三者三様、異なる想いを抱いたとしても、今年も見事な花をつけた庭の若木に見ほれ、趣深いことと感じるのは同じ。はらはらと落ちるしだれ桜は、奴良屋敷の妖怪たちが浮世絵町に腰を落ち着けたときからの朋輩だ。
 鯉伴さまが大きくなられた分だけ、桜の幹や枝も少したくましくなり、今年はいつになく多く花をつけたのを、珱姫さまはことの他にお喜びである。

 しかしこうした細かな心の機微を、まだよく理解できない鯉伴さまは、肩に木刀を担がれた稽古後のお姿のままで、団子をむしゃむしゃやりながら、三人が濡れ縁に座す庭先に顔をだされると、

「毎年毎年眺めたって、咲き方が変わるわけでもねぇだろうに。それよりよ、聞いたかい、璞町の怪異の話」

 三人が見つめるしだれ桜が、今年も見事な花をつけたより、声変わりもまだのくせして、せいぜい大人ぶった口調でもっと面白いことがあるのだと、こう切り出された。

「怪異、とな。昼日中から物騒な話を持ち出してくるのう。鯉伴、お主、やっとうもいいが、もう少しこうしたふうに花を愛で風情を楽しむ心の余裕をだな」
「まあまあ、あね姫様、小言は聞いてからにしろよ。黒髪に白い着物の女が現れる怪異だって言うんだからさ」
「何?」

 リクオが、己の探す女の姿を、ようやく思い出したのは、もう二年も前のこと。
 鯉伴さまが五つの頃である。

 最初は名前も思い出せず、ただただ、その女は確かにいるはずである、という感触のみが手がかりであったところへ、ひょんなことから姿を思い出したリクオは、それ以降、長い黒髪の艶やかな、白い着物のなよやかな女という話を聞くたびに耳をそばだてるように、あるいは町中でも、視界の端をちらと長い黒髪が過ぎると、足を止めて振り返るようになった。
 もちろん、今までのいかなる噂も通りすがりの女も、リクオの思い描く姿ではなく、ため息だけを重ねてきたのだが。

 今もリクオは、違うだろうとは思いつつ、やはり鯉伴さまの次の言葉を黙って待っている。
 最後の団子を串から食いちぎり、串を舐めながら鯉伴さまは、

「話を聞いたのはおれじゃねえんだ、実はカナがさっき、リクオが留守の間に顔をだしてな ――― お、噂をすればだ、聞いた本人がいる前の方がいいだろう」

 まさに今、ひょこりと屋敷のかげからこちらをのぞいたカナを見つけて手招かれた。

 すっかり綺麗な娘になったカナは、子供等がいない折に屋敷に頻繁に遊びにくるわけにもいかず、こうして一人で訪れるときは、どこか気後れしたような様子である。しかし苔姫の姿を認めると、ほっとしたように肩から力を抜いて微笑んだ。

「おくつろぎのところ失礼します、珱姫さま、苔姫さま」
「そんなに畏まらないでくださいな、カナさん。昔はこの庭先で、よく遊んでおいでだったではありませんか。いつでもまた、おいでになってください」

 お優しい珱姫さまが、母のように微笑まれるので、いつくしみ深さにカナはさらに恐縮したが、鯉伴さまに「例の話、するんだろう」とせっつかれ、そうであったと気を取り直し、すすめられて濡れ縁に腰掛ける。

