小物たちが済ませた下調べの通り、数ある河岸の中でも外れにあるはずの久遠河岸、なかなかの賑わいだった。
 とは言え、陽気な賑わいではない。
 昼間であるのにどこか妖しい、闇のにおいがする。
 近づくにつれ、人とすれ違い肩をぶつけるも多くなるのはどこの河岸でも同じだが、この場所はざわざわと賑わっているのに、何を話しているのかと近づけば誰もが口をつぐんだ。誰もが後ろ暗いところを持っているくせに、同じ企みの相手としか言葉を交わしたくない卑しい目を、すれ違うときには必ず伏せる。
 人買い、女衒はもちろん、四口以外の出入りを禁じられたはずの紅毛人までもがほっかむりをして、手引きをした者どもだろう、人相風体からしていかにもなならず者たちと、こそこそ船宿を出入りしているのを目の端でとらえたときなど、リクオは己が鯉伴さまの袖の下に隠れているのが、馬鹿馬鹿しくなったほどだ。

 ここでは誰がどんな髪の色、目の色をしているのかなど、誰も気にしないに違いない。
 まして今は、鯉伴さまの姿隠しの《畏》が二人を包んでいるのだから大丈夫だろうと、ひょっこり明るい稲穂色の頭を出してみる。
 小物たちから報せを受けたとおりの場所に、報せられた通りの船宿があるかどうか、そこにどんな人の出入りがあるかを見極めるためでもあったが、それだけではない、好奇心が働いたのもあった。夜姿で総大将に無理矢理、岡場所へ連れられて行ったことはあるが、昼姿で妖しげな場所に来たのは初めてであったのだ。
 これを嗜める鯉伴さまときたら、すっかりリクオの兄貴分の表情で、

「おいリクオ、おとなしくしていろ。あんまり顔を出すなよ。流石に二人分の気配を隠すのは、まだ少し骨が折れるんだから」
「平気ですよ、少しくらい見えたって、ここでは誰も気にとめやしません」
「余計な手間が増えるかもしれねえだろうが。今は何に興味を持っていない野郎どもだって、金のにおいがするとなりゃ話は別だ。異相のお前をとっ捕まえて、例の見世物小屋連中に売り捌こうとするかもしれんぜ。頼むから、もう少し辛抱してくれ」
「だったら、やっぱり夜に来ればよかったでしょうか」
「夜だと船宿の警戒が厳しいって言ったのは、お前の方だろう。なに、潜り込むまでの辛抱だ。中に入っちまった後は、夜まで待つとしよう」

 言い聞かせた後に、己の肩ほどまでのリクオの頭を、弟にするようにくしゃくしゃと撫でてくるところなど、まことに堂に入っている。
 鯉伴さまと、昼のリクオの背丈が逆転した頃からこの調子が続いていて、今まで機を逸していたが今度こそ言ってやろうと、憮然とした顔のまま、リクオはついに口にした。

「……なんだか最近、こっちの姿だと鯉伴さまには弟のように扱われてばかりです」
「おう、悪かったな。つい撫でやすい位置に、この頭があるからよ。嫌ならやめるよ」

 嫌か、と問われて、きっぱり嫌だと言えばそれきりだろうに、そうなるとどうしてか、惜しい気持ちのするリクオであった。

「嫌と言うか、困るんです」
「撫でられると、なんか困ることがあるのか」
「嫌じゃないから、困るんです。可愛がられて喜ぶような年でも無い気がするし、気恥ずかしい」
「小物連中なんざ、何年経っても可愛いって言われて喜んでるじゃねえかよ。変な奴だな、嫌じゃないならいいじゃねえか。それはそうと、ほら、見えてきた。こんな町外れにずいぶん立派な門構えだぜ」

 鯉伴さまが咥えていた草をぷっと吹き出し、指し示されたのは、大白一家と懇意の廻船問屋が船宿、壱翁屋。
 真新しい門構えと、清々しいまでに整えられた生垣に囲まれた、二階作りの立派な宿は、それだけなら船宿と言うより、どこぞの武家屋敷のようだ。かろうじて、奥の方から川面に乗り出すように桟橋がかけられ、敷地内の荷物をそのまま小船へ運び出せるようになっているのが、らしいと言えばらしい。
 この屋敷から小船に載せられた荷は川を下り、沖合いで商船に載せかえられて北や南へ運ばれていくのだろう。

