いつものように夜が更け、そしてまたいつものように朝が訪れると思われた。

 ところが、である。
 まだ妖怪たちが殆ど眠りについている頃から起き出して、着流し姿で煮炊きなど始めたリクオが、そろそろ和子さまを起こしに行こうと寝所へ足を運ぶと、部屋はもぬけの殻。布団はめくられ、触れてみてもとっくに和子さまの熱を忘れている。
 リクオについて回る小物たちが、くすくす笑いながら、「きっと総大将と珱姫さまのお布団に潜り込みに行ったんだよ」「えー、またー?最近無かったじゃーん」とやっているから、そうかと思って、そっと気配を殺して見てきておくれと頼んでみると、その小物は慌てた様子で帰ってきて、そうっと襖の隙間から中をうかがってみたが、和子さまの御姿は無かった、と言う。

 小物たちは台所で途端に慌て始めたが、

「騒ぐな!」

 小大将の一喝で、ぴたりとこれをやめた。

「 ――― 心当たりがある。ちょっと様子を見てくるよ。もしかしたら、昨日見つけたあの沼かもしれない」

 リクオは少し考えると後の支度を小物たちに任せ、裾を捲り上げて走り出す。
 小物たちが追うかどうするか判じる前に行ってしまったので、皆で相談して半数はここに残ると、もう半数は少し遅れてこれを追った。

 昨日遊んでいた寺は、それほど遠くない。
 リクオの韋駄天の足なら尚更で、小物たちを遠く引き離してもうすぐ寺へつこうと言うとき、沼を囲む背の高い草叢から、少女がこけつまろびつ飛び出した。

「カナちゃん!」
「リクオくん!お願い、たすけて、お願い!」
「落ち着いて。一体何が ――― 」
「今朝起きたら、二郎がいなくて、それで、もしかしたらってここにきたら ――― 二郎が、二郎が鯉伴くんと、沼に!」

 ひどく慌てたカナの説明は覚束なかったが、リクオにはそれで充分だった。

 カナの案内で草叢を掻き分け、あの沼のもとまで行ってみれば、はたしてそこでは、和子さまと二郎が二人、沼の淵に手と顔だけをかろうじて引っ掻け、今にも体を沈めてしまいそうではないか。
 小さな手が沼の淵の草を掴んでいるが、二郎は既に気を失っているようで、和子さまが必死にこれを抱え、二人分の重さを一人で耐えておられる。

「 ――― 和子さま」
「リクオか!ごめん……クソ、こんな池なんか、正体暴いてやるって思ったら、引きずり込まれて……しかも二郎は、この通りだ。悪ぃが、助けてやってくれねえか」
「当たり前です、しっかりつかまって!」

 妖怪にとってはとるにたらない、人のなれの果てだとしても、人の身からすれば恐ろしいものに他ならない。今にも引きずり込まれようとする二人に近づこうとするも、昨日と同じように、沼は意思を持って、水面を黒い鞭のように波打たせて新たな獲物をとらえようとする。
 これを匕首で跳ね返し、斬り伏せ、隙を見て淵まで近づいて、和子さまの腕をしっかと握り、しかしこれでは力を込めるのに足場が足りなくて、致し方なくリクオは片方の足をほんの浅く沼に入れて、足場にした。

 草叢に隠れながら見守るカナは、悲鳴も上げられず、しかし二人の子供がようやく水面から半分引きずり上げられたところで駆け寄ってきて、リクオを手伝った。

「もう、二郎!二郎!変なこと企んでると思ったら、こんな馬鹿なことして!ああ、よかった、よかった、生きてる!二郎、二郎、聞こえる?!」
「カナねえちゃん、大丈夫、眠ってるだけだよ。そいつ、沼のやつがさっきみたいに、絡んで来た途端、気を失っちまって」

