次の日曜日には、すっかりいつもの日常、すっかりいつもの奴良屋敷。
 女衆は掃除洗濯賄いと忙しく働き、雪女とて例外ではないので、若君もそうそう簡単には彼の女を連れ出せはしない。ただ、お互い視線が合ったときにやんわり微笑み合う一瞬が、なんとも言えずしあわせであった。
 一歩を踏み出せば、何かが変わる。ほんの少しずつ変わろうとすれば、変えられる。
 たかが四分の一、総大将の血が入っていたとて、まるで人間そのものの若君に何ができると吠える者たちも、心と言葉を尽くせば少しは考える。

 若君が《夢見鏡》の怪異から生還したという話も、その後、土地神たちとの縁を強めて土壌を固めているという噂も、奴良組の息のかかった者ならば一月もすれば知らぬ者はなくなり、また、男君の妖力がいや増し今や二代目に迫る勢いという囁きは日毎大きくなり、やがて関東を中心に暴力沙汰で組を大きくしていた、新興一家を打ちのめされると、それまで奴良組傘下を名乗っておきながら総会に出席しようともしなかった者どもが毎夜のように、総大将のご機嫌伺いに訪れるようになった。
 ご機嫌伺いなど名目で、本当の目当てはもちろん、総大将の隣で口数少なく酒を飲む、総大将の御孫、二代目の忘れ形見の男君だ。
 二代目が儚くなられてから、本家を遠のいていた者どもは、総大将の御孫と言うと、いとけなくか弱い、人の血を濃くした若君を頭に思い浮かべるばかりであったから、しろがねの髪の紅瑪瑙の双眸の立派な美丈夫を目にすると、頬を張られたようなはっとした顔をして魅了され、皆が等しく、若き日の総大将を思い出すのであった。
 中には我が娘を側女に、と申し出てくる者もあるほどである。最初は冗談かと思っていたが、思いのほか相手がしつこいので、笑っていた総大将も相手の勢いに負け、隣で見習い若頭を決め込む孫息子に、答えを知りつつ聞いてやるのだった。

「……と、言ってるが、リクオ。どうするんじゃい」
「端女なら、間に合ってるだろ。側近もだ。そんな人質じみたものは要求しねぇよ、今まで通り、自分の娘は自分の家で可愛がってやんな」

 本家に娘や息子を上がらせれば、本家との繋がりはそれだけ強くなる。
 強い家に対して、弱い家が己の身内を人質として赴かせるのは、人の家も妖の家も同じだ。
 そのつもりで男君は一蹴したが、いやいや、と、目の前に膝を寄せてきたのは、久しぶりに顔をだした、青鷺火という妖怪である。美しい羽飾りのついた着物を粋に着流すその男は、酒も入ったせいかいくらか大胆に、言葉を続けた。
 己に自信も自負もあるために、落ちぶれた本家になど用は無いと思っていたが、ようやく最近奴良組が、かつての勢いを盛り返してきたとあって顔を出したのだ。現金、日和見、彼を表す言葉はいくつもあるが、その男とて、結局は己の家を守らなければならぬ一家の長だ、波の行方を見守ることを、悪くは言えまい。

「いや、娘がリクオ様のお側にならば、上がりたいと申しておりやす」
「なら、尚更だ。決めた女はある」
「はて、そのような噂はまるで、聞こえてはきませんが、まさか人間の女で?」

 男君、これには答えず、干した盃を手元で傾けた。
 ――― と、阿吽の呼吸で、そこにとろりと銚子を持って控えていた雪女が、すかさず盃を満たした。
 どうぞ、と勧められ、すっかり乾いていた盃を満たされれば、青鷺火は毒気を抜かれ、黙るしかなかった。
 冷酒をぬるませぬためだけの端女とばかり思っていた雪女と、昇り龍のごとく勢力を広げる次代の総大将が、ほんの一瞬視線を絡ませたとき、真珠のごとき玉の光が一瞬、二人を祝うようにきらめいて輪となり消える幻を見たとなれば、尚更だ。

 無粋な男ではなかったので、それ以上、己が娘の話はせず、当たり障りの無い挨拶とこれまでの不義理を陳謝申し上げ、次の総会は必ずお声がけをと約束して席を辞したが、彼の手下どもは主ほど粋を理解する男どもではなかったので、「いいんですかい」、と帰り道、男に問うた。

「お嬢もかなり乗り気だったし、お嬢が三代目の手つきになれりゃ組のためにもなるって、おやっさん、そう言ってたのに。決めた女があるなんて、あからさまな言い訳ですぜ」
「いや、ありゃあ本当よ。もしかすると近いうち、祝言、ご出産、なんて慶事も続くかもしらんわ。やれやれ、一足遅かった」
「まさか!何でまた、おやっさんはそんな事、わかっちまったんです」
「ボンクラどもが、てめぇ等の目ン玉ぁ、そのうち腐って落ちちまうんじゃねえのかい?聞かれたって言えねえよ、せっかくあそこまで綺麗に隠してなさるんだ、勝手に吹聴しちゃあ、義理がたたねぇ。やれやれ、そうならさっさと祝言挙げて、うちの娘を諦めさせてくれねぇかねえ」
「でも、そんな相手がいたって、表立ってねぇんなら、まだ付け入る隙は」
「阿呆。皆無だ、そんなモン。女の方が悪く言われるだろうから、気をつかってなさるんだろうが、ありゃあもう、神前で契ってなさる。そんな気配もわからねぇで、ハァ、全く最近の若ぇ奴等ときたら、てめぇが畏れられたいばかりで吹かしてやがるくせに、古来の神さんは畏れねぇときた。だから何も《視》えねぇんだ、情けないねぇ」

