その夜、おそらくはこうして気を高めたせいもあるだろう、若君は少し高めの熱を出した。
 熱に浮かされながら、若君は雪女に仰せになる。

「ねえ雪女、お願いだよ、さっきボクが言ったことを本気にして、御山に帰ってしまったりしたら、本当に嫌だよ。ボクの傍にいてね。酷いことを言って、本当にごめんよ」
「若は何も悪くはありません。はしための分際で、本当に過ぎたことを申しました。若がいつもお優しくしてくださるから、つい付け上がってしまったのです。どうか、そんな風にご自分を責められますな、悪いのは雪女です。……はい、リクオ様。お傍におりますとも。今日はずっとお傍に控えておりますから、なんなりとお申し付けくださいませね」
「きっとだよ。眠っている間に、消えてしまったりしないでよ」

 若君は炎を飲み込んだかのように全身熱く火照っておいでで、深手を負った手ときたら、ぎやまんすら砕けるか溶けるかしてしまうのではないかと思うほど。
 雪女は、若君が少しでも心地よく眠れるように、氷でこれを冷やしたり、かいがいしくお世話をする。

 若君の守役女の気に入りよう、ご寵愛のほどときたら、他に近侍を仰せつかっている妖怪たちもいるというのに、それ等を差し置いて格別のありようだが、若君がご病気などされるたび、いつもこうして夜通し寝ずに心を尽くした看病をする雪女を見て、他の者たちは嫉妬するどころか、流石は情深い雪女である、若君に愛され時めくのも当然のことと納得している。
 また、この甲斐あって若君は、夜も更ける頃にはとろとろとお休みになり、朝には熱も落ち着き、昼には床から起き上がられた。

 昨日のことがあったので、通う幼稚園には行かず、大事をとって雨の日のように座敷で小物たちを相手に遊戯に興じていた若君のもとを、雪女はほっとした表情で辞したが、いつもの台所の支度か何かであろうと、若君はこれをとくに咎めず送り出される。
 また遊んでね、といつものように愛らしくおねだりされるのを、雪女は無上の喜びに受け止める。
 はらはらと涙を流していた面影はもなく、陽の下で煌めく雪が、ふかふかとあたたかな羽のようにも見えるように、何ともあたたかく、白い肌に刷毛ではいたような朱で頬を染め、椿のような唇でそっと笑んでいるので、若君は幼い心にもこの美しさを留めたが、同時に女が流した涙のことなどすっかり忘れて安心してしまった。
 それから少しばかり、時間を忘れて遊戯に興じていたが、小鬼が一人ぱたぱたと廊下を駆け、「若、総大将がお呼びです。人間のお客様ですよ」と申し上げたので、なんだろうと首を捻りながら案内に従い座敷へ行くと、座敷では若君のお爺様、奴良組総大将と、若君が通う幼稚園の、あまり見かけないけれど顔は知っている園長先生と、それからもう一人、年嵩の男が、向かい合って座っていた。

「おう、リクオ、来たかい。こっちへ座れ。この先生がたが、おめえに謝りたいって来なすったのよ」
「謝る?どうして?園長先生からは何も謝るようなことをされていないし、ボク、この人には会ったことないよ」

 暗に、見たことのないこの男は誰か、誰何すると、男はしきりに汗をかきながら、幼稚園の理事長で、つまり責任者なのだと名乗る。難しいかなと苦笑いされたが、もっと難しい言葉を使う貸元の親分衆からも ――― おめえの言葉、古すぎるぜ、何百年前の古語を使っているのよと、この言葉を総大将はなつかしげに笑う ――― 可愛がられている若君だ、難しいのではなくて、男の正体がわかったからこそますます首を傾げた。

「あの幼稚園に子供を預けているひとたちから、お金をもらって、あれこれやりくりしている人だよね?偉い番頭さんってことでしょう?どうしてその人が出てくるの?番頭さんのお店で無体をしたのは、あいつだよ。あいつと喧嘩をしたのは、ボクだよ。そして、あいつに怪我を負わされたのは、ボクだ。店の中でお客の子供等が二人、喧嘩をして怪我をさせられたものがあったとして、どうしてお店の人が、怪我を負ったボクに謝りにくるの?ボク、それがわからない」
「いや、そこには、二人の家の人たちは居なかったんだから、私たちが、しっかり皆を見て、危ないことがないかどうか、見ていなくちゃいけなかったんだよ。それが私たちの役目なんだから」
「無体をした奴より、無体を見つけられずに居た、一生懸命仕事をしている人の方が悪いの?あんなに大勢いるんじゃ、仕方ないよ。先生はボク一人だけ見ているわけじゃないんだし、ボクだけを見ているボクの守役だって、台所の仕事をしているときは、ボクを庭先で遊ばせておくよ。ずうっと見ているなんて、そんなの、かえって気味が悪いや。ねえ番頭さん、ボクの先生はどうしたの?お願いだから、先生を咎めないでやってよね」

