あるところに、涙が真珠になる姫君があった。
 おぎゃあと産まれたときに流した涙がもう真珠であったので、姫君を産み落とした母君のほとにまで、小さな真珠がぽろぽろとくっついていたほどだ。

 姫君は、真珠姫と、名づけられた。

 この真珠がたいそう良い品で、都の商人が喜んで買っていくので、真珠姫の父君も母君は喜び、家はおおいに栄えた。
 赤子は泣くとその声がうるさいからと、夜でも乳母が家の外に出てあやすものだが、真珠姫が泣くとこの涙を路傍に捨てては勿体ないから、昼のように部屋を明るくしてあやすなどして、それはそれは大事に育てられた。

 やがて、真珠姫は愛くるしい童女となって、お育てした乳母を安堵させたが、これを喜ばぬ者があった。
 他ならぬ、真珠姫の父君と母君である。
 姫君が長ずるにつれ、赤子の頃ほどには泣かなくなってくると、涙を零すのも少なくなってくるので、これに憤り、真珠姫を打つようになった。さらには逃げられぬように、屋敷の中でも北東に位置する、薄暗く湿った座敷牢に閉じ込めて、ほんの小さな隙間から食べ物などを与えさせ、鍵を開けるのは座敷に散らばった真珠を集めるときのみとなった。

 部屋はじめじめとしていて、畳はめくれあがり、壁は半ば崩れ、畳がはがれた床には苔が生しているような寂れたところであったので、家の者は次第に真珠姫の名を忘れ、父君や母君さえも、苔姫、と呼ぶようになった。

 部屋が寒ければ寒いほど、腹がすいてひもじければひもじいほど、苔姫は泣いて真珠を生み出すので、冬にすら単衣で過ごし、食べ物も僅かしか与えられない。
 しかし、真珠姫を可愛がってくれた乳母と、兄弟のようにして育った乳母子の少年は、姫君を心配して毎日部屋の外まで様子を見に来ては、己等の食べる物を少なくしてでも分け与え、冬には綿入れを差し入れたりなどする。

 いっそ死んでしまえたらと、父君や母君の思惑通りにはらはらと涙を流しつつ、幼い身の上では己で己の命を絶つ手段すら判じかね、こういった人の情けにしかすがるしか無い姫君は、浮世の無常を感じつつ、これも前世からの宿縁であろうかと嘆いて日々を過ごす他はなかった。

 赤子の頃から苔姫のお世話をしていた乳母は、しかし苔姫に泣き止むように申し上げたり、過分な情けをかけることは禁じられていたので、人目がある屋敷では、せいぜいが身の回りの細々としたことを尽くすくらいしか、心の砕きようが無い。
 牢の鍵は、母君と父君が、寝所ですら肌身離さずにいるので、手の出しようも無かった。

 ある日のこと、母君がいつものように苔姫の座敷へ真珠を集めに来たが、姫は寒いのにもひもじいのにもいい加減慣れてしまっていたので、日に日に真珠の数が減っていくものだから、いよいよ母君は怒って、姫を打ちのめした。
 何度も何度も打たれて、打たれた肌の痛みよりも、血の繋がった情けなど感じられぬかような仕打ちに、小さな胸の方こそを痛めて、たまらなくなって苔姫は、大粒の涙を流す。
 前世で己はいかような悪事をはたらいたのか、はたしてこれはどんな宿縁であろうかと思わざるをえず、父や母も、己さえ生まれてこなければ、こんな残酷な仕打ちを考えず、それなりの暮らしを続けられたろうに、現世で業を負うこともなかったろうにとまで考えが及ぶと、なかなか泣きやめずに多くの真珠を生んだ。

 喜んで真珠をかき集める母君のところへ、下女が客人の来訪を告げに来た。
 この客人が、天下に時めく豊臣の使者だというので、あわてた母君はついうっかり、姫君の牢の鍵を閉めるのを忘れてしまった。