 二人、沼から引きずり上げた二郎がやがて目を開けて、「………アレ、おっかさんは?おっかさんが、さっきまで居たんだよ」と、小さい頃に死んだ母を呼んだので、和子さまは幼馴染の無事にここでようやく息を吐き、カナは弟をぎゅうと抱き締めて、よかった、本当によかったと涙する。
 ともかく二郎は無事だったことにほっとし、そして己の力で沼の正体を暴いてやろう、底に住む奴をおびき出してやろうなどと浅はかにも考えたことを後悔した和子さまは、リクオがきっと後ろから己を怖い顔で睨んでいるのだろうとばかり考えて、おそるおそる、「なあ、リクオ」と振り返ったのだが。

「……リクオ?お前……何してる、そんなところで」
「……誰。そこに居るのは。誰だい?」
「リクオ?……おい、リクオ、リクオ!しっかりしねえか、リクオ?!」

 すっかり、もう自分で沼から足を引っこ抜いているだろうと思われたリクオは、しかし、沼から遠ざかるどころか、今はもうずいぶん奥まで行って両脚をこれに浸し、腰までつかっていた。
 和子さまの呼びかけにも応えず、しきりに辺りを見回している。
 二人の子供を捉え損ねた沼は、その分の力を込めて、自ら沼の中に入ってきた獲物を今度こそ放そうとせず、ゆっくりと、だが確実に、一本、また一本、もう一本と、水面を波立たせて作った黒い紐を、リクオに絡めてゆくのだった。

 リクオはそんな事すら気づいていないのか、それともどうでも良いのか、夢を見るような、すっかり和子さま等のことなど忘れてしまったような顔で、あちらを、こちらを、しきりに何かを探している。

 やがて、リクオは、見つけた。

 己が足を踏み入れた沼地の、水面。
 顔も映らぬ濁った水面に向かって ――― そんな表情、和子さまも、カナも、見たことがなかった ――― 嬉しそうにいとしそうに、目を細めて笑ったのだ。



「お前か。お前なのか、ボクを、オレを呼んでいたのは?
 ――― そんな所に居たのか。ああ、行くとも。すぐに行く。
 泣くなよ、ずっと側にいるから。
 ずいぶんと待たせてしまったね、これからはずっと、側にいる。
 ああ、いるとも。うん。ずっと、ずっとだ ――― 」



 そこでようやく、リクオを追ってきた屋敷の小物たちが追いついたが、間に合わなかった。
 彼等が何もできずに居る間に、リクオがついと伸ばした手を、沼から、ぬっと出た白い手が掴み、この二つの手の契りを守るように祝うように、幾本もの黒い紐が上からからみついて、あっと言う間に、リクオの体は沼に絡め取られ、沈んで見えなくなった。

「り、リクオ君?!」
「リクオーーーーッ!!」
「わ、和子さま、駄目ー!入っちゃだめー!」
「と、とにかく、お屋敷へ!誰か、誰かに知らせなくちゃ!」
「ぼ、ぼく行ってくる!」

 小物たちの半分は屋敷へとって返し、カナは口元を両手で塞いだまま、もう声も出ない。
 和子さまは沼の淵まで行き、リクオを返しやがれと怒鳴って、己の護身刀を抜いて、リクオが沈んだあたりへ行こうと進むが、残った小物たちが万力のような力を込めてこれを沼から引き剥がす。
 リクオを得て少しは満足したのか、沼は昨日までのように獰猛に追ってはこず、和子さまがばしゃばしゃとやった分は、ただ波紋となって水面を揺らすのみ。

 やがて、この波紋も、止んだ。

 ――― しん、とする。

 リクオが沈んだときの波紋すら、もう止んだ。

 ぽつりと、二郎がまだ半分、夢の中にいるような声色で、己を抱く姉に言った。

「……大丈夫だよ、姉ちゃん。あすこには、おっかさんが居るんだ。きっとリクオも、おっかさんに会いに行ったんだよ」
「おっかさん?」
「うん。沼の中はね、最初は気味が悪かったんだけど、だけど少しずつ、声がはっきり聞こえてきてさ、誰だろうって耳をすませてたら、おっかさんだったんだよ。おっかさんが、あの中に居たんだよ」
「しっかりしてよ二郎、おっかさんはもう死んだんだ、いないんだよ、あんただって、私だって、わんわん泣いたじゃないか!」
「……あ、そうか……そうだよね、おっかさん、死んでたんだった」

