起き上がられてから日もおかず、翌朝には下手人に会うと仰せの若君を、皆が止めたのは言うまでもなく、止められたからとて若君が意を翻されるかと言えば、そういう御方でないのは尚あきらかであり、ならばせめて今度こそは、若君にあやしげな術を使う様子が少しでもあらば許すまじと、若君の近侍側近はもちろんのこと、縁深い小物大物がどろりと、地下牢へと歩み行く若君をお守りするように取り巻いた。
 暗い足元を、燃え立つ己の髪の毛で照らす火の玉童子が、先行しながら、いよいよこの奥が件の下手人を放り込んだ牢である、曲がり角まできたところで立ち止まり、

「リクオ様ぁ、本当に行くんですかい?俺様、なんかやっぱり気乗りしねぇなァ。あんな老木、とっとと燃やしちまえばいいのにィ」

 唇を尖らせて異を唱えた。

「そうですぜ、若。なにも若直々にお取調べをされることなんざ、ありやせん。一言お命じいただければ、この青田坊、誰に言われてこんな所業に及んだのか、締め上げて吐かせてみせます!」
「お前の馬鹿力では、真相とやらを吐く前に臓物を吐いて使い物にならなくなるわ。若、ここはこの、黒田坊におまかせを。拷問の類は、見目を裏切らず得意でございます」
「誰に言われてやったのかって、そんな事を聞くために来たわけじゃないよ。まずは、どうしてこんな事をしたのかなって、それをちゃんと聞いておこうと思ったんだ」
「またそんな……」
「甘いことを……」
「だって、この前は彼とちゃんと話す前にボク、寝ちゃったでしょう?もしかしたら、何か言いたいことが、あったのかもしれないじゃない。それを聞いて、話したら、お互い争わずに済むかもしれないでしょ」
「争わずに済むったってさぁ、リクオ様よう、あっちが吹っかけてきた喧嘩なんだぜ。それを許してやるってのは、甘いって、俺様ぁ、思いますけどねぇ」

 青田坊も黒田坊も、今回ばかりは小物どもが口々に、若君を、甘い甘いと言うのを黙らせもしない。
 この場に雪女が居たならば、それでも若のされることに口出しするんじゃありませんと、ぴしゃり、黙らせたろうが、あいにく朝から昏倒して、布団の中だ。

 銀縁眼鏡の向こうで、若君は苦笑し、あたたかく微笑まれ、己を取り巻いた妖怪どもの目を、畏れもせずに一体ずつ、しっかりとご覧になった。いつもの事ながら、この瞳に見つめられ映されると、こころがぽかぽかとあたたかくなり、この若様を守って進ぜようという気になる。今日も変わらずそうであり、火の玉童子も例外なく、やわらかな笑みにうっとりとして、仕方なく口をつぐんだ。

「甘いのかもしれないけど、でも、これがボクのやり方だから。滅して終わりなんかには、したくないんだ。人であれ妖であれ、せっかくこの浮世に、生まれ出でた者同士なんだから。せっかくだから、少し話してみたいでしょう。何が気に食わなくて、何が哀しいのか、話し合ってみないと、何もわからないよ。
 それに、今度はほら、みんなが守ってくれるから、大丈夫。
 お前も守ってくれるんだろう、閻羅童子?」
「え?! ――― あ、うん……。ま、任せておいてくだせえよ、ヤツが萎びた枝をリクオ様にのばしてきたら、一つ残らず燃やし尽くしてやる!」

 いつどこで知られたのか、真名を呼ばれた火の玉童子は、びくりと全身から白い煙を一瞬立ち上らせて、次には得意そうに小さな胸を張った。

「そんなら俺は、枝をふん縛ってやる!」
「ならば拙僧は、根っこをことごとく切り刻んでやります!」
「張り合わないの。ほら、入るよ」
「あ、若!」
「拙僧が、拙僧が先に!」

 気負いもなく、重い鉄の扉を開くと、その向こうにはさらに木の格子が張り巡らされ、四畳半程度の部屋に、一体の老木が鎮座していた。
 老木の幹にある、全てを見透かすような緑翠の瞳は、若君の陽の光を宿した瞳と真っ向からぶつかり合い、そして ――― やんわりと、若君に笑われて、目を逸らしてしまった。
 九日前、この若君と対峙したそのときに感じた、言い知れぬ畏れが、この日も老木の心を絡め取ろうとしたのである。

