「 ――― 最初の頃は、お袋も大人しくしてくれていたんです。店の奥向きのことをカナさんに教えるときだって、楽しそうだったし、あれこれカナさんの世話も焼きたがってたし、寄合連中の奥さんたちに紹介したりと、うまくやってくれていたんですよ。
 私も、その、カナさんが来てくれてから家にいるのが楽しくもなってきたし、お袋もところ構わず怒鳴り散らすようなことがなくなってきたから、詩吟だ茶の湯だとふらつかずに、店にいようって気にもなった次第で」

 清屋の若旦那、リクオを一人前の男として信用し、今までどんな気心知れた詩吟仲間や取り巻き連中、茶の湯友達にだって明かせなかった苦しい胸の内を吐露した。

 店に、巻いた反物を風呂敷に包んで背負ったリクオ ――― 言わずと知れた一反絹、一人で奴良屋敷に残されるくらいなら舌を噛んで死ぬと言い張って泣き喚いて、結局ついてきたのである ――― と鯉伴さまが現れたときこそ、童子姿の二人をどうやって扱ってよいものか困りもしたが、苔姫の紹介でもあるから無下に追い返すわけにもいかず、どんなものだろう、この童子の一人が本当に妻がなつかしげに語る、幼い頃から兄君と慕うひとであるのかと試し判じるつもりで、何も知らせずにおいた妻を、客間に呼び寄せたところ、カナは久方ぶりに見えた昼姿のリクオの姿にすっかり驚いて、緊張の糸が切れたのか、座敷に入るが早いかぽろぽろと泣いてしまったのである。
 黒く染めた髪の色など、カナの前には何の変化にもならなかった。

 畳に伏すようにして泣くカナを、心のこもった言葉を尽くして慰め、夫の目から見ても、決して馴れ馴れしくせずむしろもっと傍に寄ってやってくれればいいのにと歯がゆく思えてしまうほど、男と女の一線を保った接し方をするので、確かにこれは童子にはできぬ心遣いであると、若旦那は舌を巻いた。
 そこでようやく、元々身内の恥は身内で沙汰を下さねばならないところを、誰かに頼ろうと言うのだから、何ができるかと余計な期待をするよりも、自分の背を押してもらうつもりで、妻の気分が落ち着くのを見計らってから、話してみようと言う気になったのである。

「お袋もね、悪い人間じゃないんですよ。親父が店をこんなに大きくするまで、何かと苦労してたのを私も知っていますし、家の奥向きのことをあれこれ知っているのは、やっぱりお袋ですから。家のことをしてくれているのは頼りになるし、いざってときに肝っ玉も据わってる。
 ただね、なんて言うのか、御しにくい、って言うのか。よかれと思ってやったことに、ケチをつけるようなところがあって。手を出せば『それはやり方が違う、余計なことをするな』と言い、そうかと思って任せていれば、『いつまでたっても何一つ仕事を覚えない』なんてね。まあ、どこも同じかもしれませんけど、そういうところが可愛くないっていうか、まあ、心が休まらないんですわ。確かにお袋はあれこれ気がつくし、仕事をさせれば番頭だって顔負けです。それに言うことは正論だったし、男みたいに気風のいいところがあるもんだから、たいして恨みに思うような奴もいなくて、私だって子供の頃は感心したもんですよ。
 親父一人だけなら、こんなに店を大きくできたかどうか。ちょいと物腰弱いところがあるから ――― 今でこそ、そんなところも上方風でいいなんて世辞を言われることも多くなりましたが、まァ、その、はっきり物を言えないタチでして。
 それが悪かったのかどうなのか ――― 何が、誰が悪かったのか、私にもはっきりしたことは、そのぅ、わからないんですが。間が悪かったと言うか……親父とお袋の言い分が食い違うようになったというか。だんだんとね。
 ――― 親父が、愛妾を持つようになった。
 私もちらと見たことがあります。ええ、美人です。それこそお袋なんぞと比べたら月とすっぽん、お月様だって比べられる方が気の毒ですし、すっぽんだって比べられて良い気持ちになるはずがないです。ただねえ、親父が選ぶお月様は、どれもこれもみんな、自分が浮世にあって常に円らに平らかでいられるとは思っていなくて、むしろわきまえてるって言うんですか、そういうできた女ばかりなんですよ。強請りたかりの類はもちろん、ちょっとした金の無心もない。まあ、そういうところ、親父は面倒見が良いから、安心できたんでしょうけど、それにしたって、一歩引いた、影を踏まずに後ろをついてくる感じ……奥ゆかしさって言うんですか、選ぶ女選ぶ女、みんなそれがあある。
 お袋もそれに気づいたのかもしれません。自分に無いものがある、って。せいぜい妾宅回りで年に一度会うくらいの妾たちに、気圧されたのか、どうか。とにかく、お袋はそうやっておかしくなっちまった。昔っから気の強いところはあったが、最近は、こっちが言ってもいないことを気にしたり、いじけちまったようになったりして」

