強い妖気は、子供に毒だ。
 齢十にも満たぬ幼子であれば尚のこと、強い障りにたちまち高熱を出して、寝込んでしまう。

 例え、妖怪の総大将、ぬらりひょんを祖父に持つと言えど、祖母も母も人の子であるのだから、若君がたびたび床についてしまうのは、いたしかたないことであった。
 そもそも、妖怪が側にいなくとも、幼子は病に弱いものだし、ここ数日は、若君の父上で二代目御大将であらせられる方の不幸で、屋敷中がばたばたとしていて、人も妖怪もとにかく出入りが激しかったから、一体父上の身に何がおこったのかすら定かでないうちに、若君は前後も定められぬような熱に浮かされた。

 常ならば、やはり人の子であるからだろう、総大将の血を引いておられるとはとても思えぬ弱さであると、口さがなく噂し合う無礼な者たちも、このときばかりは父上を目の前で失われた若君の、傷心いかばかりかと思いやり、幼子が好みそうな果実や口当たりの良い水菓子などを差し入れる。
 今までならば、熱があっても少しは起き上がって、何かしら口に入れたものだが、よほど父上のことがこたえたのであろうか、熱に浮かされながら、父上と母上を呼び、探し、誰も答えぬとわかると涙のにじんだ声で守役の女怪を呼ぶ。

 若君の母上は、遠方からもいらした弔問客への挨拶で忙しく、かわりに雪女は、昼も夜もなく、つきっきりでお側に侍り、己の手が煙を吹いて形を崩しかけることもかまわずに、着物の裾をはさんで、若君の肌を傷つけぬよう気をつけながら、自らの冷気で熱を払ってやるなど、かいがいしく世話をした。
 これまでならば、せいぜい一日も眠っていれば、翌日には熱を出していたことなどすっかり忘れ、また元気に庭を遊びまわっていたものだが、この熱ときたら、三日が過ぎようとしているのに、まだ引かぬ。
 朦朧としたまま、父上といよいよお別れであるのだからと、座敷にしつらえられた祭壇の、父上の棺の前に座したが、半刻とたたずに昏倒した。
 以降は、熱が高すぎるせいで、寒い寒いとうなされるばかり。

 奴良組と縁のある、人の医師にも何度かかかったが、熱を出したばかりのときに、風邪であろうと判じたその医師も、こうなるとどうも人の病ではなさそうだと、難しい顔をした。
 やはり昔から、人の子供がよくそうなったように、大きな妖気にあてられて、こうしてうなされているのではあるまいか、と。

 父上がさしたる抵抗もできず葬られた、怪異の裏にはどうやら、女の妖の影があり、若君は熱を出す前に、この女の背に、蛇のようにうねる、九本の獣の尾を見たと気がすると仰せだったから、初代御大将は我が身にかけられた、四百年前の呪いを思い出され、てっきり年の順に逝くとばかり思っていたところへ、一人息子、そして愛孫と続きそうなこともあって、こればかりは己に何もできず歯がゆいことだ、と嘆かれる。
 なまじ己の血を引いているがため、神仏にすがろうにも、愛孫に加護を与える神仏の類にはとんと心当たりがなく、かと言って、己の血よりも人の子の血の方が強いために、かかる障りを跳ね返す強さにも恵まれず、この愛孫の命の、なんという儚さであろうかと、打ちのめされた。
 御大将の長い生に比ぶれば、短いながらも、深い夫婦の契りを結んだ、珱姫をささやかに奉った仏壇へ、人の真似事でもせぬよりましであろうと、朝に夕にこっそりと手を合わせる。

 そうこうするうちに、若君の父上を、屋敷から御山の廟へ、お送りするという日が明日に迫った。
 もしかすると、そう遠くない日に、若君の方もまた、あの廟へお送りせねばならないかもしれないぞ、という声が聞こえるほど、若君の容態も悪いままだ。


+++


 と、その夜のこと。
 初代御大将の願いが、黄泉の珱姫へ届いたか、あれほどうなされていたのが嘘のように、若君はすっきりとした寝覚めを迎えられた。
 ぱちり、と目を覚まされ、おやどうしたことだろう、あれほど苦しかったのに、今では体もすっかり軽い、と、一人起き上がられる。

