【ぬら孫25巻を読んで】 ぬら孫最終巻、読了。まずは椎橋先生、お疲れ様でした。 オマケDVDはまだ見てないよ!テンション上げたいときに見るの! さて感想を書こうと、小説更新そっちのけ。 今回は順序立てて考察とかする前に、まず感じた順番に、ぐだぐだ妄想とかしていきます。 おかげでちょっと辛口仕立てになっているかもしれないので、ご注意くださいませ。 まず、木公がピンでなら一番好きな、ぬらりひょんの倅。奴良鯉伴。 これねぇ、こいつのラストはいろんな鯉伴×若菜サイトさんでも超不評で、「ですよねー」と、ちょっとニマニマしながら拝読しました。 いや、女性たちの言葉でフルボッコにされるのは遊び人冥利に尽きますね、鯉さん。 好きなキャラが言葉のタコ殴りに合っているのを見て、なんだか萌えるというのはアレですね、木公は病気です。鯉さんに恋してるのさー。 そうなの、あの子、しょーがない子なのよ……。 三代目が生真面目っていうのは公式になったようですが、二代目甘ったれ説もどうやら公式か。 とある感想サイト様でも過去に触れられていたのですが、「二代目が『ごめん、おれ種無しなんだ』と一言言っておけば、山吹さんはあんなことにはならなかったのでは」と。 ごめん、これにも噴いて激しく笑った。机ドンドンするぐらい笑って萌えた。 鯉伴さん不憫。残念。残念なイケメンで可愛すぎる。ドストライクです。 初代がその後、「ワシと珱姫との間に鯉伴が生まれたために、狐の呪い発覚が遅れた」とフォローしてましたけど、正直ワタクシ、過去の二代目の相手が山吹さんだけだったとは思ってないんですよ。人間もいたんじゃないかな。なのに子供はなかった。かなり弱いですよ。しかし不妊治療は男女どちらに理由があったとしても、女側がツライというものらしいですね。しかも二代目が種無しってどうなのよ任侠的に。 つか種無し種無しって連呼すんなと心の中の鯉さんが拗ねてるのでそろそろやめにしますが、山吹さんの件は、彼女が突如出て行ったにせよ、夫婦のコミュニケーション不足が原因としか思えない。 その果てに、てめーは前妻と仲良く黄泉路かよ。 爺ちゃんの介護と後妻(お前の母ちゃん)のことはよろちくびーって、てめ最低な父親だな。 堕メンズ好きとしてはがっくりきて禿萌えたわ。 よかったなリクオ、嫁が最初から同居当然、総大将やお義母さまのお世話当然だと思ってくれてる良い娘で……。 「嫁は庭から貰えといいますから!」とか自分から言ってくれそうな良い娘で……。 それ離したらお前、その家まわしていけないぞ。 というのは、初回の感想ではあったのですが、木公としてはまあ納得。 あくまで若菜ちゃん(後妻)は、鯉伴さんの中で娘的な存在で(養女に手を出すのもアレだと思うが……)、女として求める先は山吹さんなんだよね。 よく、「恋愛に関して、女は上書き保存、男はフォルダごとに名前つけて保存」とか言いますが、その代表例だと思います。 何度かどこかで書いたかもしれませんが、鯉伴さんは若菜ちゃんと会ったときにも、過去の女たちの影を引きずっていればいいと思うんですよ。 女たちだけじゃない、四百年分の重み。 誰より強くなろうと考えたのは、きっとその優しさゆえですよ、鯉伴少年。 けれど実際誰より強くなって、押しも押されもせぬ魑魅魍魎の主二代目となったとき、この「生」はいつまで続くのだろうかとぼんやり思い始めるよ、鯉伴青年。 思い出そうとしたものが、記憶の彼方に消えて行く。 話そうとしても覚えている「人間」は傍に居ない。 傍にいる「妖怪」たちは、自分より忘れることに長けている。 そんな息苦しさから若菜ちゃんが鯉伴さんを救ってあげることができたなら、若菜ちゃんにとっても本望なんじゃないかなあ、と。 奴良鯉伴の最後の妻は、若菜さんですもの。 そりゃ、したかったこと、話したかったこと、色々あると思うし、早すぎる死だったと思うけど、鯉伴さんにとって若菜ちゃんって、「あなたが死ぬそのまさに一日前に、僕の息を止めてください。これが一生のお願い」てくらい、愛してたひとだと思うの。死んだのが良かったとは言わないが、結果的に、夫婦にとって納得できていることなのであれば、それでいいかなと。 お時間あったらネットで「RAD WINPS」の「閉じた光」「25個目の染色体」とか歌詞探してみてください。詩とかね、普段あんまり気にしないようにしてるんですが、これは歌詞が鯉伴さん視点の鯉若です。このなっさけねー男像が私の鯉さん像です。いとしすぎる。どの辺がって「すっからかんのころんのすってんころりんちょんのポンって名前で生まれてきたかったです」って言ってるあたりが。 自暴自棄すぎるこういう坊やを、よしよし、って宥めて甘やかして褒めて煽てて立ち上がらせて、「頑張って!」って送り出せるのは、若菜ちゃんだけではないか。