「でもさー、氷麗、ここまで来てもまだ若様、なんて。職業病だよ。今日くらい、守役のことなんて忘れなよ」
「そんなこと……だって、いつも一緒なんだもの」
「いつもって」
「お小さい頃は、朝は起こしに行って、お着替えを手伝って、朝餉が終わったらお昼までは手習いを見て、お昼を終えたらお昼寝していただいて、その間添い寝して、夕方まではかくれんぼをして遊んだりして、夕餉の支度の間だって、台所の入り口からこちらを見ていたり。……ふふふ、本当に愛らしくいらっしゃったんだから」
「げ。それって、ずーーっとじゃん。アンタ、いつ好いた男と乳繰り合うの。いるんでしょ、本家に」
「本家に好いた人?若様以外に?いないよ、そんなの」
「若様以外に、って。アンタ、その若様は最近元服なさったばかりとか言ってなかった?!ガキじゃん!」
「さっきのツバつけ発言はどうしたのよ」
「それはそれ、これはこれ。とにかくさあ、氷麗、アタシは心配だよ。好いた男の一人もないまま本家勤めしてていいわけ?本家にイイ男がいないなら、新規開拓は必要だ」
「うんうん。子育てもいいかもしれないけど、巣立っちゃったら、あれよ、待ってるのは空の巣症候群。そのときに、好い男がいればいいけど、いないんだったら、自分に貢ぐ男の下僕の一人や二人、いた方がきっと慰めになるわ」
「はあ……」
「ねえ氷麗、誰かを狂おしいって想ったことある?」
「はぁ……狂おしい、ねえ。んー……」
「こりゃだめだ」
「発育はいいのにねえ……まだ雪ん子だったか」
「ちょっと!それ言われるの嫌いなんだから、やめてよ!」
「お。怒った。どうしたどうした」
「本家預かりにしている他所の組の若頭がね、ことある毎にそうやって私につっかかってくるのよ!私だけならまだしも、若さまのことまで悪く言って……あー、思い出したら腹たって喉渇いてきた」
「ほおう。他所の組の若頭とな。それは聞き捨てなりませんな」
「ええ、聞き捨てなりませんなあ」
「それでは氷麗さんも喉が渇いたと仰せですし、ま、酒でも飲みながら洗いざらい……」
「え、何?何?」

 女が四人集まればかしましい。さらにこの四人とも雪女となれば尚のこと。
 廊下できらめいていた彼女等は、『他所の組の若頭』が、この美しい氷麗さんにどうやらちょっかいをかけているようだと、流石の雪女の第七感・セブンセンシズによって気がつきました。この他所の組の若頭さんと氷麗さんが、どの辺りまでの仲であるのかはわかりませんが、そろそろ時間いっぱい、宴会場では妖怪たちがざわめいているので、逃がすかとばかり、氷麗さんの両腕を両脇からかため、また一人は背中を押して、会場へと向かうのでした。
 会場には鬼女もいれば、蛙男があり、大百足がいて、蛇女があり、猫又も、鎌鼬も、泥男も、皆が席についてざわついています。中には人型をしていて、一見すると何の妖怪かわからぬ輩もいます。
 本気で相手を探しに来ようとしている者もあるでしょうし、雪女のかしまし娘たちのように、冷やかしに来ている者もあったでしょう。

 お互い、男女の並びで飲んだり話したりしながら、一定の時間になると横に座る男が変わるこの宴会の規律に、常は本家でぴったりと主に寄り添うことが許されている氷麗さんとしては、何とも落ち着かないものだと内心辟易としていたのですが、それでも、友人たちの自分を心配してくれる心はありがたく感じておりましたので、表向きはにこにこと、卒なく愛嬌を振りまいておりました。

 しかし、数人目の男が、妙に体を寄せてくるのと、息が酒臭く目が濁っているのには、もう耐え切れなくなってしまいました。名前だの、どこへ住んでいるのだの、この後予定はあるのだの、根掘り葉掘り直接的に訊いてくるのです。風情が無いにも、ほどがあるではありませんか。
 早いところ、この男が去る順番が巡ってきてくれますようにと祈るしかありませんでしたが、不運なことに、ここで男女を親密にさせる遊戯の時間、などと司会が言い出す始末。
 しきりにかかってくる酒臭い息と、馴れ馴れしく肩にかかった腕。
 氷麗さんはこれ以上付き合うことができなくなってしまい、ちょっと中座を、と言いかけました。
 しかし ――― 。

 ぐらり、とその時、視界が回ったのです。離れるどころか、勢い余って、この男にぐいと抱き寄せられるまま、胸にもたれかかってしまいました。ああ、いやだいやだと遠ざけようとしても、目が回って体が言うことをききません。
 やられた、この男が何か薬を盛った。
 これに気づいたのは、男の胸板に這う刺青が、若君の義兄弟のものと良く似ていたからです。鴆一派に連なる妖怪、毒や薬を扱う妖怪だったのでしょう。知らないうちに、飲んでいたものに何かを盛られていたのです。
 体が痺れ、また瞼が重く、頭が朦朧とします。

