しなひも長く、色濃く咲きいでしは、藤の花。
 庭にしつらえた棚の下には、降り注ぐ陽光を遮り、ひんやり涼しくなるほどの影を作って、時折吹く風が眠たげに花房を揺らしている。
 つい昨日まで、三日降り続いた雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。

 奴良屋敷の和子さまは、文机からふと顔を上げ、すぐ目の前のこういったおもしろげな様子を物欲しげな目で見つめ、いけないいけないと首を振って、またすぐに文机に視線を戻された。心なし、唇を尖らせているのは、最近あまりにやんちゃが過ぎて、ついにお母上の珱姫様から、昨晩お小言を貰っておしまいになったから。

 鯉伴、よいですか、母の言葉をしかとききなさい。
 貴方の周りにいるのは、貴方のお父様を慕って集まってくださった大切な方ばかり。
 リクオさんにいたっては、お父様の子分でもなんでもありません、ゆえあってこの屋敷に住まっている、大切なお客人です。いつだって好きなところに行ってしまえるご身分なのに、いとけないお前を見捨てられず、お前がその二本の足で立ち上がる前から、なにかと助けになってくれているのですよ。
 それを何です、真面目に手習いもせず、悪戯ばかり。皆が甘い顔をしているからとて、つけあがるのではありません。
 今度からお前が手習いをした成果は、きちんとこの母が見届けますからね。
 リクオさんの言うことをよく聴いて、毎日示された分の手習いは、ちゃんと終えてから遊ぶのですよ。

 ああだのに、今日に限ってこんな風に晴れ渡ってしまうなんて。
 めでたいほど絶好の外遊び日和なのに、こんな風に部屋の中に閉じこもって、面白くも無い文字をくねくねと書くのはまことに残念でならない。
 こういう気持ちが、和子さまのまだ小さなお体がうずうずと動かれるたび、傍から見ていてもよくわかるので、リクオは脇に控え、この和子さまの様子に気づかず書物を読むふりをしながら、実は少し気の毒にも思っていた。

 和子さまは、五つにおなりである。

 ついこの前まで、ろくに言葉も操れなかったとは思えぬほど、あれは何これはどうしてと、様々なものに目を輝かせ、少し大人しくしているからと目を離した隙に、思いがけないところで突拍子も無いことをしておいでになる。
 ついでに手加減も無いので、力任せに鷲掴みにされたり放り投げられたりする小物たちは、ひとたまりもない。時折、からかい好きのくせして泣き虫の一ツ目小僧が、たんこぶをこしらえ、大きな目玉にたっぷり涙をにじませて、ぴいぴい泣きながらリクオにしがみついてくることもあった。

 もっと小さな頃から、当たり前のように傍に妖怪がいて触れ合っておいでなので、和子さまが妖怪を畏れる様子は微塵もない。
 今も、墨であちこち黒くなった小さな手で、書き損じた半紙をくしゃくしゃと丸めたところ、障子脇からこちらを覗いてべろを出す一ツ目小僧と目が合ったので、すかさずぽいと投げつける。これが面白いように当たったので、小僧はぴいと泣き声をあげリクオの背中に隠れるし、和子さまはその卑怯が許せなくてこれを追われるし、するとまたくるくると、座るリクオを中心に、小さな追いかけっこが始まるのだった。
 気の毒に思ったのも束の間、やはり今日も始まるのかと、リクオは彼自身、ここへ来たときと変わらぬ幼いおもてに苦労の影をにじませ、はあと嘆息した。

 独楽鼠のように飽きもせず逃げ回り追いかけ合っているこの二人の内、和子さまが目の前を何度目かに横切られたところで、リクオはひょいと膝に抱き上げ、幼子を膝に座らせる。