 舌ったらずであるのに言うことときたら何ともませていて、男はぽかんとした顔をしたまま、しばし若君のお顔をただ見つめているしかなかった。
 この様子に、若君の隣に座す総大将は、視線はそのまま男に据え置いたまま、大きく笑われる。

「ぶわっはっはっは!どうです、先生方、中々口が達者でしょうが。こやつは見目と物腰こそ、ワシの奥によう似て優しいのじゃが、中身はこれこの通り、気難しさが堂に入ったもんじゃろう。だから言ったろうが、こやつを呼んでも、ワシと同じことしか言いはせんぞ、と。ワシが吹き込んだと思うか?まあ、言ってみればそうじゃろうなあ、三代目として恥ずかしくないように、道理くらいはわかっておかんといかんから、そこはそれとなく、教えておるからかのう。
 まさか、こんないとけない子がよ、こんな長口上をワシに吹き込まれて、憶えたまんまに言っているだけと思うかい。こやつを見ていたらわかるじゃろうが、そんなモン憶えさせようとしなんなら、あっちゅー間にいなくなって、木登りや悪戯をしておるだろうよ。
 ……さ、先生方、もういいだろう。立派な菓子をもう一度懐におさめて、帰んな」

 男は汗をしきりに拭きながら、それでも何かつらつらと申し上げていたが、総大将が若き日より尚衰えぬ眼光でぎろりとやると、萎縮して平伏し、尻尾を巻くようにして帰っていった。これを追った園長先生の方が、大変失礼をいたしましたと後を引き取るように申し上げるのだが、こちらは老いが指先に見えていたとしても大変優雅に見え、また堂々としていた。
 最後に若君に目をやって、「リクオ君、待っているから、お怪我が治ったらまた一緒に遊びましょうね」とにこやかに笑う様子も、若君が時折この女を見かけるときと同じゆったりとした様子である。

 二人が去ると、総大将はフンと一つ鼻でお笑いになっただけで、若君には、許してやるようにとも気にするなとも仰せにはならず、よほど腹の虫がおさまらなかったのか、ぼやくようにお続けになる。

「当の本人や、せめてその親が来るかと思ったが、最近はガキの喧嘩に刃物を持ち出すのを見咎めるどころか、てめえの子の不始末すらてめえでできねえ奴が親の顔をしているらしい。ったく、世も末とはこのことかのう。リクオ、お前が相手をしてやるほどの奴等でもねえ、そんな奴等しかおらず、意味が無いようならやめちまうか、ん?」

 それから顔じゅうを皺くちゃにして何ともお優しげなお顔になると、いつもするように若君を膝に抱き上げ、頬と手の傷を、痛々しげな包帯の上から包むように撫でられる。

「にしてもよ、カラス天狗から話を聞いたが、お前はそいつにずいぶん見事に啖呵を切ったそうじゃのう。その年で立派なもんだ」
「うん、ボク、ビビんなかったよ。それに泣かなかった。偉い?」
「おうおう、偉いとも。リクオは本当に我慢強い。お前くらいの年の頃、二代目ときたらまだ何かあるたび鼻の穴を広げてぴいぴい泣いておった気がするわ。頼もしい三代目があったものじゃ」
「ボクもそうなろうと思って、がんばった。……ねえじいちゃん、でも、雪女はね」
「おう、それも聞いた。なに、気にするこたぁねえ、あいつは妖怪だが、雪女っちゅうものどもは、人の情に親しんでるところがあるからな、その情が深すぎるせいさ。相手がまだ子供だろうが道理を知らねえ阿呆だろうが、他人様の命を奪う得物を持った輩に手加減しろなど、聞いて呆れる。二度と過ぎた口をきかぬよう、ワシがしっかり叱ってやっておいたからのう、お前はもう、あやつに言われたことなど忘れていいんじゃぞ。お前のことは、お前が決めりゃあいいことだ」
「じいちゃん、雪女を叱ったの?」
「おう、久しぶりに気張ったわ。いやなに、お前がそんな顔をする必要はないぞ。お前の言うことにゃ、ちゃあんとお前なりの道理が見えておる。それにお前はこの奴良家の大事な跡取り。雪女が守役だからとて、それと同じ考え方を持たねばならんなどという決まりは、どこにもないんじゃから」
「でも、雪女は、ボクのためを思って言ってくれたんだよ。なのに、ボクも意地になっちゃって、すごく酷いことを言っちゃったんだ。後でよく言われたことを考えたら、雪女がすごくボクのことを想ってくれてたんだって、わかったよ。なのに、なのに、その雪女のこと、叱っちゃだめだよ、じいちゃん」
「その、想う、というのが余計な世話じゃ」