「あれ、雪女ちゃん、大胆だなあ。そろそろこんなトコ、出ちまうかい? ――― なあ司会、俺等、そろそろ二人だけで失礼したいんだけどー」

 さっそく互いを好きあった二人を引き止めるような宴ではありません。周りから見れば、男にもたれかかった雪女と、これをしっかりと抱きとめる男は、早くも好い雰囲気になった男女のように見えたのですから、冷やかしの声はあがりましたけれど、どうぞどうぞと言われるだけで、氷麗さんの馴染み三人を含めて、引き止める者はありません。

 氷麗さんの体はどんどん痺れていき、身動きすらもうかなわず、しかし、己の身を抱き上げられる間際、渾身の力を込めて、氷麗さんは凍った息を男に吹きかけ、この男が怯んだ隙に、這うようにしてこの腕から逃れました。

「あ!痛ッ!おいおい、雪女ちゃん、ふざけるなよ」

 ふうう、と、痺れた肺から吹きかけた息吹は、仔猫が頬に爪を立てた程度にしか男を怯ませることはできず、少し怒気が混じった声色になると、畳の上を這うように逃れようとする氷麗さんを追いかけて、この背に手をかけようとしました。
 表向き、静かなこの攻防、酒が入って互いの男女にしか目にしていない宴会の輩は、もう気にもとめていません。雪女が痺れた口では悲鳴も上げられず、満足に手足も動かせないので、男が言う通り、酔ってふざけているぐらいにしか思わなかったのです。

 ただ、その人以外は。

「 ――― 待ちなよ兄さん。薬を盛って嫌がる女を無理やりとは、セコイねえ」
「なんだ、てめぇは」

 ふらり、と、宴の輪を抜けて、いつしか雪女の側にしゃがんでいたその人は、もちろん、奴良家若頭、奴良リクオ様その人です。
 はい、語り部にもしっかり認識できました。
 たった今まで、端っこの方でタダ酒を飲みながら「薄いんじゃねーか?」と、それこそセコイ文句を仰せでありましたが、しっかりとした足取りで氷麗さんの側におられます。

 氷麗さんは、薄れ行く意識の中で、男君の声をしっかりと聞き取り、目の前の足袋に、しっかとしがみつきました。己がしがみつきたいその人を、朦朧とした意識の中で、ちゃんと見分けたのです。
 宥めるようにこの手をぽんぽんと叩いてくれたその人の手があったので、今度はその手に、しっかりと。離さぬように、離れぬように。

 男君も心得たもので、この手を握り返すと己の肩につかませてやり、ひょい、と氷麗さんの体を抱えてやりました。全身に力が入らぬはずなのに、その中で渾身の力を込めて、氷麗さんは男君の首に腕をまわし、肩口に頬を寄せると、あの、白檀の香が嗅ぎ取れたので、それまでむずがる子供のように嫌々と小さく言っていたのが、ようやくほっとして、微笑みました。

「 ――― リクオ様ぁ……リクオ様だぁ……」
「ああ、オレだよ、安心しな。まったく、宴会だからって気を抜きすぎたぜ。妖怪の化かし合いに違いはねえだろうによ。
 おい兄さん、こいつはオレの女だ。気を持たせて悪かった。兄さんの狼藉とお相子ってことで、今日のところは手打ちにしてくれや」
「な ――― てめぇ、何を勝手なことを」
「しだれ柳に一つ羽根。兄さんの胸板の刺青と羽織を飾る文様は、奴良組貸元鴆一派、その下につく、なんとか言った組だったな。兄さんが女相手にそういうセコイことをやってるってぇのを、鴆の親分に聞かせたかねえだろ?引きな」

 女を抱き上げ、男を見下ろす涼しげな目元の美丈夫。これとにらみ合う、酒気を帯びたヤクザ男。
 ここまで来て、ようやく宴の場は何事かの騒ぎがここで起こっているらしいと知り、二人に注目しましたが、ヤクザ男がちっと舌打ち一つして、名乗りもしない目の前の男が、しかし只者ではないらしいと感づいて、ここは引くことにしましたので、野次馬も一人飲み始めたヤクザ者をやがて忘れ、またひそひそ、がやがや、と、次第に賑々しさが溢れていきました。
 実を言うとこのヤクザ者、男君に一つ睨まれただけで萎縮して、足元がぶるぶると震えて立ち上がれなかったのです。

 薬を盛られて朦朧とした意識を、氷麗さんは、男君の声を聞くや安心して手放してしまい、今は体をすっかり男君に預けています。この様子を見てかけつけたのは、氷麗さんの馴染みの三人です。

