小さな頃からたくさんの妖怪に囲まれていて、皆、大好きな遊び相手だったし、仲間だったし、ときには頼れる、過ぎた危険を叱る大人であったりもした。
 その中でも、雪女はボクの大のお気に入り。

「大きくなったら、雪女、ボクのお嫁さんになりなよ」

 というのが、物心ついた頃のボクの口癖で、雪女は、彼女の腰のあたりまでしか届かないボクと目線を合わせるために、氷細工の指先でそっと袖をおさえながら、しゃなりと膝を折り、鈴を転がすようにころころと笑って、

「そうですね、若様が大きく立派におなりあそばして、元服などなされた頃に、もしこの雪女めをそう想ってくださるのなら、リクオ様、貴方様に全て、この身を形作る氷雪の一片までをも、貴方様に捧げましょうとも」

 ちょっと時代がかった、難しい受け答えで、はぐらかすのだった。
 それでも、おじいちゃんの周りには、難しい言葉で話す幹部たちがたくさんいたし、そういった言葉を聞き慣れて育ってきたために、その答えを何度か聞いているうちに、ボクもそれがどういう意味か判ってきたから、何度か繰り返されたこの遊戯の果て、ボクはさらに言葉を重ねたのだ。

「それって、ボクが大きくなっても、今みたいに雪女を好きでいたら、ボクのお嫁さんになってくれるって、雪女の全部をボクにくれるって、そういうことだよね?」
「まあ、リクオ様は流石、総大将の御孫様ですね。難しかったでしょうに、ちゃんとわかったんですねー?エライ、エライ」
「子供扱いしないでよ!ねえ、だったら、ボクが大きくなるまで、雪女を誰にもあげちゃ嫌だよ。だってボクがもらうんだから、ボクが大きくなったときに雪女がもう他の誰かのものになっちゃってたら、ボク嫌だもん。約束してよ!」
「ホホホ、リクオ様、いつもこんな事を仰ってくださっているだけなら、手を焼かずにすみますのに。もう毎日毎日悪戯ばかりなんですから」

 よしよし、と着物の袖口で頭を、かすめるように撫でられて ――― 直接触れると、氷点下の己の肌は、柔らかな幼子の肌には鋭い針を突き刺すようなものであろうからと、守役であるのに、雪女は直接ボクに触れたりはしなかったのだ ――― 、つまりは完全に赤子扱いされたボクは、真剣な心を伝えようと、すぐ頭の上で行き来する彼女の手を、ぱしりと掴んだ。

「ちゃんと答えて。約束して。ボクが大きくなるまで、元服して立派に跡取りになるまで、待っててくれるって」

 ひゅ、と息を呑む音がした。彼女が息を呑む音だった。
 さあと、あやなし春の夜の風が、どこからか梅の香りを運んできた。
 桜にはまだ早く、ボク達が根元に立ち尽くすしだれ桜の木は、所在投げに腕を揺らしただけだ。

 雪女の、金色の瞳が驚愕に見開かれ、すぐに手を引っ込めようとする。ボクはそれを許さなかった。懇親の力を込めて、彼女の手を握り締める。
 氷点下の彼女の手、初めて握る手、過ぎた冷たさは逆に灼熱に似ていて、驚く彼女を見つめている間に、答えを待っている間に、おそらくは彼女の危惧した通り、ボクの手の平にはすっかり霜が降り、乾いて、ぷつりと切れた肌からは、瑪瑙のごとき玉の紅が、ふつり、ふつりと溢れ出したのだった。

「も、申し訳ありません、若。すぐに手当てを、誰かを呼んで ――― ああ、どうしましょう、傷が ――― 若、若、手を、お離し下さい」
「雪女、約束しろ」
「若、離して、離して下さい」
「雪女」
「若」

 月は上弦、夜半過ぎ。
 梅の香りに誘われて、広間からは宴の影と、笑い声。
 襖一枚隔てた庭先で ――― オレは、ようやく触れた、初めて触れた、氷の手を握ったまま、そっとその手の甲に頬を寄せてみる。
 首無しが、毛倡妓にそうしていたのを、台所の竈の脇に隠れて見て知ったときから、ああ、雪女のあの、真白で冷徹で綺麗な手に、そうできたらどんなにいいかと、想っていたから。

