そろそろ迎えに行く支度をしようかといった時刻、若君が通う幼稚園から、奴良家に電話が一本かかってきた。
 幼稚園ではなく、若君は病院へいらっしゃるというのだ。
 お腹痛か、お熱か、一体どのような具合でと訊けば、怪我を負ったのだ、喧嘩であったようだと。

 ひんやりと、雪女の背筋が、さらに冷たくなったような気がした。

 母君はちょうどお留守であったので、雪女は母君がお持ちの携帯電話に連絡を一つ入れて、自分はお迎えに上がることにした。
 すると、病院の待合室で、幼稚園の園長先生と担任の先生に付き添われながら、若君がつまらなそうに足をぷらぷらとさせておいでである。泣いた様子もなく、顔色も悪くない。まことにけろりとして、雪女の姿を認めると、よろこんでぱっと表情が綻び、嬉しそうに駆けてこられた。

 悪かったのは、隣のクラスの男子の方だったのだと言う。

 ちょっと体の大きな子で、前からリクオくんにちょっかいかけてたみたいだから、気をつけてはいたんだけど……と、担任の先生が言うので、雪女には、若君から昨日伺った、ガキ大将であろうと察しがついた。

 若君は、手傷を負われていた。
 頬と手に、刃の痕がはっきりと。
 頬の傷は、もう少しで左目をかすめてしまいそうな位置にまで届いていた。
 包帯を巻かれた左手の掌の傷などは、たいへん深く、針で縫ったそうだ。その手当てを受けている間も、若君は一粒の涙もお見せにはならなかったのだと言う。

 相手になった少年は、逆にそれほどの怪我もなく、しかしひどく取り乱して、泣き続けていたのだそうだ。ごめんなさいごめんなさいと呟きながら、血走った目で、どこか遠くを見ているかのようで、傍に母や看護婦がいても、全くわからない様子なのだと言う。
 鎮静剤を打って、今は眠っているのだとか。

「リクオくんは、今日もカナちゃんを庇ってくれていたんです」

 年若い担任の先生が、申し訳なさそうに視線を落としながら、次第を説明する。

「前から休み時間にカナちゃんを追い掛け回したり、遊んでいるところへ苛めに行ったりしていたので、注意はしていたんです。リクオくんはいつも、カナちゃんが泣いていると助けてくれて、人の多いところに連れてきてくれるんですが、今日はそれができなかったみたいで。
 子供って、どこで憶えてくるんでしょうね、その、カナちゃんの話だと、手下みたいにした子供たちを使って、囲んだらしいんですよ。それで、ちょっとしたとき、物陰から逃げられなくなったところに、あの子、隠し持った刃物を……カッターとかじゃなくて、本物のナイフを出したらしいんです。
 私が気づいたときにはもう、リクオくんは怪我をしていて、取り巻いていた子供たちは散り散りになり、あの子は、腰を抜かしてぶるぶる震えながら、お漏らしもしていて、ナイフは床に落ちていました。ナイフを使ったのは自分です、持ってきたのも自分ですって言ってましたし、リクオくんが怪我をしていたので、間違いはないはずなんですが、何だか、怪我をさせた方とした方が真逆のような怯えようで……すみません、言葉が過ぎました」

 そして、担任の先生がこの有様を見つけたそのとき、リクオの後ろに庇われていたカナという娘が、こう呟いて逃げてしまったのだという。

 ――― リクオくん……こわい……。

 リクオを刺したと思われる、隣のクラスの男子は、それ以上ろくに話せる状況ではなく、逆に刺されたリクオは、傷の手当をしているときも、せいぜいチクリとやられるたびに顔を引きつらせる程度で、泣きも喚きもせず、石のようにおし黙ったまま何も話そうとしない。
 いつも元気で、素直で、にこにことしている、ちょっとだけ悪戯好きの男の子は、そこには居なかった。