 カナの腕の中で、ぶるりと二郎は身震いし、これでようやくぱっちり目を覚まして、がたがたと身を震わせ始めた。姉の着物にがっちりしがみついて、恐怖に目を見開き、ぼろぼろと涙を流す。

「違う、おっかさんじゃない!あん中にいたのは、おっかさんじゃない!すごく似た声色出してたけど、違う!何十人も、何百人も、あん中に沈んでて、誰でもいいからこっちの人間を引きずりこみたがってたんだ。誰でもいいから、生きてる人間を一人、あいつらを鎮める人柱にしたがってるんだよ。だから、おいらにおっかさんの声きかせて、そんで、そんで……すっかり騙されちまうとこだった!リクオもだ!きっと誰かの声を聞いて、それで……ああ、どうしよう、どうしよう姉ちゃん!」

 うわあんと泣き始めた二郎を抱き寄せ、カナとてどうしたら良いのかわからない。
 人を呼ぶにしたって、こんな事を信じてくれるとはとても思えず、信じてくれそうな頼みは奴良屋敷の方々で、その屋敷には、人間などよりよほど足の速い小物妖怪たちが今まさに知らせに行っているはず。
 けれど、どんなに妖怪たちの足が速く、そして彼等がこの沼地にやってきてくれたとしても、リクオを助け出せると何故思えよう。仮にこの沼の底をさらって助け出せたとしても、そのとき、リクオはまだ息をしているだろうか ――― ?

 カタカタと震えるしか無い二人の姉弟の側で、小物妖怪たちに押しとどめられ、和子さまは赤くなった目で、しかと沼を見据える。リクオを得て、満足そうな沼を、仇のように睨みつける。
 母君譲りの黒い髪、母君譲りの黒い眼。黒曜石のようじゃと父君を喜ばせるこの二つの特徴は、和子さまが人間の血を強くしてお生まれになった証に他ならず、それはつまり、父君やリクオが使うような妖怪の力がもしかしたらこれからも望めないということ。

 今までは気にもしなかったのに、今このとき、和子さまは心の底から何故己にはあのような力が無いのかと、悔しくて悔しくてたまらなかった。
 悔しくて悔しくて、目の前の沼がリクオを得て満足げに黙りこくってしまったのも、リクオが水面に何か愛しいものを見つけて行ってしまったのも、どちらも悔しくて悔しくて、たまらなくなって、吼えた。
 うわあああ、と吼えて、吼えた拍子に、ざわり、と辺りの空気が震えたことすらわからないまま、うわあああ、と吼え続けて、吼え続けている己を、小物妖怪たちや姉弟がびっくりして見つめていることにも気づかずに尚も、うわあああ、と吼えて、吼えて、吼えまくった。
 吼え続けていたとある瞬間 ―――― 今ならと思った。
 己は半分人間で、だから上手くはできないかもしれないから、だから手伝ってもらえば、でも、あるいは、と。

「 ――― 鬼火!」
「へ、へい!」
「手伝え!」
「へ、へい?!」

 小物妖怪のうち、ふわふわと所在なく漂っていた鬼火が指名されて、素っ頓狂な声をあげる。
 それでも呼ばわれて、ふわふわと和子さまの側へと近づくと、なんと和子さまはこれを鷲掴みにした。

「わわわわわわ和子さまあああああ?!」
「火傷をしちまいますううううう?!」
「お、鬼火!離れろ!今すぐ!」
「うるせえ!てめえらは黙れ!」

 和子さまのいつに無い怒気に、ぱたりと小物たちは騒ぐのをやめた。
 しかもよく見れば、和子さまは火傷など負っていない。鬼火を掴む手を、そして和子さま自身をぼんやり包んでいる紫雲はまさしく、怒気とともに立ち上る和子さまの妖気であった。

