からからから、廻る、糸車。

 本来逆巻くことのない、この糸車にちょいと融通をきかせて、場面は半年以上遡り、浮世絵町の奴良屋敷。

 年号は慶長、元和、そして寛永と改まり、徳川家は三代家光公の御世。
 長く続いた乱世の終わりを、人々がようやく我が身に感じ始めた頃。

 ひょんなことから、リクオは人も妖怪もなく絡めとって、見世物にしている里があるという話を耳にした。そこでは、妖怪は力を封じられ、雪女ですら霰一粒作れないのだと。さらにその里で飼われている人と妖は、見世物として連れ回され、あるいは売られているのだと。
 これをしているのが人間なのか、妖怪なのか、定かではない。
 探ろうにもどういう輩がこうした悪さを企んでいるのか、手がかりが無い以上動きようもない。にしてもリクオとしては、ただ黙って奴良屋敷に居るだけではいられず、手がかりそのものを求めて旅をしたりもしたのだが、結局その度に何も得られずに、屋敷へ戻ってくるのを繰り返していた。
 妖怪も人間も捕らえて見世物にするなど大掛かりな所業、よほどの大物であろう、ならば人の噂にもなっているだろうと考えたのだが、不思議なことに、人攫いがある、などという山賊盗賊風情の噂しかあちこちには無いのだった。また、このご時勢、山賊盗賊はやはり出る。それだけならば不思議でも何でもない。まさか、日ノ本の国全ての山賊盗賊の棲家をあたるわけにもいかない。

 それが二度三度と繰り返されて、気がつけば、リクオが屋敷へやってきた頃には言葉も話せぬやや子であった鯉伴さま、元服まであと残すところ一年となった。

 鯉伴さまと一緒に遊んでいた幼馴染やその兄弟姉妹たちも、カナのように嫁に行ったり立派なお屋敷へ奉公に行ったり、二郎のように父親と同じ職人の道に進んだりと、半人前と呼ばわれながらも、様々なところで働き手として数えられるようになっており、そうなると他ならぬ鯉伴さまもただ毎日、稽古手習いに励んでばかりはいられない。
 あちらこちらで喧嘩や騒ぎが起こると、中には物騒な連中に助太刀を頼む輩もあり、巻き込まれた者が知り合いのつてを辿って、奴良鯉伴さまに何卒お願いが……と来るのである。

 姿かたちは母君の血が色濃くあらわれ、黒檀の髪に黒真珠のような瞳と、人のそれそのままだが、やっとうの腕と騒ぎを愉しむ心意気は父君の方をしっかと受け継がれてしまわれたので、頼られればようしわかったと二つ返事で承知する。
 今では、どこぞの用心棒どもと、やっとうで片をつけるときなど、揃いの《畏》の羽織を纏って手勢を率いて町中を行くので、見守る町衆からは、「よっ、奴良組大将!」と声がかかるほどだ。
 既にたのもしき親分肌。
 数羽のカラスや小物、守役を供に飛び出していく姿を、幼い頃から鯉伴さまを見守ってきた幹部衆は嬉しそうに見つめ、また今から若頭の将来を楽しみにする声もあがっている。

 だが、鯉伴さまが評判高いのは、いまだ人の世にあってのみのことである。
 妖怪の世にあっては、父君の名に及ぶところではない。
 もっとも、父君の方は逆に人の世にあっては首を捻る者が多く ――― ぬらりひょんという妖怪は、どんな妖怪であるのか、つかみどころが無い、見えているのに見えないなどという以外、広まっていないのだ ――― 妖怪の世にあってこそ、総大将、魑魅魍魎の主と言われる父君よりも、鯉伴さまこそを奴良組の親分であると勘違いしている人間がほとんどだ。

 人と交わる以上、人の世で認められるのは上手いやり方だが、だからと言って妖怪の世の方がおざなりでは、睨みが利かないところでこそこそと勝手をやり始める外道どもも現れよう。
 今はまだ、父君、初代御大将がご健在でおわすので、武蔵野国一帯は平穏を保っているが、これを次の世へ繋ぐためには、鯉伴さまが人の世だけでなく、妖怪の世でもその名を天の下へ知らしめす必要があるのだ ――― とは言うものの。

