こんないきさつがあったので、お絹はしばらく鯉伴さまとリクオを怖がっていたが、日が経つにつれ、鯉伴さまの愛嬌とリクオの心優しさに触れると、すっかり心を許して奴良屋敷でのびのび過ごすようになった。
 余所者である上、いかな事情があったにせよ奥方さまを取り殺そうとした妖怪でもあるので、一人ふわふわと放っておくわけにもいかない。しかも、野太い声で女言葉を使うこの一反木綿、いや一反絹、姿形を裏切らず、お世辞にも腹が据わった奴とは言えない。
 奴良屋敷の小物たちが面白がってからかうたびに大袈裟に騒いで泣き喚いたり怒ったりするので、しっかりリクオが見張っていてやらなければならない。
 一反絹の方でもリクオの側に居れば、小物妖怪たちが手出しをしてこないと知ってから、高級腰巾着のようにはりついていた。分別がつき始めたとは言え、元服の年まではあと三年もある鯉伴さまの守役をつとめるリクオは、一日の大半を鯉伴さまの側で過ごすので、自然と一反絹も鯉伴さまの側に侍ることとなり、いくつかリクオの手伝いもしているうちに、すっかり鯉伴さまともうちとけたというわけだ。

「アタシはね、京の生まれなんですよぅ。そう、都生まれです。それがね、最近あの都、陰陽師の結界だかでいられなくなっちゃったんです。元々派手に狼藉をはたらいてた、追い出されて当然の奴等もいましたけど、アタシ等みたいな何の拍子にか目をぱちぱちしちまっただけの小物妖怪にも容赦ないんですから、ひどいもんですよぅ。だってそうでしょ、長いこと居心地よく過ごしてただけなのに、いきなり立ち退け、なんてさー。
 追い出された狼藉モンは、元々力の強いのがたくさんいましたから、新しい土地で何かやらかそうって、企みながら去っていけばよかったですけどね、アタシ等小物にとっちゃ、死活問題ですわ。人型に化けるような力なんて持ってないですし、アタシ等ってほら、家の中にいてナンボでしょ?大物さんたちみたいに、山だの洞窟だのの中に潜んでるだけで《畏れ》られるならいいですけど、アタシ等が、例えばホラ、このお屋敷にもおいでの薬箱さんや油瓶さんなんかが山だの洞窟だのの中にぽつーんと居たって、何にもこわくないでしょ?そりゃ、中には、大物さんが中に潜んでて擦ったら出てくる瓶だの、誰かがくしゃみしたら一つだけ願いをかなえてくれる壷だのがあるみたいだけど、ほとんどの場合は、寂しくってさめざめ泣いちゃうだけヨ。驚かして驚かれてナンボなのに、驚いてくれる人間がだーれもいないなんて。
 鬼火さんや人魂さんはその点、お得よねぇ。墓場をふわふわやってるだけで、たまに勝手にやってきた人間が「あわわ」とか「ふんぎゃー」とか言って、驚いてくれるでしょ。いいわよねぇ。
 アタシの仲間でもさァ、ホラ、総大将も言ってた一反木綿って奴はね、あれは空をふわふわしてたら、人間の方で「おや、誰かの洗濯ものが飛んだかな」って勘違いしてくれて、そこを付狙って人間の精気を吸っておそれられる、なんてことやってるのよ。たまにだけど、そのまま絞め殺しちゃうような怖いヤツもいるみたい。やーよねー、たった一人そういうヤツがいると、反物妖怪全部が全部、人間を絞め殺すって思われちゃうんだから。
 でもアタシはできなかったのよ、そんな下品な真似。だってアタシ、ホラ、絹だし。空飛んでたら、人間の方でも不審がるの。それにアタシ、ホラ、こんなに見事なガラがついてるでしょ?誰かの洗濯物だなんて都合の良い解釈してくんないのよねー。たまに拾ってもらっても、今回みたいに、着てくれた女が衰弱してくでしょ?……アタシに悪気はないの。殺すつもりもないから、「ね、そろそろやめておいたら?」なんて、お武家様の奥方様に言ってあげたことだってあるのヨ。そしたら逆に追い出されたりしてねぇ。
 というわけで、流れ流れて武蔵国までやってきた、ってワケ」