 ごくり。

 小物たちが喉を鳴らす、その前で、立ち上る妖気が一際大きくなったかと思うと、鬼火の炎が和子さまの腕をするすると取り巻き、和子さまの妖気に引き寄せられるように大きく立ち上った。和子さまの紅蓮の炎と鬼火の青白い炎は、交じり合い紫雲の炎となって、やがて沼地を包む業火と化した。
 草叢には目もくれず、燃えるもののない水の上でごうごうと音をたてて、天を焦がすかと思うほどに大きく激しく燃え続ける業火の中に、やがて恨みやつらみや妬み痛み悲しみといった、人の念であろう、骸骨のように白いものが着物や鎧をまとった姿で、次々あらわれては小さくなり掻き消えていく。

 炎が揺れるたびに水面がまた揺れ、はじき出されるように慌てたような人影が沼地から立ち上った。
 まるで、炎は上に逆巻く滝のようであった。
 下に溜まっていた怨念を、問答無用であぶり出し、これに捕まった念を、激流に押し流される小枝がなすすべも無く滝壺に吸い込まれていくように、天へと押し上げる。

 燃え続けた炎は、やがて沼を燃やしつくし、沼の底が見えた頃にようやく静まり始め、また和子さまはこのときに、沼の底に横たわるリクオの姿を見つけると、はっと我に返り、鷲掴みにしていた鬼火をぽいと放り出して駆け寄った。
 もう、止める者はなかった。

 頭にかっと血が上って思わず炎を使ってしまったが、中にリクオがいるのであった、と今更ながら気がつき、火傷などをしていないかと、和子さまのくるぶしまでしかなくなってしまった沼を進んで様子を確かめると、炎に焼け焦げるどころか、リクオの体はどこかひんやりとしているのだった。
 沼の水がそれほど冷たかったのだろうか、と思うが、よく見ると、体中に霜が降りている。
 足を濡らす沼の水が、お湯のように熱くなっていることを考えれば、不可思議な話であった。

 ともかく、この気味の悪い沼地から、リクオを助け出さなくてはと、気を失っているリクオの下に小さな体を入れて渾身の力を込めるのだが、和子さまは五つになったばかりの子供だ。
 リクオの体は、ころり、と、うつ伏せになっていたのが仰向けになっただけだった。
 目を瞑った顔が和子さまの方を向いたが、目を覚ます様子はない。ぺちぺちと和子さまが頬を叩いて呼んでも、うんともすんとも言わない。こふりと小さく水を吐いたが、苦しげな様子もなく、むしろ自分から水を吐いてこちらへ戻ってくるのを拒んでいるかのように、量は少ない。
 ついさっき、すさまじい勢いの炎を使ってみせたとは思えぬ頼りなさで、リクオ、リクオ、と、和子さまはそこに尻餅をついて、こればかりはどうすることも出来ぬ己の弱さと情けなさに、うわあと泣いてしまわれた。

 幼子の切ない泣き声に、ようやくカナが震える体を叱咤し、己も足や着物が汚れるのをかまわずに二人のもとへやってくると、小物たちも手伝って、リクオの体を苦労して岸へ引っ張り上げる。まさにそのとき、奴良屋敷から、数人の大物妖怪たちが駆けつけたのであった。



+++



 和子さまにお小言をされるのは、いつも母君珱姫さまのお役目だったが、今日は違った。
 知らせを聞いてから、いてもたってもいられなかった珱姫さまは、烏天狗と雪女に伴われて和子さまが帰ってくると、泣きじゃくる和子さまを門前で優しく抱き寄せ、ともかく怪我が無くてよかったと慰められたが、父君のぬらりひょん様は、「鯉伴」と厳しい声で呼び寄せられ、目の前に立った幼子の頭を、ぽかりとやって戒めた。

 乱暴者、大雑把、と言われて赤子の頃の和子さまの世話を周囲に取り上げられ、珱姫さまとリクオに子育ての一切を任せてしまわれて以来、母君さまが和子さまの悪戯を「叱ってやってくださいまし」とお願い申し上げても、「手加減がようわからんからのう」と煙管を吹かして笑っておられたとは思えぬ、絶妙な力加減であった。
 泣いていた和子さまは、さらに大きく目を開けて、じわりと涙をにじませたが、総大将はこれにも厳しい目を向けた。