「その女ってのは、璞町の飴屋のおっさんのところに現れるんだって?」
「うん。白い着物姿で、どう考えても生きている人間ではないような女の人が、七日に一度、夜更けに飴を買いにくるんだって。飴屋さんが、何度も次は昼に来てくれって言っても、必ず、子の刻頃に戸を叩いて、飴を売ってくださいませんか……って。最初は妙だなって思いながらも、戸を開けて飴を売ってあげていたらしいんだけど、何度も続くうちに不思議に思って、この女の人のあとをつけたらしいの。そうしたら、ある場所でこの人を見失って……」
「そのある場所ってのが、寺の墓場だったんだとさ」
「そう。それでもう、やっぱり此の世のひとではなかったんだって思って、飴屋さん、すっかり怖くなっちゃったらしいの。また次の七日後にも女の人がやってきたけど、戸を開ける気がしなくて、息を殺して、布団に包まっていたんですって。
 そうしたら、戸を叩く音が次第に大きく、強くなって。がたがたとゆすられて、すすり泣きが大きくなって、やがて怒声にかわって、『開けろ、ここを開けろ、飴を寄越せ、寄越さないか!』って。長屋なのに、そんな風に大きな声が響いても、戸をがたがた言わせられても、誰も起きてこないんだって。それにも怖くなって、布団の中でお念仏を唱えて、女の幽霊が去ってしまうのを、待っていたらしいの。そうこうするうちに、戸を叩く音も、怒鳴り声も、いつしか止んでいたんだけど、飴屋さん、そこで気づいたんだって。
 布団の中で、うつぶせに丸まっていたらしいんだけど、布団の隙間から見えるところに、白い着物を着た女の人が、きちんと正座しているんだって。ごくりと喉を鳴らして、そこから目を離せなくなっていると、この正座した女の人が、ゆっくり、前に体を倒してきて ――― のぞかれる!と思うとたまらなく怖くなって、そうなる前に布団から飛び出して、いつも女の人が買っていく水飴を、震える手でいくつもいくつも用意して、待たせてすまなかった、これをやるから帰ってくれ、すまなかった、すまなかった、って、土下座して何度も謝ったんだって。
 ふと気がつくと夜があけていて、用意した水飴の一つが無くなって、この側に、いつも女の人が置いていく、一文銭が置いてあった……と、いうことらしいの」
「それは確かに、気味の悪い話だね。飴を買うやつなんて、この屋敷に出入りする妖怪の皆さんに、いたかなあ……?」

 リクオが、出入りする貸元の親分衆の顔をあれこれ思い出すが、そんな妖には心当たりが無い。
 鬼女であれば、男はとっくに命を奪われているはずだし、怨霊の類であれば、男は衰気にあてられて死んでしまうか何かするだろうに、それも無い様子。

「まあ、それで飴屋のおっさん、すっかりビビっちまったんだと。七日に一度やってくる飴幽霊が、今度やってくるのはもう三日後だ。居留守を使えばまた怖い目に合うだろうし、かと言ってまた夜更けに飴を買いにやってくるのが墓場に消えた女だってわかっている以上、もう顔を合わせるのも恐ろしいしで、困った末、この浮世絵町には妖怪屋敷があって、そこに住む任侠一家がここ等をシマにしているから、人間にしても妖怪にしても下手な狼藉者は寄り付かなくて住みやすいって、浮世絵町の知り合いが言ってたのを思い出したんだって。
 んで、その知り合いがカナの親父に、カナの親父がカナと二郎に話して、どうにかおれ達に伝えられないだろうかって」
「……その、ごめんね、リクオくん。飴屋さん、本当に困ってるらしくて、お父、どうしても断れなかったらしいの。それで、リクオくんに話だけはしてみるって、私、約束しちゃったのよ。勝手な約束しちゃって、本当に、ごめんなさい」
「なんだ、そんな事、気にしないでよ。かえって、頼ってくれて嬉しい。力になれるかどうかわからないけど、その女の人のことは気になるし、話だけでも聞いてみよう。その飴屋さんというお人には、会えるのかな」
「今日の夕方、早めに商いを切り上げて、お父の仕事場に来るって言ってたって。でも、リクオくんにも色々都合があるだろうから、私も会えるかどうかわからないし、会えたとしたって、こんな頼み、無理強いはできないって言ってあるから……」
「わかった、今日、会おう。台所には一言断っておけば大丈夫だろうし、今日はもう使いの用事は無いし、今からでもお邪魔して、構わないかな」
「本当?よかった……」
「ただ一つ、勘違いしてほしくないのは、これはボクが勝手にすることで、このお屋敷とは何の関わりも無いことだからね。ボクはただの居候なんだから。そのおじさんにも、ボクは正直にそう言うつもりだよ。それでもいいかい」
「ありがとう、リクオくん。充分すぎるほどよ。本当に助かるわ」

 カナは、ほっと胸をなでおろした。今となっては、昼の姿のリクオとカナとでは、並んで歩けば姉と弟のようになってしまったが、カナが密やかに想う気持ちに変わりは無い。姉と弟と言うより、リクオの思慮深そうな瞳が己を見つめていると、守ってもらえているという不思議な安心感があって、姿形は小さくとも、兄のように頼ってしまいそうになる。
 その男が、屋敷の一家の者としてではなく、自身の判断で来てくれると言うのは、もちろん探す女のこともあろうが、己との縁もまた大切に想ってくれているからだろうと感じれば、嬉しくなるほどだった。