 ――― と、そのときである。
 ぱたぱたと奥女中の足音がしたのに気づいて若旦那が口を噤むと、すっと襖が開いて、

「若旦那様、お母上様がお戻りになって、こちらへ」
「何?人払いをしておけと言っておいたろう」
「お客様がお見えなのでとは、申し上げたのですが ――― 」

 女中は恐縮した様子で言い述べたが、どこからか、どすどすと遠慮の無い足音が聞こえてきたかと思うとや一礼し、逃げるように去っていった。
 かわって現れたのは。

「カナの昔なじみだって聞いたけど、その二人がそうなのかい?ふうん、ずいぶんと小さなお客人だねぇ」

 大相撲の力士もかくやの迫力。
 胡麻塩の髪を撫で付けて結い上げているが、鯉伴さまなどはぽかんと口を開けて首をかしげ、何故そこにあるのが力士髷でないのだろうと言うかのような表情。リクオは久しぶりに守役として、好奇心の赴くままにまじまじと見つめておられる鯉伴さまの腰のあたりを、ぽんと叩いてたしなめてやらねばならなかった。
 とは言え、リクオも瑪瑙の瞳を伏しがちにしながら、ちらりと目の端に映った女の姿と声の迫力に、これは、と、内心舌を巻く。

 小さな眼は黒々としていて小さく可愛らしいが、この上の眉は勇ましいもののふを思わせるほどに吊りあがっており、眉尻は二つに分かれている。鷲鼻であり、その下にはうっすら青い髭のようなものが見られる。これが、ぱんぱんに膨れ上がった緋色の小袖の上に乗っかっている ――― 首が見えないものだから、そう見えてしまう。カナの細身など、その張り手一発で部屋の隅まで飛んで行ってしまうのではないかとさえ思えるほどの、迫力があった。
 これが、笑っていれば愛嬌もあるだろうに、不機嫌そうに、品定めをするような目でじろじろとこちらを見てくる。実のところこの視線が、一番不吉に思えた。自分に害を為すものか、それとも利益を生み出すものか、そのどちらかを見定めようとしており、どちらでもないものの存在など、信じていないかのような。

「お邪魔しております、奥様。カナお姉ちゃんには、小さな頃から遊んでもらってました。こちらの町にお使いの用事があったので、寄らせていただいたんです」
「ふうん……礼儀はわきまえてるようだね。いいことだ。カナ、そろそろ奥が忙しくなってくる頃だよ。それからお前も、こんなところで油売ってる暇があるんなら、店に顔出して一つでも仕事憶えたらどうなんだい」