「泣くな鯉伴!泣いて、リクオが目を覚ますのか。泣けば全てが終わるのか。泣いて許される遊戯とは違うぞ。お前は責任もって、リクオが目を覚ますまで、側について看病せい。それまで、泣くのは許さん。よいな」

 ひぐ。と、父君の厳しい一喝に、しゃくりあげていた声をぐっと飲み込まれると、ぎゅうと両手で着物を掴み、こっくりと頷かれる和子さま。
 珱姫さまは、では母さまと一緒に……と言いかけたが、他ならぬ総大将が、ふるふると首を横に振って戒めるので、和子さまの小さな背が、部屋へ運ばれるリクオを追いかけるのを、心配そうに見つめる。

 しかし、「リクオさんが負った怪我を癒すくらいはよいでしょう?終わったら、すぐに部屋を辞してまいりますから」と重ねて珱姫が申し上げると、これには総大将は是非もなしと頷かれたので、残った雪女へ深く頭を下げ、和子さまの後を追った。
 二人きりになったので、雪女は総大将に、なつかしげに語りかけ、総大将も分け隔てなく、気心知れた女と思ってこれに応じる。

「 ――― ふうん、面白いもの見ちゃった。案外あんた、父親向いてるのかもね」
「からかうない、雪女。ワシとて父親なんぞやるのは初めてなんじゃ。何でもかんでも手探りよ」
「多分いいんじゃない、アレで。きっとこたえたでしょ。よかったわね、覚醒の知らせの前に父親面できて」
「ん?なんじゃ、覚醒とは」
「あんたの息子。沼でリクオを助けるために、沼一つ燃やし尽くしたそうよ。鬼火の発火能力を借りて、自分の妖気に燃え移らせたんだって。すごいわよ、周囲の草一本、枯葉ひとつ燃えちゃいないのに、沼はすっかり干上がってる。小物どもの話だと、リクオが沼に引きずり込まれたのを助けようとして、やったんだってさ。立派な二代目になりそうね」
「………それは、つまり?」
「妖力発現、オメデトウってこと。見事な妖気の使い手だわね」
「赤飯じゃーーーッッ!!!」
「落ち着け、クソ親父」

 踊りだしかねない総大将の親馬鹿ぶりを、雪女の氷塊の一撃が静めた。いや沈めた。
 和子さまやリクオの危機の知らせに、真っ先に飛び出したのがこの雪女だった。続いたのがカラス天狗で、二人とも沼地についたときには、沼は干上がり、ちろちろと紫の炎が沼のあちこちで残り火となっており、リクオは岸に引っ張り上げられ、気を失っていた。

 珱姫の姿が濡れ縁の角の向こうに消えて、しばらくしてから、雪女は続ける。

「意味わかって言ってる?もうちょっとで、沼ごとリクオを焼き殺すところよ。手加減一切なし。まあ、子供の上に初めてだもの、仕方ないんでしょうけど」
「うん……?じゃが、あやつ、火傷なんぞしておったかのう?」