 化けていた打掛から見事な絹の反物の姿に戻った一反絹は、このお二方になら話を聞いてもらえると踏んで、我が身に起こった不幸、流転の物語を聞かせたのだが、その内うるうると涙ぐんでくるのは本人ばかりで、話の長さに辟易された鯉伴さまなどは、ごろりと畳の上に横になり、ご自分の腕を枕にして、うつらうつらとされ始めたほどだ。
 リクオもこれを咎めず、暑くて寝苦しい夜も続いているので、眠れるうちに眠っておいた方がよいだろうと、団扇でそよ風のように扇いでやった。

 朝の手習い、牛鬼との稽古を終え、昼飯後の今はちょうど午睡の時間。
 ミーンミーンと蝉が鳴く季節、屋敷の中で御簾を上げ風を入れていても、その風が暑い。
 リクオも袴の裾を膝まで上げて、鯉伴さまを団扇で扇ぎつつ、時折、氷が浮いた茶を含んで極楽気分を味わいながら、時折「ふうん」「そうなんだ」「大変だったねえ」と合いの手を入れていた。内心、一反絹の長い話に、鯉伴と同様、やはり辟易としながら。
 すうすうと寝息を立て始めた鯉伴さまに気づかず、一反絹は話し続ける。

 あちらの国での苦労、こちらの国での苦労、様々に淀みなく、放っておいたら一日中でも話し続けそうな一反絹に、黄昏を過ぎれば付き合うほどの忍耐を持てようはずもないので、聞くなら昼のうちだ。

 夜姿だとて、人の話くらいは聞いていられるが、「ねえ聞いてる?」「今の相槌は心がこもってなかったわヨ」「ちょっと、少しくらい貰い泣きしてくれたっていいじゃない!」などとやられると、己を律する自信は無い。ゆめゆめない。むしろ皆無。総大将にたんぱらだと笑はるる所以だが仕方ない。

 ならばこそ、黄昏時までの辛抱だと鯉伴さまの午睡に付き添いながら、辛抱強く耳を傾けていたリクオは、ふと、一反絹の話の中にゆゆしきことを覚えて聞き返した。

「 ――― 見世物?」
「ええ。アタシ等みたいな小物妖怪や、フツーの人間を集めて、見世物にしてるらしいですヨ。大人もいれば子供もいた。男もいれば女もね。綺麗な娘もいましたヨ。アタシも隙をついて逃げられなかったら、今頃どうなっていたか……おぉ嫌だ」
「そのひとたちは、一体どこに連れて行かれるんだい」
「さぁそこまでは。アタシも逃げるのに必死だったんでねぇ。ただ、放り込まれた小屋の中で、嫌な音を聞きましたねぇ。この小屋をそのまんま荷車に乗せて夜のうちに移動するんですけどね、外からこう、からからからと、糸車みたいな。アタシ反物のせいか、糸車ってやつが大嫌いで。あれの前にいると歯切れにされて糸に戻されて別の反物にされちまいそうで。
 アタシはずっと息を潜めてたから、外に放り出されるまで、奴等、ただの反物だって思ってくれたらしいんですヨ。それでね、戸が開いた拍子に、逃げ出したってわけ」
「他にも人や妖怪が居たんだろう?人はともかく、他の妖怪は逃げられなかったの」
「それがさァ、奴等、底意地の悪い奴等で。人は枷で繋がれて、妖も札かなんかですっかり力を封じられてるみたいでした。あれじゃあ、たとえ雪女だってあられ一粒作れませんよきっと」

 一反絹に他意はなかったろうが、リクオの前でこれは大変まずい例えであった。
 リクオは心臓を鷲掴みにされたようにどきりとし、団扇をとりおとしてしまう。
 仰がれていたそよ風が止んだのと、団扇が取り落とされた気配を察して、寝息をたてていた鯉伴さまが、うっすら目を開けたので、リクオは無作法を詫びた。

「どうした、リクオ?」
「いえ、なんでも。すみません、起してしまいましたね」
「いや、気持ちよく寝た。なんだ、こいつまだ、くっちゃべっていやがったのか。まァ、あんまり気にしてなけりゃあ坊主の読経と同じで、だんだん眠気が出てきていいかもしれねえけど」
「ちょっと!ソレどういう意味?!」
「ははは、まァそう怒るなよお絹。怨み辛みを語りたがるのは京生まれの妖怪の悪い癖だって、親父もよくそう言ってやがんぜ。ここに来るまで色々あったろうがよ、せっかくここへたどり着いたんだから、もうこれからは浮世を楽しんで、お前も夏の風情を楽しめよ」