 大白一家が荷造りし、壱翁屋が手配する荷の中にこそ、《わいら》が平らげたはずの村里の人々が、居るのではないか。
 思いついたのは、鯉伴さまの何気ない一言からだった。

「妖の術で人里に入り、人を浚った後に今度はただの人の振りをして、浚った人間を荷物として船に乗せるなど、おれなら簡単にできるだろうが、それでも一人担ぐのがせいぜいだなあ」

 冗談で零した途端に、はっとリクオと目を合わせたのだ。

 妖怪と人間、手を組むのは何も、総大将と珱姫様のように、幸せな間柄だけではあるまい。
 一方が牙となり、もう一方は牙を隠す隠れ蓑となり、一つの悪巧みをなすような間柄もあるかもしれぬ。
 つまりは、人と妖との、忌むべき繋がりこそが、《わいら》の正体ではないか。

 一度かどわかしてしまった後、見知らぬ土地で競り市にでもかければ、人買いから人買いの手へ渡っていくにつれ、その人間がどこからどういう風に浚われてきたのかなど、気にする者はなくなる。
 人買い自体は、珍しくもなんともない世の中なのだから。

 いずれにしろ、奴良一家の息がかかった町でもって、あやしげが行われているのはたしか。
 誉められたことではないが、人買いとて生きていくために、人を買い付け、岡場所に売ったり、働き手として売ったりとしているのだから、これ自体に総大将が「捨て置け」というのには鯉伴さまもリクオも返す言葉は無い。だが、売るつもりの無い人間まで、村ごとごっそり浚われて、それが山賊などではなく、妖怪の仕業であるのだとしたら。
 奴良組のシマで、好き勝手暴れられては、奴良組の威光に関わってくる。

 いかなあやしげであるのかは、それこそぬらりくらりと勝手に邪魔をして判じさせてもらえば良いだろうと、二人、頷き合ったのだ。

 さて、壱翁屋。
 門構えの両脇には、用心棒らしき屈強の男が二人、辺りをうろつく小銭を求めた宿無しや、あわよくば儲けのおこぼれに預かろうと目をぎらつかせた浪人どもを、厳つい視線で黙らせていた。

 流石にこの視線を潜るときには二人、息を潜めたが、いかに眼光鋭くとも、只人の目にはぬらりひょんの姿は映らない。いとも簡単に、二人は生垣で囲まれた、船宿の中に潜り込んだ。
 夜にはあちこちに見張りが立ち、部屋にも武器を持った傭兵どもで、連れ込み宿のように賑わうらしいが、真昼の今は逆に寝静まったように静かで、松の木が植えられ玉砂利が敷かれた庭は上品にさえ感じられる。

 ところが庭を横切り裏手に出てみると、塗りなおされた白壁の頑丈な蔵が建ち、ここから、すすり泣きが聞こえてくる。蔵には閂が通され、念の入ったことに鎖と南京錠で雁字搦めにされていて、中をうかがうことは出来ない。
 小物たちがリクオに報せた通り、なるほど、蔵のあちこちには護符まで貼り付けられており、人も妖怪も敬遠されているのがよくわかる。
 高窓まで上がって中を覗いてみても、暗く、どうなっているのかは判らない。
 しかし、ただの人買いを商いにしているにしては、人の数が多すぎた。
 それに、小物たちが報せた、中身のうかがい知れない荷というのも気になる。

「この中に居るのが、消えた村の人間たちだと言うんなら、大白一家と壱翁屋、《わいら》の一端を担ってると考えていいわけですよね。鍵を探して、中に入ってみましょうか、鯉伴さま」
「……いや、今はやめておく」
「どうしてです」
「仮に、ここでこいつらを解放して、大白一家と壱翁屋が《わいら》の一部だってことがわかっても、それじゃあどうやって、村を一飲みにするような化け物に言うことをきかせてるのか、それがわからねえことには同じだ。今度は別の名前を使って、同じことをするに決まってる。
 今ここに荷があって、昼の内に運び出してねえってことは、もしかすると今晩にでも、ただの人買いや女衒じゃねえ、この荷に別のあやしげな用がある奴が来るってことじゃねえか?なら、少なからず秘密の会合ってのがあるかもしれねえ。約定だ、盃を交わすだなんてのは、時折ちゃあんと膝をつき合わせて、これこれと決めなくちゃ、だんだん綻びが生じてくるもんだろう。ただの商売じゃねえんなら、特に、密も密に決めねえと。
 こいつらを解放するのは、そこんところを見て、できれば二度とこういうあやしげを奴良一家の膝元で起こさんようにこらしめてからだ」
「大事の前の小事だと?」
「これがただの人買いどもなら、商いの品に手を出すわけにはいかねえからさ」