 またとない機会に、姫は外へ出た。逃げてどうするという先のことなど、教えてくれる者もなく、しかしこのままここへは居られない。
 陽も差さぬ部屋に押し込められ、ろくに外を歩いたこともない姫の体はなよやかに過ぎ、ほんの少し歩いただけで息が上がってしまったが、廊下を少し行くと、ぐいと姫の手を引くものがあった。
 乳母の息子であった。
 少年に成長した乳母子は、苔姫を背負って屋敷を逃れたが、丸一日と経たぬうち、豊臣の兵士に見つかり、その場で首を斬られた。
 泣きながら苔姫は屋敷に連れ戻され、また、連れ戻された屋敷では、乳母も既に息子の罪を咎められて亡き者となっていた。

 ところで、屋敷に訪れた豊臣の使者とは、何と苔姫を豊臣の殿様の側室にせんとするものだった。
 千両を支度金として用意された父君と母君は、乳母と乳母子を殺されて、めそめそと泣き続ける苔姫の前で、「これこのように、いとけない姫です、嫁になどまだ可哀相で……しかも、たった千両などで」などと、わざとらしく娘を想って袖を濡らす振りをして、泣けば泣くほど金子を生む苔姫を手放すのをしぶった。

 これが、命取りであった。
 何と、使者は妖怪であったのだ。

 いつまでも渋ってばかの父君と母君に業を煮やした妖怪は、苔姫の目の前で、この二人をぱくりと食べてしまった。

 苔姫は大変に驚いた。
 この妖怪たちが苔姫をそのまま大阪城へ連れ去った後も、きっと父や母のように己も食べられてしまうのだと思い、おそろしくなって泣いた。
 だが、おそろしいとは思っても、乳母と乳母子を殺されて哀しいとは思っても、父や母を食われて哀しいとは思わなかった。思えなかった。これにも苦しくなって、また泣いた。やがて、招かれた大阪城の大広間で、妖怪たちの大乱闘が起こり、必死に屏風の陰に隠れて、すすり泣いた。

 泣いて、泣いて、泣いているうちに、いつしか辺りはしんとして、目の前にぬっと現れ、首を傾げていたのは、髷を結った恰幅の良いお大尽、のようであった。只人でないとはすぐにわかった。なにせ一つしか目がなかったから。
 このお大尽、苔姫を見て、腕を組み首をかしげ、

「そなた、人間じゃな」

 と、問うた。

 こくり、と、苔姫がようやく頷くと、

「では、ホレ、お主を喰らおうとしておった妖怪はもうおらん。今のうち、己の屋敷にでも逃げるんじゃな。ワシ等は生き胆なんぞに興味は無い、追いはせぬよ」

 媚もなかったが、脅しもない、ただ怯えた娘が一人紛れ込んでいたから、親切にしてやっただけ、という気負いのなさで告げてくる。
 逃げろと言われても、どこへ逃げたらよいものかわからない。
 行くあてなどなく、もう身寄りも無い。

 ふるふると屏風の陰に隠れて震え、やはり声もなく泣き続けていると、辟易としたらしく、この大柄な男は露骨に嫌そうな顔をして、

「めそめそと泣くな。言いたいことがあるなら、言ったらどうじゃ」

 こう、苔姫を責めた。
 苔姫は、これまで言いたかったことを聞いてくれる相手などなく、ただ、泣け、と言われてきたばかりであったから、何をどう話せばよいのかわからなかったが、必死に、行くあてなどないこと、ここに連れてこられるときに父も母も、乳母も兄弟のように育った乳母子も失ったこと、また、仮に父や母の親戚にあたるものが生きていたとしても、己が帰ってはまた業を深くさせてしまうだろうと考えると、果たして生き残ったことが良いことであるのかどうかもわからないことなどを物語った。

 男は、苔姫が語る間、じっとこれを聞いていた。話せ、と言ったのは確かにこの男だが、最後まで聞いてくれるとは思っていなかったし、一度吐き出すだけ吐き出してしまうと、苔姫の方も何だかおちついて、そうだ、生き残ったのだから何とかなる、これまでは座敷の中に閉じ込められてもいたが、これからは己の身で、どうにか生きてもいけよう、という望みがわいてきた。
 すると、あれほど溢れて止まらなかった涙がおさまって、立ち上がって、歩いてみようという気になったので、男が言う通り、ここを去って、どこぞへでも行こうと言う気になった。

