「清屋の奥方殿の悪行が、《自己嫌悪》であると見抜いたのは、リクオであろう。妾がしたことは、それをあの奥方殿自身に、認めさせただけのこと。それにしても人とは、衆生とは、己と同じ人同士で群れを作って暮らしながら、それぞれ思い思いの浮雲を、己の心に浮かばせているものだのう」

 苔姫に是非と請われて夕餉を共にしながら、尼僧姿ではあってもようやく役目から離れた苔姫が、人々の業を想ってか、視線を、今は暗闇に沈んだ庭へと向ける。

 惑う視線を導く灯のように、蛍があちらこちらで柔らかな光を燈していた。

「思い悩むは人間ばかりとは限りませんよ。妖怪だって悩むものです。ボクだってついこの前、とある御方に悩みをきいていただいたばかりですし。誰かに聞いてもらってようやく解決できる思い悩みっていうものは、どうしたってあるのでしょう。ね、鯉伴さま」
「な、なんだよ。いきなり話をふるんじゃねえよ」
「ほう。鯉伴、お主、人の心の憂きなどがわかるような年になったか。ついこの前まで、桜の散る風情も理解できなんだお主が、リクオの憂いを晴らしたのか。いつまでも子供とばかり思っておったが、そろそろ二代目の風格が出てきたか?」
「そんなたいそうなモンじゃねえよ。恥ずかしいから、そういう事言うない」

 照れ隠しに皿の煮物と飯を口にかっ込む鯉伴さまを、リクオと苔姫が顔を見合わせて笑う。もう子供ではないと自分で言いながら、いざ成長を認められて誉められれば、途端にこそばゆくなって頬に熱が上がる鯉伴さまの、まだまだ可愛げが抜けきらない様子がいとおしい。
 弟のように触れ合ってきた鯉伴さまはもちろん、苔姫は、今は我が子として養育する、傍らの童子を見つめても、いとしいという気持ちが溢れてならない。

 それと、同時に。

「 ――― 血の繋がりが無くとも、めぐし子と想う。血の繋がりが無くとも、むごい仕打ちをしてしまえば悔やみもする。後悔が己を襲えば、それが他人からの視線や声のようにも思えて、己を嫌っていくばかりか。《自己嫌悪》とは、厄介な《悪行》だのう ――― そのような《悪行》があること、妾がもっと昔に知っていれば、ただ涙を流すばかりでなく、もっと ――― 」

 ただ涙ばかりを流していた幼き日、父や母もまた、ただただ金子ばかりに目が眩んで己を打っていたのか。
 あるいは、打っているうちに、打ち続けなければ己の所業を省みてしまいそうになって、怖くなったのではなかろうかと、今だからこそ、実父実母の胸中を慮る苔姫である。

「苔姫さま。苔姫さまは今日、清屋の奥方さまのお気持ちを楽になされた。それでいいのです」
「そう、言ってくれるか、リクオ」
「ええ。苔姫さままで、そのような《悪行》、なさいますな。《悪行》をするのは、妖怪のつとめです」
「ありがとう……。なれば、そうさなあ、今日のところは清屋殿の心配だけをしておこう。あの一反絹、本当に遣わしてよかったのだろうか?奴良屋敷と縁があるのであろう?」
「なァに、いなくなって困る奴じゃねえや。この前ふらっと現れたばかりの居候で、小物連中ともそりが合わなくて困ってたんだ。何でも京妖怪だったとかでな、そのせいか、うちの連中も何かと目の仇にしやがるし、それに自分から行きたいって言ってたんだ、そうすぐには追い出されるようなドジも踏まねえだろう。そりゃあ、賑やかなのがいなくなって、寂しいことは寂しいがよ」