 どれほどたのもしかろうが、鯉伴さまは齢十二。
 同じ年頃の者より上背があり、人間相手ならば大人と並んでも見劣りしないのでつい忘れがちだが、時折見せる拗ねた表情や甘えた口調は、まだまだ子供。

 今日も今日とてお出かけ間際、廊下を歩んでいるところへひょいと顔を出された総大将に、

「おい鯉伴、おめぇもよ、そろそろ遊んでばかりいねぇで、てめえの百鬼夜行を背負って妖怪の世に認められるような悪行したらどうなんでい」

 暗に、妖怪の方も忘れてくれるなよと、低い声で一喝されても、口を尖らせて、

「お断りだね」

 意味もわからず即座にお応えになる。

「悪行するのが妖怪。それはいいさ。親父も妖怪だかんな、親父が悪行する分には止めやしねえよ。でもよう、親父の悪行なんてせいぜい、武家屋敷で立派な膳を食ってきただの、江戸城で茶を飲んできただの、そういうこったろ?」
「馬鹿モン、目先のことばかり見てやっとうばかりしとらんで、頭を働かせろと言っておるのよ」
「それが悪行とどう関係あるんだよ、わかんねぇなあ。別に総大将だ二代目だと言うんなら、悪にこだわる必要はねえんじゃねーの?百鬼夜行を背負うのは、そりゃあ奴良家の奴等を路頭に迷わす気はねぇし、承知の上さ。けどよ、人と上手くやってこうってんなら、親父の言うように無銭飲食に励むのはちと、逆にひんしゅくを買うような気がして、やめたほうがいいんじゃねえかって思うのよ、おれは」
「な、なにをぅ?!こやつ、口ばかり達者になりおって。誰がおめぇのオシメを変えたと思っておるか!」
「リクオだろ」
「ぐぬぅ」
「あー……わかったわかった、悪行のことはもう少し、考えさせてくれや。今は急いでるんだ。ちょいと、野暮用でね。こっちだって遊んでるわけじゃねえんだから、わかれよ、親父」
「まぁた、人間どもからの頼まれごとかい。そんなもん、遊びとどう違うかよ」
「知り合いの知り合いの知り合いからの頼まれごとだよ。そういう、つてとか考えるのが面倒で、とりあえず厄介事が持ち込まれりゃ、調べることにしてるんだ。ここらが騒がしくなったら、お上の手入れだって入るだろうし、そうなりゃ奴良組だって、でんと構えてはいられねえだろ?まがりなりにも化け物屋敷なんだ、探られたら痛い腹ばっかりだろうが。だから、遊びとは違うよ」
「阿呆、そこんところ、抜かりはないわい。ワシとて、ただメシを食いに上がりこんどるわけではないんじゃ」
「はぁん、なるほど、それで武家屋敷と江戸城か。まあいいや、それが親父のやり方だろ。おれはおれのやり方で、ぼちぼちやるよ。そいつが悪行かどうかは、別として」
「ほう。吹きおる。で、そのやり方とは」
「考え中」
「なんじゃ、身の丈ばかりでかくなりおって、やはり達者なのはまだまだ口だけじゃのう」
「うるせぇや」

 着流し姿でゆうゆうと去った鯉伴さまを、総大将は肩をすくめて見送られた。
 ぱっと見、一人遊歩にでも出かけるようなさりげなさだが、鯉伴さまの懐に、しっかり匕首が忍ばされているのを、見逃す総大将ではない。

「いったい、どんな野暮用だかねぇ」

 呟き、部屋へ戻って夕暮れ時まで一眠りするかと欠伸をされた総大将の目の前を、今度は、するすると滑るような優しげな足取りでやってきたリクオが、ぺこりと一礼して、またするすると行ってしまおうとしたので、不意に悪戯心を起こして、小さな昼姿の華奢な体を抱き上げ、これとともに部屋に戻った。

