ボーン……ボーン……ボーン……。










 柱時計が刻限を、すなわち八日目の終わりと、九日目の始まりを告げ終えた。
 深夜である。

 行灯の柔らかな明かりに照らされし部屋で、総大将、そし若君の御母堂も交え、あとは奴良家の妖怪たち、大物も小物もなく、若君が身を横たえる布団を囲むように集いて、この最後の夜、若君の魂が体に戻ってくるのを一心に願い続けていた。柱時計がむつかしく刻限を告げ終えても、今にも若君が目を開けるのではないか、寝た振りをして驚かそうと、悪戯を考えておられるのではと見守り続けるのだが。















 ……若君は、指先をぴくりとも動かさない。















「 ――― リクオ様」




 この八日、枕元に侍り続けた雪女が、若君を、呼んだ。
 はたり、はた、はた、はたり。
 堪え切れなかった大粒の涙が、いくつもいくつも溢れて、覗き込んだ若君の頬を濡らす。




「嫌。起きて、起きてください。こんなの嫌。お願い、お願いですリクオ様。置いて行かないで。
 私、待ってるって言ったじゃないですか。帰るって言ってくださったから、だから私、待ってたんですよ。
 お戻りにならないなら、そちらへ行くなら、どうかつららも、連れて行って下さい」




 細き肩を震わせ、若君の頬に己の頬を寄せて雪女が小さく嗚咽すると、取り囲んでいた大物小物たちからも、すすり泣きが漏れ始める。
 ついに総大将も天を仰がれたが、ただ一人、若君の御母堂は違った。
 毅然と背筋を真っ直ぐに。常にどこか遠くを見ているような大きな榛色の瞳に、今はじいっと息子を映している。
 時折膝の上に目を落とすが、失意からではなく、己の指先から伸びる、見えない細い糸を辿るようにそろそろと、視線は膝から若君へ。
 若君の内にある魂の在り処へ。やがて御母堂は、気づかれて、いつもの微笑みをふふりと浮かべた。

 静かな嗚咽が妖怪たちの間に広がる中、御母堂の微笑みは奥ゆかしいに過ぎ、この視線の動きに気づいたのは総大将のみである。
 総大将は、うん、と怪訝な表情をされた。次に、もしやと、希望が湧いた。
 この御母堂がただの人の女であるだけなら、息子の喪失に気がふれたかと心配もしたろうが、違う。

「若菜さん、何か、《視》えるかい」
「ええ。急いで走っています。大丈夫、間に合いました。鐘が鳴り止んだとき、もう川は渡っていましたから」
「 ――― 何?」
「そこまではあの人が背負って、送り届けてくれました。氷麗ちゃん、泣かないで、ほら、リクオが目を覚ますわ」

 若君の御母堂が、己が神仏から預かった力をひけらかすことはない。己だけが知っていればいいことであるので、かつて総大将や二代目がなさったようにそうであるのかと尋ねられれば頷きはするが、自らそうであると語ったことは一度もない。
 だから雪女は、御母堂が何を見てそう言ったものかわからず、ただ怪訝に思って身を起こした。

 そこへ。





 今までぴくりとも動かなかった、若君の手が、ついと、持ち上がって。













「 ――― つらら……泣くなってば」













 まだ夢の中に在るような、かすれた声。ようやく持ち上がった瞼もまだ、重そうだが。
 持ち上げた指で、しっかりと、雪女の涙を拭われた。

「 ――― 若……リクオ様……?」
「うん……ああ、つらら、本当に、お前がいる……ようやく、会えた……」
「リクオ様……本当に……目を覚ましてくださったんですね、目を……!嗚呼……!」

 泣き止むどころか、今度は袖で顔を覆って、激しく嗚咽し始めた雪女を中心に、若君を囲んでいた妖怪たちの中には、安堵してもらい泣きをする者も、涙を見せるのを嫌ってそっと部屋を出て行く捻くれ者もあった。
 小物たちなどは等しく、大好きな若君に駆け寄って布団の端にしがみつき、堪えていた分わあわあと声を上げて泣く始末。若君の方でも心得て、寄ってきた小物たちを優しく見つめ、豆腐小僧のつぶらな目の涙を払ってやったり、口をへの字にしながら、たまたま壁の汚れが気になったらしくそっぽを向いた火の玉小僧を撫でておやりになりつつも、しかし片方の手はしっかりと枕元の女の腕などを、ぽんぽんと優しく叩いておられる。

 総大将、ここでようやく呼吸を思い出してふうと息をつかれた。

「 ――― じゃあ氷麗ちゃん、リクオをお願いね。リクオ、お腹すいてるでしょ。何か柔らかいものを用意するから、少し含みなさいな。小物の皆さん、お手伝い頼めるかしら」
「あ、若菜さん、安心したらワシもなんか……酒でももらえるかのう」
「はいはい」