 総大将の声色は、あくまでお優しい。若君に一つ一つ語る様は、孫煩悩な好々爺。
 しかし、若君は知っている。ご自分のお爺様は、御年のせいで腰は曲がり背は丸みを帯びているが、お怒りになったときなどは、貸元どもの親分衆さえ、一つ怒鳴られると震え上がり額を畳に擦りつけ、脂汗をだらだらと首筋から流しながら、上ずった声を上げる有様だ。
 あのたおやかな雪女がそんな風に叱られたのなら、どれだけ心細く感じただろう、雪兎になってそのまま溶けて消えてしまいたいとすら考えたのではなかろうかと、若君はひどく胸を痛めた。

「いいか、リクオ。あれはお前に色々と、行儀や手習いを教えるためにつけておる。ただの端女、お前の下女じゃ。お前が一度これと決めたことを、曲げさせるためにつけているのではないわ。百鬼夜行の主が、背負った百鬼それぞれの想いとやらにたぶらかされ、いちいち向かう先を変えてみよ、そんなモン、日和見の浮雲とどう違う。
 向かう先を決めるのはお前だ、リクオ。そのお前に、雪女がどういう気持ちで刃向かったのか、そこの話は、ワシはしておらん。刃向かった事実がある、っちゅうのが問題なのよ。他の奴等の手前、示しはつけねばならん。わかるか?」

 厳しい沙汰だが、総大将の仰せはいちいちもっともなので、日頃からお爺様を慕う若君は、これもそうかと納得なさると、何も言えずに黙ってしまわれたのだった。
 しかしそうなると、ますますあの女が不憫でならない。
 お爺様に誉められて、子供らしく有頂天になれれば違ったろうが、幸か不幸か若君は、こういったところがひとより聡い御方なので、無邪気に胸を張れずにおられる。

 お爺様も守役女も、どちらの言い分ももっともに思えるから、今はさらに悩み迷いが生じて気分が晴れない。どちらも本当で、どちらも道理であるようだ。なのに片方は下女の分際でと叱られなければならない。身分は、道理に勝るのか。つきつめると、それが不思議になった。
 ならば、道理とは何なのか。

「……ねえ、じいちゃん。道理ってなに。正しいって、どういうことなの、どうやって決めるの」

 熟慮の末に再び若君の口から発されたなぞなぞは、突拍子も無いものだったが、総大将もさしたるもの、愛孫の髪を撫で、深い笑みを見せながら、こうお答えになった。

「未だ悪を知らず、いずくんぞ正を知らん。……無論、その逆もな。
 そうさなあ、一つ年寄りのしったかぶりを言うとすればよ、迷いもせず不安にもならずにただ一つのことに突き進むのは、獣にすらできること。ならばワシ等が迷い憂い悩み不安になるのは、どうしてなんかのう。ワシ等は獣にすら劣ると、そういうことなのかのう」
「……じいちゃんも、迷ったり不安になったり、したことあるの?」
「そりゃあ、あるさ」

 これには視線をさまよわせた後、総大将はご自身の座敷の奥、遺影の無い仏壇を、何度か目をしばたたかせながらご覧になった。
 その後、愛孫を最後に一撫ですると、大福を一つ持たせてやり。

「かしこまった客の相手なんぞ久しぶりで、隠居の身にはこたえたわい。ちょいと昼寝でもしようかのう。リクオ、さ、遊んでおいで」

 己はおそらく聞いてはいけない答えを聞いたのだと、気がついた若君は、答えをそっと胸に秘し、お爺様の肩がなんだかいつもより小さくなってしまったようなのを気づかぬふりをして、大福にはしゃいだ様子を見せながら座敷を後にする。しかしこの空元気は、すぐに萎む。