「わ、わ、なんですか総大将ッ」
「おお小さい。愛いのう。あやつもついこの前まで、これより小さかったというに。今やいっぱしの口を叩くようになってしもうた上に、あっと言う間にガタイもでかくなりおって。これぐらいの小ささが一番愛い。加減がわからんなどと言っとらんで、もっと膝に抱いておけばよかったかのう。ああ、孫が待ち遠しいわい。いや今から次の子に励めばいいのかのう。それとも、のう、お主、ワシの孫になるか?」
「何を馬鹿なことを仰せです、離してください、みっともないッ」

 すっぽり腕の中におさまる昼姿。これをその場に座り込んでまで、よしよしと小さな童子にするように愛でる、撫でる、抱き締める。
 リクオがもがいても、絶妙な力加減でおさえられていて、苦しくは無いが逃れるに逃れられない。
 以前ならば力任せに押さえつけるばかりで、それこそ総大将の力任せときたら命に関わるようなことだったから、こんな風に悪ふざけをされても本気で暴れ、かじりつき、あるいは賜った匕首で少しばかり痛い目を見てもらって逃れたろうが ――― それだとて総大将にとっては、傷口をぺろりとお舐めになって、からからと笑う程度の抵抗なのだ ――― いつから覚えたのか、抱き締めてくる両腕はたくましく力強いがどこかあたたかく、撫でてくる手つきはふわふわとしていて気恥ずかしいほど心地よい。

 実際、総大将としても、通りがかった小動物を、ひょいと抱え上げ撫でている気分なのだろう。
 これに牙をたてては申し訳ない気がしたリクオ、鯉伴さまがおでかけになる先はわかっているし、その前に台所で母君に断ってから行くと言っていたし、ついていくにしても急ぐ理由もなかったので、しばらくされるがままになっていた。

 ふわふわと、かすめるように撫でてこられる、大きな手。
 赤子をあやすように抱き締めながら、己の体を揺り篭のようにゆらす、穏やかさ。
 奴良屋敷の中で、時とともに変わったのは何も、鯉伴さまばかりではない。
 総大将にも、かつて無かった、太平の海のようなおおらかさがあった。

 昔は撫でるつもりで、迷い込んだ仔猫を捻り殺してしまったこともあるというのに。
 撫でられていると、不覚にも睡魔に襲われそうである。

「総大将は、お変わりになりました。憶えておいでですか、昔はだっこすると言えば、鯉伴さまを米俵のように肩に担がれていらしたのに」
「おうとも、それが乱暴だと笑われて、雪女や牛鬼や、他ならぬお主に取り上げられてなあ。あの頃のワシには、あれが一番優しい抱き方だったんじゃぞ」
「そうでしょうねえ、口に入るものを箸でつまむ以上の手加減をご存知なかったし、守りながら戦うのも大変不得手でいらした。すぐに戦いに夢中になってしまわれて」
「今はどうじゃ」
「少なくとももう、仔猫を捻り殺すことはなさそうですね」
「言うない。あれには、可哀相なことをした。今も思いだすに、心の臓のあたりが、きゅうっとなる」

 その気はなかった総大将、そのとき己の手の中で動かなくなった仔猫に愕然としたのである。今も唐突に思い出されて、にやにやと笑うばかりだった顔に、翳りを落として形の良い眉を歪められた。
 あのとき、総大将の傍らにいらした珱姫さまは、仔猫にももちろん憐憫の情を向けたが、何より総大将ご自身が、誰より傷ついた顔をなさったので、責めることなく、言葉を尽くしてお慰め申し上げておられた。
 命を失った仔猫は、珱姫さまの手で庭の片隅に手厚く葬られ、このときにようやく、総大将は浮世の命の儚さを痛感された。
 初めて、心から墓前で手を合わせられたのである。