「和子さま、まだ手習いが済んでおりません。母君に成果をお見せすることになったでしょう、おふざけになるのは、あと二三枚ほど、このリクオがうんと言えるものを見てからにしていただきましょうか」
「嫌だ、もう遊ぶ」
「和子さま」
「もう、それは飽いたと言っている。なあリクオ、もうしまいにしねーか。やっとうの稽古なら、いくらもするが、そんな手習い、つまらん。なにが、『いろはにほへ』じゃ、それはどんな屁じゃ」

 筆を持ったままリクオの膝に座し、足を投げ出した格好で、背中をリクオの胸に預けてこられたまま、首をうーんと上にひん曲げて、唇を尖らせたまま駄々をこねられる様子は、珱姫にはとても見せられぬ、あられもない御姿。
 守役だからこそ拝めるこの様子、愛らしくもいとおかしく、この御年まで傍で見守ってきた身としては、何でも許してしまいたくなるのだが、くじけそうになる心を隠して、あえて何事もないかのような厳しい顔で、リクオは首を横に振った。

「いけません。いくらやっとうの腕がたったとて、いずれ奴良組二代目ともおなりあそばす御方が、文字の一つも読めぬ書けぬでは恥になります。和子さまがそんなに悪い子なら、今日の『ちっちゃいもの倶楽部』の集まりは、和子さま抜きにするしかありませんね」
「……わかった、やるよぉ」

 あくまで不本意そうなお声で、それでもまた渋々文机の前に戻られたので、和子さまが戻り際に手にしていた筆でちょいちょいとリクオの頬にイタズラ書きをされて行ったのは、ひとまず不問とした。
 手本のいろはを脇に置き、和子さまがまた、いろはにほへと〜と文字の形を真似て書き連ね始めたので、追い掛け回されていた一ツ目小僧はほっとして、つるっとした後ろ頭に描かれたもう一つの顔を、手でごしごしとやり始めた。
 さすがに手が汚れるばかりだし、慕うリクオも頬にぐるぐるを描かれて憮然としているので、小大将ばかりには素直な小僧、「手ぬぐいをご用意してきます」と張り切った。

 うん頼むよ、と声をかけられ、小僧が水場へ走ったのとすれ違い、門番役の狼小僧が廊下を駆けてくる。

「小大将、カナがもう訪ねてきましたぜ」
「え、もう?今日は早いなあ。うん、わかった、すぐ行くよ」
「やった、今日の手習いは終わりだ、な、リクオ!」
「あッ、こらお待ちなさい、和子さま!」

 もはや聴く耳を持たぬ和子さまを追いかけ、長い廊下を駆ける途中、慌てて小僧が差し出した濡れ手ぬぐいを受け取ると、門前で佇む少女に、和子さまが墨まみれの手であわや飛びつく寸前で、ようやくその襟首に手が届いた。

「ぐえッ」
「そんな汚れた手で、女性の着物に触れる馬鹿がどこにいますか!ちゃんと手を拭きなさい。……ごめんよカナちゃん、まだ和子さまの手習いを見ていて、出かける支度もしてないんだ。中で少し、待っててもらえるかな?」
「うん、わかった。こっちこそ、なんだか間が悪いときに来ちゃったみたいで、ごめんね」

 櫛を通した明るい栗色の髪が、僅か首を傾げて視線を落とした拍子にさらと白いうなじを滑る。夢見るような瞳が、ついと上目がちになって、優しげに微笑むリクオと目が合うと、ほっとしたように笑んだ。
 初めて会ったときから少し年を重ねているが、昔と変わらぬ、葉陰に隠れる栗鼠のようだ、と、リクオは微笑ましい心もちになった。出会ったときはほとんど同じ、己の方が心もち低いだけだった背丈は、今は昼の姿で居ると、少し差をつけられてしまったけれど、この娘をまるで妹のように見守る気持ちに変わりは無い。
 この、カナの後ろでつまらなさそうに石を蹴っているのは、今年八つになるカナの弟である。