 未だ悪を知らず、いずくんぞ正を知らん。
 未だ正を知らず、いずくんぞ悪を知らん。

 答えはいよいよ闇の中であったが、若君にとっては、お爺様が答えをくださったも同然であった。
 なに、わからなければ、悩んでよい。迷っても憂いても不安になっても良い。我等は獣ではないのだから。多分、そういうことなのだろうとお思いになり、また、この答えは表面上は優しくくだされたものだったが、しっかりと拳骨を落とされたも同然とお感じになる。
 総大将がこれまで、若君に一度も怒鳴ったことがなく、掌中の珠のように可愛がられてこられたのは、若君が一を教えれば十響くので、その必要がないために他ならなかった。なので、今日も総大将が信じられたとおり、若君は悟って廊下に出た瞬間、目に見えて肩を落とす。叱られたのだから、これも当然である。

 昨夜、若君が決めてしまわれようとしたのは、幼いがゆえに過った道であったかもしれない。
 だが、若君にこれが誤った道ではないのか、お前は幼いのだからもう一度考えてみよと教え諭すのは、総大将かお母上に限られるべきであり、守役ごときが口をだしてよいところではない。守役の進言を若君が聞き入れ、ご自分の考えを容易に曲げられたことを知られれば、それは縁深い近侍などは悪く想うまいが、口さがない連中の耳に入ったらどう思われよう。
 若君は下女ごときの進言を取り入れている、奴良組は将来下女に糸を引かれるぞと、噂されても仕方が無い。だから総大将は叱ったのだ。叱らねば、それが今後も通ると考える輩が出てくる。ならばおれもと思う者どもも、出てくるかもしれない。見せしめは必要なのだ。
 けれど昨晩、あの調子では若君は本当に人の世と縁を切ると言いかねなかったし、雪女が口を出したのは致し方なかったろう。時間をおけば、若君の心も凝り固まってしまう。思いついたその瞬間にそれは違うと申し上げなければならないときもある。

 ――― 間違ったのは、ボクなんだ。

 獣のように何も迷わず、人の世を捨てようとした己なのだとここで気づき、幼さに似合わぬため息をつかれる。
 迷っていい、憂いていい、不安に想っていい、悩んでもいい、けれどこれと決めるときは、己の背のみに責を負わねばならぬのに、その責をあの女になすりつけたのは、他ならぬ己なのだと思えば、悔いても悔いても悔やみきれなかった。


+++


 後悔に背を押され、語る言葉など用意できぬまま、若君は台所の勝手口から顔だけ中を覗かれる。大勢の者どもの食事の支度を、朝から晩までしているので、多くの火を使い、多くの熱湯や湯気で溢れている。危ないから入ってはいけないと言われているが、少し覗くくらいなら何も言われないので、いつも小物たちとの遊戯に飽きて雪女の白いたおやかな姿を見たくなると、こうしておられる。
 すると間もなくして、いつものように雪女はすぐに若君に気づき、襷がけした姿のままで、いつもするように中腰になって、どういたしましたかと視線を合わせて笑んできた。

「若、お外遊びはもう少し、お加減がよくなってからの方がよろしいですよ。雪女ももう少しで支度が終わりますから、そうしたら今度はお屋敷の中で遊びましょう」

 派手な美しさではなく、それどころか少女のあどけなさを残す雪女だが、見ると一輪挿しにすっくと立つ百合の花を思わせて、口にはしないが若君はこれを目にするのを格別のものとしておいでなのだった。
 しかしどうだ、今日はその百合の花、少し萎れているように覚えられ、どこが違うか、と、じいっと見つめられた。
 不可思議に思った雪女は、「若?」と首を傾げたが、構わず見つめ続け、そして気がつかれる。
 目元が赤い。 ――― 泣いたのだ。

「雪女、お前 ――― 」

 叱られて、泣いたのか。訊こうとして、訊けずじまい。
 そうだと言うわけもなく、そうだと言われたとしても、続ける言葉も見当たらず。

 謝りたい。しかし己がたとえ間違っていたのだとしても、主が決めたことはこれだと従わぬ者は傍には置いておけない。だが謝りたい。謝れない。すまないという一言すら許されていない。お前が言うことが正しいように今は思うとは、とても言えない。
 謝りたい。謝れない。謝りたい。
 板ばさみになり、雪女が見ている前で唇を噛んでうううと唸っていた若君を救われたのは、同じ台所から顔を覗かせた母君だった。

