玉苔寺と、誰かが呼んだのが始まりだった。
 一人の尼僧が経を読み、これを手伝う近所の若い娘たちが出入りして、綺麗に整えられた寺は、滞っていた淀みが流れ行くかのように、以前よりも風がよく通り抜ける。

 つい数年前まで、黄昏を過ぎると人魂や鬼火が当然のように浮いていた墓場にも、あたたかな気配にまどろむように、落ち着いた眠りだけが在る。嫌味な気配は無く、昼間ならば近くを通ったついでに寄ってみようかと思わせる、何か清浄としたものが辺りに降り立っているような心持ちさえして、人はありがたい気持ちになるのだった。

 今も、墓参りに訪れていた夫婦がふと脇を見れば、無縁仏の廟ですら光るように磨かれ、脇には慰めの紫陽花が控えめながら咲き誇り、先ほどまでの驟雨の清い雫を、大きな葉が子供の指先のように悪戯に跳ね返したので、ついそこで足を止めて、ここに眠る人々も、自分たち一家の墓に眠る幼い娘と同じように、誰かの娘であったり息子であったりしたのだろうから、誰とは知らぬがどうか良い夢を見てお休みになってくんなさいと、買い求めた線香に火をつけて手を合わせていた。
 ありがたい気配がありがたい心を呼び、人が手を合わせるたびに、神仏が訪れてまたも淀みが払われていく。

 この寺で不穏な死を遂げた住職の業をすら、尼僧は全て引き受けて尚威光は留まることなく、寺を訪れる人は絶えない。
 言わずもがな、玉苔寺の尼僧とは、苔姫さまのことである。
 一歩足を踏み入れた瞬間に、違和感を覚える場所。
 悪しきを覚えるとすれば自らの内にこそ悪しきがあり、清きを覚えるとすれば自らの内にこそ清きがあると知らされる、玉苔寺は今や稀有な聖域として、人々の信仰を集める場であった。

 寺の門を潜ったとき、例に漏れず、清屋の奥方もやはり違和感を覚えた。

 このところ、常に人の視線を感じ、それがどうしても己を嘲笑っているように思えてならず、また大店の奥方に相応しい礼法だの物言いだのを学んできた自負が無いばかりか、己の容姿が必ずしも美しくなく元はと言えば田舎百姓の出の自覚だけならあるものだから、覚えのあるところ無いところをきっとひとも知っていて、あれこれ笑っているのだろうと推し量っては、まず出会う人々の目を睨みつけ、己を嘲笑っている奴かそうでない奴かを判じるようにしていた。
 しかし人とは狡賢いもの。こちらが目を光らせていると知れば、今度は見ていない場所で、例えば通り過ぎたばかりの部屋の中、障子の陰、こちらがこれから曲がろうとしている辻の先、生垣の向こう側、吸い物を口に入れた瞬間に椀の底に隠れてまで、いたるところからひそひそと、何を言っているのかまでは判じられないが、こちらを謗り詰り馬鹿にしている。
 いつどこへ行こうとも、視線や小声はついて回っていい加減、この浮世の全てが鬱陶しくなってきた頃であったのだが、寺の門をくぐるや、リン ――― と、一つ涼やか神妙な鈴の声がしたと思うと、不思議なことに、人の目も人の声も、蜘蛛の子を散らすように無くなってしまったのだ。

 どうしたことかと辺りを見回すが、久方ぶりに見上げた空はただ青く清く潔く、入道雲がもくもくと、力強く山向こうを覆っていて、影になっているところでは雨でも降っているのであろうか、七色の虹が天人が広げた扇のように、さあと視界を横切っているのだった。
 まことあはれな様子に、思わず言葉も無く佇んでいると、空を見上げたことすら、久しく無かったようだと思い当たった。
 懐に入れたものの重さも忘れて、しばしの間、この情景に見とれて立ち尽くす奥方である。
 連れられてきた女中のお巻も、いつまた奥方様の怒声が飛んでくるかとひやひやしながら後ろをくっついてきたのだが、寺に一歩足を踏み入れたところで、同じようにあたりの空気が少し軽くなったように感じ、これが噂に聞く玉苔寺であるのかと、しきりに感心している。

