「野郎、どこ行きやがった」
「ったく、ぬらりくらりと消えやがる!探せ!まだそう遠くへは行ってないはずだ」
「ここら一帯に網を張れ。こっちのシマから出すんじゃねぇぞ!」

 ばたばたばた、忙しない足音が遠ざかっていく。
 この様子、奴良組二代目は、彼等がたった今通り過ぎて言った橋の下で聞いていた。
 暢気に顎を撫でる。
 一晩分の無精髭の感触が指に残った。
 全く暢気な様子であったが、その実、少しばかり、しまったなあ、という気分である。

 ここは敵地。奴良組のシマではない。
 いや、シマの中にあるにはあるのだが、ついつい放置していたら新参者がいつの間にか棲みついて、好き勝手をしているのだとカラス天狗が嘆いていた、つまりは陸の孤島のような場所である。
 なので、散歩のついでの、軽い敵情視察のつもりであった。

 蜂の巣をつついた結果になった。今は反省している。

 ついでに言うと、一人である。

 ただの散歩とだけ言い残し、屋敷を出てきたのは既に一週間前のこと。
 ひょんなことから正体がばれて、姿を消して逃げ始めたのが今朝方のこと。
 今は正午を少し過ぎた頃のはずだが、朝から気になる黒雲が、低く垂れ込めている。
 隠形の術に関しては、誰より得意であるという自負が、今回ばかりは少し祟ったらしい。



 鯉伴さまは少しばかり、楽天家すぎます。
 人を使うのが上手い、なんてカラス天狗殿は仰せですが、つまりそれは甘ったれです。
 まぁ、甘ったれのままでいる分にはよいですが、くれぐれも、ご自分の力を過信することのありませんように。



 最近思いだすことが少なかった、ほんの幼子の頃の守役の ――― 四百年の時を経て、どんな顔をしていたかも、どんな声をしていたかも、ぼんやりとしているというのに ――― 言葉が痛いほど身にしみる。
 新調したばかりの羽織も、気に入りの煙管も宿に忘れてきてしまった。
 寝込みを襲われたとは言え、奴良組二代目ともあろう者がほうほうの体である。

 この土地の主は、隠形を見破る、二代目が始めて対峙する類の妖であったのだ。
 対峙した、と言えば聞こえはいいが、実のところ、二代目は彼奴の姿を見ていない。
 ただ声だけで、配下の妖怪たちを指図していた。声だけが、己を追ってきた。
 どれだけ《畏》で身を隠しても、ぴたりぴたりと、声が二代目の居所を当ててしまうので、一匹ずつならば大した力を持たない新参妖怪どもとは言え、有象無象と纏わりつかれるのに辟易としてしまい、出直そうと即座に決めて、仮宿を出てきたのだ。
 仮宿は、このあたりの妖怪街の中にあり、そこを出ると、声は追ってこなくなった。
 すると配下の者どもも、二代目がどこに隠れたか、判じることができなくなり、そして、今に至る。
 忘れ物さえなければ、このまま屋敷へ帰っていたろうが、羽織と煙管が痛い。
 己が一度口をつけた物を置いてきたとなれば、魂の欠片を落としてきたようで、気分も悪い。
 羽織については新調したばかりで、気に入り始めたところだった。
 さてどうやって取り返しに行くか ――― 。

 橋の下から夏の曇天を見上げ、困り果てていると。

「………あーあ。降ってきちまったよ」

 今まで泣くのを堪えていたような空が、いよいよ涙を溢れさせた。
 ぽたりぽたりと落ちてきた雨は、すぐに本降りになった。

「どうしたもんかねぇ」

 呟いたとき、土手を降りて、二代目が居た橋の下へ、駆け込んできた者があった。
 今も二代目は己の姿をひっそりと影に潜めており、人の目には見えぬのだからとたいした警戒もせずに、傘を持たない人影を迎えた。
 使い古された黒いランドセルを背負った、子供。
 かろうじて襟のついた皺くちゃのTシャツと、色あせたデニム。
 たった今、土手を滑り降りてきた、サイズが少し大きめのスニーカーは泥だらけ。

