からからからり、からり、からり………

 廻る、廻る、糸車が廻る。

 からからからから、からり、ざりざり、からり、ざりざり……

 常はからからと廻ったきり、決して逆戻りしないはずの糸車。
 何かを挟んでざりざりと、濁った音をたてた。



 ざりざりざり ざりざりざり



 濁った音の五月雨を抜けて、抜けて、抜けて。



 泣いている。
 一人、幼子が泣いている。
 堪えようとするのだが、己の手で、溢れる涙をぐいと拭いはするのだが。
 次々、次々、ぽろぽろ、ぽろぽろと。

 声を上げずに、泣いている。
 堪えながら、泣いている。
 たった一人、見知らぬ場所で、泣いている。

 それこそ屋敷の小物たちのように、小さな小さな幼子だった。
 見慣れぬ着物だったけれど。
 辺りも何だか見慣れぬ高い建物や、嗅いだ風もいつもと違うにおいがしたけれど。
 それよりも気になったのは、こちらに背を向け泣き続けるその幼子が。
 ふわふわと揺れる、稲穂色の髪の毛が。
 小さな後姿が。

(リクオに似てるな)
(いやこれは)
( ――― リクオだ)

 わかる。これはリクオだ。



 ざりざりざり ざりざりざり



 軋む音がする。あたりは何だかぼやけている。
 黄昏が、全ての境界線を曖昧にしている。

 全てが曖昧な世界で、リクオが泣いている。
 守役のリクオではない、もっと小さな、とても小さな。
 いとけない、愛らしい、ただの幼子が、泣いている。

 泣きたいのなら、声を上げて泣けばいいだろうに。
 嘘泣きばかりしているくせに、本当に泣きたいときは誰も見ていないところで。

 隠れるのは得意だから。
 見つかりたくないときには、誰にも見つけられない場所で、たった一人。

(意地っ張りなのは、昔からか)

 やれやれと思って、声をかけた。
 不思議なこともあるもんだと、それだけで済ませられたのが一番、不可思議だったが。



 ざりざりざり ざりざりざり



「リクオ、一人で何をめそめそしてやがんだ」
「 ――― !」

 びくりと、小さな背が跳ねた。

 おそるおそる振り返った顔は、やはり、見慣れたあのリクオの顔だ。
 いや、少し幼い。それに、瞳は夕陽を映してきらきらと、琥珀に煌めいている。
 鼻の頭も、擦った目元も真っ赤にして、大きく見開いた目で、己を見ていた。

 信じられないものを、見たように。

「どうした。何があった。話してみろよ」
「ど、どうして ――― どうして、ここに、いるの ――― ?」
「どうしてって、変なこと言う奴だな。お前が泣いてるってのに、他のどこに行けってんだよ」

 しゃがんで、視線を合わせてやる。

 小さなリクオ。幼いリクオ。
 ふくふくとした頬をつついてやると、ぽかんと口をあけて固まっていたのが、弾かれたようにぱちぱちと瞬きした。
 次に、何かを言いたそうに、ぱくぱくと、小さな口が何度か開いては閉じ、開いては閉じ。
 しかし結局、口をへの字にして。
 ふるふると、唇が震えて。

 膨らみきった紙風船、ぺしゃんと割ったように、うわあと声を上げて、しがみついてきた。
 うわあ、うわあ、うわあ、遠吠えのように泣き喚いた。

「はいはい、よしよし。そうしがみつくな、苦しいって」

 手加減なくしがみついてくるリクオに苦笑して、ぽんぽんとその背を叩いてやる。
 物心ついたばかりの頃、己がリクオや、母に、そうされていたように、ぽんぽんと。
 その肩越しに、リクオがしゃがみこんでいた辺りを見ると、仔兎が一羽、捻り殺され死んでいた。
 たくさんの子供の足跡の中で、ひしゃげて、小さくなって、目を閉じて。

 リクオはその前で、なすすべなく、すすり泣いていたのだ。

「酷いことする奴がいたもんだ」
「ボク ――― ボク、が」
「うん?」
「ボクが……世話、してた……汚いって」

 しゃくりあげながら、一言ずつ、リクオが理由を話し始める。
 己の胸に涙に濡れた頬をこすりつけ、少しずつ。少しずつ。

「クラスの、奴等が。……ボクが触った兎なんて……汚いって、乱暴した……そしたら、動かなくなって。ボク……それでも、わかんなくて……ッ。どうしたらいいか、わかんなくて。――― いつもみたいに……笑ってたら、いいのかなって。でも、そうしてたら……みんな、みんな、……笑いながら、笑いながら、動かなくなるまで、この仔に、乱暴、したんだ」
「お前が汚いって?なんで。どうして」