 立ち止まり辺りを見回していた二人は、墓参りを終えて帰るところらしい裕福そうな初老の夫婦が、すれ違いざまに会釈をして行ったのとすれ違い、気を取り直して本堂へ向かった。
 途中、傍らの墓地を見れば、誰かしらが故人を懐かしんで訪れているらしい、手向けられたばかりの花が目立つ。ちらほら、墓前に祈りを捧げる人の姿もあり、静かな中に、活気があるのがわかる。

 やはりいずれの人も、ここでは己を嘲笑ったり小声で噂したりはしない様子であるのに安心した奥方だが、視線の脇に、とある墓が目に入ると、慌てて目を逸らした。途端、懐のものがぐっと重たくなって、脂汗が流れた。

 清いはずの空気が、吸えば吸うほど苦しくなる。
 また誰かが己を嘲笑っているのかと辺りをうかがうが、そうではない。
 また誰かが己を噂しているのかと聞き耳をたてるが、そうではない。
 そうではない。そうではない。
 一歩が重い。懐が重い。胸の真ん中あたりが特に重い。
 だが行かねばならない。何故なら。

 ――― ううむ、と唸って前のめりに手をついたところで、お巻が慌てて奥方を支えようとしたが、これを振り払おうとしたところで、どたりと奥方は仰向けにひっくり返ってしまった。
 ひっくり返ったところが石畳でなく、本堂に上がるほんの三段ほどしかない階段の上であったので、往来でひっくり返ったようには見えず、せいぜいが履物を脱ぐために大きな体で勢いよく腰を下ろしたようにしか見えなかった。

 お巻など、また叱られぬ前にと思ったらしく、奥方が投げ出した足元に慌てて跪き、下駄を取り払ったが、それでもしばらく奥方が、ふうふうと重苦しさに息を荒くして座り込んだままなので、ようやくご気分が悪いらしいのに気がついて青ざめる。

「奥方様、ご気分が悪いのですか?すぐに休ませてもらいましょうか」
「いやいい、少し疲れたんだろう。それより、とっとと用事を済ませて、早く帰っちまいたいね。苔姫さんてひとは、すぐに会えるのかい」
「ただいま、ひとに訊いて参ります」
「はやくおしよ」

 追い立てられる犬のようなせわしなさで、お巻が奥の方へ消えてしまうと、奥方は胸を抑えてしばらくふうふうとやっていたが、そこへ小さな童子がやってきて、幼いながらしっかりとした歩みと所作で、手に抱えていた盆から、奥方の脇へ、そっと茶碗を差し出した。
 当たり前のようにこれをくいと飲み干せば、初夏にちょうど良い具合に冷ましてある。

 人心地ついて、今度はしっかり脇の童子を見てみれば、齢四つほどになる頃だろうか、たぐいまれないほどに無垢な顔で、にこりと微笑んでくる。
 我が子にもこのような頃があったことを思えば懐かしくもなり、奥方がつられて笑顔を見せて、

「ありがとう、坊や」

 礼を言うと、さらにぱっと表情が輝き、にこにこと笑って盆に茶碗を片付け、奥へ駆けていった。
 それと入れ違いに、お巻が戻ってくると、己の口角が再び下がるのに気がついたほど、久方ぶりに浮かべた笑みだった。

「奥さま、こちらだそうです」
「うん」

 童子が運んできた茶のおかげか、少し気分がよくなっている。
 奥方はゆっくり立ち上がり、お巻に案内されて、本堂の裏手まで歩いていった。

 それでも、懐はずしりと重いまま。
 一歩前に足を出せばそのたびに、重さが増していく。

 日陰に入って、ほっと息をついた。
 目に入った、野趣に富む庭と、傍に流れる川から水を引いたのだろう、小さいが滝がこしらえられており、鼓膜を震わせる水音が心地よい。
 通された部屋も、威圧的な祭壇がある仏堂などではなく、この庭に面した、趣味の良い香りが立ち上るただの客間であったので、これも安心する一因となった。

 この客間で、庭を望んで待っていたのが、童女のように小さな、一人の尼僧であった。
 奥方に気づくと、座したまま向きを変え、視線で一礼する。

「よく来て下さった、清屋の奥方殿」
「来て下さったも何も、そちらが来るように強いたのではないか」
「強いた?はて、妾はそのような事、しておらぬ。使いの童子をやって、若旦那に伝えてもろうただけじゃ。そうであろう?」
「 ――― お巻、お前は席を外しなさい」