「姉ちゃんが急かすからだろ、リクオに早く会いたいからってさー」
「じ、二郎、変な冗談言わないでよ!あ、あはは、この子、最近変なことばっかり気にするようになって」
「あいでっ」
「そういう年頃なのかなあ、和子さまも、なんだか女性のお客様を見ると喜んじゃってね。行く末が今からかなり心配だよ」
「あはははっ、鯉伴くんかっこいいから、大人になったらきっと悪い男になっちゃうわね。リクオくん、苦労するわよ」

 話している間にリクオが濡れ手ぬぐいでごしごしと、和子さまの手の墨を取って、「よし」と一仕事終えた気持ちでいると、カナはこの手から手ぬぐいをそっと取り、「こっち、忘れてるでしょ」と、和子さまが描いたリクオの頬のなるとをそっと拭き取った。
 二郎が姉をからかい囃し立てる気色の悪い笑みは、したたかに蹴られた足を痛がる声にとってかわる。

「それで、手習いって、あとどれくらいかかりそう?うちの二郎、ようやく雨が上がったから外で遊ぼうって、もう朝からうるさくって」
「うーん……」
「……なぁリクオ、おれ、ちゃんと遊んで帰ってきてから、手習いやるからさ、今はもう遊びに行っちゃだめ?」
「……仕方ありませんね、あんまり人を待たせるわけにもいかないし。但し、今日だけですよ。帰ってきてから、約束はちゃんと守ってくださいね」
「やった!だからリクオ、大好きだ!」

 諸手を挙げて喜ぶ和子さま、つい先ほどまでの確執など忘れ、傍に控え立っていた一ツ目小僧に、「おい、小さいものども、出入りだぜ!」などと、胸を張って仰せになる。意味も判らず、総大将のなさること仰せになることを真似なさりたいお年頃なのだ。
 そうすると昼日中だと言うのに、奥からわらわらと小物妖怪どもが、子供のようにきゃっきゃと歓声を上げながら、まろぶように駆けてきた。昨日までの長雨に、外に出られず辟易としていたのは、何も人の子や、和子さまばかりでないらしい。

 昼日中、奴良屋敷は、夜間とはまた違う客層で賑わう。
 この土地に屋敷が建ったばかりの頃は、全く出入りのなかった、人間の客だ。

 妖怪とは言え、大所帯になればあれこれと入用のものも出てくる。一つの場所に居を構えるなら、また少なくはあるが人間も住んでいるなら、適当なところから盗んだり奪ったりするわけにもいかない。
 脅し殺し威圧するばかりの存在が、いつまでも栄えはびこっていた歴史は、人の世にも妖の世にも、古今東西どこにも無い。いずれは、力に溺れた者を新たな力が打ち滅ぼす。妖怪であれば、いつかはこれを滅ぼさんとする人間か、やはり同じ妖怪が現れるであろう。

 総大将が望まれたのは、己の力のみによる支配ではない。そんなものは息が短く風情が無いと断じておられる。
 望まれておられるのは、珱姫との契りに見えるとおり、人との共生、弱きものどもをすら懐に入れた、楽しき浮世だ。
 そこで、人の世をよく知る化け猫たちに学びながら、いざうまいこと商人を出入りさせるようになってみると、案外早くに奴良屋敷の妖怪たちは受け入れられた。
 門前で客人を迎えるのは、人の童子姿をしたリクオであるし、荷物運びについてくる妖怪があったとしても、徳利や裁縫箱や行灯といったものに、手足がにょきっと生えて目をぱちぱちとさせているくらいで、慣れてしまえば気味悪さは無い。
 むしろ慣れてくると、薬箱や空の油樽などが自らの中へあれこれ仕舞い込んで運ぶ様子は、「あれ、利口なもんでございますねえ」と評判だ。

