楽しい毎日は、ずうっと続くのだと、思っていた。
 なにせ、鯉伴は魑魅魍魎の主だ。並大抵の妖怪になど手は出せない。
 彼の庇護を享受するのをずるいと知りながら、若菜はほんの少しだけ彼の影を借りるつもりで、せめての恩返しに毎日の食事や、お掃除や洗濯などを楽しくお手伝いさせてもらう。
 そんな毎日は、これからもずうっと、続くのだと、思っていた。

 自分を狙う不穏な影は、きっとどこかの悪い妖怪の仕業で、だったら鯉伴の側にいれば、無事に大人になれるに違いないと。









 かつて。平安の頃。
 貴人には、若菜を摘んで喰らう、ならわしがあった。
 長寿と繁栄を願い、文字通り、若菜を料理して喰う、縁起を担ぐ行事だ。

 突如、若菜の前に現れた男は、淡々と告げた。














 貴人とは、民草からしてみれば、天上人などと呼ばれる通り、只人よりも神に近い人々。
 彼等が誰を倣って縁起担ぎの行事をしているかと思えば ――― 無論、天津神、国津神の面々。

 神は人を喰らう。
 神に血肉を捧げるのは、巫女、巫子。
 神に喰らわれるのは、神と一体になる慶びに他ならず、それは犠牲とすら呼ばれない。
 選ばれるのは一族の栄えを意味し、選ばれるのは個の誉れ。

 若菜とは、喰われるものの名で、それ以上の由来も何も無い。
 神に選ばれた巫女は、巫子は、常に《若菜》と呼ばれた。
 今までも、これからも、喰われるものは、若菜と呼ばれるだけだ。

 神がどの巫女を、巫子をお気に召したのか。
 周囲の人どもに知らせるために、神は巫女と巫子に異能と守りを与えた。
 つまり、神と同じように見透かす《目》と、神の供物に手を伸ばそうとする者どもがあれば、これを祓うまじないである。

 いつからか、いつまでか。
 神が生まれ、死ぬまでだ。

 何故あるか、何のためにあるか。
 神に守られるを望む人々のために、その人々が、神が欲するままに捧げるのだ。





 例え《若菜》がどこまで逃げようとも、その《目》がある限り。
 神の力の一部を、体が覚えている限り。
 逃れられは、しないのだ。

 彼女を欲していたのは、悪しき、忌まわしき、妖怪ではなかった。
 古くからいわれのある、由緒正しき、神であったのだ。





 その家は昔から、必ず《若菜》が生まれる家系。
 むしろ、《若菜》の血筋を絶やさぬよう、その血を引く女や男を囲い、家の奥に奉ってきた。

 学を与える必要は無かった、巫女や巫子に学は必要無い。
 神を見る《目》があれば良い。
 名を与える必要は無かった、巫女や巫子に名は必要無い。
 一輪ずつの花、めでしく美しい名のある花が人であるならば、彼等は等しく、名も無き《若菜》だった。

 どれだけ時が流れても、時代が移り変わっても。
 文明開化だ、現代社会だ、真昼のように明るい夜だなどと、人々が得意になっていたとしても。

 それが何だと言うのだろう。世が移り変わっても、人が保護するのは人だけだ。
 花すらつかぬ、名も無き雑草を、どうして人が省みよう。
 生まれたことすら知られぬまま、己が生まれたことすら知らぬまま。
 《若菜》は家の奥深くに封じられ、時が来れば自ら喜んで、神のもとへ身を捧げた。
 彼等には、他の生き方は無かった。他の感じ方も、知らなかった。




















 かつて。平安の頃から。

 《若菜》は生まれ、育ち、神に捧げられてきた。

 生まれたことすら言祝がれず、死んでいくことすら哀しまれずに。




















 嫌だと言ったら、どうなるの、と、今代の若菜は勇気を振り絞って、聞き返した。
 答えはすぐにあった。
 すなわち、貴女様の意志が問われることは無い、という答えが。
 本当ならすぐにでも、御社へお連れするところだが、そうしないのは、貴女様を連れ出した、今は亡き大奥様の意志を尊重してのこと。
 此の世での縁を全て断ち、世俗の穢れを全て落とし、本来のように神に仕えることだけを考えられるようにするための、猶予に他ならないのだ、と。
 それでもと仰せなら、少し痛い目を見てもらうのも致し方ないことだし、猶予時間も無かったことになる。
 もちろん、貴女様が人として連れ去られたなどと噂になっては困るから、此の場に居た方には、残念だが ――― 。

