「そっち行ったよ!」
「それ、逃がすな!」
「こいつめ、ふわふわと!」
「ギャアアァァ!堪忍して!堪忍して!つい!お腹が減ってて!!」
「腹が減ったですまされると思ってか、てめぇ、雑巾にしてやる!!そこへなおれ!!」
「イヤアァァァ!!しどい、しどいわ!!絹を雑巾になんて贅沢すぎるじゃない!!」

 上を下にの大騒ぎ。
 この渦中にあるのは、殺気立った鯉伴さまと、とある一匹の妖怪だった。

 鯉伴さまの、長く伸びた黒い髪、ぶわりと妖気に逆立てて、抜いた匕首を逆手に握り、屋敷に住まう妖怪どもを慣れた様子であっちだこっちだと指揮なさりながら、ご自分もまたあやしい奴を追われる御姿は、若頭の御役目もだいぶ板につき、元服まであと三年はあるというのに、いかにも頼もしい。
 とは言え、つい先ほどまで、母君珱姫さまの側で、下唇を噛んでしょぼくれていたことを考えれば、若干の照れ隠しが含まれてもいるのだろう。





 奴良屋敷が喧嘩で騒がしくなるのは、ここ数年無かったことだ。
 やや子だった頃の鯉伴さまが、珱姫さまとともに騒ぎに巻き込まれ、危ないところをリクオが機転をきかせて救った乱闘騒ぎも、今は昔、もう十年近く前のことである。
 この屋敷が、魑魅魍魎の主・ぬらりひょんのもので、関東妖怪任侠一家の総本家であることは、今や武蔵野国一帯にあまねく知れ渡り、はぐれ妖怪ならば遠回りすることはあっても、たった一鬼で乗り込もうなどと考える者はそう居ない。
 屋敷どころか、奴良組の貸元が幅を利かせる一帯では、奴良組にあらずば妖怪にあらずと言われるほどの威光、権勢留まらずといった有様。

 ついこの前も、総大将が冗談交じりに、「誰かあっちから、殴られに来てくれんかのぅ。暇で暇で仕方が無いわい」と煙管を吹かされては、この殿方に膝を枕に使わせておられた珱姫さまが、「もう、お前さまときたら、まるで危険を楽しんでいるみたい。私は嫌ですよ、怖いことは」と、しかし最もたよりになる御方が側にあるので、ちっとも怖がる様子を見せずにお答えになったほどだ。

 その矢先、珱姫さまが病に伏された。
 人の寿命は短いと聞いてはいたが、あまりに早いのではないか。

 慌てふためいた奴良一家だが、あれこれ手を尽くしても、珱姫さまは衰弱していかれるばかり。熱もなく、咳もなく、ただただ痩せていかれるので、いかな病気かと想い、町から人間の医者も呼び寄せて見せるのだが、原因はわからない。
 しかし、床に伏せてしばらくすると、顔色がよくなり、食欲も出てくる。
 風邪であったのかもしれない、薬を飲んで養生しようと珱姫さまが、陽が照っている濡れ縁で、最近新しく仕立てられた打掛を肩に羽織っていると、今度はまた、顔色が悪くなり倒れ伏す。
 こんなことが何度か繰り返され、すっかり困り果てた奴良一家と、ただ珱姫さまの手を握るしかない総大将の目の前で。

 衣紋掛の、その、真新しい打掛が。


 ――― へっぶし!!……げぷっ。


 こともあろうか、汚いくしゃみとゲップを、同時にして見せたのだ。
 なんと、打掛と思っていたそいつは、精気を吸う、反物妖怪だったのである。
 着物の振りをして奴良屋敷に何食わぬ顔で入り込み、総大将の奥方に取り憑いて精気を吸ったところまではよかったが、珱姫さまご自身、具合が悪くなると、すぐにそれを脱いでしまわれ、衣紋掛に広げられてしまうので、すっかり広げた腹を冷やして風邪を引いてしまったと、そういうことだ。