 向かい合うや、奥方の舌鋒が火を噴いた。
 人々の信仰を集める尼僧を目の前にして、奥方はありがたがるどころか、忌々しげに睨め付ける。
 二人の女の間に、陽と陰の気がぐわりと立ち上り、火花を散らしあったように見え、お巻は既に逃げ腰であったので、奥方の許しを得るや弦から放たれた矢のような勢いで今来たばかりの廊下に消えた。

「たしかに、言伝は聞いた。尼さん、あんた、何を知っているんだい」
「知っている?何のことであろう。妾はさぞ気になっておるだろうと思うて、伝えてもらったに過ぎぬ。血の繋がりが無いとは言え、一度は母娘の縁を結んだ者が産み落とした子の、成長振りをさぞや気にかけているだろうと思うてな」
「 ――― 立派に育ってる、だって?」
「うむ、そうじゃ。お主の夫、清屋から聞いておるだろう。お主等の養女が、葬られた棺の中で、身ごもっていた子を産んだこと」
「 ――― それは、いつの、話だい」
「もう三年になるかのう。……知らぬのか」
「知らん。……あのひとは……もうずいぶん長いこと、私なんぞが言うことに耳を傾けちゃくれないし、そんな話をしてくれたことも……店のことでしか、言葉を交わしたりもしないからね……」
「そうか、大店というのは大変に忙しいものらしいのう。そこの奥を切り盛りしているのだから、さぞかし奥方殿も忙しくしているのじゃろう。お互い、すれ違うことがあるのも致し方ないのかもしれぬ」

 ずしり。懐が重くなる。忍ばせておいた匕首が、重い。
 脅される前に、皆に暴露される前に、この尼の口を塞いでやろうと思って忍ばせてきた匕首が、懐で、重石のようだ。言葉を交わすたびに、尼僧が無垢に笑いかけてくるたびに、さらに重さが増す。
 この尼僧は、知っているのか。知らぬのか。
 知っていて焦らしているのか、知らずに古傷を抉ってくるのか。
 とにかく重い。重い。

「知らぬのならば、お話しよう。実はな、この寺に葬られている、そなた等の娘御……養女に迎えられたのだから、そなた自身が産み落とされた娘ではなかろうが、兎角、その縁のある娘が、葬られた棺の中で、一人の赤子を産み落とした。
 深い土の底だもの、産声を上げたとしても誰の耳にも届かず、乳を含ませてやろうにも、娘の体は死んでいる。死んでから母になった娘は、産み落とした我が子が此の世のものを何も口にしないうちに黄泉へ旅立つのを哀れに思ったのであろう、霊魂のみの姿となって、子の刻過ぎた頃に、とある飴屋の軒先を訪ねるようになったのよ。これが六度、続いてな。
 霊魂の姿の娘が戻る先を訪ねてみたらば、この寺の、とある墓の前で娘の姿は消え、清屋殿にもかけあって、娘の墓を一度暴かせてもらったところ、その赤子が見つかったと、いうわけだ」

 奥方は、まだ返事もしない。
 常の、あの、疑うような眼差しで、尼僧の頭のてっぺんから足元までを、何度も睨め付けるだけだ。

 対して、尼僧はしなやかにこの視線を受け流す。
 童女のようになよやかな体を法衣に包み、しゃんと背筋を伸ばして微笑んでいる。いや、どこか泣いているようにも見える。体は小さくとも、真珠と瑪瑙の数珠を携え、奥方の悋気や懐疑までを含めて、包み込んでしまうような大きな何かがある。
 見ているうちに、目の前の人を包む気というのか、これがどんどん膨らみ大きくなって、自分の身を飲み込んでしまうように思われたので、奥方は脂汗を一つ流して、俯いた。

 懐は、重いままだ。
 切り離したい。
 この重さなど、もうどこかへ捨ててしまいたい。
 ああ、けれど、けれど、この重さは、己の身を守るためのものなのだ。

「奥方殿、こんな事を言っては、お気に障るかもしれぬが……」

 来た。

 奥方は、懐にそっと手を忍ばせ、匕首を握った。

 来た。

 きっと、この尼僧は、己の罪をこの場で暴き、その赤子に詫びろとでも言うのだろう。
 あるいは、その罪を償えとでも、言うのだろう。

 ずしり。匕首が重い。

「……養女として迎えられたは、そなたの夫、清屋殿の愛妾であられたと聞く。また、今も尚、清屋殿は外に多くの愛妾を持っているとも。妾が誠にあはれと思うのは、そなたの夫が、余命僅かとは言え、愛妾を娘に迎えると言ったときの、そなたの気持ち。
 どれほど辛かったろう、裏切られた心もちがしたであろう」