 状況から見て、リクオくんに否はありません。
 あちらの親御さんにも、わけはこちらから話していますし、この後、ご自宅へお詫びにもあがります。

 ひたすら頭を垂れて深く礼をされながら、しかし、雪女は言い渡された。

 とりあえず明日一日、リクオくんはお休みしていただけませんか……。
 お熱が出ると思いますし、その方がリクオくんも落ち着くと思いますので……。
 決して他意はないのです、リクオくんが悪くないのは、よく存じておりますから……。

 雪女は、よく知っている。
 これは、怖くて異質なものを、遠ざけるための慇懃さだ。みことのりと同じなのだ。
 伏してお願い申し上げ、奉り、こちらに近寄って下さるなと、そういうことなのだ。

 家に帰ると、母君は既にお戻りである。書院造の玄関で、きちんと正座して、若君が帰ってくると、にっこりと優しく微笑まれた。若君はお母上の視線から、ついと視線を逸らして一瞬俯き、しかしやがて、きっと強くこれを見返された。
 母君は、これだけで合点したらしい。そもそも、母に後ろめたいことがあるのなら、落とした視線を上げられぬほど己を責める子であると、ご存知なのである。

「おかえりなさい」
「うん、ただいま」
「怪我をしているのに動き回っては、お熱が出てしまうから、今日はもう、外で遊んじゃだめよ」
「うん」
「何か、食べたいものはある?」
「……プリン大福」
「くす。用意しておきますからね。氷麗ちゃん、今日はお台所はいいから、リクオについていて下さる?」
「はい、かしこまりました」

 部屋へ戻るリクオを心配し、縁深い大物妖怪たちや、小物たちまでぞろぞろと付いてきて、若君も外で遊んではいけないといいつけられているので、みんなで花札や百人一首でもやろうとこれを座敷へ可愛らしく招かれる。
 最初は皆、どこかぎこちなく始めた遊戯を、毛倡妓や首無が、「お茶でありんす」「リクオ様ご所望のぷりん大福、買ってきましたよ」と入ってくる頃には、すっかりいつものように打ち溶け合って、つい若君の傷のことも忘れがちでいたのだが、お茶を運んできた二人を交えたまま皆で談笑などして、若君がお茶をすすったついでに、「イテ、まだしみる」と顔をしかめ、頬の傷を気にされるいとけないその様が尚のこと、頬や手の傷を痛々しく際立たせたものだから、はっと弾かれたように若君に目を向けた。
 青田坊などは痛ましそうな顔をしながら、大きな手の平で宝物に触れるように、そっと若君の髪などを撫でるのだった。

「痛かったでしょうに、よく我慢なさいましたねえ、流石は我等が若でいらっしゃる」
「当たり前だよ、これくらい、何でもない。だってボクは三代目になるんだから」
「こりゃあ頼もしい。のう、首無」
「ああ、我慢強くおいでで、ほっといたしました。それにしても、まだ七つにもならないうちに刃傷沙汰とは、今の世の中も、なかなか物騒ですねえ」
「あいつんち、なんだっけ、父さんがどっかの偉いやつなんだってさ。小遣いもたくさんもらってるって言ってた。それで、なんだっけ、家庭教師?だかの人と一緒にお店に行って、ああいうの、たくさん買ったんだってさ。それで、なんかいっつも偉そうにしてたから、かまわないでおいたのだけど、今日はもう、我慢できなかったんだ。あいつが、何の理由もなく、ああして刃物を出してきたから」
「そりゃあそうだ、刃物でぶっさされて、我慢してやる義理もねえ。……って、若は、一体何を?」
「しなかったよ、まだ」
「まだ?」
「うん。あいつに、これは真剣勝負ってことでいいんだなって、念押ししてたところで、見つけられたから。ほら、あいつらガキだろう?刃物を出すってことは、自分のタマを札に替えて、相手のタマとどちらが残るかの賭けに等しいんだぜ、わかってるかって、言ってやったんだ」
「ほう……そりゃあ、そうですな、たしかに」
「最初にあいつが刃物を振り回したとき、ボクの目元にちょっぴり当たっただけで、あいつ、驚いててさ、ああこれは本気じゃないなって思ったから、今度はこっちから掴んでやったんだ、こうやって」