 しかしこれには鯉伴さまが、むっとした表情で、リクオの袖を、くいくいと引いた。

「リクオ、おれは関係ないってことはないぞ、おれも行く」

 鯉伴さまにしてみれば、自分が話を通したのだし、自分もまた、面白そうなにおいのするところへついて行こうと考えていたこともあったので、リクオからこうもぴしゃりと、この話は自分ひとりでと言われてしまったのが、面白くない。

「鯉伴さま、もしこれが、まだ奴良組と手を結んでいない、璞町の妖怪の仕業なら、鯉伴さまが出て行かれてはシマ荒らしと思われます。鯉伴さまは御年七つにして、もう若頭でいらっしゃるんですから、もしものことがあっては組の方々も黙ってはいないでしょうし、そうなれば組同士の抗争にだってなりかねません。
 その点、私は気楽なもんです。ただの居候ですからね。どこへ行っても誰の咎めも受けませんし、あちらの様子を探るのはもってこいでしょう」

 つい二三年前までなら、鯉伴さまも不承不承、これに頷くしかなかっただろうが、

「でもお前は、おれの守役だぞ。お前に何かあったら、若頭のおれが黙っちゃいねえ。おれの恩人に手をかけておいてただで済むとは思わせねえ。それこそ組同士の抗争にだってしてやらあ。
 一人だったら、そういう奴等とお前がいざこざ起こしたときに、それこそ抗争の火種になるような痛手を被ることだってあろうが、二人なら、火傷かぼやですむくらいの怪我をこさえて逃げ帰ってくるぐらいですむかもしれねえ。それにもしそうなったら、逃げ帰って来たなんて、おれは組の誰にも言いたくねえからな、きっと黙ってるぜ。
 ……なあリクオ、おれを連れていけ。おれはお前が黙ってどっかへ行ったら咎めるし、怒るし、寂しい」

 最近の鯉伴さまはしれっとした顔でリクオの理屈を受け流し、あれこれと言葉を尽くして己を認めさせようともすれば、時折甘えた声で篭絡しようとするからたちが悪い。

 しかし、と、やはり決めかねていると、思わぬところから声がかかった。
 珱姫さまである。

「連れて行ってくださいな、リクオさん。鯉伴の言うことも一理あります。怪異を探るおつもりなら、リクオさんが仰るとおり、まだご縁の無い妖怪の方々と出くわすこともあるでしょう。もしかしたら、お一人では手に負えないかも。リクオさんのような方が、よほどのことでは遅れを取らないとは思いますが、念のためです。二人なら、一人が助けを呼ぶのに戻ってくることもできるでしょう?小物妖怪さんたちなら、見目からして目立ちますが、鯉伴なら、連れ歩いても見かけは人の子にしか見えませんし」

 期待していなかったところから助けが入り、鯉伴さまはぱっと表情が明るくなるのを、無理して口元を引き締め、まじめな顔を作ってみせなければならなかった。


+++


 最初にこの女が現れたのは、もう一月以上も前のこと。
 冬が終わり、ようやく梅の香りが漂い始めた宵闇に、月すら酔ったようにうっすら弧を描いて傾いていた。

 男は飴売りの商いを終えるといつもするように、棚の奥から濁酒を取り出し、欠けた茶碗に注いで一杯やっていた。月を肴にするような、典雅な趣味とは無縁であったが、長屋のそばには花をつけるのが早い、若い梅の木があって、これが何とも良い香りをさせるので、戸を開け放っていた。
 夜の火鉢がまだ少し恋しい季節であったが、冬の間は締め切っていた戸を開け放つと、部屋の中に篭っていた陰の気配がさあっと洗われるように思えるし、畳の上を掃き清めるにしても都合が良い。

 まだ嫁を取っていない男は、帰ってもあたたかい飯をこさえて待っていてくれる者も無いので、それこそ嫁を取った後の暮らしのためにも夜は食うものを節約して、今日は商いの帰りに顔なじみの弁当屋からもらった佃煮と、同じ長屋に住む、お夏がくれた里芋の甘煮くらいである。
 それだって、食うものがあるだけ、ありがたいことだし、酒があって梅の香りがしてツマミがあって、そして江戸に戦の気配なしとなれば、太平の世万歳、徳川幕府万々歳というものだ。

 狭い長屋の土間に足を投げ出すようにして、脇の盆の上にこれ等を並べてちびちびしつつ、明日の商いの用意などをごそごそやって、終わった後はごろりと横になった。程よく酔いもまわり、月も高くなってきたので、戸を閉め布団を敷き潜り込んで、明かりを消した。