 これが手管なのであろう、弱い己を守らせるため、これと決めた相手を魅了し心を絡め取る。
 おそろしき業よと、老木は忌々しげに呟いた。
 ところが若君の方には、全くそんなつもりが無いので、老木がなにやら己の両眼を怖れているらしいと知ると、「では、目をつむっていようか」と、己の唯一の武器であろうそれを、老木の目の前で閉じてしまわれるのだった。
 そればかりか、黒田坊に目隠しをお命じになり、その上で、老木のすぐ側に立つ。
 格子の中に入るのは、流石に近侍たちが許さなかったが、牢越しだとて、若君の華奢な体を老木の枝が貫くのは、とても簡単なことであったろう。

「……何を、企んでおいでじゃ、奴良の若君」
「企む?企んでおいでだったのは、貴方でしょう。おかげでボクは、八日も寝惚けておりました」
「夢の浄土から戻ったとは、酔狂な人間よ」
「中々良いところでしたが、ボクにはこちらで、成すべきことがあるのでね。
 皆から、話は聞いた。ボクを夜姿にのみさせるため、あのような事をしたと、君が言っているとね。これに間違いは無いかい」
「相違ない」
「皆は、お前が奴良組の跡取りを殺し、奴良組を壊滅させることこそが目的にしているのではと、穿った見方をしている。これは、如何か」
「何を馬鹿な!総大将にも申し上げた、奴良組のためにしたと!ひいては、この明るくなった平成の世で窮屈な暮らしを強いられ、退魔師どもに脅かされる妖怪全体のためにやったことだと!奴良組の若君は、夜は見事なしろがねの大妖となり空を翔るも、昼は凡愚な小物にすら妖気劣り、まるでただの人間であるのだと言う。ならばこそ、ならばこそだ、夜姿こそを三代目として盛り立て、我等から棲家奪う人間に、目にもの見せてやろうとするのが、奴良組の下につく妖怪どもの本意ではないか、違うか!」
「それ以外、他意はないのかな」
「わしの棲家を見たか!わしの山を見たか!切り崩され、穴だらけになり、若木のみしか生えぬ、痩せた山を見たか!あのような地獄を見せられたわしが、昔の生きた山々を取り戻す、それ以外の、何を望むというのだ。人間だ、人間が鉄の臭いをさせてやってきおって、あのように汚した。そうじゃ、人間じゃ、あああ、人間め、人間めぇ……」
「そうか ――― ごめんね」
「 ――― な、んと?」
「申し訳ないことをした、と。だから、ごめんよ」
「何を。若君が何を謝ることがありますのやら。若君は、奴良の若君でしょうに。四分の一はぬらりひょんの血を継いだ御方。その御姿でさえなければ、立派な妖怪であらせられ……」
「いいや、今のボクは、人間だ。奴良家に生まれて、皆に守られているけど、ボクは、人間なんだよ」
「 ――― 」
「妖の成人は十三。でも、今の人の世で、人間の成人を認められるのはもう少し、遅くてね。あともう少し、二十歳を数えるまで、ボクはまだ子供として扱われてしまうんだ。でも、わかった、君の山を取り返そう。約束するよ」
「どう、やって……。人の身で、どうやって、取り返すと、言うのです」
「人間だから、だよ。ボクは人間だから、人間の世で、正々堂々と戦うんだ。言葉を尽くして、心を尽くして。でも今は、ただの、守られる人間だから ――― だから、もう少し、時間をください」

 その場に座して、申し訳ないと、人間の身の若君は、あろうことか頭を下げた。
 近侍が止める間もなく、いや逆に、何とお見事な覚悟であろうかと、鼻をすする者まである。

 老木は牢にすがりつき、おやめくださいと声を荒げた。

「そんな、そんなみっともねぇことは、若君、しちゃなりません。どうかどうか、後生です、頭を上げておくんなせえ」
「許してくれる?」
「許すも何も、下手人は、若君を手にかけようとしたのはわしだ。許してくだせえとお願いするのは、こっちであるはずなんだ、それを一体 ――― ああ、どうか、どうか顔を上げてくだせえ。顔を上げて、その目隠しを取って ――― どうかこの老木めに、そのお優しい目を、見せてくだせえ」

