苗字は若菜。そのためか渾名は「わか」。名前はわからず。男の子。 小学生。学年は不明。友達の輪の中でも中心的。 ぬらりひょんが《畏》を使っていても、《視》える。 どれほど影が濃くても、その先にあるものを《視》てしまう。 これだけの情報があれば、奴良組のシマではなくとも、どこの誰かくらいはわかりそうなものだ。 つきとめて、洗ったハンカチを返そうと思っていたのだが、カラス天狗は申し訳なさそうに、 「二代目。そのような小学生、その街にはおりません」 と、言った。 濡れ縁に腰掛けたまま、二代目、嘆息した。 「そうか、見つけられなかったか」 「いいえ、総大将、そのような小学生は、おりませんでした」 重ねて答えたのは、カラス天狗の後ろに控えた、若武者姿のカラスだった。 初代の頃から奴良本家に仕えているカラス天狗の息子、この黒羽丸にとって、奴良組大将とは最初から、二代目奴良鯉伴のこと。 常は父の後ろに控え、問われなければ口出しなどしない控えめな黒羽丸が、強い口調で否定するのは、己等の働きを正当に評価してもらおうという魂胆からではなく、己等が掴んだ情報を正確に申し述べようとする熱心さからくるものだ。 無言で促すと、庭に膝をついたまま、黒羽丸は続けた。 「まず、総大将が仰せになった、あの街の小学校をあたりました。橋を中心にして三校ありましたので、全ての名簿を調べたところ、『若菜』という苗字の者は計十名。内、女子が四名。残りの六名をあたりましたが、総大将が仰せになった特徴は持っておりませんでした。友人たちと遊ぶところも見届けましたが、『わか』という渾名の少年はおりません。 また、念のために女子の方もあたりましたが、同じです。いずれも、我等の正体を見破ることはありませんでした。 それから、総大将が隠れていらしたという橋も、一週間ばかり見張りをたてましたが、件の白猫の姿も見られず、『わか』と呼ばれる子供は通りがかりませんでした。 そして最後に。この橋を通りがかった子供等が、『わかの奴、元気かなぁ』と、言っていたのを末妹が聞いております」 「そこまでしてくれたのかい。いや、かえって悪かったなぁ、黒羽丸」 「いいえ、任務ですから。以上、長くなりましたが、ご報告です」 「うん、わかった。なるほどなぁ、あいつと一緒に遊んでた子供等がそう言うんじゃ、あれかねぇ、転校ってやつかねぇ」 「さらに、探しますか」 「うんにゃ、いいよ。ちょいと気になってただけなんだ。あのクラヤミ街とはまだごたごたしてるし、示談ですませられねえかって時につっつくのもいけねえ。これ以上は無用だ。ご苦労さん」 「 ――― はっ、では、これにて」 すっかり当てが外れてしまった。 以来、花柄のハンカチは、二代目の手元にある。 こんな風に人と縁を結ぶたび、何だか懐かしい気持ちになるのは、同時に、立派な妖怪任侠一家の二代目だとだけ誉めそやされても、何だか寂しい気持ちになるのは、幼い頃に人の幼馴染があり、小物妖怪たちと遊んで暮らしてきたせいだろう。 縁があればまた会えるだろうし、縁が無ければかなうまい。 そう割り切って、二代目はこの一件を忘れることにした。 目下、考えなければならないのは、最近増えてきた不届き者のこと。 任侠道、ヤクザ者、極道と名ばかり体裁よく整えた、カタギの者にまで手を出す不逞の輩のことである。 先日、若菜と出会った街の主とは示談がつきそうだが、それだって表向きのことだ。 一触即発の空気には、違いない。 戦後の高度成長は、金の亡者を多々生み出したが、何もそれは人間に限った話ではなく、奴良組何するものぞと言う、若い妖怪たちも数多く、人の想念思念から、あるいは新しく生み出された鉄の森から、生み出されているのだ。 関東一円を傘下に治めるとは言え、一度治めればそれで良いというわけもない。 治め続けるためには、同じ関東一円の中で生まれ来る、新興一家にもきっちり睨みを利かせてやらねばならない。 +++