「今も、ですか。もう何年も前のことなのに」
「ワシにゃ、昨日のことのようよ」

 いまだに、その時と全く同じ、傷ついたような表情をされるので、リクオは満足した。
 手加減も、何かを守ることもご存知なかった、牙のみ鋭き魑魅魍魎の主様が、躊躇や迷いをお知りになり、こうして人の子の姿をした己にすら、心地よい抱き加減を覚えられた。もちろん珱姫さま、鯉伴さまがあってこその変化だろうが、姫様と若頭を含めて奴良家の皆が言ってくれるように、己の尽力もまた、総大将の変化の理由の一つであったのなら、ここへ来た十数年、探す女の行方は知れないままとは言え、無駄ではなかったのだろうと。

「あれが我が子であったらと思うと、ぞっとするわ。昔は赤子など小便臭いばかりで興味など持てるものではなかったし、珱を欲しいと思うたときも、まず力尽くで押し倒す以外を考えんかったんじゃがのう。ワシ、臆病になったかのう」
「お優しくなられたんですよ。守るものが弱いと知れば、おのずと手加減がわかってきますし、守るものがあればこそ、迂闊に死ぬこともできなくなるのではないでしょうか。守るものも無いのに命が惜しくないと吹く輩こそ、守るものを作る度胸も無い臆病者に他ならないでしょうが、総大将は、絶対に違いますよ。だって今の総大将の手は、本当にお優しくて心地よくてあったかくて、なんだか安心するし。………ああいけない、本当に寝ちゃいそうだ、そろそろ離してください、総大将。鯉伴さまのお供をしなくちゃ」
「なんじゃ、いつまでも鯉伴、鯉伴と。あやつももう来年には元服の年じゃ。お守りの必要な子供ではないんじゃから、ほっとけほっとけ。それより、リクオ、お主ちょうどよくあったかいのう。ワシとこのまま、昼寝でもせんか」
「ひとを火鉢や行火のように言わないでください。薄着でおいでだからですよ。春とは言え、まだ冷え込む日はあるんですから、上着を……あれ、どこだろう。珱姫さまに伺って、あとで小物たちに届けさせますね」
「こやつめ、上手く逃れおる」

 笑いながら今度こそリクオを手放しだ総大将、妖の身で流感もなかろうに、「おお、寒い」などとわざとらしく身を震わせてお見せになった。
 これに、「すぐに綿入れをお持ちしますから」と答えて身を離しながら、リクオの方もなんだか名残惜しさを覚えて、間仕切りのところで振り返る。
 視線の先で総大将は、脇息に寄りかかり、煙管に火を入れておられた。
 見事な黄金色の毛並みと、人にあるまじき金色の瞳。
 たちのぼる妖気と妖艶な姿かたちは、それだけで人も妖も圧倒する。だが今はそればかりでなく、ほんのり笑む様子にはどことなく優しさが感じられ、少し前までは小物たちもよく従いこそすれ、袖振り合う拍子に消されてはたまらんとあまり足元には近寄ってこなかったのだが、最近手加減を覚えられてからは、総大将とて恐怖で押さえつけるのを是とする方ではないので、寄ってくるものを邪険にすることは決してない。納豆小僧など、最近はすっかり、小大将より総大将だ。
 元より強く器の大きかった総大将だが、珱姫さまと鯉伴さまの存在に支えられ、華やぎ、今は確かに、人の優しさと妖のたけだけしさが交わっておられた。

 もう、大丈夫だろう。不意にリクオは思った。
 己がいつ帰ることになろうとも、もう、大丈夫だろう。

「 ――― では、総大将、行って参ります」
「おう、気をつけてな、小大将。行ってらっしゃい」

 総大将と小大将、事実これがこの時代での、別れの挨拶であった。


+++


 正午が過ぎたばかりだと言うのに、台所ではさっそく夕餉の賄いが始まっていた。
 この土地に居を構えたばかりの頃は、人どもの真似事などして屋敷を建て、台所や湯殿や仏間までこしらえてはみたものの、なかなか人どもがすなるようにあれこれ行き届かせることはできず、色々あれこれ試しながら、あるいは次第に慣れ親しんできた人どもとの縁を頼りながらであったのが、今やすっかり屋敷のものどもの中で役割ができ、主に小物たちやこういった事の得意な女怪たちが切り盛りしている。
 中心であれこれと小物たち女怪たちにお願いしながら、自らもきびきびと働いているのは、京から移ってきたばかりの頃なら考えられなかっただろう、珱姫さまだ。

