花の御江戸は賑やかしきり。
 街中と言えばもちろんで、道の脇、橋のたもとなど、人が集まりそうなところには、町人たちが、口に入れる物からちょっとした身を飾るものまで、敷物をしいた上に品を並べて、通りすがる人がこれに時折足を止めていく。

 しかし、いつの時代も無骨者、横着者はいるもので、今日も、前触れもなくどうどうと橋を渡る音が轟いたと思ったら、橋を渡る人々を無理に避け、橋の欄干にかかるところにまで及んでいた品々を蹴散らして、彼等の悲鳴を後ろに何の詫びもなく、立派な馬に乗った、良い身なりのお侍方が数人、まっしぐらに城へと向かっていった。
 きゃあ、わあ、という、下々の者たちの悲鳴など、怪我人がなかったのなら犬猫の鳴き声と同じだと思っているらしい。

 いつもなら、こういう時にはすぐにも感づいて、誰より早く飛びのくのに、今日は考え事をしていたのと、またいつになく橋に近い良い場所を取れたせいで逃げ遅れた、一人の町人の娘があった。
 もう目の前に馬の足があるというところでようやく目を見開いたが、これを風のように横抱きにして脇に避けてもらったところで、命拾いをした。
 何が起こったのかわからず、目をぱちぱちさせていると、己を横抱きにしたそのひとが、優しく声をかけてくる。

「怪我はない?」
「 ――― あ、はい。大丈夫、です」
「よかった。お店のものは ――― 大丈夫そうだね。でも、気をつけて。ようやく訪れた天下泰平とは言え、乱暴者がいなくなったわけじゃない。立てる?そうか、よかった。後でどこか痛くなったら、早めにお医者にでも、見てもらうんだよ」

 娘がきょとんとした顔で、ろくに礼を言えなかったのも、無理は無かろう。
 これを横抱きにしたのは、娘よりも少し小さな、面立ちにはまだ少女のような柔らかみを帯びた、童子であったのだから。
 だがこれの話すことやちょっとした所作、着物の袖や裾のさばき方と言ったら堂に入ったもので、身分の高い方なのだろうとお見受けする。身に着けている着物は、戦場の武士のものではないと思ったが、かと言って町人のそれでは決してない。袴をつけ、その上からすっぽりと水干を着ているのだが、これが麻や綿といったものではなく、ほんの少し胸に抱かれた肌触りによれば、これが絹というものなのだろう。
 この童子はどこかの、公家などの使いの方なのかもしれないとも思えたが、髷はなく、稲穂のような色合いの髪を、首のあたりで短く切って、風に靡くままにさせている。瞳はこれまた、陽の光を照り返す、妖しい瑪瑙。この二つ、まさしく異相。
 娘がきょとんとしている間に、童子は一つ微笑むと、そっと娘を腕から放して、あとは振り返りもせず、小脇の荷物を大事そうに抱えながら、橋を渡って行った。

「あの小僧っ子、どこの子だい」
「ほら、あれだよ、外れの妖怪屋敷のお姫様の」
「ああ、お姫様と和子様の」
「はいはい、珱姫様と鯉伴様ね」
「あそこの妖怪屋敷ときたらほら、連中、あのお二人の他は ――― いや、苔姫様は別だけどさ、文字通り妖怪だらけだろう?姫様たちだって文字通り、やんごとなき出自の御方だっていうんだから、やや子の面倒みられる人なんて、誰もいないじゃないさ。
 人間のやや子の面倒なんて、どうすんだろう、気の毒とは思うけど、いくら気のいい連中と言ったって、一つ屋根の下で面倒みる乳母のなり手なんてあるのかねえと思ってたら、最近、あの子が屋敷に出入りするようになってさ」
「どっかから浚ってきたのかい、あんな小さい子」
「あの子も妖怪なんだろ、きっと。でも、人に詳しい妖怪さ。あれこれと、珱姫様や苔姫様、それに鯉伴様のご面倒を見ているらしいよ」
「へえ、あんな小さいのに、きっと年経てるんだねえ。なんて妖怪だい」
「さあねえ、あの屋敷の妖怪たちも、実をいうと何の妖怪だか知らないらしいけどね、この前あたしンとこに使いに来た一つ目小僧が、『リクオ様』って名で呼んでたねぇ」
「たかが使いの小僧に様づけするかい。そりゃあきっと、とんでもない御力の持ち主なんだよ」
「カナちゃん、あんたこれを機会に、そのリクオ様と、お近づきになったらどうだい。なかなかイイ面立ちだったじゃないか。相手が妖怪だったってさぁ、当世風の男どもより、きっとよっぽど筋が通っててイイ男に違いないよ。あの奴良屋敷の主様と珱姫様ときたら、本当に仲睦まじくて妬けちまうもの」
「うんうん、あの主様ねぇ、あたしがあと十年若かったら、放っておかなかった」
「あんた、十年前、もう今の亭主がいたじゃないか」
「きっと捨てちまったよ、あんな宿六!」