 ところが、うなされている間中、ずっと、若君の傍らにあったはずの雪女の姿が無い。
 少しの間でも離れるなんて、けしからん奴だと、頬を膨らませて拗ねられたのは、ほんの少しの頼りなさを覚えられたためだ。
 辺りを見回すが、どうしたことだろう、雪女の姿だけではなく、いつもはどんな夜更けにも、小さな物の怪たちの気配がするものなのに、今はシン、と静まり返っていた。

 皆、一体、どこへ行ってしまったのだろう。
 父上を廟へお送りするのは、明日のことと思っていたのに、自分に黙って、もう出立してしまったのだろうかとご不安になられ、よたよたと濡れ縁に出たところ、誰かに優しげに呼ばれたような気がして、きょろきょろと辺りを見渡す。
 だが、庭の茂みから姿を現し、こちらにトコトコと向かってきたのは、若君を軽々と背中に乗せてしまえそうな、大きな白い犬、一匹のみだった。
 人懐っこそうに舌を出し、愛嬌のある顔で、しきりに尾を振っている。

 大きな犬だが、嫌な気はしないので、屋敷が静まり返っていることなどすっかり忘れ、若君は珍しげに、この白犬に近づかれた。
 頭を撫でてやると、甘えるようにくうんと鳴いて、鼻先を若君の胸元へ摺り寄せてくる。
 熱が引いた手で、よしよし、と撫でてやると、白犬は、慈しむかのように若君の頬をぺろりと舐めた。

 と。

 ごそり。

 若君の背後で、音をさせるものがあった。
 誰か戻ってきたのか、不気味な気配をさせる者があったものだ、叱ってやらねばと若君が振り返るが、違う。
 部屋には相変わらず、若君が這い出てきた布団があるばかり。
 変わったことと言えば、今は若君のかわりに、この布団の上で、闇の中から浮き出てきたような、あるいは黒く燃えて崩れた灰の山のようなものが、ごそり、ごそり、と、何かを探すように這い回っていることだった。

 おかしい。
 あのような奴が、下僕にいたろうか、見たことのない顔だ、と、若君がいぶかしんでおられると、その灰の山が、がばりと起き上がった、あるいは、振り返った。のかどうか、あるいは背後にもあって、たまたま閉ざされていた目が、若君の気配を察して、カッと開いたのかもしれぬ。
 灰の山、この全てが、とたんに無数の目となった。
 目と目の合間に、歪んで潰れた口があり、さらには目と口の下から、アメンボのような蜘蛛のような、細長い手足が、にゅっとあらわれた。

 無数の目と口、そして手足で埋まった、黒い鞠。
 この表面の口は、ところせましと押し付けられ、肉感的にとがって、涎や血や、あらゆる穢れたものと呪詛をはき、その後、横に広げられるだけ広がって、



 み・い・つ・け・たぁ………



 にたぁり、と、笑ったのだ。


+++


 疫病神。
 若君の知識が、これをそうだと判じられた。これは正しかったが、残念なことに、この正しさは若君を救う手立てとはならなかった。
 今は明確に、どこへ逃げても見つけ出すための無数の目で若君をこれと定め、あらゆる呪詛を浴びせるための無数の口で若君を呼び、どんなに早く駆けようとも逃さぬための長い手足をこちらへのばしてきているではないか。
 これは、恐ろしいものだが、妖怪ではない、これは穢れを担う、神である。
 罰を与えるための神であり、一片たりとも容赦は無い。
 神として祭られたものの神格たるやすさまじく、力の強い妖怪であったとしても、ただではすむまい。
 だからもし出会うようなことがあったならば、見つからぬ場所で息を潜めて、他の目的を見つけてこやつが去ってしまうまで、じっとしているのだよと、他ならぬ、若君が慕うおじい様、総大将ぬらりひょんがそう言ったのを、へえ、神様にも色々いるんだねと、他人事のように聞いていたのは、つい先日のことだ。