 実を言うと鯉伴さま、つい少し前から浅い眠りの中で、一反絹とリクオのやり取りを聞いておられた。
 リクオがどういう女を捜しているのかも知っているから、妖怪や人間を集めている場所があって、そこでは妖怪も能力を封じられ見世物にされている、雪女だとてあられ一粒作れまいと一反絹が喩えるのを聞いて、その喩えはならねえ、断じてならねえと、空気を読まない一反絹に少々腹も立てながら。
 案の定、取り落とした団扇を拾うのも忘れ、リクオは手元をじっと見つめている。

 ――― これはこいつ、今夜、言うな。

 十を数えるこの歳まで、この守役に育てられてきた鯉伴さまだ。
 リクオが今までに何度も、少しでも思い描いた女の面影に似た者があると聞けば、総大将の紹介状を携えて、どこにでも旅立ち、やがて失意の表情で帰ってきたのをご存知である。
 リクオは旅立つ前に、必ず、総会があるときですら隙を見てこそりと総大将のお傍に赴き一言ことわって、珱姫さまと鯉伴さまにも口上を述べた上、どんちゃん騒ぎの中を逃げるように、誰にも悟られぬように面影を探しに行く。

 ほんの幼い頃こそ、リクオが旅支度をする姿を見て、早く帰って来いだの、土産は何がいいだのとねだったり、己もついていくなどと駄々をこねて困らせたことがあるが、今となっては旅の理由も失意の理由もわかるから、できるだけ失意から遠ざけてやるためにも、滅多なことは聞かせたくないとお思いでもある。
 けれど聞いてしまった。リクオは聞いてしまった。
 妖怪たちが自分で抜け出せず、見世物になっている場所があるのだと。

 また守役の居ない広い部屋で過ごす羽目になるのかと、鯉伴さまはあからさまに眉を寄せたが、この日はそうはならなかった。
 珍しく、鯉伴さまの部屋に雪女が現れたのだ。
 夏の暑さに己の冷気が逃げぬよう、襟巻きを幾重にも巻き、これに口元をうずめ、頭にはすっぽりと頭巾を被った姿で。

「リクオ、苔姫が来たわよ。アンタに用だって。客間で茶を出してあるから、さっさと行って。その襤褸と若頭は、わたしが見張ってるから」
「姐さん、暑いって氷室にこもってたのに、大丈夫なんですか?」
「大丈夫なもんですか。今にも溶けそうだってーの。でも、仕方ないでしょう。その襤褸を見張るなんて、小物だけに任せておくわけにもいかないし、アンタがその襤褸を苔姫の前に連れて行ったら、襤褸の方が苔姫を気に入ってとり憑かないとも限らないし、若頭と襤褸を二人きりにして、もしものことがあっちゃいけないし……って考えたら、わたししか居なかったんだもん。
 ああ、もう、喋ってるのも辛い。早いとこ行って、早いところ帰ってきて」
「わかりました、お願いします。鯉伴さま、席を外します。お絹のこと、頼みますね」
「おう。適当に流して聞いておく」
「 ――― ちょっと!ひとの苦労をそうやって馬鹿にするワケ?!そして襤褸って何、もしかしてアタシ?!ヒドイ!どうしてそうやって苛めるのぉおぉ?!」
「ウルサイ黙れ襤褸絹。黙らないなら氷付けにして黙らせる」
「あ、あははは……姐さん、お手柔らかにしてあげてね」
「いいから、アンタは余計な心配しないで、さっさといって、そしてさっさと帰ってくる!!」

 雪女の機嫌が、真夏に良きはずもなし。
 リクオはそそくさと部屋を辞し、己が廊下に出て部屋の中がうかがい知れなくなったところで、騒いでいた一反絹がぴたりと静かになったのには気づかない振りをして、客間へ向かうことにした。


+++


 出家した後も、苔姫は奴良屋敷を頻繁に訪れては、珱姫さまの話し相手をしたり、鯉伴さまやリクオに、己のところへ持ち込まれてきた庶民の困りごとを相談したりと、むしろ以前より忙しくしていた。

「これでも、借金の取立てに妖怪を貸してくれだの、大奥に入って出世するためにまじないをかけてくれだの、勘違いをしておる輩には小言をくれてやって追い返しているのだが、妾のことを何だと思っているのか、小言を言えば言ったで、また叱ってくれというように慕ってやってくる。尼というのは、何だかんだと忙しい」