 互いに相手を軽んずることなく、尊重しあって触れ合えば、人も妖も浮世に生じた者同士、何とかうまくやっていけるのだねとは、和子さまがリクオの袖を掴んでついて回るようになった頃に、これを見て相好を崩した、薬売りの言。
 もちろん世の中の妖怪が全てそうではないし、奴良屋敷にも多くの妖怪が棲んでいるので、特に夜は物騒だ。
 日が暮れた後に、屋敷に近づいてはいけないよと、他ならぬ人々から一目置かれたリクオが、このときばかりは笑みを消して言うので、街の者等は言う通りにしている。

 逆に昼はどうこう言われていないから、立派な屋敷に出入りさせてもらおうという商家の使いや、出来の良い細工物を見てもらおうという馴染みの細工師や、時折派手な騒ぎのたびに半壊に及ぶ屋敷の修繕に小物だけでは手が足りぬからと呼ばれた大工などが、朝早いうちから通ってきた。
 不思議なもので、賑やかはさらなる賑々しさを呼び、大人たちが出入りしている妖怪屋敷に、お使いの子供等が来るようにもなった。すると、年中遊び相手に餓えている小物たちと和子さまは、自然とこの子供等と親しくなった。

 カナと二郎の姉弟は、この中でも長い方の付き合いだ。
 姉の方が、家計を手伝おうとして、細工師の父親のところで学んでいる、弟子たちが作った、まだ商家には引き取ってもらえぬものを道の往来に店を開いて売っていた日、駆けて来た馬にあわや蹴られるというところを助けられたのは、リクオがまだ屋敷に来たばかりの頃。
 その時、満足に礼も言えなかった娘は、かと言ってわざわざ妖怪屋敷と噂されるところへ赴く用事もないし、どうしようかと悩んでいたところへ、近所の長屋に住む大工が道具箱の中身を手入れしたついでに何か忘れていったらしく、子守や洗濯などに忙しい女将さんが困っていたので、では私がと申し出たのだ。

 小遣いでちょっとした菓子を求め、もし出来るなら会いたいものだけど、軽々しく外に出てくるような人ではないかもしれないから、出てきた人にこれを渡して貰おうと、赴いたカナを迎えたのは、まさしく姿を求めていたリクオだった。
 カナが礼を言い、また求めてきた心ばかりの品を渡すと、全く偉ぶった様子もなく、かえって恐縮した様子などを見せるし、それに話してみれば全く人とかわることがないどころか、街の女たちが言うように、一本筋の通った気持ちの良い男子であるし、カナの家にも彼が面倒を見ている和子さまと同じ年頃の弟がいたので、そういったことを話して関わるにつれて、次第次第に二人は親しくなっていった。

 小物たちの異形や悪戯を、最初は ――― いや、今も驚いてばかりのカナであるが、悪戯はともかく、小物たちの見目は慣れてくると愛くるしささえ感じるので、そのうちカナは弟の遊び相手にもいいだろうと、二郎を連れてくるようになった。
 和子さまも、己と同じような背丈の遊び相手が増えたとお思いになったらしく、喜んで遊ばれる。
 いつしか場所を奴良屋敷の庭ばかりでなく、少し歩いた先の、古い無人の寺の側に移すようになり、こうなると傍で遊んでいた子供等も集まってくるので、これを、誰からか『ちっちゃいもの倶楽部』と呼ぶようになった。



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 かーごーめーかーごーめー
 かーごのなーかのとーりーはー

 小さな子供等が互いに手をつないで作った円の中、ただ一人しゃがみこんだ小僧は、一つしか無い目をつぶって、ちっちゃな両手でこれを覆い、皆の足音がぐるぐると己の周囲を巡るのに耳を澄ませている。