というわけで、若菜のことを綺麗さっぱり忘れた二代目、少しばかり綺麗さっぱりしすぎたか、今日も今日とて違う街を、疾風のごとく駆けゆくのだった。 負ってくるのは黒い影の犬妖怪ども。 たかが猟犬だが、まだここで事を構える気はなく、ほんの少し様子を伺うだけのつもりだった二代目は、この妖怪どもが追ってこなくなるまで逃げることに決めた。 敵情視察のつもりだった。 蜂の巣をつついた結果になった。今は猛省している。 アーケード街の真ん中に出ても、猟犬が二匹、立て看板をふっ飛ばすのも店先のりんごを蹴飛ばすのも一切構わず追ってくるので、こいつらには昔ながらの妖怪のように、隠れて事を成すという美学だとか風情だとか、人と妖の暗黙の了解がわかっていないのだと知れた。 人の目からは、突風が吹いたとしか思われぬだろうが、過ぎれば怪我人が出るだろう。 やってしまうか、と、懐の祢々切丸を確かめた。 抜くか、応、抜くぞ ――― 今にも、刃を見せようというときに。 ぐい、と、とある路地に、引っ張り込まれた。 急なことだったので、二代目はたたらを踏んでのけぞりながら、その力に逆らえず、ぐいぐいと引っ張られるままに裏口から、とある店の中に入ってしまった。 勝手口の中、しかも路地を挟んですぐ隣に、また別の家がある。中にも光が入らず、暗い。狭い。 その狭いところをぐいぐい奥へ奥へと引っ張られ、物置のような場所についたと思ったら、何か水のようなものを頭からぱしゃりとかけられた。 途端、鼻をつく酒の匂い。さらに、物置の物陰に押し込められ、誰かが上から覆いかぶさってきた。 「つめてぇっ、何だよ、畜生」 「おじさん、静かに」 「 ――― お前……」 「しっ」 ――― ウーッ……ウウゥウゥゥ ――― ガルルルルルル……ウウゥゥウゥ 猟犬どもの唸り声は、ほんの一時、勝手口のあたりをうろうろしていたようだが、じきに足音も無駄に吠える声も、遠ざかった。 やがて、二代目に覆いかぶさっていたその人が、ほうとため息をつき、離れて、ぱちり。 物置の中を、天井からぶら下がる裸電球が照らし出す。 この下で、腰に手をあて、呆れたような顔でこちらを見ているのは。 「若菜くん。若菜くんじゃねーか。あれー?すげー奇遇ー。なにこれ運命?」 「おじさん、見つけるたびにいっつも追われたりしてるんだね。なにこれ趣味?」 少しずり下がった銀縁眼鏡を、中指で押し上げながら溜息一つ。 二代目が少年のように両手を上げて再会を祝ったのとは真逆に、少しばかり迷惑そうな、そこまではいかないが困った荷物を抱え込んでしまったような。初めて会ったときにも思ったが、大人びた少年であった。 ちらちらと奥の方を気にしていたと思ったら、物置の奥には家の中へ続く出入り口が別にあったらしい、どすどすと足音がした後、遠慮の無い勢いでそこが開いた。 「話し声がしたけどなんだい、誰かいるのかい」 「ううん、おばさん、ちょっと暗いところで躓いただけ。封開いてたお酒、ちょっと零しちゃったみたい。ごめんなさい」 「ふうん……。気をつけるんだよ。売り物だって混じってるんだから」 「はい、ごめんなさい。あの……ちょっと用事ができちゃって、今日のお店番、終わりにさせてもらえませんか。どうしても外せないんです」 「まぁ、いつもやってもらってるし、仕方ないねぇ。そう遅くならないうち、早く帰ってくるんだよ」 「ありがとうございます」 恰幅の良い、不惑ほどの女が顔を出して怪訝そうに辺りを見回したが、どんなに注意深く観察したところで、只人の目にぬらりひょんが止まるわけがない。 アルコールで気配まで清められてしまったなら、尚更だ。 二代目は前髪からぽたぽた酒の滴を落としながら、ぬぼーっと突っ立っているだけでよかった。 それだけで、己がどういう類の者であるのかをきちんと知っていてくれるらしい少年は、にこやかに家人といくらか問答を交わし、追い返してしまった。 どうやらこの物置は、表の商店の裏らしい。 家人が姿を消して、再びどすどすと足音高く去ってしまってから、二代目は直球の感想を述べた。 「すげー。ジャイアンのママだ。まだ居たんだァ、ああいう母ちゃん」 言いながら、体のラインを両手で再現した二代目に、迷惑そうな眉間の皺を保てずに、ころころと少年が笑う。 