 わはははは、と、女が四人も集まれば、話は尽きることなく、これに、カナ、と呼ばれた娘もまた、おかしくなって笑顔を見せる。いくらか散らかった品を並べなおし、落ち着きを取り戻して、往来の人々に明るい声をかけると、器量のよさと明るい笑顔が手伝って、品は飛ぶように売れた。
 空になった籠を背に、周囲の女たちへ挨拶をして、日が暮れる前に橋のたもとを後にすると、家へ帰る途中、ぽつり、少女の唇が、その名を思い出す。

「 ――― リクオ様、か」

 呟いてから己に気づき、ぽっと頬が染まったのは、何も夕陽のせいだけではあるまい。


+++


「珱姫様、苔姫様、リクオ、ただいま戻りましてございます。お言付けいただいた通りの物と思いますが、なにぶん不慣れなものですから、お手すきの際にでも、ご検分いただければと存じます」
「おぉ、リクオ、戻ってくれたか!鯉伴の機嫌の悪さに辟易としておったところじゃ、そんなところにおらず、はようこちらへ。ほら、はようはよう!」
「は ――― でも」
「いいのですよ、リクオさん、そんなにかしこまらないでください。頼んだものも早速、見せていただきとう思いますし、こちらへいらっしゃいな」

 使いの童子がするように縁にも上がらず、庭に控えたまま、リクオが声をかけると、御簾が垂れた部屋の中から、どこか切羽詰ったような苔姫と、いつもながら春の陽中のようにのんびりとした珱姫さまの声が、これを招く。
 女性が御簾を下しているところに、そうずけずけと入ってくるものではないわ、このエロ妖怪どもめ!と、苔姫が箒を振り回し、屋敷の小物たちを部屋から文字通り掃きだされておられたのは、つい昨日のことだし、以降、小物妖怪たちは部屋の前に箒があるとおそれて入ってこない。
 ちらとリクオが視線をやると、その箒は今も御簾の傍にちょんと置かれているので、男子たる自分は入ってはいけないのだな、と、判じたのだが。

 これを述べると、苔姫が、「リクオは別じゃ」と拗ねたような声で言うので、男として認識されていないのかと少しばかり自嘲しながら、それでも周囲を気にしてそろりと縁を上がり、風で御簾が吹き上がったところに、滑り込むようにして入った。
 と、苔姫が、抱いた和子さまの小さな手から、顔をのけぞらせて渋い顔。和子さまは、苔姫の顔の何が不思議なのか、まだ伸びきらない腕を精一杯うーんと伸ばされて、届いた途端、万力のようにこれを挟み、それできゃっきゃと喜ぶのならまだ可愛げもあろうに、何が気に食わないのかまたぱっと手を離して、忘れた頃にまた、苔姫の頬を掴まれようとする。

「リクオ、何をぼうっとしてさぼっておる。鯉伴をあやせ。妾はもう、腕がしびれた!」
「はい、では、失礼いたします」

 と、苔姫の腕からリクオが和子さまを受け取ると、ようやくきゃっきゃと和子さまの顔はほころび、苔姫はほうと息をついて、大人がするように肩に手をやってほぐしている。

「なんじゃ。妾がこんなに一生懸命あやしてやっておったのに。リクオの腕の方が心地よいと言うか、鯉伴め」
「苔姫さまの腕は、女性らしくなよやかですから、たよりなさを覚えるのでしょう。和子さまが苔姫さまの魅力に気づかれるのは、きっともう少し先のことになりますよ」
「う、うむ。それは仕方ないな、やや子だもの。リクオはようわかっておる」
「恐縮です」