 逃げなければ、と、若君はお思いになった。疫病神がのばした腕が、もう目の前だ。
 逃げなければ、逃げなければ、でもどこへ、何故誰もいない、何故あのようなものが屋敷の中にある、もしや皆、食べられてしまったのだろうか、そうであれば悔しい、ああ絡め取られる、そうだわんこ、お前はお逃げ ――― 様々なことが若君の脳裏を横切った挙句、得体の知れない怪異から、迷い込んだこの白い犬を遠ざけなければとお思いになって、小さな体で、犬を庇うように立ち上がった。

 疫病神は、いまやボタボタと、忌々しいものを畳の上に巻き散らかし、青々としていた畳を瞬時に腐らせながら、灰というよりヘドロのような姿で飛び掛ってきた。
 異臭漂う大きな体に、若君が体を沈められようとした、その刹那。
 若君が恐怖におののき、これまでか、これで己もあの畳のように、腐って終わりとなるのだと覚悟を決めて、顔を袖口で覆ったこのときに、若君の後ろから、白い風のようにあの犬が、ヘドロの塊に体当たりを食らわせた。
 白い毛並みが瞬時に焦げて、腐り落ちてしまうを想像し、「いけない」と叫んだが、そうはならない。


 パリイィィィン……!


 鏡が割れるような、澄んだ音とともに、大きな、目と口と手足だけをまとめて団子にしたような、疫病神は逆に弾き飛ばされ、庭にぼてりと無残に放り出されたのだった。
 何事が起きたかと判じかね、ただ尻餅をついて見つめる若君を、今度は自らが庇うように、勇ましくうなり声を上げて身構える白い犬。

 こちらはあのヘドロがぶちあたったとは思えぬほど、闇の中でも自ら光を放っているかのような、美しい白い毛並みのままである。

 忌々しき神もまた、自らの身に一体何が起こったかわからなかったのだろう、おや、と首をかしげるかのように身をころりと傾かせたが、やがてこれをなしたのが、目の前でぐるぐると唸っている犬であると知って、怒りもあらわに起き上がる。

 あなや、忌々しき犬コロめ。
 我の邪魔をするでない、これなる妖怪と人の間の禁忌の子、神の名において封じてくれるのだ。

 無数の口が、男や女、老人や幼子の声で喚く。
 鞭のように手足をしならせ、鋭く白犬を襲った。
 しかし、それをひらり、と軽くかわしたこの白犬の身のこなしときたら、白拍子が舞う袖口が、気色ばんだ獣をいなすがごとくで、若君はただただ驚きながら、得体の知れぬ神と、白犬との対決に見入るしかない。

 疫病神が手足で打ち、この口から穢れた血反吐を飛ばして白犬を狙うのに対し、かの犬はひらり、ひらりとかわしてばかりいるように見えたが、かわしてばかりでは、いずれ疲れて押されるのは目に見えているのに、なかなかそうはならない。
 白犬は、何か不思議な力に守られているかのようで、疫病神の手足がすぐそこまで迫ると、その目前に、突如、大木が生えてこれをさえぎり、この大木を溶かすほどの穢れた血反吐が飛んでくると、白犬の背後から吹き上がった風が、これを押し返した。

 かと思えば何と、庭のしだれ桜がするすると、揺らしていた腕を伸ばしたかと思えば、疫病神をからめとり、縛り上げる。
 しかしこのときには、白犬の身からも、あちこち血が流れ、血反吐を被ったところは、黒く焼け焦げて痛々しいまでの様相。若君を守るために使ってしまった鏡の守りは、既に失われているらしい。

 くやしや、ただの犬コロに、こうまで辱めを受けるとは。
 しかし、犬コロめ、どこの下卑た土地神で、そこな小僧にいかなる縁があるのかしらぬが、貴様もずいぶんと、人に忘れられて久しい様子。ほれ、自慢の毛皮も、薄汚れてきたことよ。
 我はこの霊木に、このまま力を吸い取られて消えゆくだろうが、その前に、犬コロめ、貴様も同じ道を歩ませてくれるわ。