 たまにこうして愚痴をこぼし、ぶすっと膨れる苔姫の言い方ときたら、尼僧姿に相応しくなく愛嬌がある。
 鯉伴さまはあね姫と慕う方が出家されると聞いたときは、とてつもなく遠いところへ赴くような印象を受けて寂しく感じていらしたので、以前と同じように屋敷へ足を運んでくる苔姫に安心しついこの前も、

「まァまァ、おれとしちゃ、面白いことなら何でも大歓迎だからよ、人間の方から怪異の困りごとがあるってんなら、奴良家の窓口になったつもりで忙しくしたらいいんじゃねえか?あね姫さまだってここへ来る口実ができるってモンだし、そう腹を立てるない」

 冗談で口にして、苔姫の目じりを上げさせたばかりだ。

 しかしながら、苔姫が人々の信頼を得ているのは、普段の愛嬌だけを見ていると思いもよらぬほど、いざというときは聡く鋭く業の在り処を見抜き、顔も知らない他人へをも涙を流す無垢な心根のためである。
 また、人というのは不思議なもので、増長を叱られて相手を怨むところか逆に相手を慕うこともあり、苔姫の場合は後者が多かった。
 幼い頃に父母の業深い仕打ちを受け涙を流してばかりいたのを、今は出家した身として日々、業の深さに気づかず命を失ったであろう父母の菩提を弔いながら、人々の困りごとや心の鬱々としたところを我が身に起こったことのように親身に聞いてくれるので、その中で時折ぴしゃりと叱られたとしても、決して苔姫は相手を傷つけるようなことは言わず、むしろ言われた方も心の内では、もしかしたら己の怠慢や増長の業が巡ったのかもしれぬと考えぬでもないことであるから、やはり、と思って省みることはあれど、今や人々の心の救いである苔姫に背こうなどと、ちらと思うはずもないのだった。

 苔姫は今、一ツ目入道の屋敷を出て、数年前に主が怪異に倒れた璞町の寺に住んでいる。
 そう、数年前、飴を買いにくる女の幽霊騒ぎがあった、あの寺だ。

 墓から出てきた浮かばれぬ者どもが、僧侶を一人取り殺したという噂は広がり、小僧たちも寺を離れた後は、破れ寺として朽ち果てるのを待つばかりであったが、打ち捨てられ省みられなくなってしまった墓や、僧侶が金で引き受けたものだろう因業が深く土地に根付いているのをあわれに思い、苔姫はそこで読経を上げることにしたのである。
 住み始めた頃こそ、足を一歩踏み入れたなら、重い空気が周囲に満ち満ちていたものだが、苔姫が小さく萎えた足でできる範囲を掃き清め、小さな手を合わせて名も無き死者の冥福を心から祈ると、経も上げぬうちから重い空気は払われ始め、奴良屋敷の小物妖怪たちも手伝って墓地や本堂をすっかり掃き清めて壊れた屋根が真新しく建て直したように輝く頃には、無縁仏の廟の周囲ですら、安らかな眠りを誘う清風が吹いた。

 尼僧が一人で住んでいる、いや一人ではない、どうやらやや子の面倒も見ているようだ。それに時折、人ではないものが傍に居る気配もする ――― と、人々が噂をし始めて、怖いもの見たさで興味を持った人々が一人二人訪れると、浮世絵町と同じように、人々が寺を出入りして苔姫を手伝う小物妖怪たちに慣れ親しむのは案外早かった。
 今では、黄昏時を過ぎると、寺に住み込みで働く人魂おセツが起きてきて、苔姫のところを訪れていた客に、「あ、どうもいらっしゃいませ〜。お茶、ただいま用意いたしますねェ」と艶めいた口調で言うのは、誰もが知るところとなっている。おセツは身軽にあちこちを行き来できるので、寺と一ツ目入道の屋敷、奴良屋敷を行き来する、言伝の仕事を授かったのだ。他にも、こうして客の来訪を台所に告げるなど、甲斐甲斐しく苔姫の世話をしている。不思議なもので仕事を与えられると、己以外にこれをやる者はなしと思え、おセツはただ墓を漂っていた頃より明るく陽気になったようだ。