 老木はいてもたってもいられなくなり、己こそ額を床にこすりつけると、次にあの琥珀の瞳がなつかしくなり、無粋な目隠しが憎らしくなってきて、涙声で申し上げた。
 総大将が己に説いた、昼姿で許さないはずは無いという、あの言葉が文字通り、身の内側、芯の部分まで染み渡った。
 許す以外には無い、謝る以外にこの御方が妖怪どもの中で生きていく道は用意されておらず、ただ生れ落ちたそのときから、決まりきった一本の辛く険しい道が、あるだけなのだと。怒り狂う己のような、あらぶる魂を鎮め慰めるという意味でなら、総大将が口にした、人柱の意味も腑に落ちる。

 この御方が取り戻してくださるというのなら、きっと力を尽くしてくださるのだろう、そう思わせる何かがあり、信じたくなる魅力が若君にはあった。
 大変申し訳ないことをしたと、ついにはらはら涙を零した老木にこそ、若君は優しく微笑まれたのである。
 夜姿のときには無い、小さく愛らしい手に、全てを委ねてしまいたくなるほどの、深い安堵は、若君が己の戦場であると示した人間の間でも、広く畏れられる力となるに相違ない。いつかこの若木が、内なる金剛石の輝きを放ち、はらはらと金剛石の花弁を降らせる日が、間違いなく来るであろうと思われた。



+++



 目覚めてから三日目には、若君は元気に学び舎へ赴かれた。
 ただの人の子であれば、一週間以上眠っていればしばらくは立ち上がれなくなるだろうに、若君の義兄弟曰く、「人だろうと妖だろうと、お前の回復力は尋常じゃない」そうだ。
 そう言われても仕方の無いことだったろう。八日間、魂を彷徨わせた若君より、看病を続けていた雪女の方が、翌日昏倒して熱を出し、それでも若君が学び舎へ挨拶程度に行こうとすると、今日は寝てていいと何度申し渡しても護衛としてついて来ようとするので、仕方なく若君は雪女のために二日間余分に休まれたのだ。

 同時期に長く学校を休んでいた理由を、「新型インフルエンザでさー。あ、つららもそう?タミフル効いた?」などと誤魔化され、学友や教師はこれで納得し、むしろ若君が不在の間に学び舎のあちこちで悲鳴が上がっていて、グラウンドや職員室や教室のあちこちに顔を出すたびに、「奴良君来たーーーッ!よかった、実はさぁ」とさっそく頼られておられたので、そちらの方が忙しかったようである。
 頼まれれば嫌とは決して言わない若君が、「じゃあすぐに」と請け負ってしまわれそうになるので、雪女はそのたびに凍りつくような恨みのこもった視線でじいっと見つめ、「あー……ゴメン、病み上がりだから、早く帰って来いって言われてて……今度、やっておくね」若君の言葉の針路を変えさせねばならなかった。

 さらにまったく悪びれない若君が、

「ねえつらら、ちょっと寄り道してもいいかなあ?」

 雪女の胸中も知らず、暢気に甘えてこられたときには、すうと小さく唇をすぼめて、息を吸い込んだほど、彼女の氷点下の怒りは頂点に達していた。ただでさえ、もう少し屋敷でお休みいただいた方がよいと思っているのに、主には病み上がりだという自覚がまるで無い御様子。
 そう申し上げてみれば、「だって、ただ眠っていただけだもの」と、首を傾げて仰せになる。
 ぬらりくらりと柳のように己の言葉の矛先をかわす若君に、それ以上勝てるはずもなく、雪女の怒りは今この場におらず、人間の集会などにうつつを抜かす青田坊に向けられ、今夜は心置きなく締め上げるとしようと心に誓いながら、嘆息した。

「どこへ行かれるのです?」
「玉苔神社。願いが叶ったから、ご利益の感謝を申し上げに行かないと」
「ご利益、ですか?リクオさま、苔姫さまに何かお願いごとを?」
「ちょっとね」

 くすくすと、優しい面立ちに悪戯な笑みを浮かべた若君は、答えをはぐらかすと、上着のポケットから小さな真珠を取り出された。

「それは……?」
「夢を見ている間に、貰ったんだ。肌身離さず大事にするって、約束したんだよ」

 両の手の平に大事そうに包み込み、そのひとの面影を思いだすようにそっと目を瞑った若君の、まだ少女のように柔らかな線と、傾きかけた陽を受けて逆に影を落す睫を、雪女ははっとして、分もわきまえず無遠慮に、まじまじと見つめてしまう。
 もやもやとしたものが沸き起こり、若君の両の手を独り占めにする真珠一粒に、あさましい嫉妬羨望の類がたちまち、胸の内を満たすと、可憐な唇が無意識にか、きゅっと尖った。