 とん、とん。

 戸を何かが掠めるような、僅かに震わせるだけの音がした。
 長屋の外には色々と、軒先に菜っ葉や根ものをぶら下げて干しているので、風が出てきて揺れたのが当たったのだろう、くらいにしか、ぼんやりした頭では思わなかった。しかし。

 とん、とん、とん。

 今度は、はっきりと。誰かが戸を叩いたのだ。夜は更けて、子の刻にさしかかろうという頃。
 子の刻は根の国。字面が違えと響きは同じ。響きに連なり思い描かれた不吉の兆しに、なんだか背筋がひやりとした男、こんな時間に幸先の良い知らせを持ってくる客もなかろうと、寝た振りを決め込むことにした。それでも。

 とん、とん、とん。もし、飴屋さん。お願いです、水飴を売ってくださいませんか。

 人の声。今にも泣き崩れてしまいそうな、女の声だった。
 いよいよ男はぞっとした。下帯の中できゅうっと、一物が縮こまるような想いで息を殺していると、またも。

 とん、とん、とん。もし、もし、飴屋さん。
 とん、とん、とん。もし、もし、お願いです。どうか、後生ですから。

 戸を叩く音は次第に大きくなる。女の声も、次第に涙めいてくる。

 もう聞こえない振りはできなかった。えいや、と布団をはいで起き上がり、一度は消した明かりを点けると、男はそっと、腕を一本ようやく通せるくらいの隙間ほど戸を開けて、向こうを覗いてみる。
 漏れる明かりからそっと隠れるように、じっとうつむいているのは、たしかに、女だった。
 女は、細い腕をぬっと隙間に差し込んできて、

「飴屋さん、開けてくださってありがとうございます。どうかこれで、買えるだけの水飴を売ってくださいな」

 だじろぐ男の手に、一文銭を押し込むのだった。
 薄気味悪いに違いはないが、しかし女がきっちり銭を出して、ちゃんと物を頼んでくるので、男は少し気を緩め、

「なんだい、こんな時間に。次に来るときは、ちゃあんと昼に来てくれよ」

 怖がった己のばつの悪さを厳つい表情で覆い隠しながらも、銭を受け取り売り物の水飴を渡してやった。女はしきりに、ありがとうございます、ありがとうございますと、礼を言いながら、帰っていった。
 まったく人騒がせな、と、この日はそれだけで終わった。

 女が二度目に来たのは、それからちょうど、七日目のことだ。
 一度目ほど男は驚かなかった。こんな夜更けに……とは思ったが、長い黒髪に素顔を隠して訪れる女に、よほどの事情があるのだろうと思いやって、一度目と同じように飴を売り分けてやった。

「子供が夜泣きでもするのかい、大変だねえ。ほら、持っていきな。次こそちゃんと、昼に来てくれよ。夜中に戸を叩かれちゃ、枯れ尾花どころか芍薬だって幽霊に見えらあ」

 夜にぼんやりと浮かび上がる白い寝巻きの上に、綺麗な打掛をかぶっているので、きっとそれなりの家の娘なのだろうと思って、二度目は終わった。

 三度目は、二度目の日から数えてさらに七日目だった。男は再び、薄気味の悪さを感じ始めた。

 四度目、やはり深夜だった。
 女の愛想も、無いままだ。
 男はもう、これ以上やきもきしているのも嫌になって、こっそりと、女の後をつけることにした。するすると滑るように女は行く。たしかに物陰に隠れながらだから、早く歩もうにも限度があるが、男がどんなに急いでも、女が角を曲がったと思ったからそろりとその角にひっついて頭だけ出して覗いてみたら、もうずいぶん先の角を、白い着物の袖がひるがえったのが見えたという具合に、男が思ったよりも早く先へ行っている。
 これを追っては曲がり、追っては曲がりして、まっすぐの道のところで時折、女の背に追いつきながら行き着いた先は、町のはずれのとある坂道。

 この坂道の前で、男は女を見失ってしまった。
 坂を上がったのだろうかと、提灯の明かりを頼りにこれを上ってみたなら、そこにあったのは、とある寺の門。その向こうにあったのは、ぬばたまの闇に沈む、卒塔婆の森。