 閉じ込められてはいても姫君として育てられた身、城を出た瞬間に追剥にあい、殺されてしまうかもしれないと考えない苔姫ではない。
 しかしここで得た命については、素直に男に感謝を感じ、礼を言って立ち上がると、やはり、萎えた小さな足では震える体を上手くささえられず、よろけて、思いがけず男が差し出した腕に、すとんとおさまってしまった。

「 ――― 歩けぬのか」
「物心ついたときより、座敷牢に閉じ込められておりましたので、あまり、上手くは。でも、大丈夫、妾は一人で歩きますから」
「そんな小さな体で『大丈夫』とは、なんとも頼りないことよのう。お主、名は」
「皆には、苔姫と呼ばれておりました。真名であるかは存じませぬ」
「ほう、良い名じゃ。苔は万年、森を覆う。縁起の良い名じゃな」
「そのように言われたのは、初めてです。嬉しい」

 ふうわり、と、苔姫は、物心ついてから、初めて笑った。
 憶えている限り、泣かされてばかりであったので、己でこのように笑えることも嬉しかった。
 すると、男は何か面食らったような顔をして、しきりに、一つしか無い目をぱちぱちとして、そのまま、苔姫を抱えていた手が、何かに導かれるように、なでなでと苔姫の頭を撫でた。
 そこで苔姫、ようやく気づいた。この男は、己の涙が真珠に変わっても、顔色一つ変えず、真珠になど見向きもしない。むしろ、苔姫の着物の襟元に落ちて首筋をくすぐっていた小さな粒を、邪魔であろうと考えてか、優しく払ってくれるのだった。

「お主、ワシと来るか。ワシは、一ツ目入道。この通り、妖怪じゃが」

 人と妖が愛し合い、夫婦となるも縁ならば、父娘となるも縁であろう。
 まるで此の世は夢物語。

 幼い日々の、胸が張り裂けるような憂き目もまた夢ならば、日々を重ねる毎に衰えるどころかますます深まる義父の愛情に、応じて深まる感謝の念を抱き、真珠を零すこともなくなった、今日もまた夢の一瞬であろう。
 とかく浮世はうつろいゆくもの、夢とは言っても己に都合の良いことばかりが起こるのでもなければ、己の都合で曲げられはせぬ。

 だからこそ今、万感の想いを込めて苔姫は言う。

 奴良屋敷のしだれ桜の若木が、はらりはらりと落ちる桜の花弁を落とす様。

「 ――― まこと、夢のような、浄土のような趣深さじゃのう」










 京の都のとあるところに、病や怪我をたちどころに癒す神通力を持った、美しい姫君があった。

 姫の命と引き換えに、母君は息を引き取られた。
 たいそう父君はお嘆きになり、お優しい奥方の突然の不幸に家人も同様に悲しんだので、産まれたばかりの赤子であった姫は、産湯をつかい産着に包まれた後、ほんの一時だが忘れられてしまった。
 心もとなさに、えんえんと泣き出した赤子を慰める乳母すら、側を離れていたので、ひとがようやく気づいて赤子のもとへ訪れると、御簾の向こうで既にこの赤子を宥める者がある。
 屋敷で見かけぬ姿形であったが、不思議と嫌な気持ちはせず、むしろこの清々しく聖なる気配は何ぞと、この者がそうっとうかがって見れば、白い衣に身を包んだ一人の若い尼僧が、赤子を胸に抱いてあやしているのだった。

 尼僧が、姫の小さな紅葉の掌に、己が握っていた水晶の数珠の一粒を握らせてやると、すうっと赤子の掌に吸い込まれるように消えてしまい、様子を見ていた家人が目をしばたたかせているうちに、尼僧は姿を消し、赤子は泣き止んで小さな布団で笑っているのである。
 いかな神仏が、母を早くに失くした姫を哀れんだものであろうと有難がって、家人がおそるおそる御簾をくぐり姫の側へいざりよると、姫の手が、ふと、家人がこさえていた手のあかぎれに触れた。
 するとどうであろう、傷はたちどころに消えてしまった。