 並んで歩を進める雪女の顔を、いつの間にそんな所作を身に着けられたか、若君は片目だけ薄く開いてそっとうかがい、己の女がどうやら相手の無い嫉妬を覚えたようなのを、今度こそおもしろげに笑って、真珠をポケットに戻すと、彼の娘が所在無げに遊ばせていた手を、そっと取って握った。
 振り払うにも、あまりに優しげに握ってこられるのが切なくいとしく、雪女は縋りつくようにこの手を握り返して、言葉もなく先を急ぐ。

 間もなくたどり着いたのは、寂れた土地神の社だった。
 昔は、野合逢瀬の場所としても、神社というものはそれなりに人の気配があったものだが、最近は人間の姿も無く、祭日でもないとなれば尚更である。それでも、苔姫さまがのご利益が、心身健康や縁結びなど、人どもの俗な願いに関わるところなので、絵馬は数多く奉じられ、枝は御籤で雪が降り積もったように真白になっている。

「流石は奴良組の稼ぎ頭、苔姫さまのおわします社ですねぇ。これほどこの時代で《畏》を集めるなんて」
「そうだね。でも、ここはずっと昔、神社じゃなくて、お寺だったんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。廃仏毀釈でお寺が取り壊されて、その後、神社が立ったんだ。その神社も、今の建物は戦後の新しいものなんだって」
「お詳しいんですね。土地神のことまでしっかり勉強していらっしゃるなんて、すごいです、リクオ様!」
「やめてよ、くすぐったい。カラス天狗の受け売りなんだから」
「それで、ええと、若、ご利益の感謝と言うのは……」
「だーめ。つららより先に、苔姫さまにご報告しなくちゃ」
「そ、そうでした。すみません、あつかましいことを申し上げて」
「嫉妬してくれるのは、うれしいけどね」
「いえ、あの……すみません」
「ね、妬いた?」
「や、妬いてなど、そんな、身分をわきまえぬようなことは」
「そうかあ、気にもならないのかあ」
「ち、違います!気にならないわけが、ないじゃありませんか!夢の中で誰かと会ってたなんて、そんなの、つららは知ることもできないし、すごくすごく心配してたのに、その間に誰かにそれを貰ってたなんて、そんなにそんなに大切そうにして、気にならないわけが!
 って、あの、その、これは、そうです、側近として、夢の中とは言え、若の御身に近づいた者が何者なのかを、気にしてるって意味です。ええ、そうなんですから。妬いたなんてそんな、あさましいこと、つららはいたしませんっ」
「あははははッ、つらら、ほっぺたが膨らんだ。餅みたい」
「んもーッ、今日はどうしてそんなに意地悪なんですか!ええ、妬きました、妬きましたとも!盛大な焼き餅ですとも!」
「流石は霊験あらたかな苔姫さまの御守だ、本当に嫉妬してくれた」
「え?御守?」

 聞き返しても、若君はもうにっこり笑うばかりで答えは寄越してくれない。

 それでも、雪女をいとしげに見つめてこられる視線はお優しく、少しばかり焦がれるような光もあって、思わず守役、側近などという立ち位置を踏み越えてしまいそうになる。
 握られている手を一つ強く引かれてしまえば、胸の中に閉じ込められるがままに、なってしまいそうだ。若君が己を思慕する気持ちは、人の子ならば母や姉に恋をする心もちと同じようなもので、まだそういう御年なのだからと、妙な期待や思慕を寄せることこそ、後々若君の重荷になろうからと、己を戒めていた雪女にとって、堪えがたい誘いだった。

 夢から覚めた若君は、倒れられる前よりも、少し、大人になられたようである。
 そのままぐいと雪女を抱き寄せれば、あわれな女怪などひとたまりもなく、彼の手の中に堕ちたろうに、そうはしない。

