くたくたに疲れていた。 デスク長から大目玉を食らいながら、その場で始末書を書かされた。 そんなものを書く暇があったら、抱えている企画の進捗を、周囲に人がいるうちに確認しておきたかったのに、結局始末書を書いている間に取り残されてしまった。 おかげで、明日はサービス出勤だ。 企画の一部を任せている部下から、今日までにまとめておいてとメールと口頭であわせてお願いしていたものが、まだ指定のフォルダに格納されていなかったのだ。途中まででもいいから入れておいてと、それだけ伝えるのなら電話でもいいが、できればすぐにチェックして、直せるものはその日中に直してしまいたい。本当なら、今日のうちにできる仕事だった。 それでも、怒りはあっても、後悔は無かった。 圧力がかかったからその報道は無しだなんて、虫が良すぎると思った。 応じる者があるから、金や権力で、全てが思い通りになるなんて勘違いする輩が生まれるのだ。 こういう気持ちを持ち続けるのは、用意ではない。 なにせ、怒りというのは、力を使う。 正しいと思うことを貫くのも、力を使う。 正しいと自分で自分を信じるのも、力を使う。 いい加減大人になれ、と、デスク長には言われた。 正しさだけでメシが喰えるか、プライドで世渡りができるか、と。 その通りだと思った。 けれど、 ――― カナちゃん、怖いから、目、つぶってな。 その声の主が誰だったか、カナはもう、忘れてしまったのだが。 昔はその通り、目を閉じて、嵐が過ぎるのをただじいっと待っていたのだが。 大人に近づくにつれて、本当にそれでいいのかなと疑問に思い、それだけでなくあるとき不意に、声に従ったまま目を閉じ続けていてはいけないと、思ったのだ。 不条理、理不尽。 正しくないと思うこと、優しくないと思うこと。 間違っているのに、誰も知らないふりをすること。 暴力、差別、貧困、虐待。 これ等があるのに、ただ目を閉じているのは、嫌だと思ったのだ。 それ等を知っているのに、知らない振りをすることも。 自分には何もできないと、決めてしまって何もしないことも。 顔を伏せて、目を閉じて、眠る羊のように、過ごすことも。 そうしていていいんだよと、その優しい声の主は言うのだけれど、幼い頃のカナは、その声に従って暗い闇夜を目を閉じて猛ダッシュで駆け抜けて家に帰ったり、布団の中でお化けが出るんじゃないかと思ったときも、目を閉じて布団を被ってしまっていたけれど、やがて、高校に入る前に、本当にそれでいいんだろうか、このままで良いんだろうかと思い始め、大学に入る頃にははっきりと、いいや、それではいけないんだと、その声を否定した。 折しも高校三年生、それまでの進路を変更する必要があったし、中学の頃から何となく続けていたモデルのバイトのせいで、成績は中の上がやっとで、MARCHに手が届くかどうかだったので、両親を説得するのは大変だった。 女の子は短大で良いんじゃないかと常々言われていたし、自分でもそのつもりだったので、突然進路を変えると言う彼女の言葉に、両親は猛反対した。 夕食の後も同じテーブルで、両親を前にして、決して多くない語彙でもって、高ぶりそうになる感情を必死に押さえながら、でも、どうしても、やりたいことがあるんだと、切々と説いた。 そのときに、「お父さんは昔、私にこう言ったよね」と、例の声の話をした。 幼い頃はそれに納得していたが、最近、それではいけないと思うようになった、悪いと思われていることでも、それをしなければ人を助けられないことがあったり、偉いと言われている人が、自分に都合の悪い嘘を隠すためにさらに嘘を上塗りすることを、誰もが見過ごしていたなら、悪い方向にしか進まない、だから私はもう、目を閉じたくない。 目を開けて、きちんとものを見て、多くのひとたちに正しいかどうかを伝えるためには、まず、伝える側の人間が正しい感性を持っている必要がある。 持ち続けたいと思う。 だから、もっと勉強をして、報道記者になりたい。 結局、父は折れてくれた。 その後で、こうも言われた。 お前は大人になったんだね。 目を閉じてはいられない、確かにそうだ。 けれど、その声は、父さんじゃない。 カナ、お前は、誰かに守られていたんだね。 結局、声の主は今も分からず仕舞だが、挫けそうになる度に、その声と言葉を、思い出すようにしている。 