 また、尼僧の姿をした神仏が通った道であったのだろうか、屋敷から吉野に向けて一直線に春風が舞い、いっせいに桜の花が咲いて、京の都が一瞬にして春を迎えた。

 姫君は、珱姫と、名づけられた。

 珱姫は大切に育まれ、美しく清らかに育った。
 しかし、妻を失った父君の嘆きは深く、ろくに出仕もできぬ有様であったので、家は次第に没落し貧しくなって、珱姫が物心つき始めた頃には家人も離れてしまった。
 それでも父は母を想って、袖を濡らすばかり。

 困った珱姫は屋敷の外に出て、己の通力で、人の傷や病を癒すかわりに、その日食べるものや身の回りのものなどを得ることにした。
 優しく美しい珱姫の頼みであれば、それだけで人々は何でも差し上げようと考えるほどこの姫を好いていたので、さらに不思議な通力で痛みや病を癒してくれるとあっては、かえってありがたがって手を合わせる有様である。
 珱姫はしかし、己が授かった力を得意にひけらかしはせず、決して偉ぶらず、たとえかわりに差し上げるものを持たない貧しいものであっても、病人や怪我人があれば進んで癒しに赴いたので、次第に、珱姫を慕う人々で屋敷は賑わい、やがては噂を聞きつけて、遠くからも人がやってくるようになった。

 中には多くの金子を納めようとする者まで現れて、これには困った珱姫、その日食べるものと身の回りのものを揃えて尚も余分となる金子は、すっかり貧しい人々に分け与えてしまう。
 無垢で無欲な神の手の持ち主の噂は、京の都のみならず、日ノ本の遠くの国々にまで及び、遥か奥州からは噂を聞きつけ、龍の使者を名乗る者までがやってきて、病を癒したい者があると言うほどである。京からは出られないが、近くまでなら…と、使者に導かれ屋敷の外の旅籠へ赴き、そこで重い病に伏せる男を癒した。
 それまで病の男の側で黙したまま、決して身分を明かそうとしなかった隻眼の男は、病の男が癒えると珱姫に褒美として多くの金子を与えようとしたが、珱姫がそのような金子は使いどころがないので困りますと微笑んで失礼にならぬようにお断りすると、かえって珱姫の心根の美しさと、これを鏡のように映した姿形の美しさにもすっかり感服し、使う物であれば困らぬだろうからと、舶来品を含めてあれこれとした高価な品々を、屋敷に運ばせるほどであった。外の世界に疎い珱姫は知らぬことであったが、病の男は奥州の重臣であり、隻眼の男は、これの主君であったのだ。

 品々は屋敷をきらびやかにし、こうなってみてようやく、父君は周囲が騒がしいようだと我に返ったが、必ずしも父君が我を取り戻したのは珱姫にとって喜ばしいことではなかった。
 長らく珱姫を家人に預け、また物心ついてからも珱姫に妻の面影を見出しては疎んじ遠ざけていた父君は、珱姫が余分な金子を貧しい者に分け与えることを禁じ、さらに多くの金子を得ることばかりに執着したのである。
 父君は、屋敷の門をかたく閉ざし、貧しい者の出入りも禁じてしまった。

 父君が我を取り戻されたのを、最初は喜んだ珱姫だが、己を慕ってよくしてくれていた人々が遠ざけられ、新しく雇われた家人や近時が身の回りを取り囲むようになると、己が母君の命を奪って生まれてきてしまったがために、父君の心に深く暗い洞ができてしまったのだろう、今はこの洞の中に妖怪が棲みついて、優しい父君をそうでないものにしてしまったのだろうと思われるようになる。
 かと言って、父君を見捨てることもできず、閉ざされた門を押し開いて外へ行く力も持たず、閉じ込められた深窓の姫君として、いつか父君が過ちを悔い改めてくださることだけを信じて過ごすうち、これもまた前世より続く宿縁なのであろう、最近聞くようになった、妖怪が生き胆を求めて都を徘徊しているというのも悪夢のような話である、浮世とはかくも無常な夢ばかりが続くものであろうかと、深い嘆きにとらわれるようになった。