 匕首が ――― ぴくりとも動かぬほど、重い。

「なのに、奥方殿は今も尚、清屋殿の愛妾宅へ、毎年妾宅廻りも欠かさず行っていると聞く。世に類まれな、できた奥方殿と思うて、妾も一度教えを請うてみたくなったのだ。本当ならば、こちらから赴くのが習いであろうが、妾はこれ、この通りの足でな ――― ほんの少しの距離すら、歩くのもままならぬし。
 奥方殿も、己の店と思えば妾が赴いたところで忙しくされてしまうだろうから、ならば少なからず縁のあるこの寺に招いて、夏の風情をともに愉しんでもらえた方がよかろうと、そう思うた」

 知っているのか。知らぬのか。

 疑い。惑い。

 しかし次第に、そんなものはどうでも良くなった。

 重いばかりで、もはや懐の中でぴくりとも動かなくなってしまった匕首から手を離し、奥方は、苔姫の小さな指先が示す庭を、今一度眺めやった。

 先刻の驟雨が穢れを洗い流した庭は清く、雲の隙間からかかる光のきざはしは神々しい。
 天から指し示すように、幾条もの光が庭に投げかけられて、そこでは名も無き花々や、青々とした草がおいしげり、あるいは紫陽花が濡れて、葉に大きな露をたたえていた。

 ――― このように、ただ庭を眺めやるなど、何年ぶりであろうか。

 皺ばかり寄っていた眉間が、戸惑うようにもう一度寄せられて、やがて呆けたように、この庭を見つめる。

 どれほど、尼僧と二人、言葉もなくこの庭を見つめていたろうか。

 人の気配がして、そこで奥方が我に返ると、ここを訪れたときに無垢な笑顔を向けてくれた、あの童子がまた盆に茶を用意して、今度は茶請けとあわせて、二人の前にそっとしつらえているのだった。

「ああ、また坊やかい。ありがとう」

 無垢な子供ばかりは、何の謗りも詰りも己に浴びせてこないような気がして、やはり今度も素直に礼を言うと、童子は照れたような笑みを浮かべ、ぺこりと可愛らしいお辞儀を見せて奥へ下がっていった。
 童子の足音が聞こえなくなってからしばらくして、不意に尼僧が、口を開いた。

「 ――― 奥方殿、今の童子がそうじゃ」
「 ――― え?」
「今の童子が、あのときの赤子じゃ。妾が引き取り、今はこの寺で供に過ごしておるが、もう間もなく縁のある寺へ預け、仏の道を歩ませようと思うておる」

 ずしり。
 忘れたかった懐の重みが、今、再び。

「修行の身となれば、ここへはもう戻ってくることもないだろう。そうなる前に、縁のある御人と会わせておいた方がよかろうと思ったのじゃ。清屋殿にこの話をすれば、おそらくまた、引き取るの引き取らないのという話になって、奥方を苦しめなさるじゃろう。だが奥方なれば、あの子の母を娘としてお迎えになった、懐深い奥方なれば、縁者としてわきまえられた別れをできようと思うて、それでそなたに来てもらおうと思うたのよ」
「いいや、いいや、尼さん、もういい。もういいよ、いいんだよ」

 ずん、と、懐を突き破るほどに重くなりすぎた匕首を、奥方は握り締め、袖からひらめかせるや。

「苦しかった。そうか、生きていてくれたのか ――― 苦しかった。苦しかったんだよう」

 汚いものに触れたかのようにこれを脇へ放り投げ、般若の顔に、滂沱の涙。

「良かった。生きていてくれたのか ――― 良かった、良かった、良かった」

 放り投げられ転がった、蒔絵の鞘に収まった匕首を、濡れ縁の柱に潜んでいた小柄な影が、ひょいと拾い上げて己の水干の袖口に納める。それにも気づかず、奥方はしばし泣き続けた。泣き続ける奥方を、尼僧は決して急かさず、何事かと問いもせず、さらに奥方が抱えた重いものを咎めもせず、ただ、細水がさあさあと、庭で流れ行く音に、目を細めて心地よさげに、耳を傾けているのだった。