 このように、気がつく者は少なかったが、女を使って篭絡しようとする者はやはり多く、その度に男君はつれなく袖にして、事が済めば雪女と二人ふらりとどこかへ姿を消すので、なるほど、人の身の方でも成人を迎えなければこういうことは難しいだろうし、足固めをしようという時に守役であった者と主が男と女の関係になっていると表立てば、あらぬ醜聞も吹聴されるであろう、女の方が何より傷つけられるだろうと思えば、総大将もさっさとつまびらかにせよとは孫息子に言いつけることはできなかった。
 しかし、孫息子に関しては少々過保護気味の総大将、こういう事は本来、男親が言うものだろうが、不幸なことにこれには男親が無いからのう、と、席を辞した青鷺火と、これを見送った雪女が座敷から出て、孫と二人きりになったところで、こう仰せになられた。

「おいリクオ、地固めはいいが、曾孫ができたらそれは隠さず、ちゃんと二人で報告に来るんじゃぞ」

 男君が、折角含んだ酒にひどく噎せ込んだのは、言うまでも無い。


+++



 日々はつつがなく、過ぎていく。
 夜毎訪れていた、貸元、代貸などの挨拶を受け、休み暇も無かったところへ、誰が気を利かせたのか、たまの休みに何の予定も入っていないとあって、若君はその日、途端に手持ち無沙汰になられた。
 愛しい女を捜しても、庭で奇妙な鼻歌を歌いながらせっせと洗濯を干し忙しそうにしているので、何だかしばらくそれを見ているだけでしあわせになるし、忙しい中連れ出すのも悪い気がしたので、女が買い物に出るときにでも、もう一度声をかけてみようとその場を去り、ふと思い立って、裏の蔵へ入ってみた。
 鬼一口は出ないが、梁に寝そべりのんびり午睡を楽しむ小鬼やすねこすりなど、小物衆のたまり場と化している蔵には、奴良組四百年の歴史の分だけ、様々なものが並んでいる。彼等の衣服、食糧などは手前の方で、奥に行けば歴史の中で失われたと思われている名刀や、戦火に焼かれたと思われている古書の類などが無造作に積みあがっていた。
 幼い頃は隠れ場所、長じて後も書庫として、若君がたびたびそこを訪れることはあったので、小物衆たちも真昼間の眠気には勝てず、一度は若君の姿を認めても、彼等を起こさぬよう、静かに物探しをしてくださることもあって、また、すうかすうかと可愛い寝息を立てて静かになる。

 奥に積み上げられた本棚の側で、裸電球をつけ、しばらくごそごそやっていた若君は、やがて、

「あった!」

 らしからぬ大声を出されて、慌てて己の口を塞いだようだった。

「リクオ様ぁ、何があったんですぅ?」

 豆腐小僧が一つしか無い目をこすりながらやってきて、甘えるように裾を握って来たので、これの頭をぽんぽんと撫でてやりつつ、若君は手にした和綴じの書物を掲げて見せた。
 このときには、側に、何だ何だと蔵の中の小物たちが寄って来ていて、見せられたそれに、あっと納豆小僧が眠気を吹き飛ばし目を大きく開く。

「うわー、懐かしい、『奴良組評判記』だぁ」
「なーに、それ?」
「あぁ、二代目が昔、書いてたやつかぁ」
「取ってあったんだ」
「リクオ様、それ、どうするんです?」
「ちょっとね、軽い読み物が欲しくて」

 和綴に小筆で綴られた古書が、世間一般の軽い読み物かどうかなど、小物たちにはわからないので、皆がふうん、と興味なさそうに離れ、思い思いに己の昼のねぐらへ戻る中、若君は色あせ薄汚れた、千代紙表紙をそっと、手の平で撫でた。
 第一帖目をめくると、拙い子供の筆跡で、しかし丁寧に、「けふからつれづれなるままにあやしのことがらしらべたるよし、ここにつづることとす」と始まっていた。頁を捲れば綴られている、子供の目線からのあやしの事件のあらましと、それについて想うところ、動く心。あるいは毎日のちょっとした、おもしろきこと、あわれなこと、けしからぬこと、父のこと、母のこと、守役リクオのこと、屋敷の妖怪たちのこと。

 あやしのことがらしらべたるよし……などと始めておいて、その日食べた何が美味しかっただの、何が不味かっただの、何を残してリクオに叱られただの。母に手習いを誉められただの、父にげんこつをもらっただの、寝ているリクオのほっぺに墨でぐるぐるを書いたら、仕返しに昼寝の後に額に肉と書かれていて悔しい想いをしただの。