 此の世は暗く、嘆きに満ちている。
 どんなに栄華を極めた屋敷とて、外に満ちた痛みや苦しみを癒せずにいるのなら、己の力は何のために授かったものであろうか。
 せめて頼ってくれる人々を、癒し支えていけるなら、笑いかけてくれる人々の分だけ、辛い浮世も少しは良い夢にもなろうに、身の回りを囲むのが、珱姫の力に平伏し金子を納める者、金子のみを頼みとしてかき集める父君、これに雇われて屋敷を護る侍や陰陽師だけに限られてくると、誰とも心を通わせられずに、珱姫は、見る人のない花のように、咲きながら枯れていく心もちがするのであった。

 そんなある日のこと、珱姫はひょんなことから、とある妖怪に見初められた。

 お主が欲しい、といったその言葉、唐突過ぎたあまりに珱姫は、これも生き胆を狙ってのことかと怯んだが、違った。組み敷かれたときには、人の男の夜這いすらこれまでなかった身なので、いよいよ喰われるのかと思い、護身刀をふるったが、これもどうやら違った。

 珱姫が一筋縄ではいかぬとわかったらしく、ならば諦めるかと思っていたら、何が楽しいのか、妖怪は毎日通ってくるようになった。

「ワシはぬらりひょんと言う。どういう妖怪かって?んー、そうじゃなぁ、水面に映った月が化けて出たと思えばいいじゃろうか。妖怪じゃが、ちょいとお主の噂を聞いてな、京で一番美しい姫とはどれほどかと、見物に来たのよ。うむ、もともとは東方の出でのう……」

 などと、外の世界を知らぬ珱姫に、あれこれと面白い物語をしながら、にかりと少年のように笑うのは、金色の長い髪が妖気に吹き上がった着流し姿の、異相かつ妖艶な男。

 外を徘徊する妖怪は、等しく残酷で、人と見れば生き胆を喰らう者たちばかりだと聞いていたし、これを疑ったこともなかったが、この妖怪はまったく違った。妖怪同士の戦いの傷を、己に癒させようと考えたのかと疑ったが、これも違った。
 この妖怪ときたら、ふらりと屋敷を訪れ、珱姫と言葉を交わすと去っていく。
 屋敷の守護をかためる陰陽師たちすら気づかぬらしく、また、珱姫も、不思議とこの妖怪のことを誰かに打ち明けたいという気はせず、むしろ日を追う毎に、もっとお話を聞きたい、今宵は来て下さるだろうかなどと、焦がれるようになった。
 焦がれる想いを強くすると同時に、しかし相手は人ではないもの、父君の心を迷わせている暗い闇と同じものであるのだから惹かれてはならないと、己を戒めもする。戒めれば、しかし逆に焦がれる想いは強くなる一方だった。

 ある日、この妖怪に連れられて、珱姫は屋敷の外へ出た。
 連れられていった先は、この金色の毛並みの妖怪を主とする、妖怪一派の仮宿であった。
 珱姫が描いていた妖怪たちとはまるで違い、彼等は夜通し祭りでもしているような宴会好きで、おどろおどろしく誰かを恨んだり妬んだりしている様子はまるで無い。煩悩を悪いものと律する様子も無ければ、逆に煩悩を封じようともしないせいか、皆好き勝手に、浮世という夢を楽しんでいるらしい。

 ここで、珱姫は、ぬらりひょんから告げられたのだ。

「珱姫、ワシと夫婦になろう」

 そうだ、そうなればよいのだと、珱姫の心に、即座に答えが沸き起こったので、これに頷きたがる己を律するのは大変だった。

 父がある。屋敷がある。己を慕ってくれる人々がある。
 いけない、いけない。

 翌朝には屋敷へ返すという約束通り、妖怪は珱姫を早朝に屋敷へと送ったが、この途中、妖怪に抱きかかえられながら、ふと珱姫は、様変わりしてしまった父の心について、こう尋ねたのだった。