 一度泣いてしまうと、あとは堰を切ったように溢れかえってくる、妬み辛み悔やみ。
 他人が己を詰り謗っているような声が常にすること、その声を浴びても致し方ないようなことをしている己や、それでも他人が持っている物などで少しでも良さそうな物があると、それそのものよりも、誰かにそれだけ大事に想われた証なのだろうと考えるとそちらの方が羨ましくて、それを寄越せと言わずにはおれないこと。
 昔は今よりも痩せていたが、夫の心が離れていくにつれ、他のもので己を満たさなければどうにも心がおさまらず、また店の奥の一切合切を己が取り仕切らねばという重い責に体を作ろうと思うことから、人より口に入れるものも多くなってしまったこと。
 年を経て老い始めれば、昔より物覚えや目も悪くなり、やがて己の居場所が店になくなれば、いよいよもって夫は己を捨てて新たな女を妻に迎えるのではないかと、怖れていること。

 かつて、己のこの汚い悋気や嫉妬に目をつけて、この寺の坊主が、こっそりと業を引き受けてくれると耳打ちしてきて ――― 金子と引き換えに ――― 見えないところで ――― 知らないうちに始末をつけてくれるというから ――― 任せてしまったことも。
 任せてしまったはいいが、その後のことを何一つ聞かせられていないから、それがどういう顛末を迎えたのかも何も知らなくて、ずっと、やめればよかった、よせばよかった、己の罪もいつかお天道さまが暴いて、この寺の坊主がそうなったように、咎めを受けるに違いないと、怖れて、いたことも。

 こうしたことを、奥方は涙ながらに語り続け ――― 語り終えたときには、憑き物が落ちたようにすっきりとした顔で、辺りがすっかり黄昏ているのに驚いたのだった。
 すっかり長居をしてしまったと、恥じ入りながらも、まだ尼僧の前を離れるのが名残惜しそうな奥方に、尼僧は嫌な顔一つせず、次の来訪の約束を取り付け、そのときは娘を偲んで共に経を上げようと約束してくれた。

 いよいよ奥方が寺を去ろうというとき、尼僧はなんとも立派な打掛を、奥方に差し出した。

「奥方殿、これはな、ただの打掛ではない。妾があの奴良屋敷と縁があることから、隠したとていずれわかろうから、言っておくのだが、これには妖術がかけられておる。知らずに着続ければ精気を吸い取られ、死に至ることすらあるだろう妖術じゃ。だが、ほどほどにいたせば ――― この打掛は自分でその《ほどほど》がどれほどか判別のつくものじゃから、その声に従って、そうさな、月に二日から四日ほど着ていれば、奥方が己で厄介と思っておる、悋気や嫉妬などといったものを、少しばかり払えるかもしれぬ。
 もしご自分でどうにかされたいと思うならば。この寺へ来る道すがら、聞こえてきたという人々の声を気にせず過ごしていたいと思うのならば。騙されたと思うて、試してみてはいかがじゃろうか。妾に返すものがあると思えば、あるいはちっとも効果が無いと文句の一つを言う理由があれば、またここを訪れる理由にもなろう?」

 なるほど、この尼僧はたいそう徳の高い方だと納得はしたが、差し出された打掛に妖術がかけられていると言われても、すぐには信じられなかった奥方。
 己には少し派手に見えた桜色の打掛だったので、「しかし、はあ、これはまた、少し派手ではございませんかねえ。私くらいの年代になると、藤色だったりしたらまあ、誤魔化しはきくんでございますが」と渋ると、目の前で、みるみるうちにこの打掛が藤色に染まり変わったので、暗がりのことではあったけれど仰天し、もう尼僧の言うことを疑いもせず、早々とこれに袖を通して帰っていった。

 奥方と下女が去ったのを見送った後、すっかり暗くなった座敷に戻ってきた尼僧は、いまや決して人前で見せない、悪戯が成功した童女のような笑みをひらめかせると。

「これで良いのか、リクオ、鯉伴」

 柱の陰に向かって、そう言った。
 気配を殺していた二人は、柱の陰から示し合わせたように尼僧の前に姿を現すと、

「あね姫さま、すげえや。本当にお絹をおしつけちまった」
「鯉伴さま、押し付けただなんて、人聞きが悪いですよ。それにしても苔姫さま、お見事でした。奥方が匕首を忍ばせて現れたときには、ボクは気が気じゃありませんでしたよ。怖くはありませんでしたか?」

 それぞれ思い思いに口を開くのであった。