 膳のものをあらかた平らげ、行儀悪く片膝を立てて茶をすすりながら、鯉伴さまが応じる。

「あいつが自分から、『あの奥方の気持ち、少しわかるわァ』なんて言いやがったんだからさ」
「ほう……あの反物の方からか」
「あいつの場合、嫌がることをしなくちゃ生きていけねえ分際だから、そういうところ、自分とよく似ているように思えたんだとよ。人の精気を吸わなくちゃ生きていけねえが、精気を吸うと言われてはいそうですかと吸わせてくれる人間はいねえ。生きることが嫌われることと同じ身の上。あの大店の奥方の場合、店の奥を仕切るってのは、好かれるばかりじゃままならねえだろうって、ずいぶん同情を寄せてたぜ」
「なるほど。生きることが嫌われること。確かに、そういう生まれもあるであろうなぁ」
「あね姫様、なにしんみりしてんだい。よもやと思うが、それならどうして人は生まれてくるのか、なんて言うんじゃねえだろうな?」
「 ――― いいや、それでも此の世に生まれた以上、誰にも役目は見つかるものだと、痛感しておったのよ。鯉伴、お主もしっかりとその役目、知らねばならんぞ」
「なんでえ、今更。言われなくたってわかってるよ。きっちり、強くてかっこいい魑魅魍魎の二代目をつとめてやるって。好かれようが嫌われようが、それがおれの役目だろ?……さぁて、夜も更けた、そろそろ小僧さんは寝る時間じゃねえかい?どれ、おれが寝かしつけてやるよ」

 苔姫の隣で、童子がうつらうつらと舟をこぎ始めたのを目ざとく見つけ、鯉伴さまはつい先日まで自分がそうされていたように優しく腕に抱き上げ、童子の方でも、鯉伴さまがこの寺を訪れたときにはたまにそうしてもらうので、慣れたもので、胸元にしがみついて既に半分夢の世界へ旅立っている。
 童子の背中をぽんぽんと軽く叩きながら、奥の部屋へと下がった鯉伴さまを視線で見送った苔姫さま、感心したように呟いた。

「いつまでも童子と思うていたが、元服前でも流石に若頭、見事な気構えができておるものよ」
「ええ。鯉伴さまが立派に元服なされたら、いよいよボクの仮初の役目も終わります。ボクこそ、そろそろ自分の役目と向き合わないといけないな」
「何を言う。リクオ、お主はこれからも、奴良家と共に、鯉伴とともに在れば良いではないか。それを、役目と、すれば良いではないか。……父様から聞いておるが、お主はまだ、奴良家と何の盃も交わしていない身だそうだな。初志に徹するのは良いが、この十年、何の縁も感じずに過ごしてきたわけではなかろう?奴良家に携わり、二代目を支えること。それがお主の役目ではならぬのか」
「 ――― はい。それではどうやら、いけない」
「何故だ」
「それは、楽な道へ逃げることだから」
「楽 ――― ?」
「もちろん、鯉伴さまがこれから行かれる道、それが楽な道だと申し上げているのでは決してありません。鯉伴さまがこれからお決めになることに従い、鯉伴さまがこれから率いられる百鬼夜行、その背に全てを預けてついて行き、鯉伴さまと苦難を共にできるなら、それは何よりの僥倖」
「ならば」
「でも、行けない。ボクは鯉伴さまと共には、行けないんです。ボクの方がこれ以上、鯉伴さまの力を借りてはいけない。鯉伴さまの元服が近づくにつれて、その気持ちが強くなります。
 この十年、ボクはこの場所で、総大将や珱姫、鯉伴さま、それに苔姫さまやカナちゃんから、色々なことを学ばせていただきました。此の世はまさに夢のようだと、いつか苔姫さまは仰せになりましたね。地獄にもなれば浄土にもなると。
 ボクがここを訪れたとき、まるでこの土地は浄土のようだと想いました。ここにずっと住まって、奴良家の皆さんと共に過ごせたら、どんなにいいかって。ここなら、昼姿でも夜姿でも、そういう生き物だとして生きていられる。そういう生き物であるだけで、厭われることもない。ですからボクは」

 月にすいと雲が横切り、蝋燭の火が小さくしぼんだ闇に紛れ、リクオは夜姿で、言葉を拾った。

「 ――― オレは、そろそろこの土地をお暇しなくちゃならねえ。たしかにここはオレにとって浄土。だが妖怪ってのは、地獄にこそ役目があるってもんでしょう。そういう焦りが、ここんとこ、ずっとあるんです。
 雪女の姐さんに、ついこの前、言われました。雪女ってのは、幸せにしてくれる男じゃねえ、これから地獄に行くんだが、供をしてくれねえかと言ってくれる男こそが好みだってね。いくら探しても、面影の女の影も形も見当たらないのも、もしかしたらあの女、せっかちが過ぎて先に地獄で待ってるんじゃねえかって気もしてる。あるいはそこの留守を、しっかり守っているような気もする。
 そこへ、鯉伴さまを連れてはいけねえし、そこは、こことは違い過ぎる場所にある。糸がもつれ合ってよく見えねえせいで、そんな事ぐらいしかわからねえが」