「 ――― 妖様、ご存知であれば教えていただきたいのですが、人の心に棲みついて、心根を変えてしまう妖怪などは、あるのでしょうか」
「んー?人の皮をかぶってなりすます奴は、おるがのう。人の心が変わるのは、そいつの業じゃろう。悪しきことを嫌うがゆえに、人は悪しきを逆に媚薬のように甘美に想って、すすんで囚われることがある。ワシも色んな人間を見てきたが、戦国乱世はそういう輩もあれば、面白いぐらい真っ正直に義を通す輩もある。だから、浮世は面白い」

 ようやく、珱姫は知った。
 いや、以前から知っていたが、認めたくなかっただけなのだ。

 父は妖怪に憑かれているのではない、自ら金に囚われる道を選んだのだ。
 それでも、と言うより、ならば尚更、此の世にたった二人の血縁であるを思えば、今このときに父の元からは去りがたい珱姫、とっくに己の心は、この気持ちの良い、真っ直ぐな男に傾いているというのに、「一緒になろう」と重ねて言われてみても、哀しいばかりで諾とは言えない。

 しかし、どのような導きであろうか、この父が、その翌日に死んだ。
 豊臣の使者が、珱姫を豊臣の殿様の側室にと望んだどころ、支度金の上乗せを迫って、業を煮やした使者に、滅多打ちにされて殺されてしまったのだ。その殺され方が尋常ではなかった。
 使者もまた、妖怪であった。
 それも、珱姫が思い描いていた通りの、残酷で、姫の生き胆を狙う妖怪であったのだ。

 一夜のうちに大阪城へと連れ去られ、そこで珱姫は、多くの人々の生き胆を喰らって妖力を溜めていた、大妖怪・羽衣狐の餌食とならんとした。既に身寄りはなく、助けも望めぬ。せめて来世は今世のような、業を集める力の無いようにと、神仏に祈り、涙が真珠になる幼い姫を抱き寄せていたところへ ――― 神仏ではない、人でもない、救いの手があった。
 妖怪ぬらりひょんはその場で大立ち回りの末、己の生き胆を失いながらも、珱姫を守ってみせたのだ。

 珱姫をとらえる枷は、もう無かった。
 己の力が目当てではない、己の生き胆とやらが目当てでもない、「ただ、お主が側にいてくれたなら、ワシの周りは、きっと華やぐ」と、そう言ってくれる男が、この一生の間どころか、来世までをも探しても、再びあらわれるとは思えなかった。

 此の世は暗く、嘆きに満ちている。
 しかし、ぬらりひょんは言う。その中でも、面白いぐらい真っ正直に義を通す輩もある、だから浮世は面白いと。

 男が女に惹かれ、女が男に惹かれるは、まさしく合縁奇縁。
 人が妖に惹かれ、妖が人に惹かれるは、しかしいかな神仏とてよもやと思う愛縁奇縁。

 まるで此の世は夢物語。
 己の命が母の命を奪い、この罪滅ぼしに父が我に返るのを待ち続けた切ない日々もまた夢ならば、父と母の菩提を心の底で弔い続けながら、癒しの通力など持っていなかったとしても己を選んだと言ってくれる、いとしいひとの側にあり続けられる今日もまた、夢の一瞬に違いない。

 とかく浮世はうつろいゆくもの、ときには急な流れにくるくると、水面の落ち葉のように翻弄されて、己が心の行方すら定められぬときもある。

 だからこそ今、万感の想いを込めて珱姫は答える。

 奴良屋敷のしだれ桜の若木が、はらりはらりと落ちる桜の花弁を落とす様。

「本当に。浮世とは、地獄の様相を見せることもあれば、こんな浄土のような景色を見せてくれることもあるのですね」










 あるところに、人と妖の血を引いた若君があった。
 古くより続く一家の次代の長と期待されるのだが、一家とは人でなく妖怪のそれであり、産まれた若君の姿があまりに人に近く、またこれと言った妖力も見せないことから、若君と呼ばれてはいても、次代の長には望めないのではないかと、思う者もあった。なにせ、若君は四分の一しか、妖の血を引いていなかったから。
 ために、若君が妖怪へと化生できるのは、陽が隠れ陰の力が垂れ込めた夜であるか、あるいはいつもひんやりとしている祟り場と限られていたのだ。