 思わず息を呑んだ男が見つめる前で、卒塔婆の森の向こうを、すうう、と、人魂が横切った。

 男は震える足を叱咤して、来た道を転がるようにして駆け戻った。
 来たときには感じなかったが、戻り道は暗く遠く、提灯の炎もやけに小さく頼りなく感じ、走るのをやめれば今にも背後の濃い闇の塊から、戸口からするりと入ってきたあの白い手が、ぬうっと何本も出てきて体を絡め取られてしまうように思えてならず、息を荒げながらも、恐怖でうまく動かない足で、駆けて、駆けて、駆けて。
 ようやく長屋に帰り着き、頭から布団を被ると、朝が来るまで念仏を唱えながら過ごし、何事もなく夜が明けたとときには、冷や汗か脂汗かで、全身がびしょぬれであった。

 だから五度目の女の来訪には、何が何でも出てやるものかと思い、夜中でも明かりをつけたまま、お札を握って布団の中で震えていた。
 息を殺し、あたりの気配をうかがっていると、どこからか隙間風が、ひゅうっと吹いて。

 とん、とん、とん。もし、飴屋さん。

 ――― 来た……!

 とん、とん、とん。もし、飴屋さん。飴を売ってくださいな。

 男はそれでも、ガタガタ震えながら布団の中でじっとしていた。ナンマンダブ、ナンマンダブとやりながら、この夜さえ過ごせば女は去ってしまうに違いないと考えて。
 しかしその夜の長いこと、長いこと。

 とん、とん、とん。飴屋さん、お願いです、お願いです。

 女の声は次第に悲痛になっていく。涙が混ざる。お願いです。お願いですから。

 戸を叩いていた音が、次第に大きくなる。

 どん、どんどん、どんどんどんどんどん。
 ここを開けて。開けろ、開けないか!!!!!

 涙が混ざっていた声には次第に怒りもまた混じり始め、男は歯の根が合わずにガチガチいいながら、それでも、ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダブ。
 やがて、部屋の明かりが、すうっと消えて ――― 。
 だめだ、消えてはだめだ、と男がひやりとしたときには、真闇の部屋の中、女の気配を感じた。

 どんどんと戸を叩いていた音は止んでいる。女の声も無い。
 しかし、居る。
 衣擦れの音もさせず、たしかにそこに、座っている。
 男は布団の中で、外の様子を全く見ずにすむように、うつ伏せに丸まっていたのだが、体で浮き上がった分だけ脇には隙間があり、そこへ視線をちらと流すと、明かりが消えて真の闇になった部屋の中、ぼんやりと、白い着物が浮かび上がっている。
 ああ、覗かれる。覗かれてしまう。
 すだれのような黒髪の向こうの目、これを見てしまうとただではすまぬ気がして、ぷつりと我慢の糸が切れた。

 真闇の中、布団を蹴飛ばすと、手探りで売り物の飴を入れた籐かごの蓋をあけ、

「飴ならここだ、ここにある!待たせてすまなかった、すまなかった、許してくれ。持っていっていいから、どうか、どうか命だけはお助けを……!」

 ひんひんと情けなく泣きながら土下座して、涙声の合間にナンマンダブナンマンダブとやっていると、いつしか、夜は明けて、水飴は一銭分だけなくなっていたのだ。


+++


 ――― ここまで話し終え、飴屋は乾いた唇を、冷めた茶で潤した。
 カナの父の仕事場の二階を借りて、リクオと鯉伴さま、そしてカナが、飴屋の男の話を聞いていたが、一息に話し終えた男がふうと息をついても、しばらく誰も何も言わなかった。

 飴屋は、働き者で誠実を絵に描いたような男だった。
 嘘を言っているような様子はない。こんな話をしたところで、きっと嘘だと思われるだろうから、ここに来るまで、詳しいことは誰にもいえなかったのだと打ち明けたところを見れば、自分で自分の身に起こったことが、未だに信じられないでいる ――― むしろ自分の身に起こったとは信じたくないらしい。

 自分の前に姿を現したのが、噂通りの異相と水干袴姿の童子であったので、最初は髪や瞳の色にぎょっとしたものの、童形のリクオがにこりと一つ微笑んで、礼儀正しく名乗ってからは、逆に何だかほっとして、淀みなく、ここ一月以上悩まされている怪異について話すことができた。
 鯉伴さまが、全く人の子にしか見えないことも手伝って、ここは人の領域であると思えば安堵もできたし、リクオの異相を見て、しかしただのお人ではない様子、ならばこれを話しても狐憑きとは思われまいとも考えた。