「リクオ、お電話よ。カナちゃんから」
「え?カナちゃん?」
「そう。お礼を言いたいんですって。出れる?」
「う、うん ――― 」

 すがるように受話器を受け取り、「もしもし」と耳に当てると、聞こえてきたのはたしかに、幼稚園のあの娘だ。愛嬌溢れる、言いにくいことを言いたそうにするときの、ちょっと上目遣いな顔が目に浮かぶ。妹がいたらこんな感じなんだろうな、と、若君の方が少し背は低いのだが、若君がそう目をかけている、愛らしい娘だった。

「 ――― カナちゃん? ――― うん。うん、まだ絆創膏はってるけど、もう痛くないよ。熱も下がったし。……ううん、いいのに、そんなの。ボクこそ、ごめんね、こわがらせて。……へえ、あいつ来なくなるの?よかったね、カナちゃん。安心して遊べるじゃない。え、ボク?……ボクは……うん、怪我がちゃんと治ったら、また行くよ。心配しないで。……うん、そうだね、晴れるといいよね、楽しみだなあ!
 ううん、ボクこそ、ありがとう ――― 」

 ほんの少しのやり取りだったが、若君は心の内のどこかで拗ねて凝り固まっていた自分が、ほどけて消えていくように、またこれほどの簡単な言葉で今の己の気持ちをあらわすことができたかと、縁など要らぬと決めかけた、人間というものを少し見直された。
 受話器をお返しすると、母君はいつものように穏やかに笑って、しかしそこから去らず、若君の次の言葉を待つように、雪女と並んでおられる。

 言うべき言葉、切ろうと思っていた、縁などないと思っていた、人間の娘から教えられていた。

「雪女、ありがとう」
「 ――― え?」
「いつもありがとう。その ――― 大好きだよ」
「わ、若?」
「あははっ、真っ赤になった。寒椿みたいだ」
「若ッ!!からかわないでください。んもー」

 萎れた百合の花は、顔だけ湯気がふきそうなくらい真っ赤になって、着物の白さと相まって、まことに雪景色の中の椿のよう。
 雪女の隣で、母君が笑んだまま、しっかりと頷かれる。
 その母君に、あっと気がついた若君が、思い出されたご用事を申し上げた。

「あ、お母さん、あのね、そう言えば幼稚園に置いてある、絵の具の白と赤がもう無いんだ。後で雪女と一緒に、買いに行っていい?」
「あらあら大変、今度、遠足先でお絵かきするんじゃなかった?」
「うん。桜並木のところへ行くんだよ。今は咲いていないけど、でも咲いているように描こうと思うんだ」
「まあ、素敵ね。楽しみだわ。でもまだお熱が心配だから、お車、呼びましょうね。……氷麗ちゃん、ここはいいから、リクオといっしょにお買い物、お願いできる?」
「は、はい。承知しました」

 雪女が律儀に返事をする頃にはもう、若君は愛でてよしからかってよしのお気に入りの守役の袖を力任せに引きながら、上機嫌でお部屋の方へ向かわれている。出先で着物姿ではじろじろ見られてしまうから、出かけるときは雪女に手伝わせて着替えをされるのだ。
 この若君に、雪女はおっかなびっくりといった具合に、小声で問うてきた。

「あの、若、幼稚園には、やはり今後も通われるのですか?」
「うん。そう思ってるよ」
「その……昨夜のことは私、なんとお詫びをしてよいか……」
「昨夜?別に雪女が言ったからそう決めたわけじゃないよ、勘違いするな。屋敷の中でばかり遊んでても、つまんないからさ。遊び相手なら、人間相手だって悪くないからさ」

 表向きの理由は、これで充分のはずである。
 お前ごときの分際が、主の決めたことを左右するようなものではない、ただの己の気まぐれなのだと不遜に仰せになる若君の、しかし明るい栗色の髪からのぞく耳のてっぺんが赤く染まっているので、雪女はくすりと笑い、また若君の気遣いを大変に嬉しく感じた。

 迷っても良い。若君がこの年で心得られたのは、確かな道理であった。これが高じて、己は人間であるのだと、立派な人間になるのだと若君が仰せになり始めたそのときも、妖の縁捨て難く、迷いの果てに己の心を二つに裂いてしまわれるのは、あとほんの少し、先のことだ。


<了>











...獣 に あ ら ず...
我、獣にあらず。人の血を引きながら、而して魑魅魍魎の主たる者なり。迷い憂い悩みながらも、先へ進む者なり。
ものどもよ、迷うているか、憂いているか、不安であるか。ならば、我をしるべとし、我の後ろで、百鬼夜行の群れとなれ。