そうして、雪女の氷麗さんは、友人たちがそれぞれ帰途に着き、屋敷がすっかり静まった頃に、ぼんやりと目を覚ましました。強い薬であったようで、頭がくらくらとし、しかしここが己の屋敷の布団であることから、「妖怪って帰巣本能があったのねえ」などと考え、ほっとしている有様です。 水が飲みたいのですけれども、何せ頭がぐらぐらとしておりますから、起き上がるのも億劫で、ううんと苦しげに目を擦ります。気分が大変に悪いのです。 「 ――― 水か、ほら」 「ん ――― 」 聞き覚えのある声が、すぐに気づいて水差しから氷水を湯のみに注ぎ、氷麗さんの体をそっと起こして己にもたれかけさせ、水を飲ませてくださいます。 怪しむよりも安心感が先立って、たくましい胸に体をもたれさせ、水をくいと飲み干しました。 ほう、と息をついて少し落ち着きはしましたが、体を真っ直ぐにしておくような力が入りません。 それでも、いつまでもこんな風にもたれかけていてはと、身をよじりました。どこのどなたかわかりませんし、聞こえた声は殿方のものであったような気がします。朦朧とする意識の彼方なので、よくわかりませんでしたが、気を許したひとでなければ、たとえ戯れや介抱であったとしても、決して身を任せたくはないのです。 大丈夫だ、といつもの口調で言いそうになったところで、男君は、夢うつつにぼんやりとする女を見つめているとにわかに悪戯心を起こされました。 「大丈夫ですよ、お嬢。もう大丈夫ですから」 「あ ――― ?若ぁ……?どーして……?」 「若?何をとぼけた事を仰っていなさるんです。全く、火遊びも過ぎますぜ。婆がオレに言いつけて、後をつけさせなかったらどうなっていたことか。案の定、妙な男に言い寄られてやがるし。お嬢は無意識な分、タチが悪いんだ。一人も虜にできない、んじゃなくて、何人虜にしたか知らないし憶えてないし興味がない、って言った方が正しいんですからね。全く、いつまで守役が必要なんだか、うちのお嬢は」 お嬢、とは、確かに実家へ戻ればそう呼ばれていた氷麗さんなので、納得したのですが、そう呼ぶ男は、氷麗さんが出仕している本家の若頭のお姿をしています。 おや、と首を傾げたものの、結局、そういう夢なのだろう、とぐらいにしか思いませんでした。 自分は実家のお嬢様で、男君は自分の守役。そういう夢なのだろう、と。 だいたい、考えようにも薬がまだ体を巡っているのですから。 「 ――― よく、わからないですぅ……気持ち悪くて……ううぅ、体が、痺れて」 「はいはい、よしよし」 「あ、それ、いいですねぇー。もっとなでなでしてください。ふふふっ、今日はなんだかイイ夢、見ちゃったぁ……」 「そうですかい」 「そうですよー。リクオ様にこうしてもたれかかって、なでなでしてもらうなんて、ふふふ、いつもと逆ですけど、でも、すごく嬉しいですぅ……」 「なんです、リクオ様、なんて、気色悪い。リクオ、リクオと呼び捨てにしているでしょうが」 「ははあ、そういう設定の夢ですかぁ。なかなかよく出来てますねえ」 「さ、お嬢、落ち着かれたんなら、少しお眠りなさい。オレは隣の部屋に控えていますから」 「……だめ。リクオはここに居るの」 男君の悪戯が、見事成功した瞬間でした。 いえいえ、氷麗さんを責めることはできませんよ。だって、目を開いて天井を見れば、そこは確かに己が生まれ育った屋敷の己の部屋のものだと、目に映る壁や窓を見ればそう断じることができますし、衣紋掛けにかかる打掛まで、己のもの。丸窓から差し込む月光に、冴え冴えと照らし出された己の部屋で、己は都合の良い夢を見ているのだと、思っても仕方のない状況です。 それに、男君ときたら、ぬらりくらりと、誰の心にも入ってきてしまう妖の者。夢うつつの雪女など、ひとたまりもありません。 