 リクオは飴屋と向かい合い、きっちりと正座をして。
 鯉伴さまはその後ろで、柱にもたれかかり時折あくびをしながら足を投げ出して、これを聞いていた。

「その後、丈夫だけが取り得の手前が、高熱が出て、二日ばかり寝込みまして。寝てはいたものの、また七日後にあの女が飴を買いに来るかと思うとどうしたもんかと悩みは尽きねえしで、ほとほと困っちまったところで、浮世絵町から弁当を売りに来る知り合いから、妖怪屋敷があるって話を聞いていたのを思い出し、そこのお人なら、こういうことに何か心当たりがありなさるんじゃねえかって思いまして、熱が下がった日にさっそく、そいつに頼み込んで、こうして渡りをつけてもらった次第なんで」
「心当たりって言ったってよう、その話、ただ女が飴を買いに来るってだけだろう。薄気味悪くはあるが、銭を置いていくんなら、売ってやりゃあいいじゃねえか。七日に一度くらい、我慢してやれねえのか」
「坊ちゃん、無理を言わないでくださいよ。こんな薄気味悪い女が七日に一度もやってくるんじゃ、嫁の縁だってありゃしねえ。それに、いつまでもちゃんと銭を置いて飴を買いにくるかどうかなんて、誰にもわかったもんじゃねえ。もしかしたら銭が尽きたからって、次こそ脅されちまうかもしれねえんだ。そうなったら、あんな人じゃねえものから身を守る術なんざ、こっちには全くねえんですから」
「飴屋さんがご不安に思うのも、当然ですね。そうお考えになるのも仕方ないと、ボクも思います。しかしあいにく、ボクも飴を買いに来る妖怪の類にはとんと縁を持ちません。話の中では、寺の前でそのひとを見失ったということでしたが、そのお寺のお坊様などへ心当たりは尋ねていないのですか?」
「尋ねてみるにはみましたよ。それとなくね……例えば母親になったばかりの女が、最近葬られなかったか、とか……。しかし、そんな仏さんなんて、一年を通してみりゃあ、無いことは無い話だ。どこのどちらさんをお探しですかと訊かれりゃあ、いやなに、そういうしっかりした手がかりはないもんでって、逃げ帰ってくるしか無いですわ。怪異に悩まされてるなんて話になれば、長屋中に話も知られてしまうだろうし、幽霊が手をつけたかもしれんって、飴も売れなくなっちまうかもしれないし、できるだけ、穏便にすませたいんですよ」
「なるほど。 ――― しかし、全く手がかりが無いのでは、ボクがそのひとの後をつけてみるところから、始めてみなくちゃなりませんね。無茶を承知で申しますが、その三日後の夜に、飴屋さんのところで一緒にそのひとを待ってみる……というのはいかがでしょうか」
「そりゃあ、願ってもないことですが、そのう……さきにも申しましたとおり、あまりこういう目に合ってるってことは、長屋の連中には知られたくない次第でして」
「そこは大丈夫、ボクがそちらにお邪魔したこと、ご近所の方々にはわからないように気をつけます。道案内も必要はありません、だいたいの場所さえ教えていただければ、あとはこちらで探します。約束の日、飴屋さんの長屋へお邪魔することだけ、この場でうんと仰っていただければ、あとはこちらで取り計らいますから。どうやってそうするかは、お考えになる必要はありませんよ。ボクは只人ではないのですから」

 可愛らしい姿をした童子の言い分にも関わらず、これには少し背筋が寒くなった男だが、もしそうできるのなら、それが何よりだと、ここは頷いておいた。
 さらに、男は懐から前金として、懐紙に包んだ金子を ――― 節約して貯めた金だが、背に腹はかえられない ――― リクオの前に差し出したが、これに童子は喜ぶどころか困った様子で首を横に振る。

「いえ、ボクはただ、そのひとが自分の探しているひとではないかどうか、確かめたいだけなんです。飴屋さんからお金を貰う筋はありません、利害一致ということで、お納めいただけませんか」

 言い分が、見かけのような童子ではあるまじきことである。
 飴屋はなるほどたしかにこれは只人では無いと納得し、不興を買わぬよう出したものを引っ込めるか、しかしこちらがお願いしたことであるのに何も見返りを渡さないのはどうであろうとためらって、助けを求めるように、脇で控えていたカナを、ちらりと見た。
 心得たもので、カナは横から、つ、と、指先でこの懐紙を一度手繰り寄せ、それから懐紙を飴屋の方へつき返す。それから、言い足した。

