/4> |