 からからから、と、廻る。糸車は廻る。
 時を紡ぎ、糸は先の世へと繋がる。
 先の世が地獄か浄土か、それは朝靄か、夕霧か、ともかく薄ぼんやりとしていてよく見えぬ。

 人の一生は短い。
 先を見通す目を、与えられてもいない。
 リクオが帰る場所がどこにあるのか、それすらわからぬ苔姫だが、しかし瑪瑙の瞳が燃えるような視線で射抜いてくるのを、柔らかに微笑んで受け止めた。

 それが、どこかはわからぬが。
 リクオがそろそろだと言うのなら、そうなのだろう。

「全てを忘れたとばかり思っていたが、そうではないのだな」
「どうやらそうではない。まだよく見えないんだが、時が来れば、見えるはずだ」

 時を紡いだ糸、絡み合ったところを、丁寧に解くのが叶えば。

「見えたときに、きっと、オレはここから去ることになる。ここは浄土だが、オレはオレの地獄に帰りたい。そこにこそ、オレの役目がある。鯉伴さまが元服なされれば、オレの役目はいよいよ、それだけだ」
「 ――― 相、わかった。行く場所が地獄だと言うなら、なるほど確かに、楽な道ではなさそうだ。ならば、こちらの事はしっかりと妾が面倒を見よう。妾が死したとしても、妾の心が、鯉伴や、総大将や、奴良組の皆や、カナや二郎や、幼き頃に縁を結んだ人々に連なる人々を守れるように、この一生を祈りに捧げると約束しよう。安心してたも、リクオ」
「かたじけねえ、苔姫さま」

 すう、と蛍が二人の間を横切り、闇夜に消えた。


+++


 カン、カン、と打ち合わせていた木刀が一つ、ガツ!と鈍い音と共に巻き取られた。

「 ――― お見事です、鯉伴さま」

 思わず目を見開いて、牛鬼は痺れた手と、目の前の少年とを見比べ、次第に笑みを濃くした。
 反面、誉められたはずなのに、鯉伴さまはちっとも嬉しそうではない。

 己の木刀を肩に担いで、不機嫌そうに目を細めて仰せになる。

「何言ってんだ、牛鬼。お前、息一つ乱してねえだろうが。道着に着替えてもくれねえし、まだ両手を使いもしねえ。ったく、馬鹿にするにもほどがあるぜ」
「私に両手を使わせたいと?これは、嬉しいことを仰ってくださる。よろしい。次のお稽古からは、仰せの通り両手でお相手つかまつりましょう」
「それでも一本取れるようになったら、次は一歩でも動いてくれるんだろうな?お前や親父の強さと来たら、それこそバケモンにもほどがある。誉められたって嬉しくねえんだよ……はあ、疲れた」
「ははは、相手の力量がわかるようになるのも、強さの内です。鯉伴さまのご成長には目を見張るものがある。さ、そろそろ今日の稽古は終わりにしましょう」

 二人、道場の真ん中で向かい合って礼をするのが、その日の稽古の終わりの知らせ。
 牛鬼は足早に道場を去ったが、時間いっぱい、体と心を緊張させて牛鬼と向かい合っていた鯉伴さまは、道着姿のままで、「ぷはあ」と肩から息を吐き出し、大の字になって床に寝転がってしまわれた。
 額に髪が汗で張り付き、空気を求めて胸が激しく上下している。
 床の冷たさが心地よく、目を閉じていると、そっと額の汗を拭く者があった。気配が誰より慣れ親しんできた者なので、目を開ける必要も無く、鯉伴さまはそれが誰かを当ててしまわれた。