 やや子をあやすために、体を揺らしながら応じていると、和子さまは苔姫の腕の中で遊び疲れていらしたらしい、ほどなくして、うとうとと瞼を閉じられた。苔姫も、見ている分には和子さまをいとしく思っておいでなので、和子さまの寝顔に、ほっとした笑みを浮かべる。
 この様子を、三人の母のように畳の上から見つめていたのが、屋敷の奥方、珱姫さまであらせられる。

 珱姫さまは、リクオのかわりに苔姫が受け取り差し出した包みを検分し、間違いなく頼んだ漢方薬であるとわかると、しっかりと頷いた。

「どうもありがとう、リクオさん。これに間違いありません」
「お役にたてましたなら、何よりです。昼日中に、小物とは言え妖怪たちを、街に使いに出すわけにはいきませんものね。また何かありましたら、お気軽にお申し付けください、珱姫さま、苔姫さま」
「しかし、あまり離れられるのも困るぞ。それは、こういったときは仕方が無いが、鯉伴は妾の頬を玩具か餅と勘違いしておるから、あまりリクオが離れると、妾の顔が醜く歪んでしまう。これ、笑い事ではないぞ!」
「では、今度のお使いの折には、苔姫さま、それほど遠くないところにありますし、珱姫さまにお許しいただいて、一緒に参りましょうか」
「うむ、いいな!それはよい!あ、でも……珱姫さま、よろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん。その間くらい、鯉伴は私が見ていますもの。私に遠慮せず、今度二人でお散歩でもしていらっしゃいな。ちょっと遠いけれど籠を使って、今戸神社にでも赴いたら、あちらも今は桜が見頃だというし、それに ――― 」

 珱姫さまが苔姫にだけ、なにやらひそひそと耳打ちしたところ、苔姫はぽっと可愛らしく顔を紅く染めて、そのままリクオに向き直る。

「うむ、そうしよう、明日にでも行こう。な、リクオ!」
「え?それはまた、突然ですね。珱姫さま、何か大事な御用でも?」
「ええ、それはそれはもう、大事な御用ですとも。ね、苔姫」
「はいですとも!」
「それにリクオさん、この屋敷に来られてから、ちっとも休むことなく働かれておいでですよ。妖怪の方々もそれはもう、なにくれとなくよくしてくださっていますが、ほんの少し目の届かぬところまで、リクオさんがまかなかってくださるので、すっかり皆、頼りにしてしまっています。
 でもその分、ご自分のお休みもなく打ち込んでしまわれるのは、あまり良くありません。時には街のことなど見やりながら、風情を感じておいでなさい。その調子では、帰る場所だけでなく、巡る季節のことまで、お忘れになってしまいますよ」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。しかし、何かしていた方が、何だか安心なのです。そうしないと、万事が夢の中で、ぼんやりしているような気がして、時折、自分が何故ここにいるのか、不思議に思うこともあるくらいなのです」
「……そんな、哀しいことを仰らないでください。貴方のことは、どうも他人だとは思えないような気持ちなのです。私だけではありません、鯉伴も、苔姫も、主さまも、そう思っているのですよ。他の妖怪たちだって、今はもう、貴方のことを慕う者だってあらわれているでしょう。どうか私たちを家族だと思って、末永く、この奴良家においでなさいな」
「そうだぞ、リクオ。何も遠慮することなどないのだ。ここを家だと思えばいい。ここを帰る場所にすればよかろう。なあ、そうしてたも」