 大物妖怪たちは己等で気を利かせ、雪女に若君を任せて、一人、また一人、続いて二人三人と部屋を辞したが、小物たちは呼びつけるまで構わず周囲を賑やかにしているので、心得て御母堂はこれ等に用を申しつけ後ろに従えて廊下へ出た。
 総大将もこれに並び、台所へ続く渡り廊下のあたりで、思い出したように言った。

「あの頃のあやつ、ハナタレじゃったろう。ほんに、泣き虫でなぁ」
「ふふふ、川の向こうですから、はっきりとは《視》えませんでしたけど、まだ子供だったのはわかりました。可愛い鯉伴さん。あのひとにも、あんな頃があったんですねえ。なんだか特した気分です。何より、もう一度会えた ――― 私も、あの子も。そう思うと、《夢見鏡》でしたか、持って来てくれた妖怪さんに、ちょっと感謝もしたくなります」
「おいおい、物騒なことを言わんでおくれよ。次はお前さんだなんてことになりでもしたら、それこそワシは、二代目に顔向けできんわい」
「大丈夫、滅多なことは考えておりませんから、安心してくださいな、お義父さん。私だって、死ぬなら玄孫の顔を見て、家族全員が見守る中と決めているんです」
「そりゃ、大きく出たもんじゃのう」
「ええ。あの人に約束したんですもの。私は必ず幸せになるって。守ってもらわなくっても結構、私は鯉伴さんの奥さんになれたら、勝手に幸せになりますよって。だから、私は幸せですし、これからも幸せになるんですよ」
「カッカッカッ、流石は、奴良の姓になるなら鯉伴の娘でなく妻がいいなど、啖呵を切っただけのことはある。まったく、倅にはできすぎた嫁じゃよ、お前さんは」



+++



 雪女がようやく少し落ち着いたのは、若君がゆっくり身を起し、胸に女を抱き寄せられて、しばらくお慰めになってからのことだった。
 若君が床についていた間、体を拭き清めたり、お着替えをしたり、いつものように甲斐甲斐しくお世話をしていた雪女が、これまで気づかずにいた若君の素肌の感触にふと我に返って、そっと体を離そうとすると、今度は逆にしっかと強く抱き寄せられた。

「リクオ様、あの……すみません、分をわきまえず」
「何を言っているの。ボクが ――― オレが、こうしたかったんだ。長かった、本当に長い夢だったなぁ」
「 ――― はい、長い八日間でした」

 昼姿のままであるのに、逃げるのを許さず強く抱き寄せてくる若君に、雪女は胸の奥がどきりとしたのを、お目覚めになったことへの嬉しさからだと思い込もうとするが、これは上手くいかなかった。
 顔を上げるとそこで若君の視線とかち合い、かと思えばもう目を逸らすことなどかなわない。
 思慮深い琥珀の瞳の奥に、渇望するような熱があるとわかれば、尚のこと。
 いっそ今、唇を奪われでもしたら我に返ることもできたろうに、若君は腕の中に閉じ込めた女の着物越しの体を片腕におさめたまま、片手で、壊れ物を扱うように、雪女の頬にかかった髪の一房をなでつけ、顔の輪郭をたしかめるように指でなぞり、確かめるかのような仕草を終えると、大変満足を覚えられた様子で微笑まれるので、視線の綾に絡め取られるように、雪女はされるがままとなってしまった。
 心を尽くして微笑まれれば、いかな妖怪とて心を寄せてしまう若君の視線は、しかしこれほど強いものであったろうか。

「八日か。言われてみれば、そうだね。夢の中のことだから、ずいぶん長かったようにも思えるし、醒めてみればやっぱり夢は夢、今はもうずいぶん遠くなったせいか、確かに八日くらいしか経っていなかったようにも思える。
 もしかして、つらら、お前はその八日、ずっとついててくれたのかい。ずっと泣いてたのかい。ごめんよ、ずいぶん待たせたね。ボクはもうこの通り、大丈夫だから、お前も今日はもうお休み」