山吹さん相手には甘えられなさそうだもんなぁ。かっこいい自分を魅せるのに必死で、「漢・鯉伴」になりそうなのね。 けど、若菜さん相手だと、「若菜ぁー、膝すりむいたー!」って、自分で治せることすっかり忘れて見せに来そうな……。どこの四歳児だ。いや、なんか上手く言えないんですけど、山吹さんより若菜さんの方が「家族」としてはレベル高いと思う。 しかし実際、あのシーン。 番外編の、半妖の里の泉で、若君と鯉伴が邂逅しますけど、あれは若君の夢というか、誓いであって、実際の鯉さんではないと思うの。 何故そう思ったか。 若君にとって鯉伴さんは、幼い頃に死に別れてしまった優しい父で、同時に、とても大きく強い壁。 後々聞いた限りだと、「二代目が死んでから奴良組は弱体化」。「二代目が居た頃は云々」。「二代目はああだこうだ」。それに引き替え、自分は《畏》の使い方さえ、元服直前にどうにかものにした青二才。 反抗期だって、実は「父さんみたいにうまくできるはずがない」という恐怖から、奴良組から逃げようとしたのもあるんじゃないかと思うのです。 その大きな壁、二代目から「頼む」と託された。 幻であったとしても、そう言われるに値する自分になれたこと、それが、若君が父親を超えた瞬間、この25巻全体を通して膜のように覆っていた、若君のファザー・コンプレックスからの脱却ではなかったかと思うわけです。 若君にとっては「母は後妻」であったことがまったくショックではなかったのは、それだけ父親というのが遠い人、他人に近かった。「鯉伴は山吹と悲しい別れ方をして、その後しばらく妻を娶らなかったが、近代になって人の娘を迎え、癒され、子にも恵まれた」のが初代視点なら、「その昔、母の夫だった人は、母の前にも妻があって、そのひととは悲恋の末別れるにいたったらしい」という風に考えるのが若君の視点。 微妙な差異なんですが、あくまで初代にとって中心視点は「息子」であり「孫」。 けれど若君にとって中心になるのはまだ「母」。 その「母」は自分がちゃんと守っていけるなら、「父」は好きだったというそのひとと、きっと黄泉でしあわせになれるだろう、という、若君の願いなんじゃないかなと。 そんな風に、ある程度他人事ちっくに幸せを祈れるくらい、若君にとって「父」は遠い人なんだろうなあ。 「オレたちは救われたんだ」。 これは、鯉伴と山吹の「オレたち」であり、同時に若君の中の「人と妖」「夜と昼」の「オレたち」でもあると思う。 そう、この25巻分、「二代目の死」というのが、見えない壁になって若君を苦しめてきましたよね。 二代目が死んでから奴良組は弱体化。呼応するかのように関西の妖怪が力を持ってきて。幹部たちにも不穏な動き。 そして他でもない、その二代目を殺したのは、自分の無力さ。 自分を庇って、二代目は死んだわけなんだから。 ここが一番のコンプレックスだと思う。 逃れるように人に交わり、人として生きようかとも思うけれど、「目を閉じて」生き続けることは、彼にはできなかった。 四国編で氷麗と盃を交わすときに、「本当は気づいてた。ボクの本当の気持ち」。 これ、「妖を捨てられない」「三代目になりたい」という気持ちもそうだと思うんだけど、氷麗さんの前で出てきた本音だから、やっぱり氷麗ENDフラグだと思うんですよね。 「目」に関するキーワードがこの物語には多く出てきました。 若菜ちゃんは鯉伴さんに「ずっと見ててあげる」と約束をした。 若君もまた、人と妖、どちらの哀しみにも目を閉じてはいられなかった。 そして氷麗も、それを「ずっと見てきた」。 で、最終的に若君も自分のコンプレックスを「見て」、克服したんだと思うの。 鵺を倒したんだもの、二代目だって超えた、みんなきっと認めてくれる。 若君の自信になったのでしょうね。 自信をもって、「ボクの家」を守れるようになった。妖怪だって人間だって、どっちでも受け入れられるし、守ることができる。そういう自信になったから、ありのままを受け入れられるようになった。 これが、あの時の、泉で「見た」鯉伴さんの姿のカラクリではないのかな、と。 こんな風に山吹さんと邂逅できていればいいな、という若君の願いが、鯉伴と山吹乙女の邂逅のシーンとなり、父さんは最期、ボクのことだけじゃなくて、山吹さんのことも考えてくれてたなら、少しはボクも気が楽なんだけど、というのが、鯉伴の「すまない」のシーンになったんじゃないかと、ワタクシ思うんです。 別に自分のこと100%考えてくれてないほうがいいよ、その方がありがたいと、そう思えるくらい、若君にとって「父」は遠いひとなんだということで。 まだまだ語り足りないうえに、語ろうとすると語彙が足りなくて長くなるので、この先は三千世界で引き続き語ろうかと思います。 ブラウザを閉じてお戻りください...<2013/3/8> |