 いかにも、その通りである。

 川面の桟橋がよく見えるあたり、陽の光が当たってほかほかとした草叢のあたりに腰を下ろし、杭に繋がれた小船が揺れるのを見やりながら、二人は夜を待つことにした。

 久遠河岸は、もはや海に近い。
 沖に大きな船が浮かび、ざざあ、ざざあと、寄せる波の音が耳に届く。
 ぱしゃりと音がしたと思い見やれば、たった今、カモが魚を嘴に咥え取ったところだった。

「この辺も変わりましたねえ。鯉伴さまがやや子の頃なんて、まだあちこちゴタゴタしていて、河岸もこれほど多くはありませんでしたが」
「何をジジ臭いこと言ってやがんだ。おら、腹ごしらえだ、食え」

 目を細めて辺りの様子を見つめていたリクオの前に、ついと鯉伴さまが差し出されたのは、串に刺さった団子だった。ご自分はもうとっくに、食べ終わった後の串を綺麗に舐め取っておられるところである。

「どこから持ってきたんです、こんなもの」
「そこの台所にあった」
「こういうところは、すっかり父君顔負けですねえ」
「おれも半分はぬらりひょんだからなあ」
「じゃあ、ボクもおすそわけしましょうか。そこの台所に置いてあったおむすび、食べます?ついでにお茶なんかも」
「……そういうところは親父よりちゃっかりしてるよな、お前」


+++


 陽が落ちて、まもなく夜五つという頃。
 一艘の小船が、壱翁屋についた。

 乗っていたのは、父娘連れ。
 いや違う。それほどの年の差がある男女だが、男の方が裕福な商人のように立派な身なりであるのに、娘の方は、たった今鶏小屋から引っ張り出されてきたようあ、酷い格好だ。

 あちこち継ぎのあたった単衣の着物は、ようやっと膝下までを覆う程度。
 おまけに垢や泥で汚れて、元の色もよくわからない。
 髪に艶も無く、ただべったりと、黒い。
 しかし尚も黒く暗いのは、これに覆われた娘の、瞳であった。

 桟橋で二人を迎えた下男に、男の方は恵比寿のようにつややかな顔でにっこりして、「出迎えご苦労さん」と、いつものように気前よく心づけを渡したが、後ろに続いた娘の方は、下男が差し出した手も取らず、俯きがちに船からおりたのみ。
 桟橋の上で少しよろけたので、下男が娘の体を支えたが、その拍子に娘の目を覗き込んでしまい、ゾッとしてかたまってしまった。
 そんな下男の腕からするりと逃れると、娘は礼も無く、ふらふらと恵比寿の後ろを行く。

「すみませんねえ、若い人。この娘、唖なんですよ」

 恵比寿はけらけらと笑い、下男が呆然としている間に娘と二人、勝手知ったる様子で船宿へ。
 不気味な、二人連れだった。
 その二人、どちらも下にも置かぬ丁重な扱いで、今度は船宿の下女が奥座敷へと案内する。
 奥座敷で二人を迎えたのは、二人の男。
 どっしり上座に構えた大白一家組頭壱衛と、もう一人は下座に控えた細身の手代といった風情の、いいや、若いが羽織を着込んだ男。こちらが、壱翁屋の主人であった。

 壱翁屋の主人が席を立って恵比寿を招き入れると、恵比寿はそこでようやく頭巾を取り、膳の前につく。ごくありきたりの酒宴でそうされるように、主人が下女を呼んで燗酒や新たな膳を持ってこさせると、互いの近況や商売の様子まで、組頭と恵比寿は互いに心の内を知り尽くした者同士なのか、さっそく笑みを交えて語り合った。
 だが女も側に置かず、二人の賄いの世話をするのは、もっぱら主人のみ。