 無精髭もそのままにして珱姫さまにつきっきりだった総大将も、見舞いに来ていた大物妖怪たちも、これに怒るどころか、一瞬、目を丸くして呆気に取られてしまった。


 ――― ホー……ホケキョ。


 庭のしだれ桜の木の枝で、長閑に鶯が啼いた。


 打掛は、何事もなかったかのように、衣紋掛に。
 そう、たらり、と、肩のあたりを汗がつたったことを除けば、何事もなかったかのように、そこにおさまっている。

 誰も動けず、誰も何も言えなかった。ただ一人を除いて。

「 ――― て、てめぇッッ!!何を何事もなかったかのような顔をしてやがる、このエセ打掛がああああああッッッ!!!」

 弾かれるように怒り狂ったのは、珱姫さまの床の脇で、下唇を噛んで俯いておられた鯉伴さまである。その怒りときたら烈火の如し。黒漆のような艶やかな髪を逆立てて、手近に居た鬼火を引っつかむと、力任せに打掛に投げつけた。
 放たれたこの御業は鯉伴さまの十八番、《鬼纏》、燃える魔球(球速143km/h チェンジアップ)。
 たまらず、打掛はするりと衣紋掛を離れ、ふわりと飛び立ち、几帳をすり抜けて逃げようとしたが、許す鯉伴さまではない。ぐわしとこれの尻尾を掴み、ビタン、と床に叩きつける。
 その内に、外へ逃げられぬよう、リクオが素早く雨戸を全て閉め切ってしまった。

 今の今まで、己の母がいかな死病にかかったかと、年相応の幼いおもてを堪える涙で歪ませていたほど心配であったのだ、緊張の糸が弾け飛び、ついでに怒りが抜き身の刃のようにくしゃみをした打掛妖怪に向けられたとしても、まったく、仕方のないことであった。
 逆に、鯉伴さまの我を忘れて怒り狂う有様に、いつの間に甘えん坊でやんちゃだったばかりの我が子が、腹から声を響かせて不届きものを追うようになったかと、総大将は呆気に取られて見守るばかり。
 他ならぬ、床の珱姫さまが、不届き者の慌てふためきようにくすくすと笑ったので安心したこともあり、すっかり怒る機会を失ってしまった。

 鯉伴さまが尻尾を捕まえたはずの打掛は、流石は絹の手触り、するりと掌を抜けて、外へ逃げられぬと知ると、ちょうど盥に雪女が用意した氷水を張って、珱姫さまの枕元へ運ぼうとしていた一ツ目小僧が戸を開けた上を掠め、廊下の方へぴゅうと飛んで行ったのだ。
 ひっくり返った一ツ目を、鯉伴さまはひょいと飛び越えこれを追い、後ろ頭を打ってぴいと泣いた小僧をよしよしと慰め抱き起こした後、リクオはその鯉伴さまを追い。

「待て、てめェ!」
「待てと言われて待つバカは居ないワ!アタシは蝶!オーッホホホ、捕まえてごらんなさーい」
「ヤロウ、バカにしやがって!……おい小さき物ども、曲者だッ!出合え出合え!」

 そして、舞台は冒頭に至ったのである。





 天井裏の大蛇が熟睡している鼻先をかすめ、蓮の花の上に座っていた塗り仏の股間を踏みつけ、鯉伴さまが反物妖怪をがむしゃらに追い、かかった号令に天井裏や床下から湧き出た小物妖怪たちが続き、リクオはしんがりをつとめて、もっぱら鯉伴さまと小物妖怪たちの狼藉を、被害に遭った者に詫びながらやはり皆を追いかけた。
 最初は口笛を吹いて余裕を見せていた反物妖怪だが、鯉伴さまがあまりにしつこいのと、小物妖怪の数の多さに辟易として息切れし始めたところを、後ろばかりを気にしていたので行く先に張られた罠に気づかず、小物妖怪たちが廊下に張った網にまんまとひっかかってしまった。

 逃げられぬよう、魚臭い網でぐるぐる巻きにされた上で、総大将と珱姫さまの前に引きずり出された反物は、さめざめと、中身の無い袖をわざとらしく濡らす。
 しかしこの反物、話し言葉こそ女だが、声は野太い男そのもの。それでよよよと泣かれたところで、気色が悪いばかり。総大将はもうすっかり毒気を抜かれ、げっそりした表情で、火が消えていることにも気づかず煙管を噛んでいる。