 ここではないどこかが恋しいなど、そういう意味で言ったわけではないのだが、不用意な己の一言に、心優しい姫君たちを悲しませてしまったらしいと知るや、リクオははたと我に返って笑った。こみ上げる苦さを感じさせぬ、優しい笑みであった。
 文字通り、リクオはここが現でないような、夢の中であるような、そんな心もちがしてならなかったのである。それほどの修羅を潜りぬいてたどり着いたのだ、と、奴良一家の妖怪たちや姫君たちは解釈してくれているようだが、そうなのかどうかすら、よくわからない。

 この場所の居心地が悪いかと言えば、そうではない。
 むしろ、我が家のようで居心地が良いし、人の身の回りのちょっとした世話をするのも、別段、苦にならない。ここへ来る前の自分も、おそらく、同じようなことをしていたのだろうな、と思う。ただ洗濯で手が冷えるのは苦手なので、これは自分でやっていなかったのかもしれない。
 帰るあてもなければ、追っている敵があるわけでもないので、皆の言葉に甘えてずるずると居座っている。
 これが良いのか悪いのかも、リクオにはわからない。
 苦く笑いたいが、これをするとまた姫君たちを悲しませるので、心を尽くして微笑むばかりだ。

「はい。ボクも、総大将や珱姫さま、和子さま、苔姫さまを、大切に思っていますとも。夢のように消えるなど、不義理は決していたしません」
「それなら良いのだがのぅ。リクオはほれ、夢のように現れたから、また夢のようにいつか消えてしまうのではないかと、妾は不安でならぬ」
「そのようにご不安な顔をなさいますな、苔姫さま。お部屋から真珠の涙が見つかったら、一ツ目入道様にボクがどやされます」
「ならば明日、供をせよ。よいな」
「承知しました、大事なお使いですからね」
「うむ。大事も大事じゃ」

 童女のようにはしゃいで笑う苔姫、微笑む珱姫、人の気配に敏感な和子さまも、リクオの腕の中で安らかに眠りながら、くすくすと笑っている。

 人の世の乱れも、徳川家が安寧に導いたおかげでようやく太平の世となり、たしかにこのように安らかな時代で、このように優しい家族に囲まれて暮らしていられたなら、それこそ夢のような日々となろう。
 ぼんやりとした不安を、胸の内から拭い去ることはできなかったが、今は少しこれを忘れて、ここに留まろうと、リクオは決めたのである。



+++



 実を言うと、リクオがいつこの奴良屋敷に来たのか、はっきり心得ている者は無い。
 とある日の黄昏に、舞い込んだ梅の香に紛れて、ふらりと屋敷に上がりこんだと思ったら、勝手に茶をすすっていた気がする、と、誰かが言ったが、まるでそれじゃあ総大将だろうが、と、誰かがこの噂を打ち消した。すると、後はもう、いつ、どこから、と、知る者はなかった。

 リクオがこの屋敷にいつから住み着いたのかは、このように定かではないが、しかしこの屋敷の主、総大将ぬらりひょんがこれを許した日のことは、知らない者はない。

 そのいきさつは、こうだ。

 皆がはたと気づいてみると、屋敷に上がりこんだときと同じように、リクオはいつしか妖怪たちの心の中にも既に上がりこんでおり、夜が更け、朝が訪れ、日を追うごとにうちとけてくる。
 すると、奥の姫君たちがこれを見つけて、珱姫も、あれ、主さまが人の童子をお雇いあそばしたのかしらと思って、最初はこの文をどこそこの誰それへという小さな御使いから、次はこの辻の先の店で、これこれこういった香を買ってきてちょうだいというものを言いつけてみると、何を言いつけてもそつなくこなす上に機転もきくので、次第に重んじるようになった。

 そんな日がいくらか続いた頃、小物たちの悪戯に陽気に笑い、一緒になって遊んでいると思ったら、これらをたいした役にもたたぬごくつぶしなどと呼んで、総大将の居ないところで、己の愉しみのためだけに小物たちを痛めつけようとする不穏な大物妖怪たちには、大きな瞳できっとこれを睨み上げ、少しも物怖じするところがない。
 目の前に立ちふさがる小生意気な小僧を、その背中や足元にしがみついて、ぶるぶると震えていた小物妖怪たちごと潰してくれると、その大物妖怪たちは頭に血をのぼらせて、自慢の金棒を腰から引き抜きぶん回したが、これがいっこうに当たらないのだ。
 ひらり、ひらり、と、すばしっこい身のこなしに、しまいには足をとられて尻餅をついてしまった。
 すると、咲いた花に降り立つ胡蝶のように、握ったままの金棒に、リクオがふわり、降り立った。
 ひやり、と、その大物妖怪は、額に汗が伝うのを感じ、己が目の前の童子を、《畏れ》たと悟った。