 細い肩を掴んで、目の前に立たせ、あくまで優しく問いただす。
 リクオは言いにくそうに、真っ赤になった目を彷徨わせ、呟いた。

「……ボクが、妖怪の血を、引いてるって、言ったから」
「へえ。ってことは、それをやったのは、人間の友達か?」
「人間に友達……なんて、いないよ。カナちゃんだけ」
「友達でもねぇ奴等相手に、何をへらへら笑う必要があるんだ、お前らしくねぇなあ」
「ボク、らしく?」
「おう。誰が相手だろうが、いいもんはいい、悪いもんは悪い、そう言う奴だろう、お前は」
「でも、口答えなんかしたら、嫌われちゃうよ。妖怪のくせにって、言われるよ」
「嫌われたらいいじゃねえか。こんな事する奴に、お前、好かれたいのか?」

 汚れて動かなくなった白兎を、懐の布巾に包んでやると、リクオがおずおずと、小さな手を差し出してきた。
 魂を失った生き物の冷たさに、愕然としながら、震える手で受け取る。
 次第に落ち着いてきた、息遣い。
 ぱちぱちと瞬きをした、思慮深い琥珀の瞳が、答えを探し当てた。

「ううん……あんな奴等、友達じゃない。好かれたくなんかない」
「そうだとも。嫌われるのを怖がってヘラヘラ笑ってるうちに、こうやって大事なモンを、取られちまってりゃ、世話ねえだろう。お前はお前らしく、いつもみたいに、正しいと思うことをやってりゃいいさ」
「ボク……この兎を、殺したの、ボクなんだね」
「……かもな。そして、おれでもある」
「……どうして?」
「そのとき、側にいてやれなくてごめんな、リクオ。おれはお前の味方だってのに、そのとき、近くにいてやれなかった。ごめんな」

 じわりと、今度は静かに溢れた涙を、今度はきっぱりと拭いて捨てた。
 幼くとも、小さくとも、リクオはリクオだ。
 妖気帯びた瑪瑙ではない、只人のように琥珀の瞳。
 それでも、凛とそこに立っていた。

「土に還して、祈ってやろう」
「…………うん」

 良い場所を求めてリクオと歩き、ついた先はとある土地神の境内。
 静かな林に囲まれた、静かな場所を拝借して仔兎を葬った。
 二人、どちらからともなく灯篭の足元に座り込む。

 泣きつかれて、うつら、うつらと、リクオが舟をこぎ始めた。
 夜風すらあたたかで、宵には早く、まだ優しい黄昏が、二人を覆っている。

「寝ろよ、リクオ」
「ううん……大丈夫。もっと、お話したい」
「いいぜ。何を話す?」
「うんと……なんだろう、思いつかないや……」
「じゃ、思いついたときに、また話そうや」
「…………また、来てくれるの?」
「いつだって側にいるだろ」

 それでも、まだ目を擦って、眠たげなのを堪えている。
 夢の岸へ渡らず、必死でこちらに留まっているのがただただ愛らしく、笑いを誘った。
 言い難いことがあるときに、唇をきゅっと噛む癖は、既に見られた。

「何だよ、言いたいことがあるなら、言っちまえ」
「…………ボクは、人間になった方がいい?それとも、妖怪になった方がいい?」
「お前は、どっちになりたいのよ」
「…………両方」
「はははっ、そりゃ、結構。それぐらい欲張らねえとな」
「…………どうした方がいい?」
「なったらいいじゃねえか、両方に」



 ざりざりざり ざりざりざり



 からり、からり、からからからから…………



 黄昏の向こうで、再び、糸車が廻り始める。



 幼いリクオは、すとんと眠りに落ちて、いよいよ訪れた宵闇に、己もまた連れ戻されるのを感じた。

 けれどこれだけは。これだけは伝えておこう、幼いお前に。



「……忘れるなよ、どれを選んだって、おれは、お前の味方だ」



 何故だろう、ただの夢のはずなのに、遠くなる幼子の姿に、ひどく胸が痛んだ。
 ただの夢のはずなのに、ただの夢のはずなのに。



 ざりざりざり ざりざりざり



 不思議だった。己が泣いていることに、気づいた。不思議だった。
 離れがたかった。ただの夢のはずなのに。

 本来はただ、紡がれ続ける時の綾糸が、絡んだ拍子にどこをどう掛け違えたか。

 ほんの一時、交差したのは、不運か幸運か、偶然か必然か。



 からからからからから…………



 黄昏の向こう、迫った宵闇の中の幼子にとっても。
 時の綾糸に連れ戻された、己にとっても。



 からからからからから…………



 ただの、夢に、違いなかった。