幼い頃から、お傍に侍っていたのは妖怪ばかり。
 五百年続く名家に生まれ、若君若君とちやほやされて、いずれ貴方はこの家の主となられるのですよと、上に立つものとして育まれ、その上、父君を早くに亡くされてからは寂しい思いをさせまいと、皆々も尚のこと、真綿にくるむような扱いをする。

 奴良家が浮世絵町に屋敷を構えたのが、徳川幕府がまさに開かれた頃。
 その縁により、徳川家になぞらえてみると、三代目というのは生まれながらにしての主なのだそうだ。
 苦難の末、道を切り開いた一代目。
 拓かれたところが崩れぬように、しかと踏むのが二代目ならば。
 三代目の成すことは、拓かれ慣らされた道を行き、さらに先を目指すこと。
 ゆえに、三代目は生まれついて百鬼夜行を背負うを約束されており、またさだめられているから、これから逃れようとすることあらば、これは背負ったものを野に放ち、二代目までで築いてきた安寧を葬ることですらあるのだと。

 とは言え、この屋敷で三代目と望まれる若君は、まだ理屈も道理もわからぬ幼子だ。
 少なくとも、屋敷の皆はそう見ていた。
 上げ膳据え膳は当然の生活で、己が大将と祭り上げられれば、秘された責など知る由もないまま、ただ表だけを見て、今は「三代目になる」と舌足らずに仰せであるのだろうと、微笑ましく思っている。

 生まれながらの、三代目であらせられるとしても、まだその責を追うには早い、幼い。

 屋敷の中だけが若君の世界であった頃は、これが特に問題になることはなかったのだが。

「どうして、そんな事をされたのです」
「あいつが、ボクに足をかけて転ばそうとした。だから逆に転ばせてやったんだ。それでも向かってくるから、喧嘩になったけど、勝ったよ」

 それが何、と、若君は無垢なお顔を得意そうに輝かせて、雪女を見上げてくる。
 その向こうで、喧嘩相手の男の子は、お迎えの母親の前でぴいぴいと泣き声を上げ、ろくに説明もできやしない。
 困惑する母親と、幼稚園の先生の前、雪女は若君に視線を合わせるためにしゃがんでいたが、やがてすっくと立った。

「大変、申し訳ございませんでした。守役の私の責任です。今度のこと、この子がしたことがどんなに酷いことか、きつく言ってきかせます。二郎くんをお医者に連れていかれるなら、是非ご一緒させてください。どうか後で、きちんとお詫びにもお伺いしたく存じますが、ご訪問のお許しをどうか、いただけますでしょうか」

 まだ少女の面影を残す雪女、今日は長い黒髪を瑪瑙の簪で上にまとめ、薄く藍に染めた結城紬に草花の柄を散らしたのを纏い、これに白菫色のつづれ八寸帯という、ちょっとした余所行き姿。
 深く腰を曲げて一礼する彼女に、相手の母親の方が面食らい、Tシャツから伸びる日に焼けた腕を忙しく横に振った。

「ううん、いいのいいの、気にしないで。ちょっと擦り剥いたくらいだし、こんな傷、喧嘩しなくったってしょっちゅう自分で転んで作ってるから、いちいち医者なんて行きゃあしないんだし。だいたい、子供同士の喧嘩なんて、当然だしさあ」
「でも、それでは家の方々に怒られてしまいますし、何より私の気が澄みません」
「いいって、いいって。家の人には、黙っておけばわかんないって。馬鹿な母親みたいに、うちの子だけは悪くないなんて、そういうこと言うつもりないしさー、勘弁してよ。お姉ちゃんみたいなしっかりして綺麗なお手伝いさんに来られたって、うち、小汚いから、見られたくないし。その子には、お姉ちゃんからしっかり言い聞かせてくれるだろうしさ」
「とんでもない、どうか嫌わないでください。その、これは屋敷での格好ですので珍しいと思われるでしょうけど、赴くときにはきちんとそれ相応の格好をいたします」

 尚も平身低頭して謝る雪女に、母親は恥ずかしそうに笑うばかりで取り合わない。
 えぐえぐと泣き続ける息子相手に、逆に「あんたも、いつまでもピイピイ泣いてんじゃないよ、キレイなお姉ちゃんの同情引こうとしたって、母ちゃんにはわかってんだかんね」冷たい一瞥を浴びせ、ぺしりとやった。

 ならば、これ以上お引止めしてもかえってご迷惑になるかと思いますので、また明日、若君のお迎えに上がる際にでも、改めてお詫びを申し上げますと約束し、今日のところは雪女、諦めて帰ることにする。
 去り際、まだ少し涙の緒を引いていた男の子の傍に座り、本当にごめんね、痛かったね、と、袖を持ち上げてそっと頭を撫でてやると、その子は真っ赤になった目を見開いて雪女を見つめ、恥ずかしそうに母親の後ろに隠れてしまった。