 後ろ頭をさすりながら起き上がった総大将、はて、と頭をひねられる。
 見た限り、リクオは全身濡れ鼠であったが、火傷など一つも負ってはいなかった。

「沼から助け出したとき、リクオの全身を、霜が覆って守っていたのよ」
「ほう……雪女の守護が働いたか。お主、いつの間に唾つけた」
「馬鹿!わたしじゃないわよ!失礼にもほどがある!それは、《わたしたち》への侮辱よ!」
「こりゃ失敬。いやマジですまん、雪麗。……ということは、今の今まで見つからんから、最初のあたりが外れて、雪女ではなかったのか、と思っておったのじゃが……」
「それこそがハズレで、やっぱりあいつの好い女ってのは、雪女なんだと思うわよ。全身守護でかためられてるなんて、夫婦か、恋人か、母子か、そういう関係じゃないとありえないし」
「じゃが、それではお主がリクオの相手を探せなんだのは、おかしいではないか。里にも、出払ってる者にも、声をかけてみたんじゃろう?」
「うん。男については嘘つけない妖怪だからねー、わたしたち。そんな奴知らないなんて嘘、口が裂けてもいえないもん」
「ということは、お前が知らぬ雪女の里が他にあるとか」
「うーん……考えにくい。人と交わって、その娘が雪女の力に目覚めたとしても、やっぱり里の知るところにはなるし」
「ふむ」
「どうすんの、これから」
「まー、何とかなるじゃろう」
「まったく、暢気なんだから」
「そのうち、リクオがひょっこり思い出して、ここに来たときと同じように、唐突に帰ると言い出すかもしれんじゃろうが」
「まーね。……そうなったらそうなったで、大変そうだわ。あんたの息子、すっかりお気に入りじゃない」
「う、むぅ……」
「やーい、困ってやんの。……ともかく、今日は名前も知らない雪女に助けられたわね。今後もそうなるとは限らないんだから、妖力の加減、教えてあげるようにしたら?」
「そうじゃのう、そうしよう。にしても、そうか、最近は、あやつの好い女は雪女ではないのだろうとばかり思っておったからのう、そろそろ縁談の世話でもしてやらねばと思っておったが」
「無駄よ。きっと、縁談の話なんてしたら昼の姿で泣きだすわよ。あんた、また珱姫に怒られたいの」
「勘弁じゃ。しかし ――― 雪麗、もう一度、頼まれてくれんか。リクオの女のあて、やはり雪女であったと。過去に既に《消えた》者でもよい、そういう話はなかったか、調べてやってくれ」
「 ――― うん、わかった。それは最悪の結末だから、見つからないことを願ってて」
「ほう、優しいのう」
「だから。あんた、あいつに昼の姿でしくしく泣かれたいの?しかも、そんな事になってたら、本気で泣かれるのよ。そのまま夜の姿になっても泣いてたら、あんた、どうすんの?」
「見つからないことを願おう」


+++


 目が合った瞬間、ああ、探していたのはお前だ、と、すとんと腑に落ちた。
 長い黒髪は絹糸のようで、金色の瞳は月光のようで、白い肌は冷たくて柔らかでなめらかで、微笑みをかたどる唇は桜色にぽっと咲いていて。

 ああ、お前、そんなところに沈んでいたのか、可哀相に。
 すぐにそこへ行くよ、共に眠ろう。
 よかった、お前の姿を思い出せて。

 そこが沼の底だとか、誰を沼の外へ置いてきたとか、そんな未練は一切なく、また己の体を抱いた女が本当に嬉しそうに笑ってくれたので、これでよかったのだと、安堵して目を閉じた。はずだった。




 それが、目をぱちりと開けると、心配そうな顔がいくつものぞきこんでいる。
 和子さま、珱姫さまはもちろん、カナや二郎、そして苔姫までもが、真珠をぽろぽろと零しながら己を見守っていた。

「和子さま……ご無事だったんですね……よかった」
「おれは大丈夫だ。リクオこそ、具合はどうだ、どこか苦しいところや痛いところはあるか。あれば、母さまに治していただこう。たちどころに飛んでいくぞ」
「いいえ、どこも。ただ何だか……少し、いい夢を見ていたようで」
「リクオも、おっかさんが出てきたのかい?」

 二郎が訊くので、これにはただ笑って。

「 ――― 一輪挿しにすっくと立った、百合のような、イイ女でした」
「ふうん?リクオのおっかさんは綺麗な人だったんだなあ」

 二郎にはわからなかったが、カナと苔姫は、同じ男にほのかに想いを寄せる者同士、顔を見合わせてしまった。
 いつもなら、苔姫あたりが「なんじゃそんな女など、妾が側におるときに別の女など思いだすでないわ」と、リクオを気遣うあまり逆に悋気を見せたりなどして笑いを誘い、さらにはカナが上手に話を逸らすのだが、今日は寝起きのリクオが、泣くのを堪えているような、無理をしているような顔で笑い、片手で目元を覆っているので、何も言えない。
 ここで珱姫が気遣い、