 このように、全く妖気を帯びない、ただの人間の子供を警戒しなかったからとて、二代目を責めることはできない。





「あれ、先客?……あぁ、なんだ、人間じゃないのか」





 その子供が、完全な隠形をしていた二代目と一瞬目を合わせ、その後口の中でこのように小さく呟いて、何も見なかった、何も起こらなかった、とでも言うように二代目の脇を素通りしたとしても、これは全く想定外のことだから、責めることはできない。
 弾かれたように、二代目はこの子供の横顔を追って見つめた。
 その横顔にも、どこか懐かしさを感じて見入ってしまった。

 首筋あたりまでを覆った髪は、黒と呼ぶには少し明るく。
 銀縁眼鏡の向こうは、琥珀の瞳 ――― 。
 その横顔は、どこかで見たことがあった。
 この少年に、どこかで会ったことがあるような気がした。
 これまでの、長い、時の、どこかで。

 まさかもまさかだ。人間はそんなに長く生きはしない。
 妖怪ならば、僅かに妖力を纏うので、人に化けていてもすぐにわかる。

 まだ隠形は解かず、じっと少年の様子を伺う。

 少年がランドセルを下ろし、中から半分残ったパンを取り出す頃には、橋桁の隙間からひょこりと小さな白猫が顔をだし、慣れた様子でしきりに少年の足元に擦り寄っている。この猫にパンを千切って与えながら、優しく毛並みを撫でる少年と、一瞬目が合ったような気がしたのだが、少年の方はもう二代目など気にもしない。
 ――― もしやこちらが見えているのか ――― まさか ――― この少年、例の《声》の主なのか。これが、配下の妖怪どもに、あれこれ指図しているのだとしたら。

 僅か、揺らいだ殺気に気づいたのだろう、少年はびくりと怯えた目をして、こちらを向いた。
 それこそ、猫のように精一杯、大きな瞳に力を込めて、身を縮こまらせて。

「な、何なの?何もしてないんだから、放っておいてよ」
「やっぱり ――― おれが見えてんのか、お前」
「見えちゃ悪い?」
「いや。そういう人間がたまに居るってのは、聞いたことがあるけどな、会ったのは初めてなんで、びっくりした。ちょうど今、そういう《目》を持ってる奴に辟易としててね、悪かったな、坊主」
「ううん、いいけど。……じゃあ、この辺りが今日騒がしいのって、おじさんのせいなんだね」
「おじ……そんなに老けて見えるかね、おれ」
「どうせお兄さんなんて年じゃないでしょ、認めちゃいなよ」
「ひどいねー……」

 殺気を解くと、ようやく少年の方も肩から力を抜いて、パンを平らげた猫の喉元を撫でている。

「それで、おじさん、何か困ってるの?」
「まぁ、困ってるかなぁ。おじさん、今まで隠れんぼだけは誰より得意だと思ってたからさー。こう、次から次と見破られちゃ、自信なくなってきちゃったっていうかさー。ちょいとねぇ、泊まってたところに忘れ物しちまったんだけど、取りに行くにしてもあの調子で追い回されるもんだから」
「ふぅん、バレないと思って姿を隠して潜り込んだ先で、まんまと見つかって追い出されたんだ」
「そういうこと」
「取ってきてあげようか?」
「……そうね、頼むわ。と言いたいところだけど、無理だろ。人間の街じゃねえからさ」
「わかってるよ、そんなの。ここら辺りなら、あれでしょ、山の上の病院跡にある、クラヤミ街、だっけ?」
「少年、君、まじない師の家系か何か?」
「ううん。ちょっと目がいい、ただの小学生。あのあたりなら、何度か入ったことあるよ。流石に怖くて緊張するけど、ばれずに出てこれたよ」
「……いや、カタギを巻き込むわけにゃいかねえや。気持ちだけもらっとく。ありがとさん」
「ふぅん」
「……なんだよ」
「いや、優しいんだなと思って」
「馬鹿言っちゃいけねえよ、妖に優しいもクソもあるかい。カタギを巻き込むなんてのは、こっちの沽券にかかわるだけだい。……お、雨も上がりそうだな。ほら、遅くなったら心配されるぞ、とっとと帰るこった。今夜あたり、この辺もっと騒がしくなるかもしれねえから、戸締りしっかりするんだぞ」
「心配は、されないと思うけど」
「うん……?」