 家に帰り着くまでの間、終始無言であった雪女がいつになく深刻な表情をしていたのも、家について手当を受けてからも解放されず、その守役と正座で向かい合わされたのも、若君は腑に落ちぬ様子であった。
 この様子だと叱られる様子らしいというのはわかるが、何故叱られるのか腑に落ちない様子だ。

「若、あのように、手加減なく打つことはよくありません。どうしてあんなことをなさったのです」
「手加減なんて、あっちだってしてこなかったよ。なんでボクだけが、手加減してやらないといけないの?」
「決着がついた後も、まだいたぶるような真似をなさっていたと聞きましたよ」
「ボクの方が強いってわかったら、あんなこともしなくなるだろう。あいつすぐそういうこと忘れるから、もういい加減、体に教えてやろうと思ったんだよ。
 あいつ、自分が弱いからって、強い奴をみつけて靡こうとするんだ。隣のクラスの奴に一人、体がでかくて乱暴なのがいて、そいつの子分みたいになんでも言うこと聞いて、そいつがやれって言ったことをやってるんだよ。
 それでもう、何人も泣かされてるんだ。先生が見つけて叱ったら、今度は見つからないようにやろうとする。この前、それで泣かされてた女の子がいたから、いい加減やめろって言ってやったんだ。ひどいんだよ、砂とか水かけたり、可愛い服に泥つけたりして、えげつねーの。
 苛められてたのは、同じクラスの子なんだ。人間にしては可愛い娘でね、カナちゃんって言うんだ。その子と遊びたいって思ってたのに、断られたから意地悪してやってたみたい。やめろって言って、その子の手を引いて、グラウンドから教室に連れて行ってあげただけなんだけど、そしたら、今度はボクにちょっかいかけてくるんだよ」
「まあ……それは、少し困ったことですね。先生はご存知なのですか?」
「先生が止めに入るときもあるし、そうでないときもある。大人の事情なんて、よくわからない」
「若を、そんな困った場所に置いておくのは、少し不安でございますね。幼稚園に通わせるのは若菜様のご意向でもありましたし、若は人の世も渡っていかれるお方ですから、通うのが駄目とはいいませんが、今通っているところにそのまま若が行き続けるのは、雪女としても生きた心地がしません」
「ははは、変なの、妖怪のくせに生きた心地だって」
「若、真面目なお話です。雪女の言うことに、よく考えてお答えくださいね。明日から、同じ幼稚園に通い続けていたいと思いますか?無理をする必要など、どこにもないのですから、嫌なことは、嫌だって仰ってくださいね」
「うん、ボク、明日も同じ幼稚園に行くよ。だって、ボクは何も悪いことをしてないもの。カナちゃんにだって、ありがとうって言われたよ。それに、場所を変えたとしても同じだよ。何かあるたび逃げたところで、違う場所にだって、同じように大きな顔をしている奴がいる、結局そいつを倒さないと先には進めないんだって、じいちゃん、よく言ってるもん。ボクは奴良家の三代目になるんだ、こんなことぐらいで負けないよ」
「そうですか、わかりました。でも若、一つ約束してください。若のお爺様は、こうも仰っていますよね、百鬼夜行を率いるならば、相手の百鬼夜行の頭目と張るぐらいの気概がなければならないと。
 雑魚など、相手になさいますな。それに、あまりやりすぎるのも、よくありません」
「よくないって?どういうこと?」
「人に厭われれば、人として、住みにくくなりましょう。若が乱暴だと思われるのは、雪女は心苦しいです。若は総大将の血を引いておいてですが、同時に、人の血もまた、引いておられるのですから。同じ人から、あいつは仲間ではないなどと言われれば、哀しゅうございましょう?」

 若君は、尚も首を傾げていた。
 胸の内を明かすなら、人と妖の境界線など、若君にはこのときよくわかっておらず、昼日中に住むものと、夜月光の下に集うものと、それぞれのおもしろさにただ夢中であったのだが、雪女がいつになく顔に翳りを落として言葉を尽くしてくるのが痛ましいので、ここはわからないまま、うんと頷いておくことにした。
 母や守役女の気落ちした表情や涙を見るのが、何より嫌な心もちがする、お優しい若君なのだ。
 これで雪女は安堵して、日向に煌めく雪のような、柔らかな笑みを浮かべたので、今日この話は終わりになった。
 その後、若君がいつになく弱気に、「今日も遊んでくれる?」と袖を引いてこられたのが、類まれなきほど愛くるしく、今日の憂いなど、すぐに忘れさせてくださったのだった。

 しかし、次の日、いよいよ、雪女の憂いは深刻なものになった。