 じろじろと見つめられているよりは、目を細めてにこりと笑い、楚々と一礼をして見せた方が目の色にも気づかれなかろうと、リクオが例の人好きのする微笑みを浮かべ、童子特有の細く柔らかな声で、大奥様へ失礼の無いように一礼すると、隣で鯉伴さまもこれを真似たので、大奥様は満足して、とりあえず敵か味方かの判断を保留としたようだ。
 くるりと後ろを向いて、またどすどすと足音を響かせ部屋を去ったとき、あ、と鯉伴さまは声をあげかけた口を、とっさに自分の手で押さえなければならず、カナは恥じ入って目を伏せ、リクオはやはりそういうことがあったのだろうと察し、己の昼姿を見るまでカナが涙を堪えていたのをいじらしく思った。

 清屋の大奥様の髪には、三年前のあの日、カナに送られた黒漆の簪が、綺羅と輝いていたのだ。

「……最近はああやって、他人が持つ良さそうなものを、持って行っちまうようになって」
「いいえ、気に入ってくださって、その、お貸ししているだけですから……」
「カナさんはこう言ってくれてますが、返す様子もなし。……カナさんが奥に慣れてきて、女中たちを仕切るようになって奥の仕事を立派にこなしてくれるようになると、今度は逆に、お袋の奴、カナさんの仕事に難癖をつけるようにもなったんです」
「三年も経つのに、掃除も一人前にできない私が悪いんです」
「いいえ、カナさん。私がこの通り、親父譲りで気が小さいもんだから言うに言えないでいるんだが、私はカナさんの味方のつもりです。カナさんが大事にされていた手鏡なんぞも、無くなったと思ったら同じ物を昔から持っていたなどと言ってお袋が使っていたりもするし、掃除の件だって、毎日蔵の隅の方まで掃き清める必要など無いんですから。それを、お袋の言うことに従ってカナさんが少しでも蔵の整理をしようと一人で忙しくしていれば、気づかなかったなどと言って閉じ込めたり。あの時は怖い思いをさせてしまいました」
「 ――― きっと私が、何か気に食わないことをしてしまったんだと思います。簪のことだって、気に入ってくださってるから、返してくださいとは、言いにくくて」
「そりゃあ、あんな顔で睨まれたら、返してくれとは言えませんよ。私からは、そろそろ新しい簪を買って、それをカナさんに返してやったらって、何度か言ったんですが、いやこれを気に入っているから他のは要らないと、こうで」
「事情は、なんとなくですが、わかりました。若旦那は、お母上さんのそうした事情を、苔姫さまにご相談にいらしたのですね。何とかならないものかと」
「はい。お恥ずかしいことですが、昔は無かったこういう事が最近積もり積もって、奥女中たちの間にも不信感が募っているような次第でして。少し前までは……親父が愛妾を持つようになってすぐの頃までは、こんな事はなかったのに……そう、親父が病んだ愛妾を哀れんで、死んだ後くらい、同じ墓に入れてやろうと、父娘の縁を結んだあたりからです。その頃からはっきりと、お袋は人が変わってしまった。私は、どうしたものかわからなくて ――― 」

 沈黙が落ちる。
 いつしか陽は翳り、たしかに奥の方の気配が忙しなくなりつつあった。

 まもなくこの部屋にも、完全に陽が暮れる前に、行灯に火を入れるために小僧がやってくるだろう。

「 ――― どうしたらいいかって、そりゃあ、アンタ、決まってるだろう。アンタはオレの妹の旦那なんだからよ」

 視線を落としていた若旦那は、かけられた声が童子のものでなく、しっとりと艶のある男子のそれに変じているので弾かれたように顔を上げた。
 すると、今の今までリクオが座っていた場所に、しろがねの髪の美丈夫が不機嫌そうな顔で座している。これが妻から聞いていた、化生した後の姿であるのかと、聞いてはいたが実際に目にしてみると、見ているだけで引き寄せられ魅入られてしまいそうな妖艶な妖であった。
 矜持を保つ間もなく《畏れ》を抱き、ごくりと喉を鳴らす。