 何らかの怪異について相談事が持ち込まれると、苔姫だけでは力が及ばないとき、昼でもおセツが事前に知らせにやってくるから、今日は前触れがなかったのを不思議に思いはしたものの、リクオは苔姫の来訪を、それほど驚きはしなかった。
 しかし、客間に入ると、いつになく厳しい顔をした苔姫と、恐縮した様子のカナの弟が、並んで座っている。二郎の来訪は聞いていなかったリクオ、珍しくも嬉しいことと喜んだのだが。

「リクオ、お主、ついこの前もカナの様子を見に行ったと言っていたな」
「はい。それが、何か?」
「妾もお主がそう言うのをすっかり信じて深くは聞いておらなんだが、その様子を見に行くというのは、具体的に、どういう風に見に行っておる?」
「どういうって、迷惑にならないように、夜姿になれる黄昏以降に、ふらりと。だいたい、カナちゃんは奥の仕事で忙しそうにしていることが多くて、声もかけられずに帰ってくるばかりです。一度、一人だったところで姿を見せて声をかけましたけど、特に困っているようなこともなく、こんな風に二人で会っているところが見つかっては困ると言われてしまって」
「お主」
「はい」
「案外、馬鹿だのう」
「はい?」
「夜姿のお主と、大店の若奥様が二人で密会などしていたら、それは良からぬ噂をたてて下さいと言わんばかりじゃ。見せるなら昼姿にせぬか。童子の姿で潜り込んで、カナを取り巻く人々と言葉を交わしてようやく、あたりの様子を見たと言えよう」
「でも、昼姿では姿を消せません。こんな異相の者が店に出入りしたら、それこそご迷惑でしょう」
「瞳の色は、なるべく目を伏せるしかなかろうが、世の中には染め粉という物がある。これを使えば、お主の髪の色も、只人と同じように真っ黒けじゃ。使ったことは?」
「奴良屋敷に来てからは、ありません。昔、使ったことがあったような、なかったような……。どうしてかな、すっかり使おうなんて気持ち、忘れてましたけど」

 苔姫が懐から出し目の前に置いた包みと、苔姫とを、リクオは意図を読めずに首を傾げた。
 そこでようやく、今まで黙っていた二郎が口を開く。

「頼むよ。その姿で、姉ちゃんに会いに行ってやって。俺の友達だってことでさ。鯉伴さまにも姉ちゃん、会いたがってたし、昔一緒に遊んでたって言えば、嘘じゃないだろう?俺や父ちゃんが会いに行っても、姉ちゃん、強がっちゃって。きっと、かなり無理してるに違いないんだ。若旦那も、そう言ってる」
「強がるって、何か病気でも?ボクが見たときは元気そうだったし、奥のあれこれを仕切って、使用人の人たちにも頼りにされているようだったから、すっかり安心してたんだけど」
「うむ、それはその通り。カナは奥向きのことをあれこれ働いて、使用人からの評判も上々じゃ。元々あの通り、明るく気の利いた優しい娘であるし、使用人だからとて邪険にもしない。立派な若奥様じゃ。……ところがだ、忘れたか、あの家には、悋気の強い女が一人おる。妾のところにな、他ならぬ清屋の若旦那が、相談に来たのよ」
「清屋さんの、若旦那さん……カナちゃんの、ご主人が?」
「な、頼むよ、リクオ。若旦那もご存知なんだ。姉ちゃんに、会いに行ってやってくれ」
「詳しい話は、向こうでその若旦那がするだろう。兎に角、まずはカナの顔を見に行ってやれ。なるべく、早いうちにな」


+++


 たしかに姿を消して行くばかりでは、様子を確かめたと言うには完全ではないだろう。
 特にリクオの場合、昼に気づくことを夜は気づけず、夜にできることが昼にはできないのだから。

 夜姿の己が何か見落としたであろうことをもう一度確かめんと思い、リクオは二郎の頼みを二つ返事で請け負った。姉思いの弟は、あからさまに安堵した顔を見せたが、言い含められていたのか多くを語ろうとはせず、苔姫が奴良屋敷での夕飯の誘いを、夕方から来客があると残念そうに断ったのを機に、彼もまた屋敷を後にした。

 さっそく次の日、リクオが慣れぬ染め粉の扱いに井戸端で四苦八苦しているのを、鯉伴さまは一反絹と連れ立って何をするわけでもなく、鯉伴さまは井戸べりに座って足を遊ばせながら、つまらなそうに見つめていた。