「やめてよおじさん、セツ子おばさん、いい人なんだから」 「へぇ、母ちゃんじゃないのか」 「違うよ。今、お世話になってる人。……それよりおじさん、家どこ?陽が沈まないうちに、送ってくよ。どうせあれでしょ、旋風みたいな犬に追いかけられたんでしょ」 「おう、それ。そうなのよ。よく知ってるねぇ」 「何度か、見かけたこと、あるから」 「見かけた、ねぇ。少年、霊感ってのがあるタチかい。それとも千里眼かい」 「ちょっと目が良すぎるだけ。守護霊も見えなければ、悪魔を呼び出せもしないし、こっくりさんは大嫌い。未来の事なんてわからないし、ただちょっとだけ、今ここに在るものが《視》えすぎるんだって、おばあちゃんは言ってた。 ほら、さっさとそっちから出て。陽が沈んだら、さっきの犬がこの辺もっとたくさん、うようよするんだし、おじさん、自分の姿が《視》えちゃうものから身を隠すの、下手でしょ」 「前にも言われたなぁ、それ」 若菜くんは、入ってきた勝手口を薄く開き、辺りにあの猟犬どもが居ないのをたしかめると、なるべく足音をたてないようにしながら、するりと外に出た。 二代目がうっかり、キイと戸口の音を立てるとこれを睨んで咎め、上手く音を殺しながら、戸を閉める。 「自分が姿を隠す力を持ってても、相手には見えてるって思いながら、ついてきて」 不思議な物言いだったし、隠形の力でぬらりくらりと暮らし続けて四百年になる。 物心ついたばかりの頃は妖力など無く、人間の幼馴染たちとかくれんぼもしたが、その頃の心もちなどまるで忘れていて、思いだすまで四苦八苦しつつ、時折足音をたてては若菜くんにしたたかに足を踏まれたりもしながら、どうにか不可解な《畏》が覆う町の外までたどり着くことができた。 「ここから先は、あの犬たち、もう出ないはずだよ」 若菜くんがそう言って足を止めたのは、再開発が進む町の外れ。 その先は、平成よりも昭和の名残を色濃く残しており、遠くのビル影に太陽は黒く埋もれて、一足早い夜を迎えている。もう少し先へ行けば、観光客で賑わう寺や公園へ続いているはずだが、この辺りはそんな人々からも取り残されて、音すら昼と夜の僅かな隙間にすとんと落ちてしまったかのように、しんと静まりかえっていた。 二代目は懐を探ったが、返そう返そうと思っていたあのハンカチは、やはり無い。 屋敷のどこかに仕舞って、それきり忘れていたのだから当然である。 がしがしと頭を掻いた。 「若菜くんってさぁ、さっきのおばさんちに、世話になってんの?この前借りたハンカチ、今度返しに行っていい?」 「いいよ。あげるって言ったじゃない。それに、もらったお小遣いで新しいの買ったし」 「そうかい?……新しい靴は、買わなかったみたいだな」 靴どころか着ているものも、以前見かけたのと同じように、使い古されくたびれたものだ。 「うん、ハンカチ買って、それからたくさんお菓子を買ってみんなで分けて、残りは全部、葉っぱに戻る前に募金しちゃった」 ふふふ、と嬉しそうに笑ってポケットから赤い羽根を取り出した若菜くんに、ほんの少し頭痛を覚えつつ、こういうぽわっとしたところはあの抜け目がなかった守役に全然似ていない、と、二代目は言葉を失い苦笑するしかない。 加えて、違うところを見つけるたびに、別れ難く感じている己にも、同じように苦く笑った。 人の一生は短い。再び縁を紡いだとしても、見送るのは己に決まっているのに。 「そんじゃ、今日の御礼はどうしようかねぇ。いや、本当、助かったよ。この前も今日もさ、おれ、こんなに隠れるの下手だったかねぇって、落ち込むような相手ばっかりだ」 「隠れてるのを見つけるのが得意な相手だから、隠れるのだけが得意なおじさんとは、相性悪いんじゃない?」 「ふゥん……なんで、そう思うんだい」 「この前のクラヤミ街は、病院跡だったでしょ。病院にはCTスキャンとか、レントゲンとか、目に見えないものを見つけるのが得意な機械がたくさんあるし、それを寝床にしてる妖怪さんとかは、同じようになっちゃうんじゃないのかなぁ。