「あー……リクオ、手習いはもう少し、後でなー……。牛鬼の奴、手加減ねえんだよ」
「わかりました。今日の分の教本、お部屋に置いておきますから、怠けず励んでくださいね」
「……お前、出かけんのか?……なんだお前、その頭」

 案の定、返ってきた声は守役のもの。
 しかしどうやら出かける様子なので、ぱちりと目を開けて飛び起きてみたところ、リクオの髪はいつものあたたかそうな稲穂色ではなく、己と同じ黒檀のそれであった。
 訊いてから、ああ、とご納得された鯉伴さまは、受け取った手ぬぐいで額や首廻りの汗をふき取りながら起き上がる。

「そうか、カナのところだな」
「少し、一反絹の様子を見てくるだけです。ここしばらく見ていませんでしたから、昼間のうちに少し、顔を出してきます」
「あれから、三月にはなるか?最初の一月は、まめに見に行ってたんだがなぁ。まあ、騒ぎはそればっかりじゃねえからなあ。奴良組を頼ってくれるのはいいが、ちょいと働きすぎだぜ、おれたち。あとで読み返したら面白いかもしらんと色々覚書をしてるがよ、それもこんな分厚い帳面でもう十巻目だ」
「へえ、それは面白そうですねえ、後でボクにも読ませてくださいな。さしずめ『奴良組評判記』ってところですか?」
「おぉ、そりゃいいな、いただきだ。で、カナのところ、おれも行くぞ。着替えるからちょっと待ってろ」
「え?鯉伴さまもって、手習いはどうされるんです」
「後だ、後。ちゃんと後でやるよ」
「そんな事を言って、あとから怠けるのは許しませんからね」
「ちゃんとやるって。お前もしつこい奴だなあ。だいたい、つらっとした顔で勝手に出かけようとしやがって、置いていかれる方の身にもなってみろ、つまらねえし、寂しいだろうが」
「 ――― ぷッ」
「何を笑ってんだよ。おい、着替え」
「はいはい。いえね、鯉伴さまはいくつになっても、素直で可愛らしい甘ったれだと思っただけです。それなら、井戸端で汗を拭いてから参りましょう。ご支度が整うまで、お待ちしておりますから」
「おう」

 まだまだ、残暑厳しい頃である。
 道場から外へ出た鯉伴さまは、いつの間にか中天に差し掛かった陽の光を、眩しそうに手で遮られたが、井戸端に行き、やがて目が慣れてくるにつれ、今、初めて気がつかれた。

「お?」
「なんです」

 足元を見る。隣に並んだリクオを見る。
 己とリクオは、同じ平坦な土の上に立っている。

 けれど、目線が。

「お?おおッ?!」
「だから、なんです」
「リクオ、お前、どうして縮んだ?!」
「……鯉伴さまの背が、また伸びたんですよ。この前、お膝が痛いと仰せでしたでしょう。背が伸びるときに、よく痛むんだそうです」
「やった!リクオを抜いた!」
「まだ夜姿があります。いい気にならないでくださいね」
「なんだ、拗ねてやがんのか?へっへー」
「ほら、遊んでないで、さっさと用意をしてください。カナちゃんのところに行く前に、陽が暮れてしまいます」
「やった、やった、リクオを抜いた!」
「言われなければ、わからない程度です。そうやって言いふらすのはまだ」
「親父!お袋!おれ背ぇのびた!リクオぬかしたー!」
「言うなと言っているのにこのクソガキッ」

 なにリクオの背を抜いた?そりゃあ芽出度い今日は赤飯じゃ!あらまあリクオさん、ついに抜かされてしまいましたか。小大将元気出してよ、背丈で抜かされたって、まだまだやっとうの腕は小大将の方が上だってぼくたち知ってるよ。
 などなど、諸々の寿ぎや慰めの言葉を背に、得意そうに頬の肉を緩める鯉伴さまの襟首を引っつかみ引きずるようにして奴良屋敷を出たのが結局、昼過ぎのこと。

 カナとの約束の刻限はとうに過ぎ、あの大店の奥方のこと、刻限を過ぎても現れない客とやらに、またねちねちと嫌味な言葉を向けるのではないかとリクオは心配したが、二人を出迎えたカナは困った顔一つ見せない。