 しだれ桜の腕にぎりぎりと縛り上げられ、小さくなって消えていく疫病神の、怨念やすさまじき。
 苦しげな悲鳴や嘆き、呪詛をしきりにほとばしらせながら、この怨念が最後の力を振り絞らせたか、ほとんどその身から引きちぎらせながら、長く細い無数の手足を、鋭い矢のようにして白犬に降り注がせた。

 慌てて避けようにも、白犬はここまでで、全ての力を使い切ってしまっていた。
 よろり、とよろけて、横座りになってしまったかの犬へ、容赦なく、怨念まとった黒い矢が降り注ぐ。

 いけない。

 と思うや、咄嗟に、若君は濡れ縁から駆け下りて、懐から守り刀を取り出し、鞘走らせると、この矢の多くを切り落とした。それでも零したものは、若君が白犬を庇うように立って広げた着流しの袖から、立ち上った青白い炎が、ことごとく燃やして地に落としてしまう。

 くちおしや、くちおしや……。

 最後の力まで使いきり、疫病神は、もはやしだれ桜の縛から逃れる術なく、闇の中へ溶けるように霞んで消えた。


+++


 あとには、ゆらゆらと、風鈴のように揺れるしだれ桜の腕と、後の男君を思わせる、銀色の髪と、紅瑪瑙のような瞳へ変じた若君。
 小さいながらもそこにあったのは、まさしく、魑魅魍魎の主の血脈。

 護身刀を鞘に納め、懐に戻し、疫病神が溶けて消えた桜の一枝を、長くのびた銀髪をなびかせて、仇を見つけたように、じいっと睨みつけておられる。

 シロ、ありがとうな。撫でてやるから、こっちへこい。

 犬の体は大きいので、これが姿勢よくお座りしていると、まだ幼い若君などは、ちょいと背伸びしなくては頭の上まで手が届かないのだが、銀に変じた若君は、せいぜい偉そうに顎を引き、ごくろうだった、とでも言うような表情で、撫でてつかわした。
 すると白犬は、嬉しそうに尾を振って、べろりべろりと若君の頬を舐める。

 よせ、そうじゃれて、涎をつけるな。

 言いながら、懐かれて悪い気はしない若君は、犬が尾を振りじゃれてくるままにさせていたが、やがて犬の方から、若君の、己の毛並みをふかふかと撫でて、抱き寄せていた手が緩慢になったことに気がついて、その小さなかんばせを覗き込んだ。

 若君は、小さな唇をきゅっと噛んで、何か思いつめていらしたようだった。

 ……禁忌の子。人と妖は、結ばれてはならないのか?それは誰が定めたのだ。
 そうして、禁忌を犯したものは、罰せられなくてはならないのか?
 だから、父さんは殺されたのか?だから、オレはああして狙われたのか?
 じじいは、可愛かった息子を殺されなくてはならなかったのか?
 禁忌だとか、なんだとか、そういうのは、よくわからない。
 だって、オレは生まれたときから、こういう生き物なんだから。

 でもな。でもな、シロ。
 あれはオレの、父さんだったんだ。それでも、オレの、父さんだったんだ。
 優しかったんだ。強かったんだ。父さんのようになろうと思っていた。
 もう少ししたら、妖術の使い方だって、教えてくれると言っていたんだ。
 父さんが、殺されたんだ。死んでしまったんだ。
 ……もう、帰ってはこないんだ。

 くうん、と、白犬が鳴いた。
 やはり、さきほど庭から聞こえてきた優しげな声は、お前であったかと、若君は得心される。また、この場所がどういった場所であるのかも、薄々だが感づいた。
 ここは、若君自身が身を横たえている奴良の屋敷ではなく、あの疫病神やこの犬のような、神が通る道のようなところなのだ。そこに、この犬は招いて、お前は疫病神に憑かれているから、ちょっとだけそいつが席を外した今のうち、こっちへ来て隠れるんだよと、教えてくれたのだ。
 つまり、若君の母上も、初代総大将も、青田坊も黒田坊も首無も毛倡妓も納豆小僧も、雪女も、ここには誰もいないのだ。
 そう、誰も、いない。若君、と呼ぶ者も、ぬらりひょんの孫、と呼ぶ者も。
 であるからこそ、ここで若君は、ただ、父を失った子となった。