 くすり、と、若君は笑んだ。
 見上げれば、二代目が綴ったという『奴良組評判記』、これまで荷物で隠れていた蔵の奥の壁、その一面を覆う、見上げるほどの本棚を占拠している。

 今は遠い夢の岸、父との想い出が、四百年の時を超えて、そこに息づいていた。



+++



 蔵の中でしばし読みふけり、気づけば日が傾いている。
 小物たちもごそごそ起き始めたので、若君は数冊、その本を携え蔵を出て、濡れ縁を行く。

 ――― 《リクオ》はふと、夢の中での十二年、見慣れていた奴良屋敷の外、遮るものの無い、山並みと田園が続く地平を思い出し、庭の塀の向こうに聳える背の高いコンクリートの街並みが、見慣れぬもののように思えてならず ――― 若君はそんな己にふ、と笑って、かぶりを振って、さらに廊下を歩んだ。

 と、気づけば、茶の間で夕方のテレビを見ながら、夕餉前の一人酒を祖父が手酌でやっている。
 リクオに気づくと、例の好々爺然とした笑みを浮かべて、「おぉリクオ」と招いた。
 小脇に携えた本に気づいた様子で、うんと眉を寄せる。

「ついこの前まで眠り続けてたというのに、もう勉強かい。リクオは生真面目じゃのう」
「勉強とは違うよ、ちょっと軽い読み物」
「本の中身に軽いも重いもあるかい。せっかく浮世に生じた身じゃぞ、愉しまねば損じゃろう。悪の限りを尽くすのに、勉強なんぞ何の役に立つんじゃ」
「学校、楽しいよ。可愛いコ、結構いるし」
「……ワシも行ってみようかのう」
「おじいちゃん、冗談に食いつかないでよ。このエロ妖怪」
「いやいやいや、ワシも勉学に興味が」
「破天荒にもほどがあるでしょ」
「にしてもお主、真面目すぎるぞ。ちょっとばかし休め」
「だって十日近くも寝てたんだよ。勉強だってずいぶん遅れてるし」
「体、平気なのかい」
「うん」
「そうかい、よかったのう」
「おじいちゃん、テレビ見ながら、ずっと一人?」
「おう。爺の酒になんぞ、誰もつきあってくれんわ」

 からからと笑う祖父の前を、これまでの若君ならば、「晩御飯の前なんだから、ほどほどにしなよ」としたり顔でたしなめ、去るだけだったろうが。

「 ――― 酌でもしてあげようか」
「ほほう、どういう気の吹き回しじゃい」
「いいじゃない、たまには」

 そう、いつかの浮世の夢で、濡れ縁に二人、朝陽を待ったそのときのように。

「さ、総大将、一献どうぞ」

 可愛らしく首を傾げ徳利を持った孫に、何と言ったものやら判らず、奇妙な顔つきをしたまま、祖父は小さくしぼんだ手に盃を乗せ、つい、と差し出した。
 くい、と干し。

 やはり、いつかの浮世の夢で、濡れ縁に二人、朝陽を待ったそのときのように。

 だが違う。色々違う。

 《リクオ》の前にいるのは、強く雄雄しい盛りの総大将ではない。
 背は丸くなり腰は曲がり、肌にも老人らしい皺と斑が浮いたいかにもな御隠居である。
 ふさふさとしていらした金色の毛並みもすっかり無くなってしまわれた。

 それが、四百年なのだ。

 それが、時の流れなのだ。

 あの時にあったものが失われたと同時に、あの時の総大将には無かった、愛孫へ向ける心からの笑みと、年輪のように悲哀と優しさが深く刻まれた瞳もまた、四百年の時がなせるものなのだ。
 人と交わった総大将が、それこそまるでただの孫煩悩な爺のように優しく笑むのも、てんで子供の扱いなど知らなかった、破天荒で乱暴な総大将が、愛孫の小さな手を優しく誘い出し、悪戯に盃を渡そうとする所作をするのも、四百年の時が教えたものであろう。

「 ――― お前も、飲むかい」

 時刻は黄昏時。

 コンクリートの無粋な影が地平線を遮り、夜でも昼のように明々と、窓の形に光が満ちて。

 向かい合ったリクオは、しろがねの髪をさあと伸ばし、にやりと笑った。
 あの時、強く器の大きな総大将を目の前にしながら、ぴしゃりと断ったリクオは、ここで同じ姿に化生して、恭しく盃を受け取った。

「お受けしましょう。ぬらりひょんの孫として」

 親分子分でもなければ、義兄弟でもない。
 この地獄に返り咲き、ここでこそ次代の盃を。

 フン、と、総大将は機嫌良さそうに、お笑いになった。

「おかえり、小大将さんよ」
「もどりました、総大将」


<夢、十夜/第九夜・了...十夜へ続く>











...夢、九夜...
ようやく見つけた。ボクの、オレの六花は、浄土なんぞには咲いていなかった。なに気にするな、煉獄だろうと、住めば都。いずれ浄土にオレがしよう。