「だんな様の言いつけもあるので、私たちはこれで失礼しましょう。鯉伴、あとはよくたのみましたよ。しっかりとリクオの看病をなさい」

 何気なく装って、客人たちや小物たちを促し、部屋を辞した。

 二人きりになったが、リクオがそれでも気を緩めないのを、和子さまは何だか寂しくお感じになる。さきほどから、リクオの気持ちが痛いほど伝わってくるのに、泣いてしまいたい様子なのが、よくわかるのに、リクオは目元を手で覆ったままでいて、まったくそうする気配が無い。

「……リクオ」

 おそるおそる呼びかけるが、返事は無い。
 和子さまを決しておろそかにすることは無い守役だ、決して聞こえなかったわけでもなく、無論、聞こえなかった振りをしているのでもなく、聞こえているのに、返事ができないでいるのであろう、痛ましいことだと、和子さまは我がことのように胸を痛める。
 今は己の浅はかを詫びるより、リクオのこの様子をどうにかする方が、先決であると思われ、そしてまた、これはまったく正しいことであった。

「……二人しかいねえぞ。おれ、黙ってるから、泣いちまえ」
「……泣きませんよ」

 声はかすれている。寝起きのせいではない様子だった。なのに、口元には優しげな笑みをたたえていて、和子さまはさらに胸が痛くなり、腹も立った。総大将の前で嘘泣きならば何度もしてみせて、後でけろっとしているのに、どうして、こういう時には涙を見せないのか。
 そうしてやらなければならない、と思われて、まだ濡れている、栗色の髪の毛を、よしよしと、撫でてやった。

 すると、ようやく、リクオはぽつり、ぽつりと、語りだしたのである。

「……あの世でも、いいかと思ってしまったんです。情けないですねえ」
「……うん」
「……この世に咲いていないなら、あの世に咲いているんなら、あっちでいいや、って。はは、総大将に笑われるのも仕方ないや。ただの水溜りなのに、それでもいいや、なんて思ってしまうんだから」
「違うぞ、リクオ。それは何だか違う。リクオにとっては、ただの水溜りなんかじゃなかった。こわくて、でも、それだけじゃなかったんだ。だろ?」
「今でも、違うと思ってます。きっと皆には笑われるんでしょうけど、あの沼の呪縛から逃れて、あれがやっぱり幻で、あいつなんかじゃなくて、ただ沼の奴等が人柱をおびき寄せるために用意した餌なんだってわかった今でも、それでも、あのまんま、沼の底に沈んでたら、どんなによかったろうって、そう思ってしまうんです」
「……うん」
「だから和子さま……すみません」
「……うん」
「助けてもらったのに、礼も言えず、本当に、すみません」
「……ううん、助けてもらったのは、おれだ。だから、いいんだ。いいんだ」

 それでも、すみません、すみません、と言い続けるリクオの髪を、和子さまは、ずっと撫でてやった。リクオが眠りにつくまで、撫でてやった。
 幼い和子さまだから、なんだか胸の内にわきおこった、ほんわかした気持ちを、「弟を寝かしつけてやるって、こんな感じなのかな」などとしか、感ずることはできなかったのだが、少なくとも、リクオとの縁を他人との間に結ばれたものとは思えず、だからこの屋敷に迷い込んで以来住み着いているというこの守役を、何があっても守ってやろうと、いとけないながら心に決められたのである。
 もちろん、常日頃から守られているのは己の方であることを、忘れたわけではない。ないが、それとこれとはまた別の話だ。人は一人きりで泣くことはできても、一人きりで笑うことはできないのだから。どんなに強い者でも、弱い者にそっと微笑まれるだけで、心守られるようなことがあるのだから。

「ごめんな、リクオ、無理をさせちまった。……安心しろよ、これからは、お前が元の場所に戻るまで、ちゃあんとおれが、面倒みてやる」

 実際には面倒を見られている分際だが、眠ってしまったリクオは、どこか安堵したように、すうと柔らかな息を吐いたのだった。


<夢、十夜/第三夜・了...四夜へ続く>











...夢、三夜...
なあ、お前はどこから迷い込んだんだろうなあ? 幼いおれが言うのもおかしいかもしれないが、大丈夫だ、お前はこれから、おれがきっちり守ってやる。