 この三人の影が行灯の明かりで揺れる中、部屋の片隅に、娘は忘れられたようにぽつねんと座り、背負っていた荷をほどくと、緩慢な所作で、乱雑に包まれていた糸束を、糸巻きに巻きつけていく。三人の男の誰もがこの娘を構わず、気にする様子も無い。
 この娘はこういうものだと、知っているのだ。

 恵比寿が銚子を二つほど空けた頃、組頭が思い出したように、こう切り出した。

「菊の様子はどうだい、うまく育ってるかい」

 恵比寿の趣味を指しただけの、何気ない口調のようであった。

「なかなか、いい花を咲かせるようになって参りましたよ。大輪になりそうなのも二つ三つ、目星がついて参りました。あとは頃合を見計らって、どれをこちらに根付かせるか、決めるといたします。多少は小さくとも、こちらの手を食い破るおそれの無い方がよろしいでしょうから」
「そりゃあ、もっともだ。うるさく葵の生茂る野を菊野原にしたはいいが、その後でお天道さんに背かれちゃ困る。せいぜいじっくりと、育ててもらおうじゃないか。急いては事を仕損じるというしな」
「それで、そちらの葵野原はどうなのです」
「お前さんから借りた奴等は、いい働きをしてくれる。しっかり躾が行き届いてらあ。おかげでしっかり、そっちに送る肥やしも稼げるし ――― そうそういい知らせだ、いよいよ、ここ等一帯の総元締が疑われ始めたぜ。葵野原に地割れが見えてきたってところだろう」
「それは上々。葵野原自体をどうのとする前に、葵野原に住み着いた、羽衣狐を斃した総元締一味をどうにかせんとなりませんからなあ。人どもの戦には関与しないなどと吹いておるそうですが、その言い様、まるで人と対等なつもりでいるようで、けがわらしいことです。妖など、使役されるか滅されるかぐらいの末路しか無いでしょうに、何を粋がっているのやら。対等でいるつもりならば、とっとと葵そのものと、共倒れになっていただかねば」
「だがよ、ちいとばかり、アンタから聞いてたのと違う話があってな。人の喧嘩や戦には関与しないと言っている総元締の方は、確かに人前に出てこねえんだが、若頭の方はずいぶんと有名になってるようだぜ」
「若頭?はて、そのような者がおりましたか。どんな妖で?」
「総元締の倅だ。奴良鯉伴と言って、齢十二にして、町の奴等からはずいぶん評判高い。この前、俺の屋敷にもやってきやがった。親父と違ってこいつの方は、人の喧嘩だ刃傷沙汰だといったところに、簡単に顔を突っ込んできやがるのよ」
「なるほど、倅。総元締はたしか、公家の姫をかどわかして妻にしたという話でしたが、子まで成したとは、その姫のなんと哀れなことか。大方、妖術をかけられ乱暴でもされたのでしょうねえ」
「感じ入っている場合じゃねえって。その倅がよ、最近小うるさく嗅ぎまわり始めたんだ。どうする」
「左様でございますねぇ ――― 」

 羽織の中で腕を組み、恵比寿はあくまで慇懃にもったいぶった。
 言葉遣いは丁寧でも、ここまでくれば、組頭と恵比寿の、そして壱翁屋の力関係は明らかである。恵比寿は誰かしら、上に立つものの使者であり、大白一家はこれの命を受けて何かしらの工作を計る間者だ。壱翁屋は、この二人を引き合わせる場を設ける、やはり誰かしらの息がかかった者なのだろう。場を繋ぎ、二人を世話するのみに神経を注ぎ、余計な口は一切挟まない。

 しばらく瞑目して、何かを考える様子だった恵比寿は、ふと、笑みを濃くしたのだが、行灯の火がちょうどその時、隙間風に揺れたので、まるで炎を背にした般若のように陰影が歪んだ。
 あるいはこの男の、心がそのままそう映し出されたのかもしれない。

「その話は ――― そこで聞き耳を立てているお客さんを持て成した後に、改まっていたしましょうか」

 恵比寿の言葉にぎくりと身を震わせたのは、三人の様子を、襖を隔てた次の間から伺っていた、鯉伴さまとリクオに他ならなかったが、これは二人に対するものではなかった。
 しかしそれが、逆に不運だったかもしれない。
 この時気づかれていたのが二人の方であったなら、二人は早くにこの場を脱して、事態はもう少し早く解決していただろう。
 恵比寿がついと視線を巡らせたのは、襖の裏で身構えた二人の方ではなく、彼等を通り過ぎて、天井裏。
 羽目板の隙間からこっそり会合を覗いていた、円らな目。