「こいつめ、嘘泣きなんぞしたところで、騙されるっかってんだ!」
「な、なによぅ!妖怪とは言え、アタシ、こんな綺麗な打掛なのよ?!それが泣いてたら、可哀相って思うのがフツーでしょ?!ねェそうでしょ?!」
「ヘッ、こちとらお前よか余程嘘泣き上手の守役に育てられてきたんだ、そんじょそこらの美人局にだって騙されるつもりはねェぜ!」
「……アンタがまだねんねなだけなんじゃないの?」
「んだとゴラァ!」
「痛い!なにようやめてよそうやってすぐ打つの!」
「鯉伴さま、落ち着いて。反物さんも、総大将と奥方の御前です、わきまえて下さい。……総大将、珱姫さま、とりあえず捕まえてはみましたが、どういたしましょう。これの言い分によれば、喰えるものは精気のみで、腹が減ってどうしようもなく、行き倒れてしまうかというときに、珱姫さまの気配を察し、この屋敷に出入りする商人さんが背負う籐籠に忍び込んで、屋敷へ入ったということです。
 祢々切丸で程よい大きさに切り刻んで雑巾にしますか、それとも台所の火にでもくべますか、あるいは雪女の姐さんに頼んで氷付けにしてもらって氷室に放り込み、衰弱死するのを待つという手も。こうやってぐるぐる巻きにされてる間に重石をつけて、江戸の海に放り投げてしまえば間違いはないとボクは思うんですが」

 一同、しんとした。
 と同時に、奴良家の父母倅、顔を見合わせ理解に及ぶ。

 リクオはどうやら、何食わぬ顔で穏やかに微笑んでいながら、頭に血が上っているらしいと。

「 ―――― ィヤアアアァァアァァァッッッッ!!!!ひどいいぃぃむごいいぃぃえぐいいぃぃ」
「 ―――― リクオ、お前が一番怖い。お袋の前だぞ、わきまえてくれよ」
「え?ボクは鯉伴さまや反物さんみたいに騒いでいませんよ」
「そーじゃなく。言ってることが脅迫じみてるって、お前、わかってるか?」
「脅迫っていうのは、相手に言うことを聞かせようとするときに、交換条件を持ち出すものです。ボクがいつ反物さんに『雑巾になってくれ』なんて言いました。返事がどうあれそれがいいと総大将が仰せなら、そうするつもりですから、脅迫とは言えません。言葉は正しく使ってくださいとあれほど申し上げているでしょう。
 ボクはただ、手打ちの方法をご提案申し上げているだけです。それだけのことをしたんですから、反物さんだって、それなりのお覚悟はされているでしょう。ボクが言った方法なら、自分で抜け出て海の底のクラゲにでも着られてれば、それの精気を吸って、とりあえず生き伸びることはできるでしょうし、後は時の運です」
「アタシは人の女の精気じゃないと吸えないんですってぇぇうえええええん」
「そうですか、残念でしたね。観念なさい。最期に極上の女の精気を吸ったのですから、冥途の土産は持ちきれないほどでしょう」
「……リクオ、そいつはヒドイ。別の方法を考えてやろうぜ、な。けろっとした顔でおれより怒ってるだろ、お前。怒ってるってわかんねーから、こええんだよ」
「怒るのは当然です。早めに解決したから良いようなものの、反物さんは珱姫さまを取り殺そうとしたんですよ。 ――― 殺そうとしたからには当然、殺される覚悟もできてるよなァ?ン?」
「ごめんなさああああああああいいいいいい」
「あー……なァ親父、お袋、とっとと沙汰を決めてやらないと、何だかおれ、気の毒になってきたんだけど……。見るからに間抜けそうなヤツだから、迷い込んだってのも本当だろうし、おれとしちゃ、命まで取ろうって気はなかったんだけどさー……」
「 ――― と、言われてものう……。珱、どうする」

 普段は鯉伴さまの手綱を握る役回りのリクオだが、にこにこしているくせに、頭に上った血はなかなか冷えないらしい。見れば、黄昏時のせいか、瑪瑙の瞳はいつもよりちろちろと燃えるようである。一言許すと言えば、本当にこのまま目の前で、祢々切丸を賜り反物を雑巾にしてみせてしまいそうだ。
 些事は小大将に任せておけば、悪いようにはなるまいと頼りにされていた総大将、その頼みがこの調子なので、ほとほと困り果ててしまわれた。切った張ったならばいくらでも退屈しのぎに歓迎できるが、細かな気配りだの沙汰の取り決めだのは、いつまで経っても得意になれず、またそういったところを行き届かせてくれるのが、奴良組一家の貸元どもであり、珱姫さまであり、リクオであるのだ。