 己から告げたにも関わらず、若君はずいぶんと名残惜しそうに、雪女を己の腕から解放した。
 そこでようやく、雪女は周囲に己等二人以外の誰の姿も無いことに気がつき、

「若菜さまがお戻りになるまで、お傍におります」

 緊張から解放され、主の腕の中の優しい感触に包まれて誘われた眠気に目を擦り、顔を赤らめつつもようやく微笑んだ。
 これを頷き許した若君、一度はこうして体を起こされたが、やはり八日も寝たきりであったので、支えもなく身を起こしているのが少しつらそうである。隅に片付けておいた脇息を取りに行こうかとちらと考えたが、雪女は所在を忘れたふりを装って、今一度、主の脇に寄り添い、体を支えた。
 守役、側近、そのような枠など、妖怪とは言え八日間寝ずの番を務めた女には、何の意味もなさぬものだった。ただお傍に在りたい。己の肌が氷点下の、決して若君に優しいものではないと知っていながら尚、ならば腕の中であたためてもらって溶けてしまいたいとさえ思われてならない。そうなってしまえば、若君の魂にすら己が身が溶け込んで、もう二度とお傍を離れずに済むのではないかと。
 珍しく己から身を寄せてきた女を、若君は優しく腕の中へ迎えられ、あとはしばらく、沈黙が落ちた。
 互いの存在が、互いの心をあたためていく。
 雪女にとっても若君にとっても、互いの体温など熱すぎるか冷たすぎるかで優しさなど微塵もあるいまいに、炎や氷には決して無い、寄り添う肌の柔らかさやくすぐったい髪の感触、時折視線が合って漏れる微笑みといったものが、互いの心をあたためていく。

 一階の大広間で、妖怪たちが宴を始めたのだろう。
 ここまで聞こえてきたどんちゃん騒ぎに、どちらからともなく、くすくすと笑い合って ―――



 視線が、絡み合って、女は、目を伏せた。
 男は許さず、頤をくいと指で上げさせて、











 ―――― それ以上抗わず、女は目を閉じ



 ―――― 唇が、ようやく、届いた。











「ただいま、つらら」
「はい、おかえりなさいませ」
「やっぱり、つららはそうやって、能天気に笑ってる方が似合うや。あはは」
「んもうっ、誰が泣かせたと思ってるんですかー!八日間も眠ってなかったから、もうお肌ボロボロだし、髪はボサボサだし、私雪女だから目の下の隈あたためられないし、取るの大変なんですよ!こんな魅力のない雪女なんて、うわぁんまた母様に怒られちゃいますうぅぅ」
「うん、ごめん」
「……本当に、よかった……」
「あの《鏡》を持っていた妖怪は、どうなったんだい」
「そんな狼藉者の一家は、瞬く間に総大将が」
「おじいちゃんが?!参ったなぁ、おじいちゃんはそういうところ、乱暴だから。もしかして、滅しちゃったの?」
「……いいえ、瞬く間に総大将が叩きのめして、今は蔵に放り込まれております。若がお目覚めになったら、沙汰をお任せになるおつもりだったらしく」
「そっか、よかったー」
「もしやリクオ様、あの狼藉者をお許しになるおつもりですか?!」
「許すもなにも、ボクはただ、眠ってただけだよ」
「ですから!彼奴めは、あの《鏡》を使って、リクオ様の魂を迷わせたのです。あともう少しで、若の魂は彼岸に行ったままになっていたのですよ!奴良家のためなどと言って、昼姿の若を葬り、完全な妖怪とするなどとほざいて」
「ああ、それは無理だね。ボクはオレだ、どちらかなんてそんな、双子じゃあるまいし。でもそれほど、人間に嫌な目に合わされてきたってことなんだろう、可哀相に」
「リクオ様……」
「大丈夫、少し元気になったら、もう一度会ってみるよ。今度は《鏡》とか、献上物抜きでね」
「甘いです。彼奴は、リクオ様、貴方様を葬ろうとしたのですよ?!」
「彼が葬ろうとしたのは《人間》だ。彼を追いやり酷い目に合わせた《人間》に、一矢報いたかったんだろう。ボクじゃなくてもよかった、きっと誰でもよかったんだよ、憎い《人間》なら。もしかしたら違う誰かに襲いかかっていたかもしれないから、その点は夜姿で咎めようと思うけど、昼のボクは《人間》だから、彼等に《人間》がしてきたことを、謝る義務がある」
「そんな、人柱のようなことを仰らないでください。これから人間に恨みを抱く妖怪が現れるたびに、今度のようなことをなさるおつもりですか?」
「それが、人のボクの役目なんだよ、つらら」

 ここまでお育て申し上げて来た大事な若様を貶める、傷つけようとするのならば、例え若様ご本人であろうと容赦はせぬとばかり、雪女が凶悪とすら言える視線で睨みつけても、逆に、琥珀の瞳が強くやわらかくしなやかに尖った感情を包み込んでしまった。
 たしかに、若君の視線の優しさに、一度敵対したことのある妖怪と言えど、篭絡されることは多い。若君が生まれたときから守役や近侍を仰せつかっている、あらかじめ縁の強い妖怪たちですら、若君自身に微笑まれ、縁を深めてきた。
 ところが、今日この日の視線は、以前よりも深く強い。
 毅然とした意思があるためなのだと、雪女は目を見て悟った。