「リクオくん、飴屋さんだって、頼みをきいてくれる人には何か御礼をしたいって思うはずよ」
「でもボク、まだ別に何かできたわけじゃないんだよ。ただ話を聞いただけだもの」
「そのお話を聞いてくれる人だって、今まで心当たりがなかったんだから。ここまで来てくれたのだって、お手間だったでしょ?だから ――― そうね、飴屋さん、お金ではなくて、今度、水飴を分けてくださいな。お屋敷の妖怪さんたちも、甘いものは大好きだから。ね、リクオくん、それならどう?」
「……うん、それなら……」
「はい、決まり。飴屋さん、それじゃあ早速ですけど、筆と紙を用意しますから、簡単に長屋の場所を教えてくださいな」

 カナの明るい声に、飴屋はようやく緊張を解いた様子で、己の中に鬱々とした悩みを溜め込んでいたのを吐き出せたことで安心したこともあり、手ぬぐいで額と一つ拭くと、その後は二言三言、茶を飲み冗談も交えた話もしながら、己の長屋までの地図を描き、リクオにこれを渡した。

 それじゃあ、よろしくお願いします、と手渡された地図を眺めながらの帰り道。

 見送りなど要らないと言ったのに、どうせ自分も父の仕事場に長く居ると叱られるからと、カナは途中まで二人と共に歩いた。
 他愛もないことを、あれこれ語りつつ、すれ違った人と挨拶をしたときに、ふとリクオが「そう言えば」と、思い当たったことを口にする。

「浮世絵町の人たちが、あんまりボクに普通に挨拶をしてくれるから忘れていたんだけど、ボクの目や髪の色はおかしいのかな」
「おかしいっていうか、そうねえ、外つ国の人たちの中には、そういう目や髪の色の人も居るって聞いたことがあるけど、この日ノ本の国では、見ないんじゃないかしら。でも、気を悪くしないでね、リクオくん。多分、飴屋さんがリクオくんを《畏れ》てたのは、見目がどうとかじゃなくて、ええと、見目は子供みたいなのに、言うことときたらまるで立派な大人の、それも理屈をわきまえた人の言い分でしょう?慣れていない人が初めてリクオくんと話したら、誰でもきっと、ああやってびっくりするんだと思う」
「そうか、気をつけよう。もう少し子供の振りを見習わなくちゃならないな、鯉伴さまに」
「どうしてそこでおれの名前を出す」

 三人、連れ立って笑いながら、気がつけば黄昏時。
 カナの父親の仕事場から離れて、もう浮世絵町の奴良家のシマにも入っていたので、リクオはカナの隣を歩んだまま、そこの辻を曲がった拍子にしろがねの髪の、男姿へ化生した。
 この道の先は奴良屋敷があるばかりという、坂道に差し掛かっても居たので、三人、誰からともなく足を止める。

「もうすぐ陽が落ちる。カナちゃん、暗くならないうちに、家に帰んな。飴屋のおっさんの騒ぎが片付いたら、事の次第、話しに行くから。知らせてくれて、ありがとう」
「ううん、いいの。リクオくんが探している人、見つかるといいね……」
「見つけるさ」
「うん……そうだね。リクオくんなら、必ず見つけちゃいそう。いいなあ、そのひと」

 二人、橙色の光に包まれたまま、一歩の距離を間において、黙った。
 カナはもう、リクオの袖にすら触れなかった。
 そんな事をして許される、曖昧な時期すら越えて、今はすっかり、一人の美しい娘に育っている。

 昔から美しい娘であったが、今は父親の細工物をあちこちの国の商人が高く買い取りにやってくるようになったので、身に纏うのも、ちょっと良家の娘らしい着物に帯を締め足袋をはき、草履でなく下駄を履くようになった。遠目にも、あれはどこのお嬢様であろうか、と思われる。
 丈の短いの着物に身を包んで、膝を出して裸足で遊んでいたのは、もう、数年前だ。

 足元の一歩の距離を、カナは遠く感じた。
 目を上げて、今はしろがねに変じたリクオの姿に、ぽうと頬に熱が上がり、今が黄昏時でよかったと思った。全てが橙色に染まっているので、頬の色など判別がつかないだろう。

「私ね、十八になったの」

 だからなんだ、と、リクオは言わない。何も言わない。
 だからこそ、カナは、リクオが、己が言わんとしていることが何であるのか、きちんと判っているのだと思えて、安心もすれば、逆に切なくもなった。