「妹がこの家を嫌だって言うんなら、連れて帰るつもりだったがどうやら違う。アンタもちゃんと、気は小せえらしいがそれなりに、妹のことを大事にしてくれいるようだ。ちゃんと母親から庇ってもいるようだし、ならアンタがすることはただ一つ。代わりの簪、すぐにでも買って、ちゃんと口説いてやんな。
 アンタの母親は、どうやら悪行を重ねてるらしい。心に巣食ったその悪の方は、苔姫さまに払ってもらうがいいだろう。アンタの父親が、愛妾と父娘の縁を結ぼうとしたときからと ――― それを聞いて、察しがついた」
「苔姫さまの元へ行こうとは、何度も言ったのです。お袋が何か悩み事を抱えているんなら、聞いてくださるからって。しかし ――― 」
「理由をつけて行かずじまい。そうなるんなら、こう言ってやんな。『その子は立派に育ってる』、これが苔姫からの言伝だとな」
「それは、一体 ――― ?」
「言えばわかるさ。アンタのお袋と親父さん、アンタの知らないところでも、色々あるんだよ」

 これだけ言うと、リクオは若旦那から視線をついと外し、今度はカナへ、仄かに昼姿のあたたかさを思わせる、優しい笑みを見せた。

「カナちゃん、いつでも辛くなったら、帰ってきちまいな。なに、後の始末なんて周りが考えるもんだ」
「ありがとう、リクオくん。でも ――― 」

 隣の夫を見つめ、二人の視線がかち合うと、どちらからともなく優しく微笑みあった上に、

「もう少し、がんばってみようと思うの」
「そうかい。わかった。……オレも昼姿の方で、面倒がらずに髪染めて、また会いに来るよ。そっちの方が都合がいいんだろう」
「うん。知らないうちに夜姿のリクオくんに、部屋に上がりこまれているよりは」

 くすくすと笑いながらカナが言うので、

「容赦ねえなあ。嫌われたもんだ」

 肩をすくめて見せ、ここらが退き時だと判じもできた。
 頼りないには頼りないが、少なくとも夫の方は妻に惚れ続けているようだし、カナには疲れの影はあれど、一人の男の妻として、身の内の芯の強さがそのまま姿形の美しさとなっているように、すっかり少女から女としてしなやかな成長を遂げている。
 この女が、しかと視線を合わせて、姿勢を改めたので、リクオは顎を引き、次の言葉を待った。

「一つ教えて、リクオくん。リクオくんは大奥様を見て、一体何を判じたの?」
「……教えるのは良いが、本人に何か問いただすのは厳禁だぜ。なにせタチが悪いものに憑かれてる」
「うん。……それは、一体」
「此の世の中で、一番己が嫌いだって面だ、アレは。だから、身の回りの奴等も全員、己を嫌ってるって思い込んでやがる。己を嫌う輩は次第に敵に見えてくる。敵は滅しなければならない ――― そう思い込む、厄介な悪行さ」
「お袋が?進んで他人から嫌われるようなことをしておいて……?」
「最初から嫌われてるって思い込んでやがるんだ、これ以上嫌われることなんざ、怖くも何ともないだろうよ。いいか、苔姫さまの元へ連れて行け、アレを払うのはオレの領分じゃねえ。 ――― 苔姫さまだって、そんなこと百もご存知だったろうに、わざわざオレをここに来させたのは、まず最初に、旦那、アンタの悪行をやめさせるためだったんだろうな」
「わ、私の?!私が一体どんな悪行をしたと言うんです」
「妬み嫉みは憎みの類。憎みはすなわち悪。……つまり、焼き餅さ。それもすっかり払えたろう?オレなんぞより、妹はアンタを選んだんだから。目の前でな。いつまでも『カナさん』なんて呼んでんじゃねえや」