 而立の年に差しかかり、総大将と祝言を挙げた頃はただ瑞々しく美しい姫であったが、今は蕾の頃の若々しさには及ばずとも、洗濯のときも賄いのときもにこにこと笑んでいるところには、一家の母として陽だまりのようなあたたかさがある。
 当人も、公家の姫として育てられていながら、生来の世話好きお人好しであるし、今ではすっかり、打掛を脱ぎ武家の女が着るような小袖姿に、紙を簪と櫛とでまとめあげた姿がよく見られるものとなっていた。

 鯉伴さまが顔を出されたときには、ちょうど、勝手口から青物屋がやってきたところで、冬野菜を手に取り女たちが夕餉の一品についてあれこれ笑い話を交えながら相談していたところだった。
 珱姫さまも、ころころと笑っていたが、顔を出された鯉伴さまに気づき、あら、と振り返る。
 花開くようにあたたかに笑われたが、羽織を肩に引っ掛けた鯉伴さまの姿に、少し瞳を不安げに曇らせるのだった。

「あら鯉伴、どこかへお出かけ?」
「おう、ちょっと野暮用でさ。夜は適当にどこかで食ってくるから、おれとリクオの分はいらねえよ」
「まあまあ、リクオさんの分まで?二人でまた危ないところへ行くんじゃないでしょうねえ」
「大丈夫だよ、お袋。逃げ足だけは速いからよ、おれたち」
「いいですか鯉伴、いくら姿形だけ大人に見えたからと言って、お前はまだまだ未熟者なんですから、あまり危ないことは……」
「ああ、わかってる、わかってる。今日は喧嘩のつもりねぇから、大丈夫だって。ちょっと散歩がてら、様子を見てくるだけだよ。全く、お袋は心配性なんだから」
「様子とは ――― 」
「失礼します、珱姫さま。あの、総大将が少しお寒いみたいなんです。綿入れがあったと思うんですが、どちらかへ片付けられましたか?」

 珱姫さまが首を傾げたところへ、総大将の腕を逃れたリクオがようやく暖簾を除けて顔を出すと、どこかほっとしたように、あら、リクオさん、と応じられた。

「そう言えば、昨夜ほつれを縫ったきりでした。さっそくお持ちすることにします。ありがとう、リクオさん。今日も鯉伴の供をしてくださるそうですね。どちらまで?」
「陽炎町です。あちらの方に、人足の取り纏めなどをされる顔役さんが、屋敷を建てられましたでしょう。総大将は人間の事など捨て置けと仰いましたが、鯉伴さまが気になると仰せだったので、先日、ご挨拶をしに行ったんです。奴良家の名代として、御酒をお持ちして。その後すぐに、最近の《わいら》騒ぎですから、きっと顔役さんも人足さんたちを取り纏める身分としてご不安だろうって、今日は鯉伴さまが気を利かせて、御用伺いに」
「まあ、そうだったんですか。そうですねぇ、鯉伴は半分は人ですから、世の中の人との一切縁を作らずに生きていくわけにも参りませんものねぇ。にしても、気をつけてくださいね。《わいら》は神出鬼没だと言います。山のように大きいという人もいますし、影のように忍び寄るとも。昼間とは言え、くれぐれも、用心なさってくださいね」
「はい、珱姫さま。お約束します、何があってもきっと、鯉伴さまは無事にお返しいたしますから」
「リクオさん、私は鯉伴のことだけを言っているのではありません」

