ガラン、ガラガラ。

 空っぽになったバケツが転がって、派手な音。

 ぽたり、ぽたぽた、毛先を伝って落ちる雫は、真っ黒で。
 肩口を、足元を、やっぱり真っ黒に染めていって。



「妖怪だ、妖怪小僧がいるぞー」
「やっぱり嘘の髪の色だ、妖怪が人間の振りしようとしてんだ」
「黒い水が頭から流れてる。汚ねぇー」
「こっちくんな、こっちくんな」



 こっちくんな、こっちくんな、こっちくんな。

 囃し立てる人の子等の輪の中で。
 かごめかごめ、輪の中で。



「お前、汚ねえんだから、洗ってやるよ」



 再び浴びせかけられる、水、水、水。

 さぱり、ざぱり。

 全身、濡れ鼠のようになって、床のタイルに溢れた水。
 己を中心にして黒い円を、じわりじわりと、広げていった。

 同じくらいに心も真っ黒に染まりあがり、目の前は真っ暗に。



「こっちくんな」
「あっち行け」
「妖怪め」
「妖怪め」



 人の子等の、輪の中で。
 かごめかごめ、輪の中で。

 ただ一匹の獣は、黙りこくる。

 ――― 雉も鳴かずば、うたれまいに。
 ――― 雉も鳴かずば、うたれまいに。



(じゃあ、ボクはただの人間だと、妖怪なんていやしないと、嘘を言えばよかったの?)
(うたれないために、鳴かずにいればよかったの?)
(では何故、ボクには声があるの?雉には声があるの?)
(ボクは誰。ボクは何)



 ――― かごめ、かごめ、かごの中の鳥は
 ――― ゆめゆめ、決して、出てくるな
 ――― 黎明来る、その前に
 ――― 首斬られるのがお似合いさ
 ――― 振り返らずに あっちへお往き


 ぽたり、ぽたぽた、毛先を伝って落ちる雫は、真っ黒で。
 目の前も、足元も、ただ真っ黒で、真っ暗で。
 どこをどうやって帰ったか、そのときのことは憶えていない。

 ――― 雉も鳴かずばうたれまい
 此方の岸では当然のならいが



(でも、妖怪はいるんだよ。ボクはぬらりひょんの孫なんだ)



 ――― 雉も鳴かずばうたれまい
 彼方の岸では忌み話



(でも、ボクは四分の一、妖怪なんだ。もっと大きくなったら、立派な妖の主になるんだ)



「こっちへくるな」

(どうして)

「あっちへいけよ」

(どうして)

「妖怪なんだろ、人間じゃないなら、あっちへ行けよ」

(どうして妖怪は、そっちへ行ったらいけないの)

「決まってる。そんなの ――― 《違う》からだよ。気持ち悪い」



 たった一度の鳴き声で、染まる目の前、染まる足元。
 黒、黒、黒。
 沈んでしまいそうな視界の中で。



「若!若、まあ何てひどい……お可哀相に、寒うございましたでしょう。すぐに湯殿に行きましょうね」



 ようやく白く無垢なものを見つけて、ほっとしたのに、その白い無垢なものが去ってしまおうとするから、手を伸ばして捕まえた。
 ひんやりとしていて。
 心よりも尚、ひんやりとしていて、でもとても柔らかくて、あたたかかった。



「だめだよ、 ――― 、ここにいて。側にいて。お願い」
「リクオ様、だめです、私なんか、リクオ様をあたためられない」
「ううん、あったかいよ。 ――― は、誰より白くて、綺麗で、あったかい。お願い、側に、居て」
「リクオ様」



 戸惑ったように、でもそっと手を握り返してくれた手はやわらかく、優しく。



「ねえ、ボクは汚い?だから、触りたくない?」



 ぽたり、ぽたぽた、髪の先から黒い水。
 溢れさせていたというのに、白い娘は両腕で、己をぎゅうと抱き締めてくれた。

 そのまま凍りついてしまいたくなるほど、幸せだった。



「お前の言うことは、本当だったよ。髪の色を変えても、駄目だった」
「いいんです。今はいいんですよ、若、そんな事、お考えにならないで。辛かったでしょう、心が痛かったでしょう。だからいいんです。今は、いいんですよ。何も考えずに、泣いてしまっていいんですよ」
「ははは、変なの。お前の方が泣いてるじゃないか」



 黒く染まりそうになった世界で、涙を堪えられたのは。
 焼けつく喉を奮わせて、明るい声で笑い飛ばすことができたのは。
 白く無垢な娘が、代わりに泣いてくれたに他ならなかった。



「 ――― そりゃあ、ついこの前まで、『妖怪は居る』なんて騒いでたんだもの、一日二日じゃ、《立派な人間》だなんて、認めてもらえっこないよね。大丈夫だよ、これくらい。今までならこっぴどく仕返しくらいしてやったところだけど、もうそれもしないよ。《普通の人間》は、そんなこと、しないらしいから。
 だから、泣くなよ。ボクは、お前に泣かれると、何だか嫌な気分になるんだ」



 寒空の下、ほろりほろりと落ちたのは、霙の涙。
 それを指で払ってやろうと手を伸ばし ――― 現の指先に、天からふわりと落ちた淡雪が触れて、夢と知る。
















「 ――― 泣くな、つらら」















 途端、ずきりと伸ばした腕が痛み、頬を引きつらせると、
















「馬鹿、リクオ。まだ動くんじゃねえ、傷が開く」

 リクオの体をしっかり腕の中であたためていた少年が、小さく叱った。

 ぼんやりと伸ばした指先に、触れたはずの淡雪はほどけて。
 面影は、遠ざかり。
 粗末な小屋の格子戸の向こうに広がる、薄暗い雲から、ちらり、ちらりと、雪が降り続いているばかり。