今このとき、氷麗さんの夢の中では、男君はこの家に仕える一人の近侍で、氷麗さん自身は、この屋敷のお嬢と、そういうことになったのです。そして、お嬢さまは自分の近侍に、間違いなく、恋をしているのです。 雪屋敷のお嬢様は、すっかり、しどけない寝巻き姿で、衣一枚で隠しただけの柔らかな体を、たよれる近侍に委ねてしまいました。近侍がゆったりとした両袖で包んでくれるのを、胸元にしがみついて甘え、白檀の香りを嗅いで、うふふと少女のように笑います。 どうやら、夢うつつを心ゆくまで楽しむことに決めてしまったようです。 「リクオはまだ、ここに居るの。ねえ、もっとなでなでして」 「まったく、いつまで経っても雪童のようなことを」 「リクオの腕は好き。あったかくて、優しくて、いい匂い。今日の男の腕は嫌い。粗野で、無骨で、汗くさい。ああいう集まりのところには、そういう男しか居ないような気がする。ああ、嫌だ嫌だ。忘れさせて、優しく撫でて」 「何故わざわざ、そういう男しか居ないと思われる場所へ、足をお運びなすったんです」 「だってぇ、久しぶりに会うんだったのよ。あの後、本当は四人でちゃんと飲みなおす予定だったんだから」 「あの三人は、お嬢がいつまでたっても、これという男をお決めにならねえから、心配したんですよ。どこかに居ないんですか、これという野郎は」 「いないわ。私には、リクオがいるもの」 「 ――― 守役ですぜ、オレは」 「かまわない。知らない。そんなの、どうでもいい」 「困った姫さんだ。そろそろ、お眠りなさい」 「口付けして、リクオ。そうしたら眠るから」 そっと氷麗さんは目を閉じました。 まもなく、瞼にそっと落ちてくる優しい口付けに、淡く微笑み。 「次は、額 ――― 次は頬」 さすがは夢の中。氷麗さんの思うがままです。男君の唇は、羽毛が触れるように、ふわふわと優しく、額を、そして頬をかすめます。 雨、あられのように、お願いした場所へ、二度、三度と降り注ぐ口付けに、この夢がずうっと続けばいい、と願ってしまいそうです。 嗚呼、ゆきやこんこ、あられやこんこ。 「次は、唇」 「お嬢」 「お願い」 「 ――― 駄目だ、やっちまったら、これ以上は我慢できねーや」 「え?」 ちゅ、と、口付けが施されたのは、氷麗さんの鼻の頭。 これほどまでに願ったとおりなんて、やっぱり、これは夢であるようだ、と、氷麗さんはにっこりしました。氷麗さんがこのひとこそはと思う方は、夢うつつの氷麗さんの唇を、奪うような真似はしない潔い御方ですから、夢の中でもその人は、お嬢様の命令とは言え、呂律も回らずぼんやりしている氷麗さんから、唇を盗むような真似はしないのでした。 「夢の中で掠め取るような真似、お嬢は嫌うでしょう。オレも同じ。だから、それはお預けだ」 お遊びはここまで。 腕の中に抱いた氷麗さんを、男君は布団の中に戻してやり、しっかり布団をかけてやるのです。 「ふふふっ……やっぱり、夢の中でも、リクオ様は、リクオ様」 「そろそろ眠れ。朝になれば、薬なんぞ抜けているから」 「うん……ねえ、リクオ」 雪屋敷のお嬢様は、愛しい近侍の男に、そっと呼びかけました。 「……なんです、お嬢」 「大好き」 布団から、白い手だけを出して、傍らの男君の手を握り、氷麗さんは目を瞑り、すうすうと眠りの中へ戻ってしまいます。この手を握り返しながら、男君は、己が悪戯を仕掛けたつもりが、すっかり氷麗さんの術中にはまってしまった気がして、嗚呼、と一人、天井を仰がれました。 「 ――― ならこのまま、駆け落ちでもしちまおうか、なあ、氷麗」 男君の呟きは、ただ月だけが、聞いていたようでございます。 やがて陽が昇り、氷麗さんの目元を陽の光がくすぐった頃には、男君の姿は無く、目覚めた氷麗さんは、昨夜の夢に頬の熱を上げながら、夢の中で男君の手を握っていた己の掌を、そっと、握ったり開いたりしてみました。 