中学校に通うようになってから、若菜は眼鏡を使わなくなった。
 浮世絵町では、どこにいたとしても、彼女の大親友であり思いびとたる奴良鯉伴が目を光らせている。時折妙なものとすれ違っても、罰当たりなことさえしなければ、あちらからは決して若菜に危害を加えない。
 それどころか、鯉伴が若菜を気に入り、屋敷に出入りさせるようになってからは、あちらの方から、視線をさっと逸らして若菜を見ないようにしているような気さえする。

「そりゃそうですよ」

 若菜のささやかな疑問に答えたのは、時々、奴良屋敷を出入りする、頭に肉球柄の手ぬぐいを巻いた猫又、良太猫である。

「もう若菜さまにゃあ、べったりとくっついてますからねェ。浮世絵町で若菜さまに手ぇ出そうなんて輩は、もういねぇでしょうよ」

 奴良屋敷に出入りする妖怪たちは多いが、良太猫はその中でも気のいいやつで、若菜を見るとにっこりして、訊けば何でも教えてくれる。
 もっとも、教えてくれた事柄全てを、若菜がきちんと理解できるかどうかは、別の話。

 今回の答えも、何がどうべったりとくっついているのか、若菜には分からず、大きな榛色の目をぱちぱちさせるばかり。

「ついてる?って、何が?」

 もしかして汗の臭いでもするのかな、部活帰りに屋敷による時は、必ずお風呂を使わせてもらって着物に着替えているはずなんだけど………。
 と、若菜が己の肩のあたりなどをくんくんし始めると、良太猫はあわてた様子で、

「いやいや、若菜さま、女性がそんな、てめぇのニオイなんて、やめてください。違います、そういうんじゃねぇんですって。二代目の《畏》を感じるんですよ。そりゃあもう、しっかりと」
「鯉伴さんの?」
「ええ。あっしのような獣は特にわかりますねぇ。ああ、この御方は二代目のつが………いや、ええと、大事な御方なんだなぁってのが」
「つが?」
「忘れてくだせぇ」

 逃げるように良太猫が去ってしまった後、かわって縁側に現れたのは、屋敷の主であらせられる、奴良組二代目。
 ドテラの片袖を抜いた姿の彼は、何か面倒事でも抱えているのか、少し難しい顔をしていたが、縁側に腰掛けてぷらぷらと足を遊ばせる少女に気づくと、へらりと笑った。

「よぉ若菜、来てたんかい。………どうした?」
「ねぇ鯉伴さん、私、何か変な臭いする?」
「あーん?誰がそんな事、言った。学校でンな事言う奴がいたか?」
「ううん、違うの。良太猫さんが、べったりついてるって」
「はぁ?」
「だから、このあたりで私を襲おうなんて考える妖怪は、もういないだろう、って」
「あー……」

 これで二代目には、おわかりになった。
 なにせ、自分がつけたものなのだから、当然だ。

「いや、《畏》って、臭いとかそういうんじゃねーから。安心しなさい、若菜坊や」
「もー。また若菜坊って言ったー!私もう中学生なんだよ?子供扱いしないでったら!」
「お前さんを大人扱いしようとするとね、首無と毛倡妓が怒るんだよ」
「?………どうして?」
「どうしても。あぁそうそう、妖怪ン中では、十三が成人ってなっててな、誕生日がくるまでは、お前さんもまだ子供ってことさ」
「ふぅん………なら、仕方がないかぁ。あ、それでね、良太猫さんがね、私が鯉伴さんの、つが?なのがすぐにわかるようになってるんだって言うの。《つが》って何?」
「若菜ちゃん、学校で古典とやらは」
「ちょっとずつやってるけど、苦手ー。私、数学のが好きだなぁ」
「ほほう。ま、そのうちわかるさ、若菜坊がもうちぃっと、大きくなったらなー」
「だぁかぁらぁ、子供扱いしないでったらぁ!」

 言いつつ、二代目に甘えるように膝に乗りあがってぶつ真似をしてくるのは、まるで子供の仕草だ。
 二代目はじゃれてくる仔猫をあやすように、はいはい、痛い痛い、などと苦笑しながら若菜を膝に抱き上げ、腕の中に閉じこめてしまわれた。

 男に後ろから抱きしめられれば、女ならそれが見知った相手でもおそろしく思うものだろうに、そういうところはまだ初心な若菜は、二代目を独り占めできてご機嫌らしい。
 警戒心皆無な娘を相手に、これでどうして大人扱いしろってのよ、と、二代目は少々疲れたお顔だ。

 無理も無い。
 秋を過ぎれば実生の年となるこの少女、中学校とやらに進んでから、なんだか急に見目が大人びた。
 少し前まで、男の子に間違われていたのが嘘のように、出るところが出て、丸くなるところが丸くなった。
 以前と同じように、こうして抱き上げても、触れる場所に実は困っている。

 暴れそうになる下半身をなだめるのは、なんと頭の中で唱え続ける般若心経だ。こういうとき、守役が半妖のたぐいでよかったと思う。生粋の妖なら、二代目に経など学ばせようとは思わなかったろう。

「若菜ちゃん、《つがい》って意味わかる?」
「ん?なにそれ?………あ、良太猫さんが言ってたのって、それ?」
「うん。たぶんそれ」
「ふぅん。今度辞書引いてみる!」
「うん。それがいい」

 でもきっと、若菜は辞書を引かないまま忘れてしまうに違いない。
 そういう、アバウトなところのある娘だ。
 ご機嫌な猫のように気まぐれで、今こうして二代目と戯れているうちに、良太猫の言うことなど、忘れてしまうだろう。
 おかげでこのような、二代目の迂遠すぎるアプローチは、今までことごとく不発に終わっていた。
 子供扱いは、せめてもの意趣返しである。

 後ろから、娘の髪に頬を寄せ、口づけを落とす。
 若菜はそれをただの親愛の情と受け取り、屈託無く笑うが。





(いつになったら、もう少し大人の方法で、マーキングしても良くなるんだい、若菜)





 大人として信じられるのと。
 男として疑われるのと。

 いったいどちらが苦痛なのだろうかと、ため息一つ落とす、二代目であった。









...口づけ一つ、ため息一つ...
商売女には口づけしないのが決まりなんだよ。
だからな、若菜、おれぁ口づけなんてするのは、ほんと、何百年かぶりなんだよ。











アトガキ
鯉伴さんはすっかりやる気なので若菜ちゃん全力で逃げて下さい。というお話でした。

最初は高校卒業まで待つ気だった鯉伴さん、どんどん耐え切れなくなるに違いない。
ついに高校卒業と同時に出産させちゃったりとかしたあかつきには、その前に簀巻きにされているに違いない。
毛倡妓と首無と、二人とも縛り属性の妖ですが、それを側近にしてたのはなんでなの。縛られたいの。Mなの。
………ちょっとMなんだろうなあ(こら)。


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