主が杯を置いた、と思ったところで、ぐいと抱き寄せられた。
 雪女を抱き締めて、首筋に鼻先を埋め、「うん、甘い匂いがする」などと言うのは、彼女の唯一のその主ぐらいのものであったろう。雪と氷だけで形作られた、この身に何の香が宿るはずもあるまいに、しきりに「よい匂いだ」と主はお喜びの様子である。

 幼い頃こそ、やわらかでたよりなかった彼の身は、雪女の肌に触れただけで凍てつき、哀れな傷をこさえたものだが、今は逆に彼に妖気を抑えてもらわねば、彼の熱で雪女の肌が沸いてしまいそうなのだった。
 優しくお育ちになられた主は、雪女が傷つくことを恐れ、厭うから、今も後ろから首筋を鼻先でくすぐられても、ただくすぐったい心もちがするだけだ。

 それほど立派な妖に成長した、大切な大切ないとし子が、元服前とは言え、長じて後も自分に甘え、たのもしい夜の御姿でさえこうして自分を傍に置いて、月や木を愛でているのを、嬉しくいじらしく思うのと同時に、いつかは握っていた自分の袖を離して、人の娘かそれとも妖の娘か、彼が男として欲する女が愛撫を受けるのだろうかと思えば、そこまでお守りできたことが誇らしく、見送る身としてはつらく寂しい。
 あと幾夜、こうして、甘えてこられる若様の腕に包まれる幸福が、残されているのだろうと思ってしまうと、月が毎日姿を変えていく様すら恨めしく感じられてならない。

 今は、幼き日に、雪女の冷気をまとった衣にじゃれついていたのと同じ気分で、こうして抱き寄せていらっしゃるのだろうが、そのうち男女の仲のことを知るにつれ、こうした様子をあさましいことと思うのようになるに違いない。
 もしかすると明日、明後日にでも、昼の御姿で通う人の子の学び舎で、あらぬことを見聞きし、昨日までの己の行動を悔いて、何故これをあさましいことだと自分に教えなかったのか、とんだ恥だと雪女を責められるかもしれぬ。そうなれば、すぐにも雪女は遠ざけられ、ただ主の側近がするように、夜は障子、襖一枚隔てたかなたとこなたで、言葉を交わすようになるに違いない。
 そうなったときにせめて蔑まれぬよう、また、妖怪たちの主として周りに恥じ入る必要のないように、やはりそろそろあさましきことを教えるのは、自分の役目なのであろうと、雪女は、彼女のこれからも続くだろう長く虚ろな生の中の、一時の幸せに終止符をうつべく身じろぎして、どうにか主の腕から逃れようとした。

「リクオ様、悪戯が過ぎます」
「いたずら?」
「そうです。幼い頃からお世話をしておりますから、昔そうしていたことを今もしていいとお思いなのでございましょう。けれど、外から見て、このように腕の中に女を招き入れたり、着物の香を嗅ぎ取ったり、本当なら、一枚の畳の上で、主従の隔てなく過ごすことも、はしたないことなのですよ。とても、あさましきことです。
 もうすぐ元服だというのに、まだお守り役が必要であるのかと、一ツ目入道が陰で笑うていると聞きます。今はわからなくても、そのうちきっと、今のお振る舞いを後悔なされる日が参ります。ですから、どうか、このような浅はかな真似をなさいますな」
「 ――― 浅はか、ね」

 守役として、庇い護るべき幼子相手に、雪女が説教をしたことはほとんど無い。
 むしろ青田坊と雪女は、幼いやんちゃ坊主の良い遊び相手で、悪戯の餌食になったのは一度や二度ではなかった。お前ではとても躾など勤まるまい、だから奴良家に生まれ育ちながら、後を継がぬなどと言い出したのだと、古株の幹部に皆の前で叱り付けられたことだって、何度あったか知れぬ。
 彼女では主を止めることなど、できはしない。どんなやんちゃだって悪戯だって、ただ愛しいばかりで怒る気になど、叱る気になどなれなかった。言葉を操れなかったいとし子が、己の名を呼んでべえと舌を出すようになったかと思えば、ろくに這い回ることすらできなかったいとし子が、かくれんぼをしては、鬼だったはずの雪女を罠に誘いこんで喜んでいるのだから、無事の成長を喜びこそすれ、どうして怒鳴ったり打ったりできようか。

 だから、怒鳴ったことなど無い、打つなど考えたこともない、けれど説教をしたことは、ほとんど無いが、あるにはあった。主が己を危険にさらそうとしたときや、後先考えず、彼自身の名誉が傷つくような振る舞いをしたときだ。
 それまで、どれほど、外見通りの、若い人の娘そのもののようにきゃっきゃと煌いていても、一度叱ると決めたなら、年経ていると悟られてしまおうが、面立ちを凛とさせて真っ直ぐに彼を見る。

 効果あったのか、主の腕はほどかれ、雪女は彼が酔ってじゃれついてくる前にそうしていたように、半間ほどの距離をとって、一房乱れた髪には気づかず、少しばかり着崩れた裾だけを直して、そっと座すのだった。
 月の光だけだというのに、冷たく儚げな顔の、頬だけにさっと紅を刷いたように染まって、乱れた髪のことも含めて、なんとも言えぬ美しさだった。