夢だったというのに不思議と感触があり、しかし、男君がこんなところに来られるはずはないので、やはり夢であったのだろう、己の、慕う心があんな夢を見せたのだろうと、恥じ入って、なかなか褥から出られないのでした。 はい、ここに来ても氷麗さん、男君のことは夢だと思っていたのです。 盛られた薬は強いものでしたし、男君の術は、言霊だけとは言っても弱いものでは決してありませんので、すっかり騙されて、夢であろう、そうであろうと。 しかし、婆が気を使って、朝粥を寝床まで持ってきてくれたときに。 「お嬢様はいつも、本家の若さま若さまとばかり仰せで、子守にしか興味が無くなってしまわれたのかと婆は心配しておりましたが、あのような素敵な殿方を虜にされていたとは。いやはや、あんな素敵な婿殿がいらしてくだされば、この屋敷も安泰でございますねえ」 「 ――― え?何?」 「何って、昨夜、お嬢様を送ってくださった殿方ですよ。昨夜の集会で助けられて、送ってくださったと、ご友人たちも仰せでしたよ」 氷麗さん、よく冷えた粥をもぐもぐやりながら、昨夜のことを思い返してみるのですが、途中、盛られたと思った辺りから、記憶が曖昧です。夢と現が絡まっていて、はきとしません。夢の中では、主の香りを嗅いだ気がします。あの腕に抱かれると、不思議と安堵して ――― 。 「しろがねの髪に瑪瑙の瞳、着流し姿も粋で、うっとりとするような妖艶な殿方でございますねえ」 ぶふーーーーッッ。 氷麗さん、もぐ、とやっていた粥を見事に吹きました。 どこかの男君と、リアクションが大変に似てますね。 多分、こっちが本家なのでしょう。なにせ、婆は、氷麗さんの吹いたものを、さっと素早い身のこなしで、避けてみせましたから。慣れているのでしょうね。 「まあまあ、照れておいでですか。今朝方、まだ陽も昇らぬうちにお帰りになりましたが、是非、お母様にもご紹介したかったですねえ。あ、お母様はお昼にはお戻りですよ。まだあの御方の事は伏せておいた方がよろしゅうございますかねえ。それで、お嬢様、あの方はどこのどちらさんで?」 「な……名乗らなかった、の?」 「ええ、名乗るほどの者ではないし、まだお母様に挨拶などする度胸も無いから、などと、意地らしいことを申しておりましたよ。《あったか〜い》玉露をお出しして、火鉢を使った部屋でお休みいただけるように床の準備をしましたが、ほとんどそちらは使わずに、お嬢様をつきっきりで看病してくださって。いやぁ、たくましくたのもしくお優しい、殿方の鑑でございますねえ」 「つきっきり……?」 「ええ、朝方まで、ほとんどつきっきりで ――― お、お嬢様、どうなさいました、おおぉ、お熱が!」 ぷしゅう、と、頭から湯気を噴きながら、氷麗さん、慌てふためく婆や侍女たちの気配を遠くに感じつつ、友人たちの言う『狂おしい』という感情を、己がどうして感じずに済んでいるのか、思い当たるのでございます。 だって、その御方のことで、知らないことなど氷麗さんは、無いのです。 だって、その御方は、こうも一途に己を想ってくださるのです。 両想いだなあと、わかるのです。 妬みも嫉みも育たずに、ただただ、いとおしさだけが育ってしまい、狂おしさなんて、二人でぴったりとくっついていると、どこかへ溶けてしまうのです。 にしても、恥ずかしいやらこそばゆいやら。 眠りに落ちる間際に聞いた、男君の声に、今ようやく氷麗さんは言葉を返しました。 「ああ、はずかしい、はずかしすぎます。ええ、今すぐここから消えられるのなら、駆け落ちでもなんでもいたしますから、今すぐ浚いにきてくださいよう、リクオ様ぁ」 <了>
...あ ら れ や こ ん こ... お前はオレの嫁。これ、決定事項だから。ところでたまに身分逆転てのも面白いな、たまにはそれで遊ぶか。なァ、お嬢様、次はどこに口付けしますかい? |