 ………う………っく………ぁ………。

 一度、声をもらしてしまうと、後から後から嗚咽は続いて、瑪瑙の瞳からぽろぽろと、若君は涙を零された。唇をへの字の結び、白犬の首にすがりついて、泣いた。
 若君がきつく力を込められても、白犬は嫌がらず、そっと若君に寄り添った。
 優しい母上を思いおこさせて、余計に哀しくおなりである。

 父さん。父さん。父さん。

 何度も父を呼びながら、やがて、若君が泣き疲れて、眠りについてしまうまで。
 しだれ桜が、優しく揺れていた。


+++


 次に若君が目を覚まされると、そこには雪女や他の縁深い妖怪たちの、心配顔が並んでいた。
 ぱちり、と若君が目を覚まし、熱にうかされた様子もなく、むくりと起き上がったのを見て、皆がほうと安堵の息をつき、雪女などは「若、若、ようございました、雪女は胸が潰れるかと思いました」と袖を濡らす。

 若君はまだ夢の中にいるような心地で、ここに白いわんこはいなかったか、と問われるが、皆、とんと心当たりが無い。
 顔を見合わせた後に首を横に振り、とにかく良かったと喜ぶ。
 熱が下がったばかりだから、父上のお見送りはいかがしましょうかと、毛倡妓などが心配するが、若君はこれを退け、雪女に身支度をお命じになった。

 夜は明け、霧が立ち込めて、朝だというのに、どこか陰鬱な気配である。
 奴良組の妖怪たちは、陰気よりも陽気を好むので、こういった霧やそれに隠れる陽などには、不吉を感じてならない。雨が降るならば降るで風情もあろうが、夜か昼かわからぬ様は、これから黄泉路へ赴くひとを、迷わせてしまうのではないかと不安にもなる。

 それでも、御山の廟へ棺を納めに行く刻限は、やがて訪れた。
 若君が、すっかり顔色も良くなって、朝餉もよくお召し上がりになったのを、初代御大将はことのほかお喜びだ。若君は、さっそく夢に見た疫病神と、不思議な白い犬のことを話されようとされたが、御大将の身の回りは忙しく、誰彼に呼ばれてすぐに行ってしまう。
 母上も同じく忙しそうにしていて、何より、突然の父の死のことがあり、少し痩せた御様子である。若君の熱が下がったことに安堵され、この上なく優しく話などされるが、あまりに痛々しいので、若君はすっかり口を摘んでしまった。

 そうこうするうちに、屋敷から御山へ赴く準備が整い、御車に父上の棺を納めようという頃になった。
 黄泉への道行き、倅が迷ってはかなわないから、霧が晴れるまで少し待とう、と言ったのは、残された御大将の親心であったろうに、これを嘲笑うかのように、霧は一向に晴れる気配が無い。
 さては夢の中の疫病神の腹いせだろうかと、若君が心細く思われ、屋敷がある場所から坂下の、中心街の方に霧の尻尾でも見えないか、門構えからひょっこり顔を出された。

 やはり霧は深く、べっとりと重いので、仕方ない、そろそろ出立しようかと御大将自らが決断された。
 若君は哀しく思われて、今すぐに霧が晴れてくれないものかと、門の向こうをさらに見つめられる。
 すると、どうだろうか、若君が見つめるその先、霧の衣の向こうから、トコトコと、あの白い犬がこちらへ向かってくるではないか。

 あ、あの白いわんこだ!