 実をいうとこの大物妖怪たちは、奴良組の威光を聞いて総大将にご挨拶に来ていた鬼の衆たちだったので、大きな物音に奥から他ならぬ総大将が、その辺りの壁や戸の破れように気づかぬはずもないだろうに、「なんだい、すねこすりが悪さをしたかい」とニヤニヤしながら歩んでくると、まさか己の金棒を屋敷の中でぶん回していたなどと申し上げられずに、こそこそと屋敷を後にした。

 そこでようやくリクオに気づいた総大将は、「お前のようなやつ、ワシの百鬼夜行の中にいたかのぅ」と、それこそ末端の小物たちにまで親しげにしているからこそ、見慣れぬ顔と思って、訝しげに顎を撫でながら首を傾げた。
 リクオはあらたまって、この場に膝をつき、しゃんと背筋を伸ばして、下から申し上げる。

「関東大妖怪奴良組一家、御大将ぬらりひょん様とお見受けいたします。お初にお目にかかります、私はリクオと申します。つい数日前、誰に招かれたわけでもありませんが、なんだか懐かしげな気配がするし、ずいぶんと腹も減っていましたし、喉も乾いておりましたので、勝手口からあがらせていただいて、今日まで過ごしておりました。
 いただくばかりでは心苦しいので、奥方様や姫君様の昼の御用や、台所など奥向きの御用など、皆様の目の届かぬところ、手の届かぬところなどを仰せつかっております。この屋敷の下働きのような者だとお思いください。
 なにとぞ、今後ともよしなに」

 悪いが、勝手にあがらせてもらってるぜ、と、言ったことなら数知れず、言われたのは初めてで、しかも慇懃ではあるが今後もお世話になりますなど、許したわけでもないのに、にっこりと笑われてしまったので、奴良組総大将、そしてこの周囲を取り巻いていた幹部達、きょとん、と、目を丸くした。
 一瞬の後、幹部達の鬼気たるや、それまでリクオにしがみついてなついていた小物たちが、いっせいにひいっと悲鳴をあげて、天井裏や床下に、潜り込もうとしたほどだ。

 だが、リクオは笑ったまま。そして、これに対する総大将は、鬼気迫る幹部達に囲まれながら、腹を抱えて笑っておられた。

「おうおう、なんだ、面白い奴じゃのう!そうかそうか、腹が減って喉が渇いたところに勝手口が開いてたかい。そりゃあ、入れと言っているようなもんじゃのう。うん、そうじゃ、当然じゃな。そうなると、ワシが招いたようなもんじゃ。リクオと言ったかい。うん、憶えたぜ。まあ、一つよろしく頼むわ。好きにくつろいでくれ」

 総大将は、従える百鬼の顔を、一つたりとお忘れにはならない。顔が二つある者なら、それぞれの顔のどちらに黒子があったかも、きちんと憶えていらっしゃる。
 リクオ、という名と、にこやかながら凛とした面差し、稲穂色の髪に瑪瑙の瞳、童子姿のこれを、しかと憶えたぜ、と総大将が言ったのは、この屋敷の中でもし誰かが、リクオに害をなしてこれを消したなら、消した誰かに咎めがあるぜ、という意味である。
 これによって、幹部はもちろん、本家に出入りする者どもの誰も、リクオに害をなすことはできなくなった。