 大福を両手でささえ、粉が口のまわりにくっつくのを構わずにはぐはぐとやっていた若君はそこで、ほとんど覆い隠されるように包帯が巻かれた小さな片手を、前に向かって突き出し、何かを掴むような所作をなさる。
 集まった皆が声を失ったのも気づかず、さらにお続けになった。

「あいつ、自分が刺されたみたいに顔を青くして、すぐにナイフを引いて取り落としたもんだから、思ったより傷は浅かった。手の甲まで突き破ろうって思ってたから、そうならなくてちょっと得したかな。
 ナイフはそれで床にたよりなく落ちて、あいつったら、慌ててこれを拾おうとするから、言ってやったんだ。
 拾ったら、次は容赦しねーぞ。お前の刃物を奪い取るなんて簡単だって、今のでよくわかったろう。今度は、ぶるぶる震えてるお前から取るんだから、もっと簡単だろうよ。でも、次に刃物を手にしたら、本気でオレに向かってくるって決めたんだって思うから、だから今度こそそいつを取り上げて、逆にお前を一刺しにしてやるぞ。
 って」

 話している内容よりも、胃袋に消えてしまった大福を名残惜しむように、ちろちろと指先を舐めている様は子猫のようであるのに。

「それでもあいつが刃物を手にしたら、今度は本当に殺ってやるつもりだったんだ。そうしないと、相手にだって失礼だし、ずいぶん腹もたってたから。でも、その前に人が来たし、あいつもずいぶん怖がってたから、今日はあれで勘弁してやろうと思うよ。
 ――― あれ、みんな、どうしたの?続き、やらないの?じゃあ、ねえ、今度は何して遊ぶ?」

 昨日と同じように笑う若君なのに、昨日までは、この若君はいまだ妖へ化生もせず、人の姿であらせられると可愛がるばかりだった妖怪たち、この笑みに言い知れぬ畏れを感じておし黙る。

 この御方、もしやこの姿で、既に人にあらざるのではなかろうか。
 そう遠くない未来において、このようににこやかに笑いながら、刃向かう手合いを斬り裁き、斬った後はすっかりそれを忘れて、さあ今度は何をして遊ぼうかと、今日と同じように微笑まれるのではないのかと、このいとけなさこそを《畏れ》た。
 しかし、妖怪たちには《畏れ》に伴うなんらかの違和感を表す術を、持たなかった。
 第一に、どのような形であれ、《畏れ》は妖怪になくてはならないものだ。
 相手を威圧するものであれ、包み込む慈愛に例えられるものであれ、心を揺るがすものでなくてはならない。であれば、底知れぬ《畏れ》があったとて、さすがは若と誉めそやすことはあれ、叱る理由など見当たらない。

 青田坊などは、これはいけねえ、若君を叱ってやらねばとも思ったが、ふと我に返るともう、一体何をだ、妖怪任侠の三代目はこれでいいじゃねえかと自分でもわからなくなってくるし、黒田坊は、青田坊よりも少し己の戸惑いの理由がわかっていて、無垢なまでに人ではないものとしてお育ちの若君に、少しの憐憫さえ感じていたのだが、しかしそれは己等にとって都合の良いことでしかないので、やはり黙っていた。

 首無も同じだ。もし否定しようとすれば、己を傷つけようとした相手を許せなどと言えば、これでは己自身をも、否定することになる。今はこの奴良家に仕え、奴良家を守るために力を奮っているとは言え、過去には恨みの果てに死して尚、根の国を拒み、己を死に追いやった者どもを血祭りにあげて復讐を果たしたのだから。
 彼を否定できぬ、彼を守るためのみに身を妖へ堕とした毛倡妓とて、どうして、若君に人の道理を説いてあげられよう。