 からかうように言ってやれば、若旦那は縁談のときにカナを初めて見たときそうしたように、耳まで朱に染まり、もう言葉も出なかったのである。


+++


 すっかり凝り固まった肩を、ぐるぐる腕を回してほぐした後、ううんと鯉伴さまは一つのびをされた。大人しくはしていたものの、まだ遊びたい盛りに座談はいささか辛いものがある。
 それに倣って、一反絹もリクオが抱えた包みからにょきりと顔をだし、ふへえとつめていた息を吐き出して、行儀悪くだらんと顔だけを風呂敷の中からたれ下げさせたままにした。

 忙しくなってきた黄昏時の店を堂々と正面から出てきたが、妖怪に化生したリクオの異相を、気に留める者は無かった。そこに在るはずなのに、見えない、不可思議な妖の術に違いなかった。
 群雲に隠れた月のような、掴みどころの無い《畏》で、二年前までなら鯉伴さままでをすっぽり覆っていたろうが、最近はそこまで気を使わなくて良くなった。鯉伴さまはここ一年で、人に気づかれずにすいと横切るくらいの芸当は、意識せずともできるようにおなりである。ほんの幼かった頃こそ、父君とリクオの姿も技も、同じものとしか見えず真似をしようにもどうしたらよいものか首を捻られるばかりだったが、傍に見てお過ごしのうちに、職人の子が職人の真似事を見よう見まねで始めるのと同じで、こういうものだろうかと試されるようになり、今でははっきりと、守役よりも父君の力の方こそが底知れぬと、それぞれの違いをしかと感じられるようにまでなった。
 これを言うと、守役は侮られたと不機嫌になるどころか、妖気纏わせた艶やかな夜姿の方ですら、「相手の力量を判じられるようにおなりになったとは、守役としてこの上なく喜ばしく思いますぜ。そう、オレの力なんざ、総大将の足元にも及ばねえ。あの方はお強い。だが、力を持たない人間どもや小物衆にとっちゃ、どちらも同じに見える。山ならば、富士も他も同じだろうと思われちまうんですよ。しかし、これがその御年でわかるようになったなら、鯉伴さま、これからさぞかしお強くなりましょう」と、聞いている鯉伴さまの方が恥ずかしくなるほど手放しで誉めた。

 このように、物の道理をわきまえない幼子の頃に比べ、鯉伴さまに手がかからなくなったからか、それとも鯉伴さまが昔よりリクオの目線に近づいたがために、以前までは気づかなかったところを気づくようにおなりであるためか。
 最近、リクオは物思いをすることが多い。

 こうして、上弦の月が暮れかけた街の東の空へ、宵闇の爪跡のように浮かんでいるときなどに、よくそうしている様子である。幼子の頃のように鯉伴さまがリクオについて回ることもなくなり、道場で牛鬼に剣術の稽古をつけてもらった後などに、そう言えばリクオはどこだろうと探すと、屋根の上でやはりぼんやり月を見てそうしていることもある。
 リクオ、と呼んだ拍子に我に返り、余程驚いたのかびくりと体を奮わせた拍子に昼姿から夜姿に化生したのが、まどろんでいた猫が驚かされたと同時に全身の毛を逆立てる様にも似ていて、その時は遠慮なく笑わせてもらった鯉伴さまであった。

 今もこの物思いの虫が、何の拍子にか騒いだらしい。
 そぞろ歩くように、緩慢に裾をさばきながら、片腕を懐に入れたまま袖を遊ばせ、遠くを見つめている。目は開けているが、目を瞑っていたり後ろを向いたままでも歩いていられるリクオだから、ちゃんと物を見ているのかどうかは甚だ怪しい。

 一体何を考えているのか、訊くには訊いてみたこともあるのだが、その時は昼姿のリクオに、「いえ、特にこれといったことは」と、はぐらかされてしまった。
 いくら守役とは言え、たしかに昔は頼りになり甘えもできる兄のように想っていたが、今はすっかり目線も同じで ――― 夜姿の方ならば、まだまだ分はリクオにあるけれど、つい先日だって母君にも、「時折リクオさんは鯉伴の弟のよう」などと笑われていたというのに、まだ兄貴面したいらしいと、鯉伴さまは少々悔しく思われる。
 もっとも、ただ悔しく思って胸の内に秘めておくような、殊勝なたちではない御方なので、こうしてリクオにつきあって、ふらふらと漂うように歩む帰り道、「なあ」と、改めて問いかけてみた。