それに、この街のあの犬たちは、鼻がきくから見えるも見えないも関係ないし、だから強いニオイとか、消毒薬とかアルコールとかで、自分のニオイを消すしかないのに、おじさん、それしてないでしょ」 「……なるほどねぇ……。若菜くん、まじない師の素質あるよ。金、取れんじゃない?」 「おばあちゃんが、そういうのダメだって。お金っていうのは、汗水垂らして稼ぐもので、たまたま神様から余分に良くしてもらった目だとか手だとかを、売り物にしたらバチが当たるって言ってた」 「厳しいおばあさまだこと。……いや、それ、どっかで聞いたことあるぞ。あ、お袋だ」 「おじさんのお母さん?」 「おうよ、お袋は手がな、人より手当てに向いててよ。腹が痛いってときに腹をさすってもらうと、たちどころに治る。手を怪我したってときにさすってもらうと、傷がすぐ消えるって具合だった。それが口うるさく良く言ってたわ。うわぁ、懐かしい」 「ふふふっ、お母さん、大好きなんだね」 「日ノ本一の、自慢のお袋だぜ」 「それじゃ、わかるよね。落し物の謝礼は一割だけど、今日は道案内だけだもん。御礼なんてもらえないよ」 「でもよ、店番の時間分、働かせちまった。労働力には対価が支払われるもんだ。金が駄目だってんなら、そうさなぁ、何がいいのかねぇ」 欲しいものは欲しいと思う前に与えられていた、まるで不自由のない子供時代を過ごしてきた二代目である。己の過去を振り返ったとしても、この年頃に何が欲しかったのかすら思いつかない。最近の子供はナントカチョコについてるシールとかを集めていたり、ナントカボーイとかが好きらしいとテレビで情報を仕入れたのは既に数年前の事である。ちなみにナントカボーイのテトリスは大いにはまった二代目であった。 ううん、と腕を組んで唸ってしまった二代目の隣で、若菜くんも真似をして腕を組んでううんと同じ方向へ首を傾けるが、あきらかに面白がって笑っている。綺羅綺羅といつも輝く瞳が、宝石のように美しかった。 「そうだ!」 ぽん、と手を打ったのは、若菜くんの方だった。 「それじゃあおじさん、友達になってよ」 「オトモダチですか。いや、おれァ一向にかまわねーけどよ、いいのかい、そんなんで」 「うん、それじゃ、もう友達だね。友達だもん、助け合うのは当たり前だよ。道案内だってそうでしょ、ね」 「何だか煙に巻かれた気分だ」 「妖怪さんの友達は初めてなの。こんな風に、普通に話せるひとも初めてだよ。いつも、こっちが《視》えてるのに気がついたら、追いかけてきたり脅かしてきたりするひとばっかりだったから」 「そいつぁ許せねぇな、堅気になんてことしやがる。どこの連中だ。いいか、若菜くん、今度そういう奴等に出会って、妙な真似されそうになったら、奴良鯉伴が黙ってねぇぞ、自分は大親友だぞって言ってやれ。んで、その辺の電線に止まってるカラスに言いつけてくれりゃ、おれ、飛んでくるから」 「ぬらりはん、さん?」 「鯉伴だ。鯉に伴うって、書く」 「鯉伴さん」 「おう。おじさんはやめてくれ、なんか老けた気になるしよ」 これにも、若菜くんはくすくすと笑ったが、 「わかったよ、鯉伴さん。お友達の頼みは聞いてあげなくちゃね」 素直に頷いて小さな右手を差し出した。握手。 久方ぶりに感じた人の手の感触は、記憶のものよりもあたたかかった。 ...縁は異なもの味なもの... 「若菜くん、おれ、いくつぐらいに見える?」 「四百歳くらい?」 「………あたり。そう思ってて、なんで『おじさん』なの。『おじいさん』とか、呼ぼうと思わなかったわけ?」 「だって、若く見えた方が嬉しいって、大人のひとはみんなそう言うよ」 「………お気遣い、どうも」 アトガキ --鯉伴からの信頼度が上がった! --若菜は召喚術『魑魅魍魎の主』を会得した! つかもうそれだけでRPG的にはバランス破壊。雑魚一蹴。一流のサマナーになれるよ若菜さん。 女の子だと気づくのはもう少し先です。オトモダチから初めてればいい。 二代目、奥手とかそういう次元じゃないです。初ちゅーはいつになることやら。 |