 にたりと笑ったのは ――― 恵比寿の皮をかぶった、般若だ。

 顎髭を撫でていた手が、襟元を正すついでにそこからするりと形代を抜き出すと、目に見えぬ操り糸で救い上げられたように、二枚の人型の紙がふわりと浮き上がり、まさに今、円らな目が消えた隙間から天井裏へと這い上がった。
 やがて、気配を隠すことも諦めたのか、円らな目の主だろう、鼠にしては足音大きくどたどたと天井裏を走り回るので、この頃には、船宿のあちらこちらの部屋で、酒を喰らったり女を連れ込んだりしていた用心棒どもも不穏に気がつき、手に手に武器を持って部屋を飛び出していた。
 途端、船宿の中は火がついたように騒がしくなった。

「曲者か!」
「何奴だ、どこの間者だ、草が入っていたか!」
「出口を固めろ、猫の仔一匹逃がすな!」

 追われたのは猫か、鼠か、間者か ――― そうではなかった。
 形代に追われてやがて天井から転がり落ちたのは、鯉伴さまとリクオを追ってきた、一ツ目小僧であったのだ。

 ようやくのことで己を追っていたしつこい紙人形を鷲掴みにし、千切り破ったところで天井板を踏み抜いたのだ。ぽてりと床に落ちてきた小僧を囲んだ男どもは、むくりと起き上がった小僧がいかにも化け物らしい人相であったので、得物を突きつけながら二の足を踏んだが、逆に小僧は人間どもの修羅場などものともしない。
 んべえ、と一つ舌を出し、そのままどろんと消えうせる ――― はずだった。いつもならば。

「 ――― 紙は糸へ、糸は縄へ、縒りて縒られて人の手で、縛せ縛せ、縒りて縛りて不浄なる者を晒せ」

 歌うような文言が聞こえてきたと思うと、小僧の体は途端に重くなって、大きな足に踏みつけられたかのように、その場で動けなくなった。あわあわと小さな手足を動かすが、助けは無く、逆に恵比寿がこの手を踏みつけたので、ぴいと悲鳴をあげ、大きな目に大粒の涙を浮かべてしくしくと泣き始める。
 小僧の体を戒めていたのは、千切ったはずの形代だった。
 細かく千切れた紙が輪のようになって、小僧の四肢をからめとり、床に縫い付けていたのだ。

「こんなところにまで、妖怪が忍び込んでいるとは。やれやれ、こまった町ですなあ、ここら辺は。天海僧正の螺旋封印が聞いて呆れる。武蔵野国はまるで妖怪の浄土のようではないですか。後でこの宿にも、結界を敷いておきましょう」
「ほう、見事なもんだなあ、陰陽師殿」
「よしてくださいまし、ほんの手慰み程度でございます。この小僧、壱衛親分が仰ってた、その奴良鯉伴とやらの間者でございましょうか」
「……かもしれねえな。野郎、いつも小さいのを何匹か連れて歩いているそうだ。出入りのときは大きいのもついて来るらしいが」
「ならばこう致しましょう。この小僧を滅して、形見の品をその男のもとへ届けてやるのです。ついでに、葵の使いがこの小僧を滅したと言えば、少なからず波風を立てられるかもしれません。もっとも、こんな雑魚など、何人消えようが構いやしないのかもしれませんが、なに、駄目で元々、使える物は使っておきましょう」

 ならばと、組頭は周囲で得物を持っていた男たちに顎で指し示す。
 ためらいのない手が、小僧の首にかかり、あわや、というその時。

 闇の中から転がり出て、小僧の体を掻っ攫ったのは、鯉伴さまだった。

 これはいかんと判じるや、鯉伴さまはそれまで隠れていた襖の陰から、姿を現したのだ。
 阿吽の呼吸でリクオも飛び出し、小僧の周囲に群がっていた浪人どもを、ただ一度、袖を翻して炎の粉を振りかけただけでたじろがせ、鯉伴さまを追いまっしぐらに外へ、駆ける。