 落ち着いた声に、ほんの少しの寂しさが過ぎったように感じられたが、子供らしからぬ落ち着き払った横顔を、いつしか雲間から差し込んできた光が照らすと、そこにはほんのりとした ――― やはり子供らしからぬ、小さな笑みが唇に浮かんでいた。

 夕立はやんだ。
 白猫がそこへごろりと腰を下ろし、しきりに己の肉球や背中の毛を舐め始めてから、しばらく少年は川面を見つめていたが。

「おーい、わかぁー、サッカーやんねーか〜!人数足んねーんだー」

 雨が上がる予報でもあったのだろう、子供たちが数人、土手の上からこちらへ手を振っている。
 わか。呼ばれたのは、二代目の側で猫を撫でていた少年だ。
 あだ名であろう。何だか偉そうなあだ名だ。

「やるやる!あとさ、ちょっと行きたいところあるんだよね!丁度いいから、つきあってよ!」
「いいよ。先に行っちゃう?」
「うん、その方が助かる!」

 偉そうなあだ名に違わず、子供たちはこの少年を、中心人物にすえているらしい。
 少年は、ランドセルを背負いなおすと、

「ま、いいや。はい、おじさん、記念に握手」
「お?おう」

 気さくに手を出してきたので、大きな琥珀の瞳に見つめられるとどきりとしたこともあり、二代目、思わず懐から手を出し差し出した。
 これを、少年は小さな両手でぎゅっと握り締め、少しの間、ぼんやりと見つめた後。

「煙管?そして羽織。……なんだ、本当にただの忘れ物なんだね」

 ぴたりと当てられ、二代目、ぎょっとした。
 いや、そういう人間が時折居ると、話には聞いたことがある。あるが。

「ちょ、ちょっと待て坊主、危ないのはナシだ」
「おじさんこそ、ここを動かないで。病院跡に近づいちゃだめだよ」
「おい、待てって」
「大丈夫。おじさんこそ、下手に動いたらまた騒がしくなるから、やめてよね。昨日は風も無いのに窓ががたがたいうせいで、気味が悪くて寝つけなかったんだから。隠れるの、苦手なんでしょ」
「……そう言われたのは初めてだわー。って、こら、待て」

 雨上がりの街へ駆け出した少年を、二代目は慌てて追われようとしたが、そのとき、先ほど散ったはずの妖怪どもの足音が橋の向こう側からこちらに戻ってきたので、口を噤んだ。
 視線だけで少年を追うが、こちらへ振り返りもせず、彼を迎えに来た友人たち、数人の少年少女とわいわいやりながら、街の方へ消えてしまった。

 人には見えぬ妖怪たちは、橋の上でたむろして、あっちか、こっちかと相談事。
 この脇をするりと通り抜け、少年たちは橋向こうへ。
 件の少年は一瞬だけ、人でないものを認めてぎょっとしたが、うまい具合に眼鏡が視線を隠して、妖怪どもは己を《視》る者があることに、気づかないらしい。
 追って引きとめようかと迷ったが、例の、《声》の気配が橋向こうには漂っているので、動けばたちまち感づかれてしまうだろう。だからこそ、《声》から逃れて橋の下に、情けなくうずくまっている他ないのだから。

 今はまだ昼間。
 陰の気がたちこめるまでには、少し間がある。
 昼間のうちに派手な騒ぎをすれば、人間たちの目にとまるから、妖怪たちも派手な行動はすまい。
 黄昏が過ぎてもあの少年がこの橋に戻らなければ動こうと決め、二代目は橋桁に腰を下ろされた。