「リクオ、お前一人で行くのか?二郎は?来るんだろう?」
「二郎君は来ませんよ。彼だってもう簪職人の修行中の身で、おいそれと作業場を留守にはできません。それに弟とは言え、知らない人が見れば若奥様のもとへ懸想する男が通っているのではないかとか、いや弟だからこそ、そう頻繁に大店の若奥様のもとへ出入りしては、金の無心ではないかと変な噂だって立ってしまうんですから。だからあの年ぐらいになると、姉のところへ行くにしても前もって来訪を告げておいて、お邪魔しなくてはならないんです」
「なんだか、面倒くせえなあ。まあいいや、おれも行く。お前がいいなら、おれだっていいよな」
「そりゃあ、鯉伴さまはまだ、大人と言うには早いですから」
「 ――― ふゥん、大店ねェ。そこってアタシがちょっと精気吸っても平気なくらい丈夫な女、居るかしら。ついでに見繕ってもいい?」
「馬鹿お前、何を勝手についてくる気になってやがんだ」
「え、えぇえぇッ、坊ちゃん、リクオの旦那、アタシを置いて行く気なの?!アタシこんな妖怪屋敷で一人ぼっちにされたら、怖くてたまんないわよぅ!この前なんて危うく納豆つけられそうになったのよ!!」
「妖怪屋敷って、お前だって妖怪じゃねーか。まあ、お前を一人にはしないつもりだ、雪女の姐さんにその間のお守りは頼んで行くよ」
「ぃやよ!あの女、コワイだもん!!」
「誰がコワイって?」
「ヒィ」

 ちょうどそこへやって来た雪女、一反絹を一睨みしてやって黙らせると、相変わらず氷点下の目つきのまま、視線をリクオへ流した。
 襟巻きに半纏、頭巾で完全防備した姿は、人間が見たなら我慢大会でも行われているのかと思ったろうが、雪女にとっては夏の日差しから身を守るためのせめてもの備えである。

 機嫌の悪い雪女の怒りの矛先が、何かの拍子に己等に向けられないようにと、鯉伴さまは身を小さくして、

「それじゃあリクオ、おれたちは部屋にいるからな、準備が終わったら、声をかけろよ」

 一反絹と二人、こそこそ連れ立って行ってしまった。
 残されたリクオに、短気な雪女の憂さ晴らしの矛先が向いたのは、致し方ないことである。

「リクオ、アンタ、まだこんなところにいるの。何をちんたらやってるのよ」
「だって姐さん、染め粉なんてボク、自分で使ったことないんです。そんなものなくっても、浮世絵町の人たちはもうボクを見て驚いたりしませんし、ここに住み始めたときだって、今ほど気を使わなくても慣れてもらえたものですし」

 しかしリクオとて、奴良屋敷で何もせずにただ十年も暮らしているわけではない。
 毎年訪れる夏の季節に、毎度雪女の不機嫌にさらされてきているし、リクオなりにこれを避ける術を心得てきている。
 機嫌が悪そうだと遠巻きにすればするほど、この女の機嫌はさらに悪くなる一方であるとも知っていたので、リクオが花びらのような唇を尖らせて甘えるように言うと、雪女は襟巻きの向こうから、くすり、と小さな笑い声をたてた。怖い奴と勘違いされることの多い女だが、こちらが頼ってみせると、決して無下にはせず、むしろ懐深く迎える母のような女であるのだ。

「そりゃ、あの頃はねえ。羽衣狐がてっぺんから転がり落ちて、豊臣が力を失って、人間も妖怪もどっと上方からこっちへ流れてきたから、正直今ほど落ち着いてなくてごちゃごちゃしてたし、人間どもも髪だ目だのの色にかまってらんなかったんでしょ。他の町だって、これからでも頻繁に出入りするようになればそうもなるだろうけどね、璞町になんてアンタ、夜姿なら誰の目にもつかないからって、昼姿では数えるほどしか行ってないでしょうが。
 ……ああもう、見ちゃいらんないわね、ちょっとかしてごらんなさいよ、不器用さん」

 井戸は日陰にあったので、いくらか過ごしやすくもあったのだろう、雪女は邪魔な頭巾や半纏を取り去って井戸の屋根の梁へひっかけるや、リクオの手から、染め粉を溶かした鉢と刷毛を取り上げてしまった。
 慣れた様子でぺたぺたと、リクオの後ろ頭あたりから染め粉を使い始めた雪女に、さすがに恐れ多いと慌てたが、