「最近多いな、それ。何を考えてやがるんだい」
「え?あ、いやなに、たいした事を考えてやしませんぜ」
「前も訊いたが、同じ答えだったぞ、リクオ。そのたいした事でもねえものに、お前はずいぶん長いこと悩みたがるな。ちょいと生真面目すぎるんじゃねえか。それともアレか、お前の探す女のことか」
「総大将を真似て、ませたような事を仰る。全く、昔はちょいと遠出をするたびに、ただ土産をねだってくる可愛げがあったってのに。……いえ、女のことじゃありませんよ。別の事です。鯉伴さまにお聞かせするようなことじゃ」
「リクオ、いつまでもガキ扱いするなって、いつも言ってるだろう。お前はおれの守役で、兄貴みたいなもんで、だからいつまでもガキだって思うのかもしれねえがよ、おれだってちゃんと年とってんだ。難しいこたあ、よくわからねえが、誰にも話さないでお前がただ辟易としてるのを見るばかりなのは、何だか胸が痛い」
「 ――― いつまでもガキって、坊ちゃんなんてまだ充分、小便臭いガキじゃないのさ」

 いつもなら、リクオが話す心積もりをするまでの沈黙を、鯉伴さまは辛抱強く待つばかりであったが、今日は違った。一反絹が居た。リクオが小脇に抱えたまま忘れていた風呂敷から、にょきりと顔の部分だけ除かせて、切れ目のような目を、にたりと性悪そうに歪めている。

「こんにゃろ。居候の分際で生意気言いやがって」
「本当のこと言われて怒るのは、子供の証拠ヨ。旦那が考えてることもわからないなんて、んもう、本当に子供よね、子供。おこちゃまよ。あんな話を聞かせられて、考えることと言えばもうわかりきってるなじゃいの。諸行無常よ、わかる?祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……『平家物語』、読んだことある?無学じゃ困るわよ、二代目サン」
「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。馬鹿にすんな、こんなモン五つの頃にはコイツに暗誦させられてたぜ。……これが今日の話と、何の関係があるんだよ」
「あの店、あのままじゃ、いずれ壊れるわネ。最初は夫婦二人三脚で大きくしたお店だったんでしょうに、今やすっかり大旦那の気持ちは奥方から離れて、愛人の元へ。ちょいとした心のすれ違いが、あんなに大きなお店を傾けるような理由にもなっちまうんですモン。諸行無常よねェ」
「おいおい、勝手に話の矛先をそっちに持っていくなよ。リクオの考えてるのがあの店の事だとは」
「 ――― まぁ、確かにあの店の事だけじゃねえですが、大筋はあたらじとも遠からず、かな。珍しく勘がイイんじゃねえか、お絹」
「あらやだ当たった?当たった?賞品なに?え、接吻!?やだお絹照れちゃう」
「それこそまた勝手に決めてるんじゃねェよ襤褸絹。……なんだよリクオ、あの店の事なら、あとはあね姫さまに任せておくんじゃねえのかい」
「ええ、それはそうなんですがね。……この浮世、あの奥方にとっちゃ、地獄みてぇなもんなんだろうなと思うと、浄土とはどこにあるのか、いやその前に浄土ってのは、何であるのか、と。今回のことだけじゃねえ、これまでも、結構色々ありましたでしょう。苔姫さまの伝手で、屋敷に持ち込まれた怪異がらみの面倒ごとの裏に、実は人の負の感情や、蓋をしておきたい何かが潜んでいたこと。
 そういうのを見るたびに ――― オレの目から見ればこの場所は、人が住まう彼方の世界と、妖怪が住まう此方の世界とが隣り合わせに近所づきあいできる、浄土のような場所なんだが、こういう奴等から見れば、地獄のように映っているんだろうと思えてね。所詮浮世にある限り、心を平らかにして陽気ばかりに過ごしていくのは無理なのか、と」
「難しいことは、おれはよく判らんがよ。あの店の場合は、あの女力士の般若ばばあが元凶なんだろう?そんなに難しく考えんでも、いいんじゃねえのかい」
「 ――― その家の中で、誰が味方で誰が敵かわからない気分って言うのがね、少し、わかるような気もするんで、他人事とは思えなかったって次第で。詮無いことです。どうか、お忘れに」
「わかる、って」