 いつになく、ぴしゃりと厳しい声の珱姫さまである。
 青物屋とのやりとりを、賄い女たちに任せ、己は板の間に上がってきちんと正座し、少し驚いたような顔のリクオを呼び寄せて、まるで子供にするように、その両手をしっかりと握り締めた。

 あたたかな、手であった。

「二人で危ないところへお出かけするときに、鯉伴だけが無事に帰ってきて欲しいと思ったことは、一度もありません。いいえ、今までだって、何度かリクオさんが一人旅に出かけられたときは、いつも無事を祈っていましたよ。
 リクオさんは、どこか自分を粗末にするところがあって、私は不安なのです。いつも思慮深くいらっしゃるくせに、誰もが助かる道を選ぼうとするくせに、その勘定に自分を含めていない、そんなところがあるように思えます。それでは困るのです。だって、リクオさん、貴方も大切な、奴良屋敷の縁者なのですから」
「大丈夫ですよ、珱姫さま。ボクはそんな無茶なことは、いたしませんから」
「では、約束できますか」
「約束って、そんな、大袈裟な」
「ふふふ、大丈夫なら、そんな風にお困りになる必要、ないじゃありませんか。心当たりがあるから、そんな顔をなさるんでしょう。本当に、殿方というのは仕方ないですね。こちらの心配など、抜けたようにお忘れになるときがあるんですから ――― こうやって、指きりをしてあげないと忘れてしまうんでしょう」

 珱姫さまが、小指を絡め取ってしまわれるのを、リクオは何も言い返せずに黙って見守っていた。

 からからからと、廻る糸車。

 リクオが去る日が近いこと、きっと珱姫さまはご存知であったのだ。
 絡めた指をほどく間際、珱姫さまは太陽のようにあたたかくお笑いになって、こう言った。

「ねえリクオさん、ここへ来てくれて、本当に、ありがとう」

 今は滅多に聞こえなくなった、上方訛りの声が、心地よくリクオの耳に響く。
 これが、珱姫さまとリクオとの、別れの挨拶となった。


+++


「最近のお袋、何か妙にお前のことを心配するよな。お前、もしやどこか体の具合でも、悪かったりするんじゃないのか?そういうところの勘は鋭いからなあ、お袋は」

 いくら童子姿とは言え、リクオは鯉伴さまの守役である。
 今やすっかり、昼姿では鯉伴さまを見上げるようになってしまったが、やや子の頃から鯉伴さまに付き従っていたリクオが、見かけ通りの年でないことは、珱姫さまもよくご存知のはずなのに、最近はずっとこの調子である。総大将のように、鯉伴さまが手を離れた寂しさを小動物で紛らわせているのかとも思われたが、珱姫さまにおかれては、どこか遠くを見定めてから言葉を紡がれる御方であるので、滅多なことは口にしないはずだ。
 これを受けて、鯉伴さまも少し心配になってきて、屋敷を出るやこう切り出したのだが、隣を歩く件の守役は、首を傾げるばかり。

「全く、そのような事は。でも何だか不思議です。珱姫さまに言われると、今までだけじゃなくて、これからの分まで、まとめてお小言されてる気分になります」
「ははっ、そりゃあ気の毒に。身の覚えの無いことでまで叱られたんじゃ、叱られ損にもほどがある」
「そうですか?ボクはなんだかとても、ありがたい気持ちになりますけど」
「あー、お前、ジジ臭い趣味してるもんなー。坊主の読経でも有難そうに手を合わせてるなんざ、うちではお袋とお前くらいのもんだぜ」
「そういうんじゃないですよ。うまく言えないんですが、ボクのことまで甘やかしてくれているような。子供扱いされてるのはわかるんですが、珱姫さまには、そうされて当然のような。総大将に小動物扱いされるのは、少し困り物なんですけどね」
「親父のヤツ、この前おれに、何て言ったと思う?『もう少し小さいままでおれんかったのか、堪え性の無いやつめ』だってよ。言い返すのも馬鹿馬鹿しくて、通りがかったすねこすりを押しつけたら、縁側でずーっと撫でてたな。何だか可哀相だから、たまには勘弁してやってくれ。大方、そういう手加減をようやく覚えたのが、嬉しくて仕方ねーんだろ。ガキと同じさ。いい年して自慢大好きというヤツなのよ」
「なるほど、流石は似た者父子、よく父君をご理解されてらっしゃいますね」
「……微妙にひっかかるな、その言い方。まぁいいや、それより今は、陽炎町の大白一家だ。どう思う」