 長閑に過ぎる時間、煙管でも咥えて待とうかと懐に手を入れて。

「そう、その煙管を忘れてきたのよ。何をやってんだか、おれは」

 一人呟き、仕方なく、そこに生えていた草を一本むしって咥えた。

 やがて、カアカアと黄昏の空へ、烏たちが家路を急ぐ頃、あの少年が、友人たちと、橋の向こうから駆けてきた。
 橋の上で手を振って、「猫の様子を見てから帰るから」と、こちらへ降りてくる。
 やはり二代目は暗がりにひっそりと、群雲纏う月のように隠れていたのだが、少年の琥珀の瞳はまっすぐに、隠れた月を射抜くのだった。

「おじさん、戻ったよ。よしよし、いい子で待ってたね」

 抱えていたのは紛れもなく、二代目の羽織と煙管である。

「驚いた。本当にあそこに潜り込んで、帰ってきたのかい」
「近くまで友達と一緒にね」
「肝試しもほどほどにしねえと、そのうち喰われちまうぜ」
「うん。おじさんも気をつけて」
「ちげえねえ。世話になったな。何か礼をしたいが」
「そう?じゃあ、遠慮なくいただきます」

 屈託無い笑みを見せながら、二代目の目の前で掌を上にして、「ちょうだい」のポーズ。
 駄賃をねだる童子の所作そのものに、二代目は苦笑しつつ、懐の巾着から福沢諭吉一枚渡してやった。
 落し物を拾ってもらった謝礼は一割。そう考えると少ないかと思ったが、もらってから、少年の方が目を見開いたくらいには満足してもらえたらしい。

「もらいすぎじゃない?」
「本物かどうかわからんぜ。おれがいなくなった後に、葉っぱに戻るかもな」
「あはは、それじゃ、早いとこ使っちゃうよ。これで後腐れなしで、気持ちいいでしょ」
「そりゃ、気を使ってもらって悪かった」

 礼など要らないと言われれば、それこそ困ったところである。
 この少年、見た目は小柄で細っこいのだが、頭の回転は早いらしい。

 なんだかそれも、どこかで見たような、会ったような。

「 ――― なぁ、お前さん、どっかで会ったことないか」

 口にしてから、酷い口説き文句だと途端に後悔した。
 案の定、少年の方も眉を寄せ、可愛らしく小首をかしげている。
 しかしその所作も、どこかで見たことがある。会ったことがある。

「幽霊や妖怪はよく見るけど、知り合いはいないなあ。こんなに普通に喋ったのも、おじさんが初めて」
「そうかい。……おれの思い違いかなあ」
「でも、どこかで会ってるのかもね。色んなところに転校してるから」
「そうか。……まあ、おれも色んなところに顔だしてるからなぁ」

 だが、釈然としない。
 思って、二代目が顎を撫でて考える素振りをすると、何かに気づいて、少年が袖を引いた。

「ん。なんだい」
「手。怪我してる」
「ああ、奴さんの懐から這い出てきたときに、ちょいとね。かすり傷だ、すぐ治るさ」

 手の甲で刃を弾いたときに負った傷だ。血は乾いているが、少し痛む。
 この手を取ると、少年はポケットからハンカチを出して、丁寧に巻いてくれた。

「放っておくと、傷口からバイキンが入るよ。早く帰って、手当てしてもらってね」
「おう。……ありがとな」
「じゃ、おじさん、ばいばい。これに懲りたら、肝試しなんてしちゃだめだよ」
「あ、お前、このハンカチ」
「あげる!」

 男の子にしては可愛らしい、花柄のハンカチ。
 端っこには、苗字だろうか、「若菜」とだけ記されていた。

 振り返りもせずに少年 ――― 若菜くんが走って行ってしまっても、尚そこを去りがたく、ううむと二代目は顎を撫で、そして唐突に思い出された。





「 ――― ああ、あいつ、リクオに似てるんだ」









...縁と浮世は末を待て...
あの守役の顔と声を思い出したのは、四百年ぶりだった。










アトガキ
「夢十夜」設定で鯉菜(鯉若と書くと違うものを想像した)。え、若菜さん男の子?なんで?いや間違いなく女の子です。一人称使ってません。
男の子に間違われ続けると、否定ってしなくなるのよねと。どうしてそういう格好してんのかは、まあ、そのうち。
俺設定ブースト全開してシンクロ率(何との)が400%に達した結果こうなりました。