 若君は、御車に乗ろうとしていた母上の呼びかけを背中に、その白い犬へ駆けて行き、しげしげと眺められる。
 白い犬は、口にそっと何かをくわえていたが、それでも夢の中でしたように、若君を優しく見つめて、くうんと鳴き、若君を慰めるように、額のあたりを、若君の胸元にこすりつけてくる。まさしく、あの白い犬に違いなかった。

 やっぱりお前だった。昨夜は助けてくれて、ありがとう、わんこ。

 夢の中でそうしたように、白い犬の額をなでなでとしてから、若君はこの犬を屋敷へ招き入れるために先導した。

 この犬を見た途端、ずざ!!!と後ずさったのは、小物妖怪ではなく、むしろ御大将を取り巻く幹部級の大物妖怪たちだった。御大将自身こそ、さすがに目を見開いただけであったが、余所者の出入りを食らったかのような顔色をして、これを睨む。
 小物妖怪たちは理由がわからず、妙な、ポアっとした顔の犬が迷い込んだものだと思うばかり。
 若君がきょとりと可愛らしく首をかしげて、皆のこの怯えようは何事だろうと思う脇を通り過ぎ、珍客は何事もなかったかのように、やはりトコトコと軽い足取りで、父上の棺の側に佇む母上のもとへと参った。

 あら……そう、あなたも悼んでくれるの?ありがとう。

 人の身である母君には、この白い犬が何物であるのかなど、もちろん見当もつくまいが、それでも犬がくわえていた、リンドウの花を受け取ると、これを二代目の棺の上に捧げたのだった。
 母上が、そっと白い手で、白いリンドウを捧げるのを、白犬は行儀良く座って見つめていたが、いよいよ花が母上の手を離れてしまうと、鼻先を天に向け、朗々と、歌うように遠吠えをあげる。

 オォーーーーー……ン…………

 天に響く、悼む声。
 これには、さしもの大物妖怪たちも胸をつかれ、牛鬼などは、趣深いこの様子に、そっと顔をそむかせ、知られぬうちに目をしばたたかせた。

 この遠吠えの声が、余韻を残して消え行くと同時、なんと、あれほどねっとりとして絡みつくようであった霧が、瞬く間にさあと引いていくではないか。
 やがて、気持ちの良いほどの光でもって、陽が世界を、遍く照らし出す。
 皆がこれに気を取られているうちに、白い犬はさっと身を翻し、門構えを潜って奴良家を去った。

 あっ、待ってよ、わんこ!

 若君が追ったが、白い犬はそれほど早く歩いていなかったはずなのに、門を潜ったそのとき、かき消えてしまったかのように、もうどこにも見えない。
 ただ、どこからか、がんばれ、と、声が聞こえた気がした。

 がんばれ。がんばれ。見てるから、ちゃんと見てるから、がんばれ。

 探すあてを失って、きょろきょろとする愛孫を、御大将が優しく呼ばわれて、あやつとどこで知り合ったのだ、と尋ねられる。ここで初めて若君が、昨晩の不思議な夢、疫病神と、これを打ち払ってくれたあの白い犬のことを詳しく話されると、やはり目を丸くされたが、やがて、懐かしむように目を細められた。

 ――― 妖様、伊勢へ参りませんか。
 ――― は、伊勢じゃとぉ?!それはまた大きく出たものじゃな、珱姫……。敵の総本山へ乗り込めと。そうかそうか。それでこそ、このぬらりひょんの妻じゃ。
 ――― そうではありません!……あのあたりに咲く桜は、それはそれは見事なのだと聞きますし、子が生まれたのですから、お伊勢さまへお札を納めに行って、ご挨拶してまいりませんと。敵だなんて、会う前からそうお決めになるものではありません。
 ――― あいさつ、ねぇ……。ハハハ、妖怪の総大将が、神さまの総本山にごあいさつたぁ、ちょいと頓知がききすぎちゃいないかのぅ。門前払いをくらうのがオチではないか?
 ――― いいえ、妖様、あなたも私も、きっと歓迎してくださいますよ。この子が大きくなって、また誰かを娶って、そして生まれてくる子も、きっと。妖怪だとか人間だとか、そんな小さなことを気にされる方ではございません。
 ――― ……まるで会ったことがあるようじゃの。
 ――― あら、お話したこと、ございませんでしたか?桜餅が大好きな方ですのよ。