 場所を変え、ところはいつもの花咲く野原。
 雨上がり、家の仕事を片付けてきた子供たちは、陽が中天に差し掛かる頃、既に数人集まっていた。
 鬼ごっこや隠れ鬼をする小さな子供たちを、少し大きな子供たちが、少し厳しくなってきた日差を避けようと自然、まだかろうじて形を保っている寺の屋根に寄り集まって、見守っている。リクオ以外は、守をしているのは皆、娘だ。この年頃になると、男の子は大事な働き手なので、昼に歩き回ることはあまり無い。女は女で、働き手であるには違いないが、男のように体を使った仕事をすることもできないし、少しでも器量の良い娘ならば嫁入り前に傷をつけるわけにもいかないので、家の仕事が終わってしまったのに家にいては、かえって邪魔になるのだ。
 こうした娘たちは、まだ小さいやや子を背負いながら、寺がぽつんと建っているこの野原を訪れて、鳶がくるりと円を描く様を、目を細めて眺めたり、童歌を歌ってやや子をあやしたり、小さな子供たちの相手をして一日を過ごす。

 様々に憂い悩みもあるのだろうが、今はこうして一時だけでも、人も妖もなく、互いに笑いあいじゃれ合う様子であるのを、リクオはどこか懐かしく尊いものと感じる。
 何かにつけ、総大将が仰せになるように、人と妖とが浮世で共に生き続けて行けるなら、現世はそのまま浄土ともなろう。目の前で、小物たちや子供等が遊びまわる光景は、まさしくリクオが求めるものでもあった。

 今も尚、自分がどこからどのように生じたのかは定かではないが、完全な人でも、妖でもない己自身を、どちらが、ではなく、どちらも含めてお前なのだと受け入れられる場所があることを、以前から強く想っていたような気がするのだ。
 住む場所もあり、珱姫さまは母のようにお優しく、総大将は父のようにどっしりと構えておられ、和子さまはこうも慕ってくださる。
 これ以上望んでは贅沢だ。
 なのに時折、リクオの心は鳥のように、こうして高い空を求めて飛ぶ。

 ――― どうしてこの浄土に、お前が居ないのだろう。

 こうして時折、何かを憂うように、一人、空の鳥や雲を眺めて娘たちの会話から外れてしまうと、高貴な面差しが手伝って、まことに風情があり、リクオがいつも物腰柔らかで、決して彼女等を傷つけぬと知っている娘たちも、迂闊には声をかけられない。

 空遠くを求めて飛んだリクオの心を呼び戻したのは、くいくいと袖を引いた和子さまだった。

「 ――― ぼうっとするな、リクオ」
「おや、和子さま、どうしました。喉が渇きましたか?」
「いや、違う。二郎が何か見つけたんだ、お前も来い」
「見つけた?一体なにを?」
「いいから。見せてやるから、お前も来い」

 ぐいぐいと腕を引く和子さまに引きずられ、ついたのは、これまで遊び場にしていた寺の周囲ではなく、背の高い草が生い茂る、野原の奥の方だった。

 黒く、底の知れない沼があり、その傍らに、ひしゃげて崩れかけた祠がある。

 祠の傍では、首から上が折れた地蔵が、傾きながらも諦めがたいかのように、両の手を合わせていた。

 辺りは昼日中だと言うのに妙に暗く、木陰も無いのに肌寒い。妖怪が作る、祟り場とはまた違う。
 足元が妙に冷えると思い、リクオが視線を落とすと、黒い沼がじわじわと、音も無くこちらへ水を溢れさせているように思えた。
 首筋にぴりりと感ずるものがあり、カナが祠から目を離せないまま、隣でぶるりと体を震わせたところで、リクオは小声で囁いた。

「戻りましょう、和子さま。皆も。ここには触れてはいけない」

 しかし好奇心をむき出しに、今にも祠に手を伸ばして格子戸をぱかりと開けてしまいそうだった和子さまは、ぺろりと唇を舐めると、あともう少しだからとこれを聞き入れず、小さな手を伸ばしてしまった。
 びゅるり、と、格子戸の向こうから、黒い沼が溢れてきた。
 そう見えた。