 そっと、名残惜しそうに雪女の手を離し、社の前で姿勢正しく立つと、仰せであったように、祭神さまへしっかりと、手を合わせたのである。雪女もこれに倣って、ともかく若君さまの無事を感謝申し上げ、今後の末永い奴良家の繁栄を何卒後押しくださいませとお祈り申し上げる。
 二人が目を開けたとき、社の中からひょっこりと、幼い童女姿の祭神さまが顔を出したのは、若君がこの一帯をシマとする妖怪一家の方なれば、当然のことであった。奴良組の若君が、新参者の手にかかり、一週間以上昏倒して彼の世と此の世の境目を彷徨っていたこと、傘下の者なれば、知らぬ者は無い。
 薄紫の着物に、髪は朱色の紐で童女結びにした幼い祭神は、二人の姿を見て、珍しい御方が来たものじゃと首をかしげ、ともかく社を守ってもらっている者として、とことこ降りてくると、若君に向かって丁寧に礼をした。

「奴良リクオさまとお見受けいたします。妾は苔姫、この社の祭神。リクオさまが床に臥せられたと聞いてからは、この苔姫も、朝な夕なに手を合わせ、ご無事を祈っておりました。お元気になられたようで、何よりでございます」
「ありがとうございます、苔姫さま。きっと土地神の皆様にも、ご心配をおかけしたことと思いますが、この通り、床上げいたしました。そのうち、正式に皆さんのところに足を運ぼうと思っておりますが、まずこちらにだけは念願叶ったご報告を申し上げなくてはと、こんな軽装で失礼とは存じますが、取り急ぎ参った次第です。ご利益、ありがとうございました、苔姫さま」
「はて。……奴良の若君からこの社に、お願い事をされておったかのう?」

 土地神は、奉られたその人そのものではない。
 その人自身の想いや、誰かからその人への感謝や恐怖などの畏、これ等が、奉られたその人の人格を形作って、社へ降りて宿ったものである。畏が小さくなれば存在も小さく幼くなるし、はっきりと細かな記憶、すべてを持ち合わせているわけではない。
 ただただ、生前のその人がその土地にあって、持ち続けた、貫いた、尊い意思の力が、はたらいているのみなのだから。

 苔姫さまとて天寿を全うされたその時は、こんな童女の姿ではなく、人々に崇められて当然の深い慈悲を、優しい御顔に皺と刻んでいたろうに、今は時折、人の姿の無い社の中で鞠をついたり、仔猫とたわむれたり、鳩を追いかけたりと、童女姿で御戯れになっているそうである。
 ソデモギ様の怪異に襲われたときはすっかり泣き癖がついて、保護者気取りの一ツ目入道が、毎晩のように社に泊まりこみ添い寝していたとは、誰もが知るところだ。

 そんな小さな苔姫さまが、大きな黒真珠の瞳をきょとんとさらに大きくして、愛らしく小首をかしげるので、雪女もまた、いくら童女姿とは言え、祭神が願い事を忘れるものだろうかと不可思議に思う。
 ところが、リクオが例の一粒の真珠を取り出したとき、苔姫の表情が目に見えて変わった。

 見入り、次に驚き、初めて眼が開いたように、はっと若君の顔を見上げて、若君もこれに、柔らかに微笑んだ。
 童女の姿ながら、浮かべた笑みは幾重もの哀しみを潜り抜けた者が浮かべる、まさに無私の笑みであった。

「はい、苔姫さまの前で、願をかけましてございます。いつかこの真珠を見せて、オレの女を嫉妬させてやらねばならねぇ、と」
「そうじゃ。そうじゃった。……そうか、叶ったか!」
「はい。今この時に戻って、叶いました」
「嗚呼 ――― なんと、奇妙な縁よ。そうか、そうか、《リクオ》、それで、会いに来てくれたのか。なんと嬉しい。ああ、なんて、なんて、なんていう吉日じゃろうか!《リクオ》が嫁を連れてきた!妾のところに、ちゃあんと、ちゃあんと、報告に連れてきた!」

 人の身では萎えていた小さな足は、今はしっかり土を踏みしめて、舞うように苔姫はくるくると廻った。童女のようにきゃっきゃと若君と雪女の周りを巡り、これを、神社の社の狛犬が戯れて追いかけ、くるくる、くるくると廻った。
 一体何が起こったのかと驚くばかりで、雪女には苔姫さまの言葉を否定する暇も無い。  祭神は、ころころと笑いながら二人の目前で立ち止まると、無垢な瞳で二人をしっかり見上げ、ぽろぽろと嬉し涙のさざれ真珠を流しながら、小さな両手でしっかりと、若君と雪女の手を取り、握り合わせる。