「今まで奥の方で手が離せなかったから、かえって遅く来てくれて、ありがたかったわ」

 座敷で向かい合ったカナは、あの、明るい笑みを見せ、そう言った。
 先日、清屋を訪れたときには、見られなかったカナ本来の笑顔だった。

「うちの人は今、お義父さんと一緒に寄り合いに出ているの。リクオくんが来るって言ったら、くれぐれもよろしく言っておいてくれって。できれば引き止めて、夕餉くらい一緒にできないか誘っておくように言われたんだけど、リクオくん、鯉伴くんも、よければどう?」
「ありがとう、カナちゃん。あー……とてもありがたいんだけど、今日は」
「今日さ、おれんちで祝い事なんだ。カナこそ、久しぶりにウチに来ないか?」
「お祝い事?何かあったの?」
「たいしたことじゃないんだけどね、その、総大将が喜んじゃって、早く帰ってくるようにって」
「何で隠すんだよリクオ。あのな、おれな、今日な」
「どうして言いたがるんですか鯉伴さま、ううんカナちゃん、たいした事じゃないんだ」
「あのな、おれ、リクオの昼姿より背が高くなったんだ。そんで、お祝いなんだ。宴会なんだ。へへへ」
「うわ言った……言わなくていいのに……」
「だから何で落ち込むんだよリクオ」
「じゃあ伺いますが、どうして嬉しそうなんですか鯉伴さま」

 片や花咲き乱れる野原で戯れているような笑顔を見せる鯉伴さまと、片や人魂鬼火を背負ってそのまま畳の底に沈んでしまいそうなリクオ。
 これを見て、カナはころころと明るい笑い声をたてた。

 清屋の奥方が業を払われたその後の様子など、これを見れば訊かなくても良さそうなものである。
 一反絹がどこまで上手くやっているのか知れないが、その後カナとあれこれ他愛もない話を重ねても、変わった様子は見られない。
 訪れるのが遅くなったこともあり、黄昏が訪れるのは早かった。
 名残惜しいがそろそろ辞そうというときに、三人が居る座敷に、「失礼するよ」と入ってきた者があった。

 鯉伴さまは、見たことのない女だった。
 気の強そうな、凛とした眉が綺麗に弧を描き、その下で切れ長の瞳が黒々と濡れている。薄い唇には上品に紅が塗られ、艶めく黒髪は一本だけ銀の簪に結われていた。小柄だが、しゃきりと背筋を伸ばした姿と引き締まった体躯からは、女武芸者と思われるような雰囲気が醸されている。
 健康的な褐色の肌は、お世辞にも京風の雅とはいえず、座敷を訪れた所作も、女のものというより童子のようにあどけないものだが、にかりと笑う様子には、どこか憎めぬ愛嬌があった。

「カナ、そろそろ夕餉の支度だ。手伝っておくれ。可愛いお客様は夕餉をお召しになっていくんだろう?」
「それが、リクオくんたちは今日、お屋敷でご用事があるそうなんです」
「おや、そりゃ残念だねえ。ならいいや、あんたはもう少しゆっくりしてな。お茶でも淹れなおそうか」
「あ ――― その、ボク達そろそろ、お暇いたします」
「おやそうかい?折角だから、もっとゆっくりしておいきよ。子供が遠慮なんかするもんじゃないよ」
「いえ、その、お屋敷のお手伝いもしなくちゃいけないし」
「それなら、そうだ、この前、千住屋さんからいただいた京菓子があった。あれを持たせてやるから、ちょっと待ってな。いいかい、待ってるんだよ」

 その女が、きつく言い聞かせるように、鯉伴さまとリクオ二人の顔をそれぞれ覗き込んでから、座敷の襖をぴしゃりと閉じ、どすどすどすと足音を響かせて、奥の方へと消えてしまった。