 こうしてリクオは、奴良家屋敷の客人として、あるいは総大将ぬらりひょんの百鬼夜行、そのひとりと数えられることとなった。


+++


 怪しい奴には違いないが、たいした力を持っている様子もないし、もしかしたら人間なのかもしれないし、たとえ妖怪であったとしても、小物たちがああもこわがらずに懐くのだから、それほど強力な通力も持っていないのだろうと判じると、最初は訝しく感じていた幹部達、少なくとも表立っては気に留めなくなった。
 珱姫が袖口のほつれに気づいて、替えの新しい着物を与えるまで、着流しを着たきりでいたところを見れば、どこかから焼き出されてきたのかもしれない、昔を語らぬところを見れば、酷い目に合わされてきたのかもしれないと、次第に同情を寄せる者もあらわれる。

 互いがどこか似た面立ちであることから、他人のような気がせぬのか、珱姫さまも、和子さまと苔姫とあわせてリクオを我が子のように可愛がるのだが、これを当然のことと思わず、必ず一歩引いたところに控える様子がいじらしく潔く、童子姿であろうとも、一本筋の通った任侠だ、和子さまにも末はああなってもらいたいものだと、一ツ目入道などはかりかりぽっぽとしきりに感心しているほどだ。

 ところが、これを面白く無しと判じる者もある。
 総大将が羽衣狐を下した後、奴良組に入って盃を交わした者たちだ。
 ぬらりひょんと羽衣狐、勝った方につけばよしと日和見を決め込んでいた我が身は棚に上げ、その者等は、総大将と盃も交わしていない末席の分際のリクオが、総大将や奥方等の、覚えめでたいのが気に食わない。
 珱姫や苔姫が、あれこれと身の回りのものをつかわしてやっているのも気に食わないし、他ならぬ総大将から、使い古しとは言え御自らの匕首を、「丸腰とは懐が落ちつかないじゃろう、ホレ、これを使っておれ」と授かったと聞けば怒り心頭。
 大掛かりな出入りができず身を小さくしているばかりの小物妖怪たちから、小さな大将、小大将とちやほやされて、「御名を呼び捨てになどあるまじき。リクオ様とお呼びしよう」ともてはやされているとなれば、我慢も限界。
 さすがにそれはとリクオが、これは分際を心得ていたか制したので、少しは溜飲も下がったが、下がった分、倍に上げたのがこれに対する総大将と珱姫の、止まるを知らぬ夫婦熱。

「おうおう、そりゃあいい、《小》大将とは頓知がきいてらぁ。リクオ、いや小大将殿、今度の祭りの日にでもお前を先頭に、小物だけで夜陰を練り歩いちゃどうだい、きっと可愛らしいと、街の奴等、歓迎してくれるに違いないぞ」
「まぁ、妖さま、それはようございますわ。どうしましょう、その晴れの舞台には、何を着させましょう。いつもの水干袴では物足りないわ、烏帽子など作らせましょうか。京扇子に黒手甲、一本歯の下駄などあれば、それはそれはかわいらしゅうてならなくなるでしょう。ね、リクオさん、そうなさいな」
「これこれ珱姫、今はリクオではないぞ、小大将殿じゃ」
「あらごめんなさい。ね、是非その晴れ姿、私に見せてくださいませな、小大将さま」

 酒の席の冗談や絵空事の類とは言え、だからこそこんなことは小さきことと総大将はこだわらず、明日から胸を張って奴良組小大将を名乗れなどとからから笑ってすませておしまいなので、ことの次第をつぶさに聞いた新参の貸元ども、これにて堪忍袋の緒が切れた。

 もともと悪事を尽くすが本分の、闇に棲まう者どもなので、これらは街の外れの破れ寺で膝を寄せ合い、この、人とも妖怪ともつかぬ怪しげな童子を、喰らうか、引き裂くか、呪い殺すか、生死はともかくいかな方法で追い出してやろうかと、よもすがら悪巧みに余念がない。リクオへの恨み辛み妬みを、酒臭い息とともに違いに吐き出しながら話し合っていると、酒気も手伝って、次第にリクオをどうしてやろうかといった話題は、次第に、「あのような小僧をとりたてて、盃を交わした我等をないがしろにするつもりなのではあるまいな」などと、いささか乱暴に矛先を総大将へ変えた。
 とは言え、一度は盃を交わした相手。いつかは上手く寝首をかいて、総大将の座と、この《畏》を奪ってやろうと企んでいるとは言え、あの羽衣狐を打ち破った者とくれば、正面切ってことを構えるなど分が悪すぎる。