 ただ一人、雪女だけが黙っていなかった。
 ぱちん、と音がした。正確には、音がしたような気がした。
 妖気を待とう彼女の身で、直接触れては若君の柔らかな肌が傷ついてしまう。

 だから、袖に手を隠したまま、彼女は若君の頬を打ったのだった。
 ただ守をせよこれに仕えよと仰せつかっただけの女怪が、仕えるべき主を打ったのだ。あってはならないことだった。

「若、手を上げたこと、後でいくらでも咎をお申し付けください。でもいけません、それだけはなりません。今の若のお言葉は、まるで人のものとは思えぬ残酷なものです。
 人は間違いを犯します、時々約束も破ります、その全てを許せとは、この雪女も申しません。でも、冗談だったとしても、そんな風に軽々しく、人を殺めるなどと、決して、仰せになりますな」

 これほど気色ばんで己を叱るこの女を見るのは初めてで、若君はぽかんと口を開け、しばし雪女の吊りあがった目元や、今はきつく結ばれた口元などをしげしげと眺めておられたが、やがて我に返り、なにをとこちらも気色ばんだ。

「なんだと、じゃあお前は、ボクがそのまま殺されていれば良かったって言うのか」
「そうは申しておりません。若は先ほど仰いました。その少年は、若の目元に刃物があたっただけで、怯えていたと。本気ではないと思われたと。刃物に関して素人であると、若は見抜いておられた。なのにさらに追い込むような真似をなされたのは、若ではありませんか。それを、また向かってくるようなら今度は殺めるなどと、そんなおそろしい真似をすれば、いくら若に非が無いように見えたとしても、そして、あちらにいくらか非があったのだとしても、人々は若を怖がります。怖がられれば、いつか人の世から、追放されてしまいます。若はこれから人の世の中を生きていかれるのですから、そのように恐ろしいことは、仰せになってはいけません!」
「そりゃ、あいつが尻餅ついたときは、ちょっと面白いなって思ったけどさ ――― いいよ、ボクは妖怪の総大将になるんだもん、人に怖がられたって当然でしょ」
「力で押さえつける恐怖など、それより上回る力に押さえつけられればすぐに失われてしまうもの。それに、若は人の血も引いておられるのですから、その縁もどうか大事にされた方が」
「いいよ、いらない。人の子なんてつまんないよ。特に縁も感じない。あんなつまらない生き物より、お前たちの方がよほど大事だし、ボクは妖怪として生きるんだ」

 これには、縁ある妖怪たちの中には、思わず胸にぐっと迫るものを感じた者もあるが、雪女は全く許さない。

「何であろうと、いけません。それは、若君は妖の血を引いておられるので、他の人の子より、少しませておられます。でも、人の縁や情愛を、どうか軽んじますな。生まれてからまだ、ほんの七年が経とうか経たないかといったところではありませんか。苦いことも多くございますけれど、だからこそ幸せな時はこの上ない輝きを放つのが人の世にございます。せっかく人の血を継いでお生まれになったのですもの、若の身の内に流れる血を軽んずるは、私は許せません。
 御願いです、もう二度と、人の子相手に殺めるなどと軽々しく言わないと、雪女と約束してください。いいえ、《契り》なさい」
「もういい、その話はもうしない」
「若!」
「 ――― くどい、しめえだと言ったのがわかんねーか!」

 幼子とは思えぬ一喝であった。
 己が主で、目の前の女は己のはしためであると、この年にしてそれがきちんとわかっておいでなのだ。
 常日頃、雪女、雪女、と他の妖怪よりも深くなついておられるように見えたが、これが若君のご寵愛のあり方なのだと、言葉もなく黙っていた他の妖怪たちは、心の内で得心した。

 しかし、雪女は負けじと言い返す。
 他の大物妖怪たちでさえ、一瞬怯んだほどの、若君の覇気である。雪の女怪など、本当は今にも伏して目を瞑ってしまいたいだろうに、袖をきゅっと掴んで己を奮い立たせ、それでも尚、続けたのである。