 鯉伴さまはぱちくりと、大きな目をさらに大きくされて、たっぷり二呼吸分、ぱちぱち瞬きをされてから、困ったようにリクオの袖を掴む。

「 ――― なぁリクオ、あれ、誰だ?」
「誰って、清屋の奥方殿ではありませんか。以前もお会いしたでしょう。女性の顔ぐらい、ちゃんと覚えておいでなさい」
「 ――― だ、だって、だって、顔が違ったぞ?!」
「顔は同じでした。そりゃあ、少しお痩せになって、お化粧の仕方を変えられたみたいですが」
「 ――― お、女は化生すんのか?!」
「ええ。お化粧の仕方で、見違えるようになりますよ。ちなみにボクは雪女の姐さんはもう少し薄化粧の方が好みです」
「え、ええッ、雪女まで?!そうか、化生すんのか……初めて知った……綺麗でびっくりした」
「まだまだですねえ、若頭」
「あのね、苔姫さまからお預かりした打掛を着るようになってから、余計なことまで考えることがないくらい、ぐったり疲れて、夜は早めに眠るようになったんですって。食べる量もその分減ってしまわれて、見違えるようにお痩せになったでしょ?そうしたら、今度はその打掛が、あれこれと化粧の仕方とか、髪の手入れの仕方とか、耳打ちしてくれるんですって。そろそろ自分を着るのはしばらくやめた方がいい、なんて事もお告げする、すごい打掛だって言うんで、もう家宝扱い。……ね、それであの打掛、本当は何なの、リクオくん」
「お察しの通り、あれは一反絹と言って、人の女の精気を吸う妖怪だよ。京から流れて来たらしくて、女の化粧だの着物の色あわせだのに本当に口うるさいんだ。気の悪い奴じゃないんだけどね、ほら、奴良屋敷の妖怪たちは、京妖怪と縁が悪いから。何か都合が悪くなったり処分に困ったりするようなら、苔姫さまを通して、知らせてくれればいいよ」
「なぁんだ、そういうこと。やっぱりねぇ。……都合が悪いどころか、大助かりよ。お義母さんの部屋で、夜な夜な一人きりのはずのところで、女二人が愚痴を言い合ったり慰めあったりする声が聞こえてくるって噂があったから、もしかしたらとは思ってたの」

 言って、カナは懐から、瑪瑙と真珠で彩られた、あの黒漆の簪を取り出して見せた。

「 ――― その頃にね、ずいぶん長いこと借りててすまなかったねって、返してくれたのよ」

 じゃあ、どうして早速それをつけないんだと、言いかけた鯉伴さまの襟首をきゅっと掴んだリクオは、「それは良かった」とだけ言って、カナを慈しむような目で見つめる。

 カナの髪には、既に桜模様の櫛が、飾られていたのだ。

「リクオくん、鯉伴くん、本当に色々と、ありがとう」

 奥方はほどなくまた、どすどすどすと足音を響かせやってきて、二人の童子に懐紙に包んだ菓子を持たせてくれたので、リクオは礼を言い、ここで辞すことにした。
 名残を惜しんで、カナが店の外まで出てきて二人を見送った。

 童子がするように手を振りかけてこれをやめ、リクオは上げかけた手を、腰元に落ち着けた。

「オレがしてやれるのはここまでだ。これからは、きっとしあわせになれよ、カナちゃん」

 童子にあるまじき落ち着いた物言いに、側を通りかかった人々はどきりとした様子だが、カナは笑って一つ頷くと、それこそ少女の頃にしていたように、黄昏の町を走り去るリクオと鯉伴に、大きく手を振って見送ったのだった。
 見送る先で、リクオの姿はたちまちしろがねに変じ、カナの目の前を人が横切ったのを最後、二人の姿は見えなくなった。

 奴良家に伝わる二代目の手記『奴良組評判記』によれば、その後、清屋は奥方のもとに戻ってきて仲直りをしたようである。以降、カナという名前はしばらく手記には出てこない。出てくるのは、その数十年後。彼女が天寿を全うしたその日に、二代目の、「冥福を祈る」との一文が、記されているのみ。


<夢、十夜/第六夜・了...七夜へ続く>











...夢、六夜...
「帰ったら宴会かー。みたらし団子あるかなぁー」
「あまり腹をいっぱいにしちまうと、すぐ眠くなりますぜ。今日は手習いがまだでしょう」
「えっ、今から手習いすんのかよ?」
「当然です。はなからそういう約束だったでしょうが」
「……リクオ、そっちの姿じゃお前の方がまだ背ぇ高いんだから、機嫌直せって」