「若」

 片頬が冷たく、そして熱い。
 手の平と同じように霜が降り、凍りつき、言葉も上手く紡げないほどになっても、その冷たさが、熱さが、この女なのだと思えばこそ、いとし、いとしというこころが、溢れそうになる。
 痛みであったかもしれないが、それは体の表面よりも、もっと胸の奥の方が、とてつもなく痛かった。

 なあ雪女、じじいが言うには、お前は情の強い妖怪だと言う。
 惚れた相手と連れそうを望み、それが例え人間で、己が妖怪であるを知らない者であったとしても、一度これと決めたらその人間の子を孕むことすらある、一途な女怪なのだという。「だから子守には最適じゃろう」と、したり顔でカラスに言っていたのを聞いた。「情をかけた相手を、裏切ることは決して無い妖怪なのじゃから ――― 裏切られることに、慣れている哀れな女怪でもある。今はリクオも、傍に雪女しかおらんから、気に入り愛でているだろうが、やがてあれも元服し、これと思う女を見つけよう。そのときに雪女まで、別段、幼い契りを本気にはせんじゃろう。やがて、リクオの奥となるものともども、身命賭して守ってくれるさ」と言ったのは、信頼であったか。雪女という性質への、諦めであったか。いずれにしても事実には違いないのだろう。

 そのとき障子を隔てて、精一杯背伸びして気配を殺しながら近づいていたオレに、じじいが気づかなかったはずはない。カラスはどうかしらないが、じじいはオレに気づいてそう呟いたのだ。オレに面と向かって、たかが子守役の女と生来の契りを交わすなどと、軽々しく言うものではないと叱りたくないものだから、どこまでも好々爺を気取りたいものだから、オレが偶々聞いてしまった風を装って、言外にオレに告げたに違いなかった。

 痛かった。とてつもなく胸が痛かった。
 幼い想いは、いつか変わってしまうのか。幼さは嘘なのか。幼い契りは、真の契りではないと思われ、オレの言葉は、この雪女に届くことはないのか。
 姿形が幼いから、一年を待たずに目まぐるしく変わっていき、成長していくこの身だから、心もまた同じように形を変えて、心変わりを、過去の契りを、誰もが「幼かったから」で片付けてしまうのか。

 では、今の、オレの、想いは、どこへ行くのだ。

 お前に、届かぬ、ままなのか。

 では、お前はオレになど目もくれず、誰か別の男を、情を交わす男を、オレの預かり知らぬところで、オレが眠りについた後で、求めているのか。
 そいつは、どうやってお前に触れるのだ。
 お前は、そいつにどういう手つきで触れるのだ。
 どのような愛しさを胸に秘めて、凍えた吐息を、吹きかけているというのだ。

 舌打つ。
 氷雪にあてられ、真白になった片目の視界と、動きにくい口元を叱咤して、今一度、繰り返した。

「 ――― 答えたら、離してやる」

 困ったような顔を通りこし、もはや泣き崩れてしまいそうな、いとしいいとしい雪と氷の女怪は、それでようやく。

「約束します、しますから、どうか」
「その言葉、忘れるなよ」

 オレの、望み通りの言葉を口にした。
 掴んで頬に押し付けていた手を、そっと離すと、ぴりぴりと引き連れるような痛みが走って、これが身を引き裂かれるような想いというのだろう、と悟った気になった。
 絡めていた手も、すっかり雪女のそれとくっついてしまっていて、氷細工のようなその手が割れて砕けてしまうのではないかと心配になったから、そうならないように、そうっとそうっと絡んでいた指を解いた。
 すっかり解いてしまう前に、小指だけを絡めなおす。

「約束だぞ。オレが元服するまで待て。それまで、お前の爪の先、髪の毛一本、他の男に渡すんじゃねぇ」

 幼い契りだと、笑うなら笑え。
 どうせ心変わりするのだろうと、幼い心は変容するのだろうと、思わば思え。

 だが、オレの。
 でも、ボクの。

 いとし、いとし、と、こころが啼く。









...いとし いとし と...
昔話の名も無き男を妬ましく想う。契りを破ったその報い、氷の棺に閉ざされるほどの独占欲を向けられるなど、なんと幸せな男であるのかと。