 畦道の脇に生える、腰までの歯朶の葉を、ちょいとむしって口に咥えながら、鯉伴さまが問うた。
 口元の笑みは消えている。着流しの片袖を抜いて懐に手を入れた、斜めに構えた様もそろそろ板についてきた。やはり足の運びは遊歩のように穏やかだが、纏う雰囲気もぴりと引き締まったようだ。

 リクオも、それこそ今まで童子が主人のそぞろ歩きに誘われたような、明るい笑みを見せていたくせに、問われて、すぐに大人びた硬い表情を見せた。

「人足たちの顔役にしては、羽振りが良すぎます。京の廻船問屋とも縁が深い。まぁ、人足を使って商売をする傍ら、廻船問屋たちとも仲がよくなるのが普通と言われれば、そうなのかもしれませんけど。でも普通、ああいう人たちって賭場を開いてお金儲けをするものでしょうに、奉行所が動く気配がまるで無い。その点は真白ってことです。これは小物たちも言ってましたから、間違いありません。だと、余計に怪しいんです。賭場も開かないで、どうやってそれだけの儲けを出しているのか。ただ単に商売が儲かっているにしては、今度は商人たちとの縁が薄すぎる。清屋さんのような、飛ぶ鳥を落とす勢いの呉服屋さんと、顔も合わせたことがないなんて、商売する気が無いとしか思えません。でもそれも、他のものに手を出さず、真面目に人足業だけをやってますって言われたらそれまで。清継さんが音を上げるのも、一理あるかもしれません」
「あいつの場合、根性があっても運がねーんだ。危険を求めて走れば走るほど、危険から遠ざかるんだよな。いるんだよ、ああいう、何かに護られてるヤツっての、たまに。それで、大白一家、《わいら》に絡んでると思うか」
「小物を使って調べた結果は、白です。《わいら》が出た夜、大白一家の人足誰一人、動いた気配はありません。でも、その前後、大きな仕事が入っていますね。廻船問屋さんにずいぶんな荷物を運んでもらっているようです。ボクの私見を述べても?」
「おう、言えよ」
「大白一家、《わいら》の一端を担っていると思います。でも、《わいら》そのものではない。上手く目隠しして、事を進めているみたいです。それこそ、人の目だけじゃなく、妖の目も盗むようにして。運ばれた大荷物には全て、妖の者の出入りを封じる札が貼られていて、小物たちも中身までを調べることができませんでした。まるであちらのやり口、武蔵野国一帯を仕切る奴良家を、警戒しているかのようです」

 武蔵野国に《わいら》が現れ始めたのは、ここ一、二年のことである、らしい。
 らしい、というのは、はっきりとこれの姿を見たものはなく、どういうものかは伝わってこないからだ。
 耳に入ってくるのは、闇夜に蠢く何かが、山全体を覆いつくすように巨大な何かが居るということと、これが津波のように通り過ぎた後、村の人々がごっそり居なくなる、ということである。

 山賊ではない。血は流れていない。血痕が無い。
 また、一つたりとも死体が無い。
 乾いた津波の勢いで、屋根がはがれ壁が破られ囲炉裏の鍋がひっくり返され、人も馬も牛も犬も猫も鶏も、皆流されてしまった、そんな有様だ。
 集落が、丸ごと一飲みにされてしまう。
 このおそろしを、誰からか、《わいら》の仕業だと言い始めた。
 では《わいら》というのが何なのかと問われても、こういうものだと答えられる者は無い。
 ただ漠然と、山のように大きく、闇夜に蠢いて村を飲み込んでしまう恐ろしいものを、人は《わいら》と名づけたのだ。