 外へ。雨戸を破って、庭へ。

「縛せ!」

 例の恵比寿の呪が、一ツ目小僧の衣にびっしり張り付いていた形代を起き上がらせ、今度は鯉伴さまもろともに黒い言霊の鎖で縛り上げようとしたが、庭で追いついたリクオの袖に燈った炎がことごとく焼ききってしまった。

 あやしげのからくりまでは判らなかったが、よろしくない謀り事を、武蔵野国一帯に持ち込んできているのはたしか。ここまで掴めればそれでいい、二人、顔を見合わせて頷きあうともはや後ろは振り返らず、いつもするように二手に分かれて一目散に駆け出す。
 そこまでは良かった。
 しかし。

「千代!ならん、奴等を逃がしてはならん、奴等、『鳴く』ぞ!」

 明らかに焦りの生じた恵比寿の声が飛ぶや。

 ――― ぬ。

 と、ぬばたまの闇が大きな手となって、三人を絡めとった。
 瞬く間に景色が遠のき ―――

 気がついたときには、三人とも、後ろでに縛られ庭に転がされていたのである。
 いつ落ちたのかも気がつかなかったが、鯉伴さまはやけにじんじんと頬が痛むので、そこから、気を失った拍子に土にしたたかに打ったのだろうと思ったくらいだ。
 己の脇で、小僧は昏倒したまま泡を吹いていたが無事だ。
 リクオもまた同じように気を失い、傍らに倒れていた。こちらに背を向けているので、目を開けているかどうかは、わからない。

「これはこれは、奴良屋敷の若頭殿、奇遇じゃねえか。ちょうど今、お前さんの噂をしていたんだぜ」

 禿頭の組長が、にやにやと笑ってこちらを見ている。
 にたりと笑い返してやった。

「そりゃあ奇遇だねえ、大白親分さんよ。おれはようやく訪れた太平の世を騒がす、不埒な者どもを追っていたら、こんな辺鄙なところに辿りついたんだぜ。人足頭の大白親分が、葵野原を焼き討ちにするような相談事に、いったいどんな関わりがある事やら、ちょいと教えちゃくれねえか」

 菊は朝廷、葵は徳川、太陽とは天子。総元締は奴良組総大将と、聞いて判らぬ鯉伴さまではない。
 学問の方は、ことの他厳しい守役に躾けられてきたのだから。

 組長は答えず、指示を仰ぐように恵比寿を見た。
 恵比寿はしきりに髭を撫でながら、鯉伴さまの視線の先で倒れているリクオの顔を、嫌な気持ちのする目で、嘗め回すように見つめつつ思索にふけっていたが、うむと一つ頷いて、こう切り出した。

「親分さん、こう致しましょう。この妖怪たち、私が菊野原でお預かりします。この小さいのは色小姓に使えそうなほど見目良く、それに珍しい色艶をしているから、好事家には高く売れそうですし、半妖の方は見世物に使えるようになるかもしれない。まとめて躾けさせていただきますよ。もしかすると、役にたってくれるかもしれないですしね」

 リクオは完全に気を失っていた。
 かがり火の中で、稲穂色の髪が土に汚れ、恵比寿の指がついと幼い輪郭を撫でると、かすかに睫を奮わせたが、それまでだ。恵比寿がリクオを品定めする視線が、何がとは言えずとにかく不快極まりなく、鯉伴さまには感じられてならない。
 腕に力を込めても、縄はがっちりと肌に食い込むばかり。
 妖気を昂ぶらせて焼ききろうとしてみても、おかしいことだが、何も、変わらない。
 まるで、ほんの幼い頃、只人の幼子として育ってきた頃に逆戻りしてしまったかのように、鯉伴さまを取り巻く妖気が霧散していた。

 庭先から例の蔵へと無理矢理引きずられて行く途中、鯉伴さまは、恵比寿の後ろで、例の娘が糸を縒っているのを見た。

 からからからと、廻るのは糸車。
 糸車にかかるのは糸、糸 ――― 糸は糸車の先で、ぶわりと闇の布として広がり、辺り一帯を覆っていた。

 娘の瞳にあったのは、絶望。虚無。ありとあらゆる、暗き淵。

 底知れぬ黒。底知れぬ闇。

 ざわりと、鯉伴さまの肌が粟立ち、悔しいが今はここまでだと判じられた。
 この娘があちらについている限り、かなうはずもないのだと。

 まったく、正しい判断であり ――― 最大の不運だった。