 強盗のように押し入ったくせに、慇懃に淡々と語った男。
 これに従う、強靭な体を、黒スーツに押し込めた、ガラの悪そうな男たち。
 深夜で店仕舞いも済ませていたし、商店街は不景気に煽られて、あちらこちら空き家が目立つ。

 セツ子おばさんと二人、招かれざる来訪者たちに抑えられていては、警察も呼べない。
 逃げようとしても、後ろからしっかりと肩を掴まれ、ソファに押さえつけられるように座らされてしまえば、どんなに落ち着こうとしても、体は震えるばかり。
 心臓が耳のところまで上がってきてしまったのではないかと思うほど、ばくばくとうるさい。
 本当に怖いときには、声など出ない。涙など出ない。
 ただただ、自分が置かれた状況が、現実が、理解できなくて、したくなくて、逃げたくて、逃げられなくて。

 彼等がこの家に押し入って来るや、がつりと頭を殴られて、血を流しぐったりとしていたセツ子おばさんを、男たちがよってたかって無理矢理起こし、この首筋に光るものを押し付けたのを見て。
 逃げたくて。
 逃げられなくて。
 何が起こっているのか、わからない、助けて、わからない、でも、このままじゃ。

「 ――― やめて!」

 相手が本気かどうか、《視えて》しまうがために。
 本当に刃物を使ったことがある人かどうか、ただの脅しなのか、《視えて》しまうがために。

 彼女には頷くしか、道は無かった。




















 かつて。平安の頃から。
 生まれたことすら言祝がれず、死んでいくことすら哀しまれない者たちが、あった。
 人々は彼等を、《若菜》と呼んだ。




















 これはずうっと昔から、続けられてきたことです。
 貴女様には《視えて》いるのでしょう、人々には《視えぬ》はずの、人ならざる者たちが。
 ならばおわかりでしょう、しきたりに、神に、摂理に背けば、どんな結果が人々に齎されるか。
 それがわかっているから、私たちも必死になるのです。
 ですが、お約束しますよ、御自分の意思で、私たちと来てくださるのなら。
 貴女様を育ててくださった彼女は丁重に、当家の主人が手配した病院で手当をいたします。
 貴女様をここまで育ててくださったことへの、充分な御礼も、お渡しいたします。

 大丈夫です、貴女様は、後のことを心配する必要は無いのです。

 ああ、よかった、貴女様を見つけることができて、当家の主人も喜びましょう。
 何も心配はありませんよ、貴女様のお父様にあたる御方なのですから。




















 こんな長い夜を過ごしたというのに、不思議にも、朝には再び陽が昇った。
 眠れるはずが無いと思い込んでいたのに、若菜はいつの間にやら、布団も敷かぬまま、畳に突っ伏して泣きながら眠ってしまったらしかった。

 着ていた服は皺くちゃだったけれど、いつでもたいした服は着ていないから、気にもならなかったが、奴良屋敷で着ているような着物でなくて良かったと思い、少し、笑った。
 二階の部屋から降りると、昨夜ほどの人数ではないにしろ、数人の男たちが畏まった様子で控えており、朝食の準備までされていたが、これに手をつける気にはならなかった。
 見張られているような気分では、食が進むはずも無い。
 シャワーを浴びて、若菜はすぐに、部屋へ戻った。

 昨夜のうちに、病院へ運ばれて行ったセツ子おばさんの姿は無い。
 お店は臨時休業の札を下げ、そしてきっと若菜がいる間に、その札が取り払われることはないだろう。

 馬鹿馬鹿しい。
 こんな現実、あるはずがない、悪い夢だ、と。
 言うには、若菜は人ならざる者を《視》すぎていたし。

 たすけて、と。
 例えば、朝になると、部屋から見える電線に決まって留まるカラスに、言ったとして。
 そこから先、どうなるのだろうか。
 例えば自分だけが助けられても、その風習が続いていくのなら、いずれ別の誰かが、その神様とやらの供物になるのに違いない。
 それを差し置いても自分だけが助かれば良いと思えるほど、祖母は、彼女を狡賢く育てられなかった。