 一晩で村が一つ無くなってしまう。
 このおそろしを、ただ放っておく人どもではない。
 江戸の街に乾いた津波が迫ったとき、いよいよ幕府が動いた。
 譜代大名に対して、これの迫るを許すべからずという下知が下り、夜でも真昼のように明るく道という道を照らして人の動きを見張ったのだが、嘲笑うかのように、《わいら》は江戸の街のすぐ脇で、村を一つ一飲みにした。
 瓦版が伝えるや、江戸の街は上を下にの大騒ぎ。
 次はこの江戸の街ではないかと恐れて騒ぐ者たちが、奉行所送りになった例もある。
 それまでも、既に譜代大名や御庭番などが動いていたのだが、「既に《わいら》は人に化けて江戸に入り込んでいる」という噂が立つと、奉行所としても黙って見ていられない。同心たちが、火の無いところに煙はたたぬと、《わいら》の根城を探し始めた。

 これの中に、清継という同心があり、その男曰く、「陽炎町の大白一家、あそこには何かがある!僕の勘がそう告げている!彼奴等が江戸に入ったときと《わいら》が出現し始めた頃も一致している上、調べても何も無さ過ぎるのがかえって怪しいッ!」だそうだ。人の目から見て何もなくとも、妖怪の目から見れば何か映るかもしれない、だから是非調べて欲しい ――― という頼みを引き受けたのが、一月ほど前のこと。
 頼みを引き受けた後、大白一家の屋敷が新しく建ったのを言い訳に使い、鯉伴さまとリクオは祝い酒を手土産として、大白一家の暖簾を潜った。

 表向き、大白一家の組頭、大白屋壱衛と名乗る男は、禿頭の脂ぎった強面に無理矢理浮かべたような笑みで、鯉伴さまとリクオを歓迎した。浮世絵町に居を構えている奴良一家の事については、さも初めて聞いたかのように驚いた様子であった。
 けれど、こっそり屋敷に忍び入った一ツ目小僧が言うことには、裏でこそこそ子分どもが、「あれが半妖半人の奴良鯉伴だと」などと、しきりに噂し合っていたとの事。大白一家はあらかじめ、奴良一家を知って、知らぬ振りをしていたのである。

 鯉伴さまの口から、大白一家の事は総大将の耳に入れたことは入れた。
 しかし、総大将は人の領分は人の領分の事である、捨て置け、と、取り合わない。
 確かに、人が妖の振りをして、人どもの里を襲っているのであれば、これを解決するのは人の力であるべきだ。
 そうであるべき、なのだが。

「もしかしたら、あちらさんはあちらさんで、人と妖怪、仲良くやる道を見つけたのかもしれねえよなあ。親父とお袋のような、なんだっけ、万年はにむぅん、だっけ?親父がよく言ってるような甘いのじゃなくてよ、もう少し舌先にぴりりと来るような、お互いの利害一致するような、緊張感漂う間柄ってのを。
 となると、その荷とやら、気になるねえ。札が貼ってあって妖怪どもが見られないとなると、尚、中身が気になる。中を覗いたら《わいら》とやらがうわっと出てきたりしてな」

 鯉伴さま、にたりと少年らしからぬ物騒な笑みを見せ、懐に隠した匕首を撫でた。

 奴良家が見えなくなったあたりで、二人は並んで向かう先を陽炎町方面から改めた。
 その辺りから、急に歩を早める。
 向かうは、久遠河岸。小田原河岸よりまだ南、船宿町の外れにある、寂れた場所。

 この二人を、後からこっそりつけている、小さな影があった。

 今日はこなくて良いと、やんわり断られたにも関わらず、甘え癖が抜けずについて来た、小大将大事の一ツ目小僧であった。小僧は二人が急に歩を早めたので、やはりこちらも隠れながら、少し慌てた様子で、転がるように走って行った。