「え?」

 この黒い沼のようなものは、一筋伸びるとするりと和子さまの腕を絡めとり、もの凄い力でぐいと引き寄せようとする。刹那、リクオの匕首が閃いて、溢れた沼をさくり、斬った。

「皆、走れ!走れ!逃げろ!」

 和子さまを抱き上げ、リクオが叫ぶ。
 それでようやく呪縛が解けたように、息を殺して祠を見つめていた子供等は、わあっと叫び声を上げ、今きた場所へ向かって駆け始めた。それぞれ近くの弟や妹の手を握り締めながら、こけつまろびつ走る走る。
 リクオもまた、和子さまを軽々と抱き上げて、生き物の舌ように迫る沼を飛んでかわし、刃ではじきながら、どうにか追ってこなくなるまで逃げ切ったのだった。

 ぜいぜいと息を切らす人の子等、そして小物妖怪たち。
 全員揃っているのをたしかめてから、リクオは腕に抱き上げた和子さまに目を落とす。
 和子さまは、リクオの胸元をきゅっと握り締め、目を見開いて、痣が残った手首を泣きもせず、しげしげと見つめておられた。特に祟りや障りがあった様子はない。

「おおぉぉ、すげえ、あの沼、生きてやがったぞ!」
「そう、何でもかんでも手を伸ばしたりするんじゃありません、はしたない。もし沼に引きずり込まれていたら、どうするんですか」
「大丈夫だ、リクオが化生して助けてくれればいい」
「この昼日中、祟り場も無いのに、そうほいほいと化生なんぞできませんよ。それとも陽が沈むまで、沼の底で待っていただけるんですか?」
「……わかったよ、もうしない、そう怒るな。睨むな。こわいぞ」
「皆も、昼とは言え、ああいうひんやりしたところは、誰かの怨念が作り上げていたり、恨みつらみが癒えずに残ってしまったりしているところだから、少しでもおかしいと思ったら、絶対に近づいてはいけないよ。わかったね。ああいうものを馬鹿にして近づくと、取り返しのつかないことにもなる」

 リクオが皆を見回すその視線をかいくぐり、和子さまと二郎の視線が、ちらと交錯した。
 いつもならこれをすぐに咎め、悪さを企んでいるのを見抜いたリクオであったろうが、ふと、たった今後にしてきた沼の方から、誰かに呼ばわれたような気がして「うん?」とそちらを見やったので、これには気づかない。
 沼を隠す草叢は、寂しげに、さやさやと衣擦れにも似た音を、立てるだけ。

 気を取り直し、リクオは一番に心配な悪ガキ二人を、じっと睨みつけた。

「和子さま、二郎くん、いいね」
「お、おう」
「うん、わかってるって」

 二人とも、その後それぞれ睨まれて、えへへと笑いはしたけれど。




 去り際、リクオはやはり、もう一度振り返った。
 しかし、居ない。誰も居ない。でも、たしかに。

( ――― 呼ばれたような、気がした)


+++


 ともかく、こうしてほうほうの態で逃げ帰ってまいりました、あそこは一体何なのでしょうねとリクオが話をしめくくると、家族水入らずの夕餉を取っていた総大将は、機嫌もよく大笑いされた。

「その沼は、アレよ。人間どもの戦の後、その戦に巻き込まれて死んだ人間や、名も無き武士たちの骸が積みあがった、ただの墓場じゃ。此の世を祟るほどの力もなく、ただあっちの世に渡るには未練が断ち辛く、そうやって溜まっているのじゃろう。時がたてばまた、己がそうやっていることすら忘れ、お天道さんの力で全部払われてしまうわい。
 いやしかし、クックック、お前さんがそんな、妖怪にすらなれんただの人間のなれの果て相手に、冷や汗流して逃げ帰ってきたかと思えば、いや、こりゃあ面白いのう。お天道さんに遠慮せず、妖気で一足早く、冥途送りにしてやればよかったではないか」
「あー、なるほど、道理で、気味が悪い場所なのに化生できないと思っていたら、そういうことだったんですね。そうなんです、やってしまおうかと思ったんですが、全然力が出ないので、もう逃げるしかできなかったんですよ」
「こりゃあ、思わぬところに小大将の弱点があったもんじゃのう。昼の御姿であろうとも、そんじょそこらの大物にすら引けはとらんというのに、まさか単なる水溜りが怖いとは」