 自分が助かるために、誰かに守ってもらおうと思うには、彼女は優しく育ちすぎた。
 彼女の目が、あの黒服の男たちが彼女の死を願っていることを視抜いていたとしても、助かるために誰かを犠牲にして、自分の代わりに誰かを戦わせて、それでいいとは、思えなかった。
 皮肉にも、人の生を期待されずに生まれてきた彼女の方が、彼女を産み落とした家の人間たちより余程、血の通ったあたたかい人間として育ってしまったので、たすけて、と、言えなかった。

 折角シャワーを浴びて顔を洗ったのに、ぽろぽろ、ぽろぽろと、ただ涙が溢れて、けれど声をあげるのは口惜しくて、唇を噛んだ。

 もうすぐ。もうすぐで、春休みは明けたはずだった。

 そうすれば、若菜は中学生。
 憧れの制服を、いつも眺めて過ごしていた。
 奴良屋敷の外でも、女の子らしい格好をできるとすれば、制服だけだったから。
 入学式の帰りには、きっと見せに行くねと、鯉伴と約束までした。
 出し惜しみしないで、先に見せてくれりゃあいいじゃねーかと、不貞腐れたように言われたけれど、若菜にとっては特別な事だったから言葉を濁して、とにかく入学式の後じゃなないといけないのと、断固拒否した。

 もうすぐ。もうすぐで、春休みは終わり。
 そうすれば、と、かつて祖母は言った。
 十三になる年は、まだ油断はできないけれど、一区切りだから。
 そこまでの、辛抱だから。





 そんなかくれんぼに、もう、意味は無くなった。
 若菜は、《見つかって》しまったのだから。




 
 真新しい制服をしばらく撫でていたが、涙をぐいと拭って、これに着替えた。
 服を着替えて、少し出かけてくると言うと、黒服の一人が慇懃に、お送りします、などと言う。
 もちろん、見張りだろう。
 お金持ちのにおいがする、黒光りする車に乗せられて向かった先が、例の奴良屋敷だったので、そこまで送った運転手は警戒した様子で、何度も他言無用である旨を、念押ししてきた。
 若菜にだって、わかっている。
 ただ友達に挨拶してくるだけだと言うと、信じるまでには至らなくとも、家の表札の名が有名なものではないのに一応安堵したのと、彼女の運命にほんの少しだけ憐憫の情がわいたのとで、結局は、十分程度でお願いしますとだけ告げ、行くのを許した。

 昼間のうちに訪ねても、鯉伴は留守にしていたり、眠っていたりすることはよくあったので、居てくれるといいなあ、起きていてくれるといいなあと思うの気持ちが半分。
 あとの半分は、逆に、留守にしていてくれた方が、眠っていてくれた方が、この場を楽に去れるような気持ちもしていたので、求めていた人物を、枝垂桜が満開の庭を望む濡れ縁に、あっさりと見つけてしまったときには、ほっとした拍子、払ったはずの涙の粒がぽろりと落ちた。

 いけない、と思った。
 若菜の涙を見て見ぬふりをするようなひとではないので、すぐに泣き止まなければと思うのに、できない。
 鯉伴は彼女の姿を認め、おういらっしゃいと応じようとして、ぽろぽろと彼女が泣き始めたのにもちろん、ぎょっとした様子だった。

「どうした、若菜。その格好 ――― 春休み明けまで、お預けじゃなかったのかい」
「約束だったから ――― お別れ前に、見せに来たの」

 はらり、はらり、と。
 年経た枝垂桜が、涙のように薄紅色の花弁を落とす。
 若菜は笑おうと苦労して、どうにか笑い顔らしきものを作り、鯉伴の顔を見上げて、探るような彼の表情を見てしまうとやはりだめで、俯き、唇を噛んだ。

「お別れって ――― なんだよ、どういうことだ」
「お父さんが見つかったんだ。本当のお父さん。だから今度から、そっちで暮らすんだって。すごく遠いところ。西の方の、湖の近くの街なんだって。今度こそすごく遠いところだから、もうここには、こられなくなっちゃう。だから、今日は、さよなら、しに来たんだ」
「さよなら……?」
「うん」
「……何を、大袈裟な。西の方と言えば、捩眼山までは奴良組のシマだ、カラスに言えば手紙の一つでも」
「うん。……うん、そうだね。お手紙、書けばいいよね。毎日、書くね」

 生きていられる間は、毎日でも。
 そうだ、まだ、今日明日に此の世を去ると決まったわけではないのだし、これからどうなるのかだって、まだわかったわけじゃない。
 このひとのおかげで、妖怪と呼ばれるものの中にも、ちゃんと言葉が通じて、人と同じようにあたたかい心を持っていて、優しいひとたちがいるというのが、わかったのだから。
 これから自分が会わされるという、その人でないものとも、もしかしたら、分かり合えるのかもしれないのだし、だとすれば、お見合いをするようなものなのかもしれないし。