 今一度俯いて、帯の上で重ねていた両手に力を込め、そして意を決した。

 言わないでおこう、言ってはいけない、そう戒めていた言葉を、言おう。

 言ってしまおうとして目を上げたとき。

「すまねえ」

 常に真っ直ぐに相手を射抜く瑪瑙の瞳、揺れて、視線が落ちた。
 リクオは目を伏せて、

「ありがとう、カナちゃん。そして、本当に、すまねえ」

 それで充分だった。

 言おうとしていた言葉、やはり言わずにいてよかった。
 何故なら、言わないでおいたから、カナは、

「何のこと?」

 と、とぼけることができた。笑うことができた。泣かずにいられた。

「あのね。縁談があるの。会ってみようって、思ってるの」
「うん」
「いいひとだといいなあ。そう願ってて」
「うん」
「お父の細工を扱ってくれている、呉服屋の跡取り息子さんなんだって。お父の話だと、ちょっと気弱な人らしいんだけど」
「うん」
「 ――― それだけ」

 カナは笑った。痛々しさなど感じさせずに、笑った。その縁談の話を父親から聞かされたとき、断っても断っても無理に進めてくるので、ついに、「いやよ、いくらお金持ちだからって、そのひと、おっかさんの言いなりだっていうじゃない!私を金持ちの嫁にやって、お父が楽をしたいだけじゃないの!」と、心にも無いことを言い放ち、父親から平手を喰らったことなど、微塵も感じさせずに、笑った。
 わかっていた。わなわなと唇を震わせながら、父親が、「それでも、その男は、人間だ」と、そう言ったのも、納得できていた。カナの父親は、リクオを見下していたわけではない、ただ、自分たちとは《違うもの》だと、知っていただけだ。「たしかにあの御方は、えらい方だよ。だが人じゃねえ。人にはそれぞれ、分際ってモンがある。お前は、人間の男のところへ嫁ぐんだ!」、そう言った父親が、本当に自分の幸せを願ってくれていることだって、カナはちゃんと、わかっていた。

 だから笑った。カナは笑った。リクオは笑えなかった。
 あの日、ちょっとした用事で赴いたカナの家で、戸を叩く前に出くわしてしまった父娘喧嘩の言い合いの中、自分の名前などどこにもなかったが、それでも、顔を出すことなど、とてもじゃないができるはずがなかった。
 ぱしん、と、平手で打つ音がした後、聞こえてきたカナのすすり泣き。妹のような存在と思えば、飛び出してかき抱き、胸に甘えさせてもやりたかったが、しかし、そうしてはならないと思えて、ただ、立ち去るしかできなかった。それではお前はこの娘を責任持って預かってくれるのかと、父親の前でそう問われては、満足な答えなど、できようはずもないのだから。

 浄土であったはずの場所に、季節が巡り、夢の紗に隠されていたものが浮かび上がると、どうも浮世とは、人の夢のように見るものによって見るときによって、姿を浄土やそうでないものに変えるらしいということに、ようやく、リクオは思い当たった。

 人も妖もなく、手を繋いで、かごめかごめと歌っていた、あの日は遠く、時の彼方だ。
 人と妖は違う。《違うもの》だ。
 それでも手を取り合って生きていくことができるのは、そうしようと決めて、この辺りをおさめている総大将と、珱姫がおわすからだ。



 ――― ここは、浄土では無いのだ。



「それじゃあね、リクオくん。また」
「ああ。また」

 立ち去るカナの背を、リクオはしばらく見送っていた。

 カナは振り返らなかった。

「 ――― リクオ」

 置き去りにされたように、カナの背を見つめたままのリクオに、鯉伴さまが声をかけられると、そこでようやく、のろのろと向き直り、初めてそこに鯉伴さまがいることに気がついたとでも言うかのような、戸惑った表情を見せた。

「大丈夫だ、リクオ。カナはお前を忘れやしねえよ。憎みも嫌いもしねえ。お前との縁が切れるわけでもねえ。お前がこれからどんな未来を選ぼうと、今まで選んで紡いできた過去の縁が全部切れてなくなるというわけではねえんだ。ただ少し、距離ができるだけさ。ただ少しだけな」
「……鯉伴さま、何だか大人になっちまいましたねえ」
「守役が理屈っぽい奴だから、うつったんじゃねーか? ……帰ろう、リクオ。行く当てが無いなど言うな。そんな迷子みてえな顔をするな。お前はおれの守役で、奴良屋敷はお前の帰る場所だ。これからお前がどこへ行こうとも、今まで紡いできた縁がある限り、あの場所はお前の帰るところだ」