「ほら、動くな。やり難い」

 どこか楽しそうな声で叱られてしまったのと、雪女がさらりと髪を撫でた感触と、たすきがけにされた袖から伸びた白い腕がすっと背後から伸びて時々視界の端に映るのが、どきりとするほど追っている面影の所作に似ていたので、もしや後ろの正面には、彼の女が立っているのではないかと思ってしまうと、繋ぎとめておくためにも、黙るしかなかった。
 染め粉を扱うときの白手袋で覆われたほっそりとした手指が、ほんのたまに耳に触れてしまった刷毛の後に肌があわだつのを気遣って、優しくそっと撫でてくる細やかさや、用意された濡れ手ぬぐいで、時折水が伝う首筋などを拭いてくれる優しさや、常の雪女の言動だけを知っている者は、知ることの少ないだろう隠れたあたたかさが ―――


 ――― そこに居るのは、お前なのかい。


 そう誰何すると、今にも答えが聞こえてきそうなほど、よく似ているのだ。


 ――― ええ、ここにおりますよ、リクオ様。


 さわさわと、垣根の向こうで群れる名も無き草花が揺れるたび、清風にあおられた青々とする香りに混じって、六花の香りが、鼻腔をくすぐるようにさえ、思えてならない。


 もう少しですからね、もうちょっとご辛抱してください。
 でも、勿体無いことです。リクオ様の栗色の髪、あたたかそうで、私は好きですのに。
 ほら、お日様が照って当たると、黄金色になって、輝くように見えて。
 誰が何と言おうと、私は、好きですよ。

 でも、でもね、雪女、ボクの髪の色、皆がおかしいって言うんだ。
 皆と違うから、仲間に入れないって言うんだ。

 それは、困ったことですねえ。
 でもリクオ様、今はまだようございますけれど、だからと言って皆と同じ髪の色になさったところで、何一つ、本質を変えることはできないと、私は思うのですよ。髪の色を変えて受け入れてもらったところで、リクオ様の髪の色が本当に、黒くなったわけではないのですから。
 ええ、今はまだ、考えなくてもよいのですよ。
 今はまだ、気にする必要はないのですよ。
 後々、迷われたときに、もし思い出して標としていただけたら、それで雪女は嬉しゅうございます。


 ――― そうか、前に染めたときは、お前がやってくれたんだった。そうだね、お前の言っていたこと、今は少しわかる。


 人と同じ姿を真似て、一時だけ受け入れてもらえたとしても、それで己を、己等を、受け入れてもらえた事にはならない。


「 ――― さ、終わったわよ。少し置いといて、あとは湯殿で流してくれば真っ黒けのはずさ。……にしても、勿体無いもんだねえ、アンタの髪、ふかふかとした秋の日の稲穂のようで、あたたかそうで、わたしは好きなんだけど。とっとと用事を済ませて、とっとと元の色にもどしなさいね」

 手ぬぐいで髪を包んだ後、不意にこの手が去ろうとした。
 背後の面影の女が、去ってしまうのを許せずに、リクオは夢の中でいつもそうするように手をのばした。

 しっかと、握った手。

 これに驚いたのは、何も雪女ばかりではない、リクオ本人も、きょとんとした顔の雪女を前にしてはたと我に返り、弾かれたように手を離して、もごもごと口の中で侘びのようなものを呟き恥じ入った。
 きょとんとした顔でこれを見た雪女は、悪戯心を起こした。
 虜にした男ども相手によくするように、リクオの頤を細い指でついと上向かせ、妖艶に笑む。

「ははぁん。……さてはいい加減、面影の六花を追うのも疲れたかい?何なら、慰めてあげようか」
「馬鹿にしないでください、そんなんじゃありません。お手数おかけいたしました、後は自分でやりますから。ありがとうございました、姐さん」
「おや怖い。そんな風に睨むんじゃないよ、冗談の通じないヤツだねえ」

 寂しさに凍えそうな男どもなど、皆一様に雪女の誘いに脆く崩れ去るはずなのに、リクオには逆効果であった。むっとしたような表情で、雪女の手から鉢や刷毛を奪うように取り上げ、てきぱき片付けながら、もう雪女になど見向きもしない。礼を口にはしたものの、言葉尻には怒りが混じっている。
 常とは違うリクオの様子に、からかいが過ぎたかと反省した雪女は、素直に詫びることにした。