 その笑いようときたら、膳の上の茶をひっくり返してしまったほどだ。
 あちあちと騒ぐ夫の膝元を、自ら手ぬぐいで拭きながら、珱姫はまるで我が子のやんちゃをそうするように、やんわりとたしなめられた。

「お前さま、そんな風に笑うから、バチが当たったのですよ」
「あちち、あち。いやスマンなリクオ。軽んじたわけではないのじゃが、いつも涼しげな顔をしたお主がのう、うはは、愉快でならぬ、あちち、うはは」
「あんまりそう苛めないでください。昼に出来ることと言えば、早く走ったり上手くかわしたりすることぐらいなんですから」

 家族に混じり、給仕をしながらも下座で膳を使うのを許されたリクオが、膨れたように飯を食んでいるのがまた面白かったのだろう、「拗ねたのか。お主はかわいいやつじゃのー」と総大将がにやにやと笑うのは、それほどこの、昼の姿の方に色々と、「かわいくない」と思い知らされているからだった。

 このリクオときたら、総大将が出入りじゃ出入りじゃと騒ぎたて、数人の腹心とともに屋敷を出立し、翌朝の陽が昇った頃に帰ってこようものなら、「お帰りなさいませ、湯浴みの準備が整ってございます」と丁重に申し上げ、そうかと湯殿に向かってみれば、いつもより匂いのきつい石鹸が用意されており、上がってみれば香をたきしめた浴衣が用意されている。もちろん全てリクオがやっているわけではなく、小物にこれこれこういうものを用意しておいてねと、この可愛い顔で言っているだけらしいが、これほど残り香が無いように気を使われてしまうと、逆に、総大将としては尻尾を握られているようで面白くない。
 出入りだと言っておいたはずだし、屋敷に残してきた妖怪たちはこれを疑わなかったはずだし、珱姫も和子さまも、そう思っていたはず。だとしても、リクオはそうではない。
 しまいに、朝餉の膳を運んできたリクオを、肘掛に体を半分預けたままちらと睨めば、逆にあちらはにっこりとしながら、珱姫と和子さまの目を盗んで、小さな指を鎖骨のあたりにあててそこを隠せと知らせてくる。
 あの猫又め、あれほど痕はつけるなと言ったのに、と思いつつ、何気なさをよそおって、その場で襟をいつもよりきつめに絞めたりする。このように何度助けられているのか知れない。恩であるが、弱みを握られてもいると思えば悔しい。

 どうやってこうしたことを嗅ぎつけて来るのだろうと思っていたが、そのうち、和子さまの手習い中などでリクオが座しているときに、小物たちがひっきりなしにやってきて、こそこそとリクオの耳に何かを知らせているのを目にした。
 納豆小僧の襟首を引っつかみ宙ぶらりんにして、何を知らせたんじゃ、と訊くと、ただの噂話とか、そんなもんですよう、と脂汗ならぬ納豆を噴出しながら答えた。珍しいことや面白いことを見たり聞いたりしたら教えてくれとリクオは言い、そして言う通りにしただけでたいそう誉めてくれるから嬉しいのだそうだ。