 この景色を遮るように、リクオの顔を覗き込んできた彼の顔もまた、夢から醒めたばかりの目には、紗がかかったようにぼんやりとしていたが、やがて焦点が合うと、はっきりと一つの肖像を描いた。

「 ――― 鯉伴、さま?」
「おう。気がついたか。お前、三日も気を失ってたんだぞ。こっぴどくやられたなあ」
「三日? ――― ボクは、今学校から帰ってきて ――― 学校では髪を染めてたのを馬鹿にされて、水をひどく浴びせられて ――― そうしたら、つららが、ボクより先に泣いて ――― あれ?これって、いつの話?」
「おいおい大丈夫か?河童がよ、応急処置だってとりあえず水を浴びせて、その後に軟膏を塗ったんだ。頭からざばざば浴びせたから、そのことかな。でもお前のその、雪女の守護ってやつ、すげえよなぁ。あれだけの業火にまかれても、そんな火傷で済んじまうんだから」
「河童 ――― ?」
「わかった、考えるな。まだ寝てろ。……どうせ、すぐにはここから、出れそうにもねえんだ。果報は寝て待つさ」
「 ――― そうだ、ボクは ――― 」

 夢と現の境目で、あちらとこちらとを行き来していたリクオは、僅かに頭を振っただけでガツンと殴られでもしたかのように脳天から目の前まで痛みがはしったので、逆にこれが激しい眠気覚ましになった。

 今度こそリクオは、夢から現に舞い戻った。
 他を時の綾に阻まれ再び忘れてしまおうと、面影の女の名前だけは、胸に抱いて。

 しかし事態は決して良くはない。
 現を思い出せば、良くはないどころか、悪い方へ、悪い方へと転がっている。
 痛む体を、言われた通り、大人しくもう一度弛緩させて、リクオは呟いた。

「 ――― はあ。思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを……どういう歌かわかりますか、鯉伴さま」
「こいつ、目ぇ覚ましたと思ったらさっそく問答かよ。ここまで来ても手習いを忘れねえとは、呆れた守役だ。恐れ入ったよ。なら答えるがよ、お前は、自分だけ一人目を覚まさずにここから逃げおおせるような器用な奴じゃねえから、目を覚ましちまったんだ。そうだろ」
「はい、その通り。……にしても、参ったな、一度きりの機会だったのに」

 ちゃり、と鳴った足首の枷に、鳴ってから気づいて舌打ちする。
 これに戒められてしまえば、どんな闇夜だとて、夜姿にはなれまい。
 肺まで灼かれて重苦しげに、ようやっと呼吸をしていたところへ、長く話したせいだろう、冷たい空気を吸い込んだ拍子にしたたかに噎せてしまい、鯉伴さまはそんなリクオを、強くたしなめられた。

「おら。まだ寝てろって。聞き分けのねえ奴だなあ」

 粗末な小屋には、布団代わりのむしろがあるばかり。
 一枚板の屋根からは、土がむき出しになった床を、一滴、また一滴、冷たい滴が穿っている。
 火の気はなく、身を暖めるのは互いの体温のみ。

 鯉伴さまは己の腕の中に、小柄なリクオをすっぽり包んで暖めているようでも、自ら暖を取っているようでもある。

 からからから………

 変わらず、糸車の音が耳について首を巡らせば、この小屋で雨風をしのぐようになって以来、変わらぬ光景が視界に入った。一人の美しい少女が、粗末な膝丈の着物から痩せた腕を惜しげもなくさらし、無言で糸をよっている。
 光が感じられぬ瞳からは、一切の心が感じられない。
 これも、全く変わらぬ光景だ。

 それこそが、リクオに対する絶対的な報せであった。
 それも、悪い報せだ。
 己で満足に体を動かせず、人形のように鯉伴さまに守られているしかないのだから、そうであろうとは思っていたが、そうではないかと薄々感じるのと、目の前につきつけられるとではわけが違う。

 この少女が、今も糸をよっていることが、何よりの報せ。
 失敗したのだ。

 嘆息し、深い思索に沈み込みかけたリクオに、再び鯉伴さまの声がかかる。

「リクオ。今は何も考えるなよ。後のことは、後のことだ。眠れ」

 子供特有の高さは失われ、しっとりと落ち着いた少年の声である。
 黒々とした髪は長く伸び、後ろで乱暴に一つくくりにされていた。
 まだ守役に甘えるような所作をするが、こうして、傷を負ったリクオを抱く腕のたくましさや、瞳を細めて笑ってくるのが何ともあたたかに感じられるのは、奴良家二代目の風格だ。
 それもそのはず、こんな所でなければ、鯉伴さまは今年、数えで十三。元服の年。
 正月には、盛大な祝いがあったはずなのだから。

 後悔や、己の不甲斐なさへの歯噛みがリクオを襲い来るのは、当然であった。
 しかし、それも含めて鯉伴さまは、考えるな、と仰せになる。
 体は疲れきって重く、雪女の守護を掻い潜って喉を焼いた炎のせいで、声を出そうにもひりついて痛い。

 うとうとと、リクオは再び、夢の淵へ誘い込まれた。

 くすりと、鯉伴さまが笑みを零したのがわかったが、もう瞼を開ける気にはなれない。
 物事は悪い方へ転んでいるはずなのに、絶望的なはずなのに、なぜか底知れない安心感に包まれて、リクオは眠りに落ちた。

 からからから………

 安堵の理由は、遥か時の向こうに、置き去りにしたまま。