 結局この野郎どもは、恨み妬み嫉みを肴に破れ寺で毎夜のごとく、鬱々とした宴を開いているだけに過ぎなかったのだが、ここへ、今夜は、誰かがこう囁いた。

「のう、奴良屋敷のあの糞餓鬼だがよ、明日、苔姫とかいうあの屋敷の小さい方の娘と、どこぞへ出かけると聞いたぞ」
「なに、女を侍らせてお出かけとは、まったく、童子姿は特なものよな。昼日中に街へ赴いたとて、誰も咎めぬし、そこでいくらでも物色できるというのに、足りぬというか、強欲な奴よ」
「その話、俺も聞いたぞ、なんでも、今戸神社へ行くとか言うたか」
「縁結びの社ではないか。なんじゃ、ちびっちゃいの二人で逢瀬か?いい気なもんじゃ」
「どうじゃ、あの糞餓鬼が屋敷を遠く離れるなど、滅多にないことじゃし、そのちびっちゃいの二人、出かけた先でぺろりとやっちまうわけにはいかんか」
「ぺろりとか」
「ぺろりとよ」
「それはいい」
「それはいい」
「おっとその前に、ちょいと愉しませてもらうぜ。童女の泣き叫ぶ声はいい。それに、死ぬ前に女の悦びを教えておいてやらんとなぁ」
「それなら、おいらはあの童子の方がよい。すまし顔がどんな風に歪むかよ」
「おめぇの稚児趣味も、いつもながら酔狂だねぇ」
「しかし、待て待て、総大将が顔を憶えた身内は、総大将が従える百鬼の一。それを減らせば我等にも咎が及ぶぞ、なんとする」
「うむ、咎を被るどころか、これをついでによ、総大将の《畏》も奪ってやろう」
「なんと、性急ではないか。急いてはことをなんとやら、と言うぞ」
「虎穴に入らずんば、とも言うだろうが。いつかやらねばならぬなら、あのやや子が育って二代目になんぞなられてからでは、遅かろうもの」
「一理ある。ならばなんとする」
「そうさなあ、ではこういうのはどうじゃ。屋敷の大物妖怪の中にな、やはりあの童子を、人か妖怪かと怪しく思っておる者がおるから、そやつに、明日、今戸神社であの童子を試そうと思うがどうかと、持ちかけるのよ。そう、このようにな。
 我等があの二人を襲う、手加減はするが、苔姫を守ろうとすれば、童子もいつかのようにひらひらと、牛若丸の真似事をし続けることもできまい。きっと我等と本気で《畏れ》をぶつけ合うことになるだろうから、彼奴めが妖怪ならば妖気たちのぼるを目の当たりにできようし、彼奴めがもし人ならば、少しばかり痛い目に合うことになろう。なに、総大将の御ためを思うからこそよ。得体の知れぬ輩を、お傍に置いておくわけにはいくまい。
 ――― こう言っておけば、総大将大事の屋敷の奴等など、ほいほいついて来よるわ。そこで、こやつを糞餓鬼や童女もろともに皆殺しにしてしまう。なに、総大将あっての百鬼夜行じゃ、これを離れた鬼の二、三匹、ワシ等で袋叩きにしてやれば、屁のつっぱりにもならんよ。
 あとは屋敷に残る奴等じゃが、これには、今戸神社で苔姫やあの小僧がどこぞの大物妖怪に襲われておると、知らせてやればいい。シマを荒らされておると思えば、大物妖怪どもめ、肩で風を切ってあらわれるに違いないわ。
 手薄になった屋敷を、ワシ等の総力で叩く。そこに総大将が残っていようが残っていまいが、相手は人の女子供を庇って戦うことになるじゃろう。ヒヒヒ、あちらは分が悪い戦いを強いられようなぁ」

 なるほど、なるほど、と、闇の中でいくつもの頭が目配せ合い、頷きあう。

「行こう」
「行こう」

 そういうことになった。