 浮世の憂き目だ、諸行無常だ、そういった難しい話はまだよく判らず、あね姫さまからも「まだ風情などわからぬか」と時折笑われている鯉伴さまだから、それまでの、清屋の奥方があの家の中でどんな気持ちで過ごしているのかなど、てんで興味が無かったが、リクオが少し横顔に寂しげな微笑を浮かべて話を打ち切ってしまおうとすると、そちらの方は聞き捨てならぬと食いつかれた。

「なんだ、そりゃ。屋敷で、おれの知らぬところで謗りでも受けてやがるか?どうしてすぐに言わねえ。誰だ、言え、そんな奴とっちめて ――― 」
「いや、違う、それは違いますぜ鯉伴さま。言ったでしょう、ここはオレにとっちゃ、浄土のようなところ。奴良屋敷では朝も夜も、どこまでも優しい日々が繰り返される。オレが言ってるのはその前。橋を渡って、奴良屋敷に厄介になる前に居た場所の話です。そこがどこか、ご存知の通り、霞がかかったようにぼんやりとしていてこれと判じることはできませんがね、そこであの女と同じような悪行に、取り付かれそうになったり払ったり、また取り付かれそうになったり」
「その、悪行ってのはもしかして」
「《自己嫌悪》 ――― たっぷり身に覚えがある悪行ですぜ」
「なんか、似合わねえなあ、お前が自己嫌悪なんざ。昼でも夜でもタラシまくりで、そんな己が嫌いだと言われても、自慢にしか聞こえねえぞ、おい」
「あちらはこちらとは違う。あちらでは、昼と夜とで姿をほいほいと変える奴を、人は決して受け入れない。あちらでは、妖怪なんざ、書物の中でしか存在しないもの。あってはならぬもの。昼姿で息を潜めるように人と交わって、決して夜姿は見せないように、黄昏時を過ぎれば妖気を必死に抑えてた。夜姿では、何故それが朝になると解けてしまうのか、そちらの姿ならば立派な妖怪として、人どもに威光を示しもできようと妖怪たちから残念がられ、そんな中で、地獄の亡者のように、もがいていたような覚えがある。
 どちらとして生きるべきか。オレは人なのか、妖怪なのか。どちらの世でも、オレは半分だけしか受け入れられず、あとの半分は捨てられる。どちらを捨て、どちらを拾った方がより良いのか」

 そぞろ歩きの足が、ひた、と止まって、月を見上げた。
 漆黒の着流し姿が、黄昏を過ぎて迫る宵闇の中、沈むようにも、逆に濡れて光る水面のようにも見えて、長いしろがねの髪が風に泳げば、腕を組んで立っているだけで、一枚の絵になるような美丈夫である。
 懊悩を宿した瑪瑙の瞳は思い出した何かに苦しげに、寂しげに、虚しく月を映す。
 一反絹は、絵になるわねえ、なんてこの姿をため息交じりに見つめるばかり。また、悔しいが、鯉伴さまもかける言葉を見つけられず、この様子を隣で見つめておられるしかなかった。
 リクオが言う、妖怪が人に忘れ去られた世など、夜が訪れれば必ず闇が辺りを包む限り、決してありえないとしか思えず、しかしリクオが言う世界での窮屈さを理解できるとしたら、それは己しか無いだろうから、何か言葉を見つけてやらねばならないと、必死になってお考えになる。そう、己しか理解できぬと、鯉伴さまは正しく判じた。人であり、妖怪であり、そのどちらでもあり、どちらでもない生き物としてならば、己の理解者は父でもなく、母でもなく、このリクオしかないように、逆にリクオを完全に理解できるのもまた、己しかいないのだと。