 それでも、一家の皆が若君を大切に育てるので、若君の方でも皆を大切に想って、彼等を守るために、いつかは皆を率いる主になろうと幼心に決めていた。
 あるいは、己の身に流れるるもう一つの血、人の血が結ぶ縁もまた大事に想っており、彼等を守るためにも、弱い人どもを脅かして満足を得るような狭量の妖怪どもを抑えんとしたのだ。

 その身に流れる血、交じり合った二つの血のどちらも、いいや、二つの血が交じり合った姿こそが若君であったのだが、これを良く思わぬ輩があった。

 若君がそれまで育ってきた、闇が薄くなってきた世の中において、人どもに住処を奪われるしかなかった、妖怪たち。若君が、衰退しかけた一家を盛り返しているという噂を聞いて、今まで息を潜めて山奥に住まっていたのを、人どものいやしい鉄の臭いに追い立てられるようにして頼ってきた新参がこれを纏めたのだった。
 弱い者でも策を弄せば軍師たりうる。
 弱い彼等は考えた。
 人どもから、己等の場所を取り戻してくれる主となるには、若君の中に流れる、人の血が、人の魂が、人の身が、邪魔であると。主が人の味方をしたがるのは、その身に流れる、忌々しい人の血のためであるのだと。これさえ無くなればきっと、人どもに虐げられる妖たちを憂いて、人どもの傍若無人を戒めてくださるに違いないと。
 弱い彼等は策を弄した。
 妖が覗けばただの鏡、しかし人が覗けばたちまち魂を夢の中へ導かれ昏倒する妖具《夢見鏡》を、彼等が正式に若君の一家に下る証の納品物であるとして、さらにはあれこれと理由をつけて若君に持たせ、覗かせようとしたのである。

 弱い彼等は知らなかった。
 若君が強い主たりうるのは、昼の思慮深さと夜の溢れる妖力とを、併せて一つの身におさめているからこそであると。だから、彼等は若君が、この鏡を手にしたときに、少しためらったのを、ただ臆したからであろうとのみ考えた。
 さあさあ、と、さらに強いた彼等へ、若君は、まっすぐに琥珀の瞳を向け、心を尽くして微笑まれた。

「これを、覗けばいいんだね」

 それで、お前たちは納得するのだね、と。

 妖怪である彼等は、人である若君に微笑まれ、思わず、どきりとした。
 人どもが妖怪への畏れを忘れ去った世においては、逆に、人は人でないものに出くわすと、さも恐ろしげに逃げるばかりで、このように、受け入れられ心を砕かれることに、慣れていなかったのだ。
 畏れとは、恐怖だけで彩られるものではない。
 中には、山奥ではなく、人と触れ合いながら、こっそりと床下や天井裏で暮らしていたい妖怪もあるように、妖怪たちは人と何かしらの縁を紡ぎたがってもいるのだ。

 忘れかけていた人との縁を、若君の思いやりは、弱いものたちに等しく思い出させて、彼等の多くは目配せしあい、「あの、やはりこれは…」などと、一度差し出した鏡を己等の方へ引っ込めようとする。
 優しく微笑んでくださる若君の姿が、何故だか、とたんに惜しくなったのだ。

 しかし、そうでない者もあった。
 彼等を纏め上げた、新参の妖怪である。
 彼奴は、鏡を若君の御前から下げようとする妖怪たちの後ろから様子を見ていたが、他の妖怪たちが臆病風に吹かれたと見てとって、何をぼやぼやしていやがると鏡を鷲掴みにすると、さあこいつを見ろ、と、ふくさに包まれていた鏡をおもむろに取り出し、若君にむかってずいと押しつけたのだ。若君の側に控える近侍が、止める間もなかった。
 若君は目を閉じなかった。
 鏡よりも、むしろ鏡の向こうで、憤怒の形相で己を睨む新参妖怪を、見つめるために。

 住処を追われ、嘆きながら若君のもとを訪れたこの妖怪は、人を憎んでいた。憎しみの目が若君を映していた。この目には、若君のいつくしみが、つまり畏れが、届かなかった。いや、届いたかもしれない。鏡から己を守ろうともせず、じっと見つめてくる若君に、ほんの僅かだが、彼奴は目を伏せたのだから。