「 ――― こちらでは、八日間、だったかい。ボクはもっと長い間、夢を見ていたような気がするよ。まるで、浄土のようなところだった」
「あの《鏡》は妖具でした。その人が浄土と思い描く場所へ、その人の魂を連れ去ってしまうのだそうです。八日の間に目覚めれば命をとりとめ、それ以上眠り続けると、魂は浄土に行ったきりになると……」
「そうか ――― なるほど、それで、あの場所だったのか」
「……どんなところだったのです?」

 尋ねる雪女から視線を逸らし、目を瞑って、たった今まで居たその場所、もう既に遠く遥けき彼岸となりし場所を、瞼に思い描きながら、若君はお答えになる。
 この八日間、雪女がもう一度聞きたいと思い続けていた柔らかな声は耳朶に心地よく、起き上がったばかりなのだからあまり長く語らせてはいけないとは知りつつも、ついつい雪女は、遮ることができない。





「総大将がいて、珱姫さまがいて、父さんがいた。乱世は終わり、これから平和が訪れるところだった。ボクが思い描く奴良組は、そこにあったよ。みんな、総大将に命を預けていた。総大将は強かった。
 ボクはそこで、昼の姿だろうと夜の姿だろうと、忌まれることはなかった。
 人間の友人たちがいて、彼等はボクの夜の姿も知っていて、それでも友人でいてくれた。ボクが人ではないものと知っていて、そして奴良屋敷に住んでいる多くのものが妖怪であると知っていて、とても親切にしてくれた。
 妖怪たちは、ボクの昼の姿も認めていてくれて、ボクが化生せずにじっと妖気を抑えた昼の姿のままでいても、それでも夜には、百鬼夜行に連れて行ってくれた。何をしてる、お前もたまには働けって、そう言ってもらえて、本当に嬉しかった。今より、闇と光はとても近かった。
 父さんは、この近い闇と光の、かけ橋のような少年だった。このひとが大将になるなら大丈夫、皆が次第にそう思っていってね。とても、良い時代だった。
 浄土というものがあったなら、ああいうところを言ったんだろうなぁ。
 ボクは夢の中で、十年ほどの年月を、過ごしてきた」





 遮ればよかった、と、雪女は後悔する。
 眩しいばかりの光に照らされる今の世が、鉄と錆の臭いばかりが夜を漂い、花や緑の香りが忘れられて久しい今の世が、そこと比べて何か優れたものがあるとは思えなかった。

 奴良組は二代目が突然儚くなられてよりこちら、衰えるばかり。
 内にも外にも敵は多く、妖怪は人間の昼姿を認めず、人間は妖怪など居ないと決めてかかる。若君がどちらの姿も己であるのだと、打ち明けられる相手は少なく、両方ともが同じ存在であるのだと、認める者はなお少ない。
 闇と光は互いに反目し合い、妖怪は人を憎み、人は妖怪も神仏も軽んじるようになって久しい。

 人と妖。光と闇。太陽と月。炎と氷。
 互いが互いを認め合い、尊び合い、助け合う場所があったなら、それは確かに、浄土にもなろう。
 だが今は違う。決して違う。為せる者があるとしたら、これは雪女を腕に抱く、主に他ならないが、決して楽な道ではない。茨の道だ。尖った石が敷き詰められた河原を、裸足で歩くがごとき地獄だ。
 あちらの岸からはこっちへ来るなと石を投げられ、こちらの岸ではお前は我等と違うと指を指される、主はそういう存在 ――― 奇しくも雪女が言ったように、人と妖の橋をかけるを望まれながら敬遠される、人柱なのだ。 

 戻って来てくれた喜びは今もありながら、雪女は、そんな浄土からこんな地獄へ、何が主を呼び戻したのかが解せない。
 うっとりと浄土を思いだすような若君の横顔を、不安げに見つめるばかりだ。










「 ――― けれどね、つらら。お前は知らないだろうから、浄土の土産話を一つ、教えてやろうと思うんだけど」










 浄土の光景を追いやり、目を開けて再び腕の中の女に優しく微笑んだ主は、女の目の前で、立ち上る妖気を纏わせ、瞬く間にしろがねの髪の美丈夫に化生した。

「浄土ってところには、オレの六花が咲かねえんだよ。もう一度見たくてな、だから、戻ってきた。
 なに、妖怪なれば地獄にこそ花が咲くってモンだ。地獄に飽けば、オレがするさ。お前と、ここを、浄土に」

 人と妖。光と闇。太陽と月。炎と氷。
 互いを認め合い、愛し合うことも、きっといずれはできるようになるだろうと、雪女は目を閉じた。

 強い妖気をまとわせた主の体は炎の塊のように熱く、氷の女怪とは相容れぬものであるはずなのだが、今一度寄せられた唇の熱を、女は心地よく感じることができたのだから。
 少なくとも、炎と氷はこうやって、交じり合うことができるのだから。