「ええ、わかりませんとも!せっかくの尊いものを、むざと路傍に放り投げるような真似をする子があれば、叱るのがこの守役の勤めです!若、今はくだらない、つまらないとお思いになることでも、後から振り返れば、きっと ――― 」
「うるせえうるせえうるせえ!黙れ氷麗!てめえのような守役などもういらねえ、今すぐ失せやがれ、オレの目の前に、二度とその辛気臭えツラ、見せるんじゃねぇ!!」
「 ――― ッ……承知、いたしました。若の仰せならば、いたし方ありません。御山に帰ることにします。 ――― ああ、若、でも、若、最後にどうか」
「うるせえと言っている!てめえの御託は、もう聞きたかねーんだよ!」
「いいえ、もう申しません。最後にどうか、謝らせてください」
「 ――― ?」
「ごめんなさい、ごめんなさい。こんな女が守役だったから、私が妖怪でも、若が何のわけ隔てなく接してくださったのに甘えて、人の姿になることもなくお傍に侍っていたから ――― だから、人よりも妖に近い気持ちを抱いてしまったのでしょう。本当に、ごめんなさい」
「………そ、んなの、仕方ねぇだろ。ただでさえドジなのに、人の姿なんかになったら、雪女、全然妖力使えないんだし。ボクの護衛も兼ねてるのに、何もできなくなっちゃうじゃないか」
「いいえ、いいえ、甘えずに、私は人の姿でいるべきだったんです。そうでなくても、もっとお外で、人のお友達を早く作るようにしていれば、きっとこんなことには……。せっかく若には人の血が流れておいでなのに、こんなに早いうちから人の縁を断つなんて、あんまりすぎます。もっと遊んでいていいお年頃なのに、人の子のように怖かったと怯えたり、人の子のように血を見て泣いたり、していていいはずのお年頃なのに……ごめんなさい、若、などとお呼びして、我等が三代目になる御方と私があんまりはしゃいでしまったから、そんなに小さな肩なのに、こんな風に責任をお感じになって、大人びてしまって……」

 堪えられず、はらはらと、雪女が伏せた睫の影から、みぞれの涙がぽたりぽたりと畳に落ちる。
 頭に血が上っていた若君は、冷水を浴びせられたように我に返り、この上ないご寵愛を寄せる守役の手を取ろうとして、肌に触れてはいけないと言い聞かせられているのを思い出し、雪女の着物の上から、そっと、女の手であろうところに、もみじのような小さな手を重ねられた。
 袖の中で、雪女の手が小さくかたく握り締められ、兎のように震えていると知ると、はっと目を見開かれた。
 こわがられている。おそれられている。己が、この優しい雪娘を、怯えさせてしまっている。ようやく、それに思い当たった若君は、途端に後悔した。縁深い妖怪たちを背負う百鬼夜行とならんと思うのは、まさに背負う百鬼たちを守ってやろうと思うお優しさからであり、将来己が背負う百鬼を無下にするような御方ではない。

「ち、違う。雪女のせいじゃないよ。ごめん、なさい。ボク、どうかしてた。酷いことを言ったね。本当にごめん。何だか、アツくなっちゃった。
 お前がそんなに言うんなら、んと、ボクより結構長く生きてるんだよね?なのに、人を見限らないで、人もいいってお前がそんなに言うんなら、ボク、もう少し、人の世の様子とやらを、見てみるからさ。うまく人の中で、やってみようって思うからさ。約束するよ、《契る》よ、お前が言うように、人の子を殺めるなんて、簡単にはもう言わない。なるべく、人の嫌がることもしない。立派な人間だと思われるように振舞うから。
 だから、お願い、泣かないで、氷麗。お願い雪女 ――― お願い、氷麗、これからもどうか、ボクの傍にいて」

 涙を拭ってはやれないので、若君ははたはたと落ちる涙が、畳に露と消える前に、頬から落ちたところを、そっと掌にすくってやるのだった。