 珱姫さまは、いつにないリクオの激しい物言いに驚き袖で胸を抑えられたが、まだあれこれと、

「鯉伴さまは甘いです。ボクは日に日に弱っていかれる珱姫さまを見るのも、その珱姫さまにつきっきりで看病される総大将が哀しく笑うのを見るのも、泣きそうな鯉伴さまを見るのも、本当に本当に堪えました。今がかろうじて昼姿でよかった、夜姿なら我慢がききませんでした」
「わかった。お前が心配してくれてたのは、よくわかった。そうだよな、お前だって心配してくれてたんだよな。だけどよ、まぁ、ここは落ち着け、リクオ。な」
「落ち着いてます。少なくとも、そのように努力しております。総大将と珱姫さまが許すと仰せなら、ボクも今回の一件は水に流すように努力します。だからこその昼姿です」
「もう黄昏だぞ、夜姿に変わって素直になれよ。今のお前は御しにくくて仕方ねえ」
「夜姿になどなったら、今頃この反物女形、雑巾どころか紙吹雪ですよ」

 鯉伴さまとリクオが年子の兄弟のように言い合っているのをご覧になると、心を込めた側仕えをしてくれているだけではない、前々から感じていた何か不思議な縁を、さらに強くありがたく感じられ、この場にはそぐわないかもしれないが、くすり、と、笑われた。

 それから、床から起き上がったばかりの体で、二人にいざり寄り、それぞれの頭に両手でぽん、と、手を置くと、よしよし、と髪を撫でてやる。

「鯉伴、リクオさん、本当に心配をかけました。母はもう、大事ありません。ですからどうか、もう安心して、ゆっくり考えましょう。食べ物が無かったからふらりと入ったなんて、リクオさんとよく似た境遇じゃないですか。やろうと思えばそれこそ私を一夜で取り殺すことだってできたでしょうに、それをしなかったんですから、ちょっとくらい大目に見てあげましょう、ね」
「おう、お袋がそれでいいなら、おれは別に構わんぜ」
「ボクは嫌です。珱姫さまのお優しさに付け上がって、ほら、見てください、この反物、すすり泣きながら袖の向こうでこちらの様子を伺っているんです。泣いてるのだって、どうせ嘘泣きですよ。安っぽい泣き方にもほどがある」
「まあまあ、リクオさんたら、今日は鯉伴の弟のよう。お可愛らしい」
「 ――― な……そんなに聞き分けの悪いことを申し上げては……いないつもりなんですけど……」

 数えで十になった鯉伴さまは、同じ年頃の子供等に比べて上背があり、今やリクオとそれほど目線が変わらない。リクオが昼姿で並んで遊戯に興じたりやっとうの稽古をしていると、同じ年の童子が二人、戯れているようにも見える。

 しかし、姿が変わらなくても、鯉伴さまをやや子の頃から知っているのだ。なのに、面倒を見てきたやや子の弟に見えて可愛らしいなどと不本意な物言いをされたので、リクオは言い返そうとしたが、ちらと横に視線を流すと鯉伴さまがにやにやと笑っておいでだし、珱姫さまがしきりに頭のてっぺんを優しく宥めてこられるし、そんなに子供じみたことを言ったろうかと考えると、何だか恥ずかしくなってきた。

 珱姫さまが、何の裏もなく、前と変わらず慈しみ深く笑ってくださるので、ようやく安心できたこともあり、落ち着いてきたリクオは、少し過ぎた言葉を使ったかもしれない、いや確かに何やら過激なことを言ったぞと思い始め、やがて耳まで赤くして、結局口を噤んだ。

「スミマセン……頭に血が上っていたみたいです」
「そのようですね。リクオさん、心配してくれて、ありがとう。反物さんにも事情がおありでしょうから、後のことをお頼みしてもよろしいですね?」
「はい、珱姫さま」
「反物さん、人の女性の精気でしか食事ができないとは困ったことですが、必ずしも人の命を奪うまで吸わなければならないということではないのでしょう?」
「は、はい。アタシは、二日も続けて着てもらえたら、その先一ヶ月は腹いっぱいですから、もう、しばらくは ――― げぷ」
「あらあら、私が気に入って着続けていたから、無理にお食事をしてしまったんですね。身の振り方を考え付くまで、どうしてもお腹が減って死んでしまうというようなことがあれば、私のところへいらっしゃいな。今度のように床につくまでは与えられませんが、少しならお分けできるでしょうから」
「な、なんと……なんとお優しい……ゴメンナサイ珱姫さま、アタシ、アタシ……う、う、う……こんなに優しくされたの、アタシ初めてで……て、てやんでえばろう畜生、涙がこみ上げてきやがる!う、おおう、おおう……」