 小物を買収されているというのは、なかなか厄介なものである。しかもその買収方法が、金子や脅しといったものでないから、尚たちが悪い。小物たちが己で「小大将の御為に」と働いているだけでは、リクオが与えている金子以上のもので買収し返すわけにもいかない。
 大物妖怪たちの中では、小物たちの小さな妖気は隠れてとらえられないから、死んでいるのか倒れているだけなのか判別がつかないし、隠れられてしまうと探すのは用意ではない。そのくせ、こやつ等は人間のように煩悩断ちなど考え付かないから、好奇心むき出しで、あれやこれやを見聞きする。
 つまり、リクオは小物たちの、留まらぬ好奇心の矛先となった事柄を、全て知っているのだ。
 知っていて、知らぬような顔をして、ああしてにこにこと笑っているのである。
 その上、口がかたい。何か知りたいことがあったとして、お主ならば知っておるだろう、言え、と脅してもすかしても宥めても、滅多には口にしない。それを口にすることによって、誰かが被るだろう痛みと、総大将が得られるものを秤にかけて、これというときにしか口にしない。あまりやりすぎると、珱姫がいるところで、ほろほろと泣き出す。珱姫が怒る。総大将は参る。リクオが言わないのは、いちずに奴良一派のことを思ってのことであるのだから、秘しているうちは秘しておいた方がよいことなのだろうと総大将も知っているから、珱姫に怒られてそれ以上迫ることもできないし、それこそ、小さくか弱い童子のように、瑪瑙の瞳から露のような涙を零されては、己が稚児趣味にでもなったような情けない気がして、全てどうでもよくなってしまうのだった。

 そのリクオが、冷や汗をかいて帰ってきたから何かと思えば、小物妖怪すら相手にしないただの水溜りが怖かった、などと言う。
 何の妖怪の障りもない、ただの水辺で死ぬことがある人間ならば、たしかにああいうものは脅威にもなろうが、仮にもお前は小大将だろうにと、これを考えればおかしくもなった。

 けたけたと笑う総大将に、リクオがいよいよ拗ねて口をきかなくなり、いつものように珱姫が怒り、総大将が参って、「そうだ、何か菓子でも買ってやろう、だから機嫌をなおせ、な、リクオ」とやったところで、またもリクオはにっこりとして、「じゃあ、金平糖と大福を」「……現金な奴じゃ」とやって場が和んだところで、一家の夕餉の風景はいつもの様子に戻ったかに見えた。

 ところが、和子さまは一人、これが何だか気に食わない。
 当のリクオは今も昼の童子姿で、のほほんと茶など飲んでいるが、和子さまは自分の気に入ったものを笑われたのが、何だか悔しくて、ゆっくりと飯を食みながら、唇がとがってゆかれるのを、ご自分でもどうにもできぬのである。
 和子さまはリクオを気に入っている。
 物心ついたときから側にいて、兄のように頼りになるし、どこか母に似た面差しでもある。栗色のあたたかそうな髪もいい。
 この昼の姿はあたたかそうでいいが、夜もまたいい。
 しろがねの髪がさあっと伸びて蒼い月に映える様子は、幼心にも感じ入るものがある。父親の一ツ目入道とともに、毎日のように屋敷を訪れては、いつもリクオの前で強気な様子をする苔姫は、時折この姿を目にすると、ぽうっと顔を紅くして恥じ入ったように袖で顔を隠してしまう。無理もないことだと思う。
 こちらは父にどこか似たようではあるが、並ぶとやはりリクオからは少年の面影が抜けていない。
 それもまた、和子さまは気に入っている。近くに寄ってじゃれてみても、この姿でもやはりリクオはリクオで、「和子さま、夜に裸足じゃ、風邪を召しますぜ」と己を甘やかす。どちらもリクオで、だから気に入っている。

 そのリクオに弱点があるのもまあ、致し方ない。
 しかしそんなにまで、笑わなくてもよいのではないか ――― と、吸い物をすすりながら視線だけで父君を睨みつけた。

 そして和子さまは、己の悪巧みに、敵討ちの名目を見つけたのである。
 気に入りの者がアレにかなわぬのなら、おれがアレをやっつけねえでどうするか、ということだ。