 思うと、不思議に心は穏やかになって、いつものように笑い、いつものように綺羅とした輝きを瞳に宿して、若菜は顔を上げることができた。
 笑うことが、できた。

「今まで、ありがとう、鯉伴さん。毎日すごく、楽しかった」
「何を言ってる。また長い休みには、遊びに来ればいいじゃねぇか」
「うん。うん、そうだね」
「なあ、若菜」
「なあに?」

 きっと自分は上手く笑えたのだろう、若菜はそう思っていた。
 鯉伴と自分を囲む小物どもも、そうか、転校しちまうのかと呟いていたし、それ以上を疑ってもいない様子だったし、最初はぎょっとした顔をしていた鯉伴が、いつもの笑顔で彼女に笑い返したので、そう思い込んでいたので。

「何、隠してる?」
「え?」
「何があった、言ってみろ」

 両肩に乗せられたあたたかい手の平が、若菜を行かせるまいと、僅かに力を込めたのを。
 顔を覗き込むように腰をかがめて迫って来る顔に、笑顔ばかりではない、両眼には彼女を泣かせた何者かへの、剣呑な光が宿ったのを。
 気づくのに、少し遅れてしまった。

「何がって……?」
「それだけじゃねえよな?何があった。どうしてそんなに目が腫れるまで泣いた。何に怯えてる?」
「何も。何も、ない」
「嘘をつけ。何もねぇ奴が、何もないなんて言うわけねぇや」
「嘘じゃない」
「じゃあ、確かめていいな?今からセツ子おばさんに電話して、訊いてもいいよな?」
「セツ子おばさん、今、いない」
「若菜」
「本当。本当に、何も無いから。大丈夫」
「脅されてるんだろう。おれがこれまで何百年、そういう奴を見てきたと思ってるんだ。あのな、お前が隠したって、おれが調べりゃ、後ですぐにわかる事だ。言っちまえ。大丈夫だから。おれが絶対、なんとかしてやる。任せてみろ、全部丸くおさめてやる。友達だろ?そうだろ?お前が困ってるときくらい、頼ってくれたらどうなんだ」

 お願い、たすけて、と。言えたら。
 きっと、目の前の優しいひとは、全力で助けてくれるのだろう。
 ここから若菜を行かせず、門を硬く閉ざして、何を敵にしようとも、隠し通してくれるのだろう。
 しかしそれでは、いけない。終わらない。
 どこかで違う誰かが、知らないところで、代わりになるだけだ。
 戦いになれば、少なからず、このひとだって傷を負う。それも嫌だ。
 相手は神様なんだから、きっと強い。きっと、ただではすまない。
 神様を倒してしまったら、どうなるかも、わからない。

 どうすればいいのかなんて、まだ幼い若菜には、わからない。決められない。

 自分の代わりに、自分を喰おうとしているらしき神様とやらをやっつけてくれなどとは、もちろん言えない。
 神様は絶対だ、神様なら強い、神様が言うことなら、きっと従わなくちゃいけない。
 逆らったなら、天罰がある。きっとある。
 幼いがゆえに、人に刷り込まれた絶対的な恐怖を振り払えず、若菜は笑顔を忘れ、首を横に振った。

 若菜、と、今一度、己を呼ぼうとした彼の唇に、そっと自分のそれを押し付けて、一言。

「鯉伴さん、大好きでした」

 告げて、彼の力が緩んだ隙に逃げ帰るのが、精一杯だった。









...孤 立 無 縁...
神が正気でないのなら、人は誰に祈ればいいのだろう。人だと思っていた己が人でなかったなら、世界で、己は、唯一人。それを孤独とすら呼べない。











アトガキ
そろそろ二代目夫妻シリーズ、佳境にします。続きは後日。三代目が出来る未来は確定してるから安心ですよ多分。
というわけで、初ちゅーは若菜さんから不意打ちでした。

山吹さんの古歌へのアンサーとして、
「小松原 末のよはひに 引かれてや 野辺の若菜も 年をつむべき」
というように、若菜ちゃんがいればいいんだと思うんですが、そこまでちょいと山場が(私の中で)あるわけで。
原作でやらないうちにやっちまおう試作。