 しかし、ここまでだった。
 若君は途端に昏倒し、倒れ伏して、側近や近侍が慌てて駆け寄り抱き起こしても、ぴくりともせず、深い眠りに落ちていた。

 時間にして僅か数秒であったが、新参妖怪は、若君の双眸が忘れられずにいた。
 びっしりと汗をかいていた。

 その後、この一家や彼等がどうなったのか ――― 若君は知らない。



 若君は、己が若、と呼ばれていたことを、次第に忘れた。
 あれ、ここはどこであったかと、判じかねた。
 目を開けているはずだったが、目の前が白であるのか黒であるのかも忘れかけていて、いやいや、これは白だ、朝靄だと、判じた。朝靄は好きだった。紫雲を払った己が、小物妖怪たちを連れて外へ出ても、早朝であれば誰もいないから、好きに遊べる。
 ひっそりと封じられでもするかのように、屋敷の中ばかりで過ごさねばならない妖怪たちが不憫でならず、だから実を言うと、もっと人が妖を受け入れてくれたらなあと考えていた。それが、朝靄の中だと、朝早い散歩をする老婆や、日課の朝駆けをする男があったとしても、不思議と皆、夜ほど怖がらない。変なものを見た、と、小首をかしげはするのだが。

 だから、朝靄は好きだった。
 人と妖との境界線を、黄昏よりも優しく包むから。
 あんな憎しみにとらわれた妖も、優しい場所に身を置けば、きっと己がとらわれようとしていたものが、己が憎む人の業によく似たものであったと、思いだすであろうに。

 この朝靄に包まれていると、次第次第に、そんなことも忘れてしまった。
 全ての光景が遠くなり、けれど抱いた想いだけは胸に残る。

 人と妖とが認め合う、そんな場所があったらいい、と、探し求めて、上も下もわからないでいるうちに、いつしかどこだかを歩いていて、朝靄が妙に早く流れている場所があってこれに足を踏み入れようとすると、流れが速くて行けない。
 けれど、これが川ならば、そのうち橋がかかっている場所があるだろうと、この流れに沿って歩くことにした。

 この頃には、もうすっかり己が何者であるのかを忘れていて、ただ、こういう生き物で、そういう場所があればいい、ということだけはしっかと胸に抱いていたので、何とか手放さずに済んだ。
 そのうち、流れが穏やかな場所にたどり着き、その向こうから、どこか懐かしい気配がして、なんだかあったかでやさしげなので、あちらへ行きたいなあ、と、想った。すると、そこに橋がかかった。橋を渡ると、そこには立派な屋敷があって、勝手口があいていたので、腹も減っていることもあり、そこで何かしら失敬することにした。

 台所では小物妖怪たちが働いていて、入ってきた彼を見て、だあれと小首を傾げた。
 名乗るべき名があっただろうか、はて ――― と、彼もまた同じように小首を傾げたが、これはまもなく見つかった。
 胸に抱いた想いとは違う。誰かがいとしげに己を呼ぶ声が、耳によみがえったから。

 ――― リクオ様……

 だから彼はリクオと名乗り、名乗ってみると、うんたしかにこれは己の名であると確信した。

 辺りはもう、朝靄に包まれてはおらず、夢から醒めたような心もちでリクオはその場に立ち尽くしていたが、不思議とその場所は彼に優しく、彼が求めてやまなかった場所のような気がした。人と妖が手を取り合って夫婦となり、人と妖は互いを同じ浮世に生じた者同士と認め合う。
 知らぬ存ぜぬで、人が妖の住処を奪うようなこともない、ときには心を交し合う様はまさしく浄土のよう。










 とかく浮世はつねに浄土の様相、だからリクオは答えられない。

 奴良屋敷のしだれ桜の若木が、はらりはらりと落ちる桜の花弁を落とす様。

 苔姫と珱姫が何かしらの想いを込めて、これを見つめているのがわかるからこそ、浄土しか知らぬ己が答えてよいとは思えなかった。
 しかし、いまの此の世が浄土と思えばこそ、また巡ってしまった季節にため息も出ようというもの。
 この浄土には、リクオが求める六花だけが、足りないのだ。