「末永く、いつくしみ、いとおしみ、想い合い、委ね合い、往くがよい。お主の、夢の先へ」

 辺りがまるで、夏の盛りの太陽に照らされたごとくの光に包まれ、雪女は眩しさにたまらず目を閉じたが、瞼の向こうの輝きはすぐに落ち着き、そこで目を開けてみれば、祭神の姿は既に無く、いつしか陽も暮れかけている。
 苔姫の言葉が一体何を指して言ったものやら、雪女こそが夢に取り残されてしまったような顔をしていたが、若君は握ったままの雪女の手を、己等の顔のところまで持ち上げた。

「縁結びの祭神様、直々に、言祝がれちゃったね」

 小さな舌をぺろりと出して、悪戯が成功したように、微笑まれる。
 雪女の頬にかあと熱が上がるのを、一体誰が責められようか。
 社の前で祭神に手を取られ、主と重ね合わせられ、末永く、など、いつくしみ想い合えなどと、まるで、まるで、この言祝ぎは。

 包まれた光が嘘のように、辺りには宵が迫っている。
 何を応えたものかと顔を伏せていると、手を握ったそのままに、傍らの御方の気配が変わった。

 己の手を握る若君の手が、己の手を包み込む男君の手へと変わる。
 御顔など見上げずとも、握った手の感触から、夜の御姿であると、わかってしまう。
 いよいよ雪女の戸惑いなど許さず、昼の間に優しくたっぷり待っていただいた分、もはやほんの少しの猶予も下さらないだろう。
 案の定、大きな腕の中に抱き寄せられ、雪女の体はその場で溶けてしまいそうなほど、焦がれる熱の塊と化す。

「ということは、この社の中では、つらら、お前とは夫婦だな」

 何年も離れていた焦がれる人を前にしたような、こんな切ない声をいつの間に、この御方は出すようになったのだろうと、跳ねる胸をおさえながら、雪女は気が気ではない。
 いいやもう、苦しいばかりの正気など手放して、雪女は男君の胸元に、しっかと身を寄せた。
 こくり、こくりと何度も頷いて、頬をみぞれの涙で濡らして。

 正気など無くても構わない、狂気であろうと構わない、この方の腕の中で溶けてしまえるのなら、本望だった。
 だいたいにして、ここは奴良組の屋敷ではない、ここは男と女が願いをかける、縁結びの社である。
 主と端女、姫と近侍、人と妖、浮世で設けられた垣根を取り払い、いくつもの縁を結んできては言祝いだ、社である。大勢の祝福などいらぬ、ただ二人で、二人だけでそっと縁を紡げばそれでよいと、願う二人を癒し守ってきた、社である。
 ついに雪女は、守役でも側近でもなく、彼のひとの腕の中のただの女となって、そっと、身をもたせかけ、次に、きっと男君の顔を睨み上げると、秀麗なおもてに手をのばし、ガリと氷の指先で頬に爪をたててやった。

「では、この社の中では、つららは存分に、嫉妬させていただきますからね。
 もう、本当に、いつの間にか味方を増やしておいでなんですから。
 憎らしい、妬ましい、そして、いとしい方。まずは夢の中で何をしてたのか、洗いざらい、吐いていただきます」
「ああ、いいぜ。全部お前には話してやるよ。十二年分、たっぷりな」

 己の肌を引っ掻いた、細い指先を手にとって、あろうことかちゅうと音を立てて吸って見せる、淫靡な所作など、女は男に教えた覚えは決してない。ゆめゆめない。夢の中なればこちらで八日であったとしても、なるほど、そちらは十二年であったということかと、雪女は疑いもせず信じた。
 信じて、己の側から離れた男の十二年に、燃え上がるほどの嫉妬と、切なさと、恋しさを覚えて、自ら唇を寄せた。

 人知れず行われた縁結びと略儀ながらの婚礼を済ませた二人は、辺りがとっぷりと暗くなるまで、互い身を寄せ合っていた。
 いつかまた、この社で時を過ごそうと、他愛も無い約束を交わし、互いの熱を解いて帰途につく。

 解かれた腕の中が、離れた肩が、なんだかむしょうに寒かったが、繋いだ手だけは二人、あたたかなまま。