 若き日のある日、珱姫とかわした、何気ない会話が思い起こされる。結局、珱姫のおねだりに否と答えられるはずはなく、彼女を抱えて人のふりをして、伊勢にぬらりと入り、くらりと札まで納めてきた。
 会ったことがあるなどと、桜餅が好きな方などと、素直で嘘をつくなど思いつきもしなかった珱姫が、面白い冗談を言うようになったものだとそのときは思ったままだったが、もしかするともしかして、あの傷を癒す神力を持った姫のこと、人であるより神に近かった身なればこそ、まさにあのとき、本当のことを言っていたのかもしれぬ。

 そうなれば、妖怪と人との血脈を継いだがゆえに、神仏の加護などとても求められぬ儚き身なのであろうとばかり思われた、愛孫の身を守る力の、なんと強いことか。
 そうか、これが、子を孫を、慈しむということであるのかと、守られた愛孫を見て感じ取り、御大将は去ってしまったあの白犬に、立ったまま、深く一礼したのだった。人の血を引くことは、決して弱みにはならぬ。妖怪の血を引くことが、加護を失くす理由にもならぬのだと、長く生きてようやくここで心得られた。

 おじいちゃん、あのわんこ、知り合い?また会える?

 などと無邪気に問うてくる、愛孫の頭をそっと撫でてやり、ああ、いつだって会えるとも、と、天を仰ぐ。

 どれほど夜の闇が深くとも、朝が来れば、ああしてお天道さんがお前を照らすじゃろう。
 夜はお前の側の妖怪たちがお前を守るだろうし、朝はああしてお天道さんが、いつでもどこでもお前を見て守っておる。お前のばあさんが、よく言っておったよ。
 遍く照らします大神さまは、たとえ妖怪だろうと人間だろうと、この世に住まい営むものを、決しておろそかにはされぬ、とな。

 ふうん、あれ、わんこじゃなくって、おおかみだったんだ。

 や、そうじゃなくて。……まあ、よいか。
 リクオ、おおかみさんに助けられた命じゃろう、しっかり離さず握りしめて、おおかみさんに恥ずかしくないよう、強くなんな。

 うん、と頷いた若君は、少し大人びたように思えて、二代目を失った悲しみはまだまだ癒えぬけれども、その中に少し、御大将は慰めを見出だされ、いつもより優しく、若君の髪を撫ですいて、そっと背を抱えて門の中へ入る。

 あのおおかみ、お腹が減っていなかったかなあ。
 あんなに、たくさん戦ってくれたのに、何も御礼をあげられなかったよ。

 お優しい若君が、それでも気にされた様子で言うので、御大将は、そうさなぁ、と応じた。

 今度きたときは、桜餅でも差し上げたら喜ぶのではないかのぅ。


<了......20101025〜20110419まで拍手掲載作品>









...其は遍く照らす大神と...
見ています。あなたを見つめています。見守っています。
人が闇に恐れを抱くばかりでなく、そこに浮かぶ月に慰めを見出すように、妖もまた、光に恐れを抱くばかりではないでしょう?
ね、だから、がんばれ、ぬらりひょんの孫。










アトガキ
白いわんこ=アマテラス((c)カプコン)
「大神」とゆーアクションゲームを知らない人にも、白いわんこがそういう存在だとわかるように書けたかな。
コラボって両方の話を知らないと判らない……というのがほとんどなので、書くときには避けるようにしてるんですが、アマテラスとか独眼竜って誰でも知ってるからいいかなぁ、と、自分に甘くしてみた結果こんなお話になっちゃったゴメソ。

木公とゆー人間は概ねゲーマーで最近はアクションばっかやってますが、このゲームは何度もやりたくなるですよ。
アクションゲームのくせにラスボス戦で鼻水かむまで泣かされたのは初めてだった。
ぶふーってかんだ。ぶふーって。アクションのくせに涙で前が見えないとかどうなの。
節電意識高くて今はゲーム封印中ですが、こういうときは書物って偉大ね。

ラスボス戦のミュージックタイトルもまたいいんですよ。打ちひしがれたときに聞きたくなるし、言いたくなる。「陽はまた昇る」って。
がんばろう、日本。なに今はもうがんばれないだと?そうかじゃあ休め。大丈夫だ、陽はまた昇る。