 よ、よ、よ、と、わざとらしく泣いていたのが、今度は声を上げて男泣きに咽ぶ。
 鯉伴さまとリクオは顔を見合わせ、「また変なのが来たぞ」とばかり、肩をすくめた。

「そんな、泣かないでくださいな。ここまで漂ってきたのも、きっと色々理由があったのでしょう。ともかく、しばらくはこの屋敷においでなさい。但し、身の振り方がきちんと定まるまで、理由なく屋敷を出てはいけませんよ。この辺りで人に勝手に取り憑いて、妖と人との境界を破り人間を困らせることは、決して許しません。よいですね」
「は、はい!必ず、お約束いたしやす!流れモンですが、あっしにだって意地がある。こんな風に命を助けられたお相手に、嘘をつくようなこたぁ決していたしやせん!破るようなことがありゃあ、それこそ雑巾だろうが鼻紙だろうが、好きに使ってくださって結構。奥方、総大将の御前で、きっと、きっと、お約束いたしやす!」

 それまでの女形言葉を忘れ、網の中で畏まりながら申し上げる反物の様子に、ようやく手打ちになったかと総大将は安堵して、うむと頷かれた。
 それで、お前、と、続けられる。

「それでお前、名はなんという。見たまま、反物妖怪じゃろう。一反木綿という輩には、西へ旅をしたときに、会うたことがあるがのう」

 よくぞ聞いてくれたとばかり、反物は妙なしなを作って、網の中で許される限り総大将に擦り寄った。

「はいな!アタシ、一反木綿ならぬ一反絹なんでス。お絹って呼んでね、総大将。んふ」
「「気色悪いんだてめえは」」

 再びの女形言葉に、耐えられなかった若頭と守役が、網の両脇から同時に中身の反物へ足蹴りを食らわし、たまらず反物がきゅうと気を失ったところで、この場はようやく仕舞いになった。

 気を失った高級反物妖怪は、哀れ魚臭い網に絡められたまま、鯉伴さまとリクオに引きずられて総大将と珱姫さまの御前から下がり、雪女が傍にいるわけでもないのに感じた妙な寒気にふるりと体を震わせていた総大将、ようやく息をつかれる。

「守役とそれに育てられた子というのは、何とも、妙なところで似るもんじゃのう。最近はあやつら、たまに兄弟のようじゃ」
「ええ ――― そうです。そうですよね」
「……どうした、珱」
「いいえ、その……何だか不思議な御縁があるものだと、思いまして」

 以前から、どうも他人だとは思えず、ご自分の子と同様にいとしく接してこられたが、今日は珱姫、リクオのつむじのあたりをよしよしと撫でた感触が残る掌を、不思議そうに見つめ続けておいでになる。
 なにせ床を払ったばかりだ。
 まだ少し休んでいた方がよいのではないか、と心配する夫に、妻は優しく可憐に微笑んで、そうではないのですと応えた。