「悪かったから、嫌わないでおくれ。心配してるのは本当なんだよ。アンタが言うような雪女、この日ノ本の国をそれこそ北は蝦夷から、ありえないと思いつつも南は琉球まで探したけど、ちっとも見つかりやしない。過去に咎を負ったか契りを破ったかして消え去った者どもの中にもいやしない。そんなに雪女がイイってんならさ、アンタの心を慰められるような良い娘、紹介したっていいんだよ」
「でもそれは、ボクの雪女じゃないでしょう」
「だけどその、《ボクの雪女》がどこにも居ないんじゃ、仕方ないじゃないのさ」
「そうですね。このままだとずっと独り身で終わるのかもしれません」
「ハァ、すっかり虜だねえ。いや、アンタほど守護されているんなら、この場合、相愛か。で、どんな娘だったの」
「どんなって ――― 例のごとく、よくは思い出せていないんですよ。少しずつ、面影だとか、所作だとか、そういうのを思い出しているくらいで。……ボクが夜姿でも昼姿でも、全く態度を変えない女です。たいていの女怪は、夜姿になるところっと虜になって面白くもなんともないもんなんですけど、あれの場合はこっちが昼だろうが夜だろうが、何かまずいところを見つけては叱りつけてくるし、拗ねて見せりゃあ甘やかしてくるし、細やかで、優しくて、兎みたいに臆病なくせして、震えながらでもオレを守ろうとしやがるから見てないところで無理してるんじゃないかとこっちだって気が気じゃなくて ――― オレは、強くなりたくて。あいつを泣かせたくなくて、笑っていてほしくて。……ああ、駄目だ駄目だ、考えるとどうしても、今が昼だか夜だかもわからなくなってくる。
 ……姐さん、こんな話、聞いてて楽しいですか?何を笑っていなさるんです」
「そりゃあ、楽しいし、嬉しいわよ。そんな風に一途に、わたし等の一属の娘を愛してくれる男なんて、中々居ないんだから。重いって鬱陶しがられたり、煩わしいって怒られたり、こっちは本気で心配してるのに、見向きするどころか心を離していくようなことが多くって、相愛相手と一緒になるってのはあんまり無いのよ、わたし等。虜にした男でいくらか心を慰めるくらいで ――― アンタにもそうしなさいって言うわけじゃないんだけど」
「姐さんがさっき仰せだったように、ボク、不器用ですから。そういうことは出来ないんです」
「アンタの雪女だって、もう虜の一人や二人、居るかもしれないのに」
「いやしませんよ、あれもそういう器用な女じゃないんです。まあ、悪い虫の一匹二匹が付きまとっていることに気づいていないのは、充分考えられることですが、そんな虫は叩き落してやれば済むことですから。
 お心遣い、ありがとうございます。さっきは突然手を握ったりしてごめんなさい。姐さんの心は、総大将のものなのに」
「何を妙な気を使ってるんだい ――― それにしても、アンタの、《ボクの雪女》さんとやら、幸せだねえ」
「……さァ。そうしてやりたいと思う気はあるんですが、ボクはこの通りの半端者ですし、ろくに気も回らないし、苦労ばかりかけていたような気がするし ――― これから会えたとしても、その後ずっと幸せにしてやれるかどうかなんて」
「いいや、幸せさ。心を尽くした相手に、お前だけだと言われるなんて、本当、わたしには夢みたいに思える。苦労がどうとか、そいつが強いとか弱いとか、そういうのは関係ない。そこが煉獄だって構わない。いいや、これからその御方が煉獄に行こうと言うときに、供をしてくれなんて甘えてもらえたら、本当に本当に幸せだろうと思うよ。わたしは、その娘が羨ましい。その娘に会えて、口説くことがあったら、覚えておきなよ。雪女は、幸せにするなんて言ってくれる殿方じゃなくてね、これだけの荷を背負っているから、供に背負ってくれないかって甘えてくる男が好みなんだ」

 クスクスと笑う雪女の髪を、清風が撫でる。
 虜に向ける笑みではなく、心に浮かんだ愛しい気持ちを、愛でるような。

「いつかその娘に会えたなら、たっぷり甘えてやっておくれね」

 不思議なことに、妖艶に笑まれたそのときよりも、淡雪のようにふんわり微笑まれた中にこそ、リクオは己の六花を見るような心もちがしてならなかった。