「つ、氷麗、大丈夫?」
「盛られたって?ちょっとぉ、アンタ警戒心なさすぎー……」
「ええと、アンタ、氷麗の何?」
「ここじゃ何だから、外へ出よう。こいつをどこかで休ませなくちゃならねーし」
「じゃあさあ、この子を家に送って行こう」
「 ――― 家?」
「実家だよ、雪麗母さんのお屋敷さ ――― あれ、アンタ、例の雪ん子彼氏じゃないの?家も知らないって?まあいいや、とりあえず、行こう。少し歩くけど」

 雪娘三人組に案内されて、男君が向かったのは、富士樹海の中にぽっかりと開いた洞窟の、さらに奥。ひんやりとした空気と、天井からぽつりぽつりと落ちる水滴の音が、確かに雪女の故郷を思わせる場所。
 この洞窟を抜けると、そこには万年雪の里があるのでした。
 洞窟の外では、冬と言えど雪の姿はありませんでしたが、この場所では、こんもりとそれが積もっていて、さらに空からは、延々と雪が降り続いているのです。不思議な空でした。まだ洞窟の中にいるかのように一面に霞がかかっていて、月は一枚の紗の向こう側から里を照らしているようなのです。
 雪女の《畏》が包み込む、まさしく夢幻の里でありました。

 さらに里は穏やかな丘陵になっており、多くの家屋が丘を覆うように建っていて、さらに丘の頂上に居を構えているのが。

「あれが、雪麗母さんの、氷麗の家」
「 ――― デカイな」

 雪女と言えば、住んでいるのは藁葺き屋根の一軒屋。中は土間と、加えて一部屋か二部屋がせいぜい……というものをつい想像してしまいがちで、男君も例外ではなかったのですが、実際に見てみれば、それは丘に立つ家々の中でも、一際大きなお屋敷。

「そりゃあ、関東大妖怪一家奴良組初代総大将が側近、雪麗母さんのお屋敷ですもん」
「うん」
「びびった?びびった?そうなのよ、この子、こう見えてお嬢様でさー……って、アレ、びびってない。『うん』って、リアクション、薄ッ」
「とにかく、あそこだろ。行くぞ」

 奴良屋敷のようにどっしりと厳しい造りではなく、玄関の間口を狭くしたそこは京造り、大きな部屋を長い廊下で繋いだ様は寝殿造の、丘の斜面に沿って建てられた、瀟洒な屋敷でございます。
 寒椿の垣根の側を歩み、門を潜って玄関に上がると、はいはいとしゃがれた声の婆が出てきて、男君が抱えた氷麗さんを見るや。

「お、お嬢様ッッ!な、なんと、気を失っておいでですか、一体何事が?!」

 ひどく取り乱して奥から人を呼びました。
 さっそく用意された布団へ、氷麗さんを横たえて一安心したところで、男君とともに入ってきた三人の雪女は恐縮した様子で、事の次第を婆へ話したのですが、危うく男に連れ去られそうになった氷麗さんを助けに入った、この美丈夫の名をそう言えば聞きそびれていたので、今一度。

「 ――― で、そこをこの粋な旦那が助けてくださって。ええと、彼氏、なんて名前だっけ?」
「名乗るほどのモンじゃねえよ。さて、こいつも寝ちまったし、オレは帰る。邪魔したな、婆さん」

 それまで不機嫌そうに腕を組んで、雪娘たちの説明を聞いていた男君でしたが、眠る氷麗さんの額をそっと撫でてやったときの表情ときたら、見ているこちらがとろけてしまいそうに優しく微笑まれるのです。長くお嬢様に仕えてきた婆は、ぴんと来ました。
 これは婿殿じゃ、と。
 ちょうど、婆が命じた通り、侍女が一人、氷が浮いた人数分の茶を出してきたところだったので。

「茶ああああああ!馬鹿モン、冷たい麦茶を出してどうする!《あったか〜い》じゃ!《あったか〜い》玉露を出せ!」
「えええええ?!《あったか〜い》ですか?!そ、そんな、何百年振りですか……?!」
「大事なお客人じゃ、この寒い中、お嬢様を抱きかかえて運んでくだすったのじゃぞ!」
「は、はい、ただいまお持ちします……」
「早くせいよ!」
「いや、もう帰るって」
「いやいやそう仰らずに、いや、どうかどうか、一晩。今、客間に火をおこしますので」
「いいよ。雪女の屋敷で火の気なんて、歓迎されたモンじゃねえだろう。こいつの母さんが来ないうちに、失礼させてくれ。まだ母親に挨拶なんて度胸もねえや」
「いやいやそこを何とか。雪麗さまならば、明日の昼には戻ってこられましょうが、それまでどうか」
「いいって」
「いやいや」

 この押し問答はしばらく続きましたが、果てに根負けした男君はようやく、

「じゃあ、一晩、世話んなるよ」

 と、頷いたのでございました。