「 ――― 昔は、ただ癒すばかりの手だと思っておりましたが、私が神仏よりお借りしているこの力には、私がまだ知らぬ、そして私が生涯知りえぬだろう力が、隠されているようなのです。最近人を癒すたびに、あるいは人に触れるたびに、その人がどの人と血の繋がりを持っているのか、掌を通した色のようなものが見分けられるようになりました。見えるわけではありませんから、感触と言うべきなのでしょうが、それにしては人様々、十人十色、千差万別なので、色、と申し上げられるようなものが」
「ほう。どれが親でどれが子か、わかるようになったと?」
「はい。なんとなくですが、わかります。親子と言っても血ではなく情で繋がっている例など多くありますが、それが、わかるのです。これは血の繋がりでなく、情でもって紡がれた尊い親と子であるということが、わかるのです。血が繋がっていると、こう、糸が繋がっているというのでしょうか、鯉伴には、お前さまと私から。鯉伴を通して、お前さまと私が繋がっている。それが、わかるのです」
「それで、なんとした」
「リクオさんは、どこからいらしたのでしょう。お前さまと同属の妖であろうとばかり、昔は思っておりましたが、最近、本当にそればかりなのだろうか、このままお引止めしていてリクオさんのためになるのだろうかと、何だか、それが、気がかりで」
「珱、どうした。何をそんなに不安そうに憂いた顔をしておるんじゃ。気がかりがあるならば話してみい」
「リクオさんに触れるとき、いつも不思議に思っておりました。他人のような気がしない。鯉伴と比べても比べられないほど、本当に可愛い。ひょんなところから縁を結んだ方で、鯉伴の守役まで引き受けて下さった方だし、お前さまの同属だからか夜の姿も良く似ているので他人のような気がしないのだろうと、今もそう思いたがる己がありますが、最近、この掌が、心より先んじて、違うと言うのです」
「……何が、どう、違う」
「リクオさんの縁の糸は、鯉伴と、私と、お前さまとに、繋がっています」
「そりゃあ、長いこと一緒に、家族同然でこの屋敷にいるんじゃ、そういうことも……いや待てよ、お主とワシの縁の糸というのはどうなっておる。もちろん、赤いヤツで繋がっておるのじゃろうな?」
「そのぅ……お前さま、こればかりは、血の繋がりのことですから。その代わり、お前さまと私は、夫婦の盃で縁を結びましたよね。いくら夫婦でも、こればかりは」
「クソッ、リクオめ、ワシをさしおいて珱と縁の糸で結ばれておるとは、なんちゅーヤツじゃ、けしからん! ――― いや待て、血の繋がりじゃと?何度も言うがワシはあんな隠し子は」
「もちろん、お前さまの隠し子ならば、お前さまとのみ、縁の糸が結ばれているはず。リクオさんが不思議なのは、私たち三人の家族全員に、縁の糸が結ばれているということ」
「 ――― なに?」
「そしてもう一つ、この場に居ない誰かへも、縁の糸は伸びていて、どうしてもその先が見えません。朝靄のようなものに遮られ、今の現世に感じることができないのです。もしや、そこは、この現世ではないのやも。だとしたら、リクオさんは、ここに留まるべき方ではない。帰らなくてはなりません。そうしないと、何だか取り返しのつかないことになるような気がして、それが怖い」

 からからからと廻る糸車の音が、神仏の加護あつき珱姫さまには、もしかしたら既にこのとき、聞こえていたのかもしれない。さらには、珱姫さまはリクオが何者であるのか、ご存知であったのかもしれない。
 だからこそ。

「でも、でも、お前さま、リクオさんはいつか帰らなければならない人だけれど、もう少し先であることを、どうしても願ってしまうのです」
「 ――― うん。そうじゃなあ、ちゃんと帰してやらにゃいかんのう。あいつがあんなに焦がれる女がおるんじゃから、もといたところに帰してやらんと、可哀相じゃ」
「ええ、そうですよ。ねえ、お前さま」
「うん?」
「そのときはリクオを、許してやってくださいませね。あんなに焦がれているんですもの。こんなに長いこと、求めているんですもの」
「なんじゃ、そんなことか。当然じゃよ、心配するな」

 何を許せとは、珱姫さまは決して仰せにならなかった。
 総大将はてっきり、その時が来たなら、守役の任を打っ遣ってでもここを去るに違いないリクオを許してやれと妻は言うのだと思い込んでしまわれた。
 また、珱姫さまの言い様が、そのときには総大将の傍らに己は無いものと決めてかかっているように思われてならず、今日は救われた命でも、いずれは桜が散るように、この妻もまた黄泉路へ赴くのだろうことを嫌でも思い知らされて、早いところこの話を打ち切っておしまいになりたかったのだ。

 我が子と同然と言ってはいても、決して今までそうはしなかった。
 珱姫さまが今初めてリクオの名を、そのまま呼び捨てたことなど、些細なこと過ぎて、総大将はだから気づかなかったし、珱姫さまも今はそれで良いとお考えなのか、ふうわりと笑んだままである。

「 ――― 何にせよ、珱が床を払えてよかった。しばらく家の中ばかりで辟易としたじゃろう。今度また、でぇとにでも行こうかのう。どこへ行きたい?」
「まァ、連れて行ってくださるのですか?どうしましょう、縁日にも行きたいし、夏が過ぎてしまう前に、水辺に行って涼んでみたい気もいたしますし」
「そうかそうか、では全部行こう。さァて、どこから行こうかのう」

 からからからと、廻る糸車の音、総大将は気づいておられたとしても、今は耳を塞いでしまわれたに違いない。短い刻を咲き誇る、桜の美しさを目に焼きつけておくがため、不都合な音も風景も、全て追いやってしまわれたに違いない。
 知ってか知らずか、甘えるように己を抱き寄せてこられる総大将に、「あれあれ、いつの間に童が増えたのでしょう」と、珱姫さまは優しくお笑いになったのだ。