「 ――― 仕方ねえさ、お前も、おれも、そういう生き物なんだから。自己嫌悪結構、妖怪ってのは悪行するもんだ、お前がいくら悩んだところで、それほど迷惑にもならねえさ。せいぜいこの襤褸絹みたいに、お前に懸想する者どもが増えるくらいだろ。お前は生真面目だから、そうしねえと前に進めねえってんなら、悩むのもいいんじゃねえのかい。
 でもよ、おれはな、リクオ。昼姿のお前ににっこり笑われて起こされりゃ嬉しいし、夜姿のお前に背負われたら安心する。どっちかを選べって言われたって、選べねえよ。此の世に朝と夜が交互に来るように、季節が巡ってくるように、お前がそういう生き物だって知ってるから、選べねえよ。だってどっちも大好きだもんな」

 紡ぐ言葉に正解などない。もっと言葉を上手く使えたらと、年を経ればもっと慰めの言葉の一つや二つ、よどみなく出てくるようになるのかと、己の幼さを悔しく思いながら、鯉伴さまはお続けになる。

「おれはいつだってお前の味方だぞ、リクオ。お前が彼方の人の岸を選ぼうと、此方の妖の岸に留まろうと、それがお前の選んだ道なら、おれはいつだって応援する。おれは絶対に、お前の味方をやめねえから」
「そいつが、間違った道なら、どうします」
「全力で間違えりゃ、瓢箪から駒、嘘も真になるかもしれねえ。だいたい、間違いかどうかなんて、やっちまった後じゃなけりゃわからねえじゃねえか。それにお前、おれにいつも言ってるだろ、間違えたら、ごめんなさいって言って、やり直しゃいいって。大人になってからだって、別に、それを変えちゃならねえってこともねえだろう。
 ここに居る間はいいが、もしも、もしもな、お前がそういう世で、味方がほしくなったら、おれを思い出せよ。どこにだって行くし、いつだって加勢してやるから」
「そいつは、頼もしい。じゃあ、もしそういう事がこの先あったなら、鯉伴親分の加勢を頼みにするとしますかねえ」
「うん、きっとその頃は、おれは立派な二代目だ」

 大人ぶって背伸びをして、しろがねの髪をくしゃりと撫でてきた鯉伴さまに、リクオはおやと目を見開いた。

「 ――― 背が伸びましたね、鯉伴さま」
「おうよ、お前の昼姿、もう少しで追い抜くぜ」
「仰ることも立派に一人前だし、元服が愉しみだ」
「大人になる前に、せいぜいその甘ったれ癖、なおすことネ、坊ちゃん。大好きだの何だの、聞いててこっちがあてられちゃうわよもー、はずかしぃ。旦那の生真面目、ちょいとは見習いなさいな」
「ぁんだと襤褸絹!」

 リクオの懐の風呂敷から、ふわりと飛び上がった一反絹、鯉伴さまの指先をするりするりとかすめて逃げる。
 なめらかな漆黒の天鵝絨が東から紗を広げ、あたりはすっかり宵闇に呑まれた。
 ここからは妖の岸辺である。一反絹が身を広げてはしゃいでも、奴良屋敷までの畦道を、見咎める者など誰もいない。

 じゃれ合いながら家路を往く二人を追って、苦笑しつつ、リクオもまた歩み始めた。
 鯉伴さまはもうすぐ元服の時を迎える。
 己の役割ももうすぐ終わるなとふと思えば、唐突に夢の終わりを見るような心持ちがした。

 からからから、と、廻る。糸車は廻る。糸を紡ぎ続け、本来決して、逆巻くことはない。