 彼女の主は、彼女を腕から逃すままにはしたが、恥じ入ったり神妙になったりする様子はなく、それこそぬらりくらり飄々と、口元に甘露を含ませたような微笑を浮かべ、紅玉のような瞳に、彼女を映したままでいる。
 盃を取り上げ、残っていた酒をくいと飲み干してから。

「たしかに、もうすぐ、元服の年だ。そうだな、つらら」
「 ――― はい」
「待ち遠しいな。そうなれば、何もかもを、ガキの悪ふざけと思われることもなくなる」
「……リクオ様?」

 いつの間にか、手だけを絡め取られて、その手の甲は、主の頬にそっと触れていて。

「これまで、長かった。つらら、長かったよ。……そして、もうすぐだが、まだまだ、長く遠いな」

 みるみるうちに赤く染まった雪女の顔色を見て、珍しく主はくつりと笑った。いや、珍しいことではない。主はよく笑う御方だ。ただし、夜の御姿のままで、昼の間にするように、くつりと笑うことはあまりないだけで。
 名残を惜しむように、主が雪女の手を、ゆっくりと、少しずつ、頬から離すと、最後に絡んだままの小指が、まるで燃えているように彼女には感じられた。
 それでようやく終わりかと思っていたら、小指の先をそっと唇で噛まれて、

「約束だ」

 と言う。

 何の約束かなど、雪女に思い当たることは一つしかない。
 一つしかないが、はたして自身が考えているそれが、主が言うその「約束」であると、悲しい、雪女という生き物であるがために断じきることができない。
 あの「約束」は、それこそ、主がようやく言葉を紡ぐようになってから少し経った頃、人の世界をまだ知らず、屋敷の庭先だけが主の世界であった頃に、お気に入りの遊び相手だった彼女に向けられた、幼さゆえの残酷な契りであったはずなのだから。
 あれ以降、主はその「約束」に触れることはなく、やがて人の中に同い年の友人を見つけると、雪女だけが遊び相手ともならなくなって、やがて忘れられてしまったのだろうとばかり、思っていたのだから。そうであるはずなのだから。

 少しの空虚な間の後、いまさら返事をするのも趣が無くためらわれ、燃えるような小指を強く引き寄せることもできず、途方に暮れた様子で主に指先を預けたままにしている。
 主の唇が触れた小指だけが、たしかにそこにあると思える。じんじんと熱く燃えている。それ以外の、腕や脚や、体などは、どこかへ置き去りにされてしまったかのようだ。

 夜の御姿の妖気は苛烈なはずなのに、雪女のような分際など、手加減無く触れられれば哀れな氷解と化した後、春の陽の中ではどんな深い雪もそうなってしまうように、溶けて大地に染みて消えてしまうだろうに、そうはならない。
 雪女は、人に化ける以外で妖気を律する方法などを身につけるには格が足りないので、幼い彼に凍傷をこさえてしまったことがあるのに、主は彼の炎で彼女を傷つけることは決してない。彼女の、白く美しい指先は、形を崩すことなく、ほっそりとした影のまま保たれて、月光に照り返っている。

 主はそれ以上何も求められず、氷の彫像と化した雪女を、ふんと一つ笑うと、指を解いて手酌で空の盃に酒を注いだが、我に返った雪女が、次は自分がと銚子に手を伸ばしたところで、

「もう眠る。下がっていい」

 意地悪く告げられた。

 では、お着替えいたしましょうと、さりげなくよそおって、次の間の寝床脇にある衣に目をやれば、それもいい、着替えを手伝ってもらっていたなど、いつの話だとお笑いになる。
 雪女にとっては、やわらなか玉の肌に瑕を負わせぬように、己の手を袖に隠し息を殺して、まだ眠りたくないとぐずる幼子の着替えをしていたのが、つい昨日であるようなのに、目の前の主を見ると、それがいつしか立派な男君におなりなので、これにもたまらなくなって、一つ伏して礼をすると、静かにこの場を辞した。

 襖を閉める間際、盗み見た主の背は、どことなく所在なさげで、去るのがためらわれたが、これでよいのだ、これでよいのだ、よもやあの「約束」のことではない、きっと別の、自分が忘れている何か別の約束のことなのだと、自分に言い聞かせて、いよいよ閉じた。
 閉じた後、さっそく後悔したが、かと言って主にかける言葉が見つけられようはずはなく、別の用向きがあるように見せかけようにも気づくところはない。
 そのうち、奥の台所が忙しなくなってきたと、納豆小僧が呼びにきたので、後ろ髪を引かれるような心もちで、ようやく伏していた姿から立ち上がる。

 約束を思い出さなければなるまいと、雪女は独り呟く。
 寂しい想いをさせぬよう、決して独りにさせぬよう、そう、まだまだ元服前の幼子なのだ。守って差し上げねば。それだけだ。

 ああ、なのに、なのに。

 何故、こうも、優しく苛烈に触れられた、小指がこうも、これほどまでに。
 いとし、いとしと。









...いとし いとし と...
早くその「約束」とやらを思い出して差し上げねばと思うのに、よみがえるのは、この氷の手を握り締めて貴方様が強いた、契りのことばかり。
そんなはずはない、それであるはずがないと思いつつ、あの日が切なく胸を焦がすのです。