そして答えるのだ。 いつかまた、そのひとに会えたときのための、練習をするのだ。 「いいえ、私は、もう目を閉じてなんかいられないの」 人通りの多い夜の繁華街を通り抜ける方が、逆に身の危険が無いので今日もそうしているのだが、つい己を奮い立たせるために、口にした。 思ったよりも大きな声になったので、はっと口を押さえたが、聞いている者は無い。 それよりもカナは、そこで辺りを見回したときに、あってはならないはずのものを見た。 中学生くらいの、少女。 これを囲む、柄の悪そうな少年たち。 「本当?!本当に、知ってるんですか?」 「おぉ、なあ、アイツのことだよなぁ?」 「うん、きっとそうだと思うよ。俺たちたぶん、そいつの事、知ってるわ。今でもよく遊ぶよー?」 「あ、あの、なんて名前でした?」 「なんて言ったかなー」 「お願いです、思い出してください、お願い、私にも教えて………」 「いいよいいよ、教えてあげちゃうよ。だからさ、ちょっと俺たちと付き合ってよ」 「え?あ、はい………」 「いいねいいね、かわいいね。ねぇ、君、名前なんての」 「あ、あの……」 路地裏に少女を連れ込もうとする彼等を、通りすがる人々は誰も気にとめない。 ちらと目をやったサラリーマンが一人いたが、そのまま通り過ぎた。 当然だ、一人や二人ならまだしも、柄の悪そうな不良たちは、十人は要る。 体格も大きいし、一人や二人で勝てる相手ではない。 けれど黙っていれば、少女は彼等に連れ去られ、体よくおもちゃにされるだろうとは、目に見えてわかった。 カナはすぐに携帯電話を取り出し、耳にあてた。 「おまわりさん!こっちです!暴走族らしき男の子たちが、女の子を囲んで乱暴しようとしてるんです!」 そのまま、明後日の方向に手を振ってぴょんぴょん飛び跳ねて見せると、気づいた不良の一人が「あの女、ケーサツ呼びやがった」と仲間たちにすぐに伝え、あらかたの少年たちはさあと波が引くようにそこを去っていった。 一人が後ろを気にしながらこっちに向かってきて、カナの肩をどつき、ぺっと唾を吐きかけていったが、それだけだ。 後には、元通り、夜の繁華街をそぞろ歩く酔っぱらいたちと、カナと同様、通り抜けるだけの通行人たちと、カナと、少女が残された。 少女はその場にぽつねんと立ち尽くしていたので、よほど怖かったのだろうと思い、カナは己の顔にかかった唾を拭うのもそこそこに駆け寄る。 携帯の向こうからはようやっと、「はい、浮世絵警察所」と声がしたが、用件は幸い済んでいたので、「すみません、大丈夫でした」と一言で切った。 「大丈夫?ひどいこと、されてない?ダメじゃない、女の子がこんな時間にふらふらしちゃ」 叱るよりも心配が先だったのは、その少女があまりに、夜の街には不似合いだったからだ。 腰まであるだろう長く黒い髪、薄化粧をほどこしているとしか思えぬほどきめ細かな肌と、大きな瞳、整った目鼻立ち、美少女と誰もが思うだろう彼女は、カナにとって懐かしい中学の制服を着ていた。 「夜遊びには見えないけど、こんなところでどうしたの?」 尋ねても、しばらく少女はカナの顔をじいと見ている。 この子、どこか悪いのかしら、もしかして保護が必要な部類の子なのかしらとカナが思い始めた頃。 唐突に。 「…………家長さん?」 小動物じみた所作で首を傾げ、少女はつぶやくように問う。 「え、あ、うん、そうだけど………」 「わあ〜!良かった、家長さんに会えるなんて!」 「え?ええと、なに?貴女は?」 「つららです!及川つらら!」 「そ、そう。つららちゃん、あの、お父さんやお母さんは?」 カナの顔はテレビに出ている。 少女が知っていてもおかしくはないので、自分の名前が出てきてもあまり驚かなかった。 それよりも、彼女の勢いにやや引いた。 目をきらきらさせて、すがりつく勢いであっと言う間に手を握られてしまった。 冷え性なのだろうか、手は驚くほど冷たい。 見れば、真夏だと言うのに、マフラーまでしている。 「んと、父や母は、いません。私一人です。あの子を探してるんです。家長さん、一緒に探してくれませんか?」 「あの子?」 「男の子です。私と同じくらいの背丈で、年頃も同じでした。あれから数年経ってるから、少し変わってるかもしれないけど」 「………さあ、知らないわねぇ」 「そう、ですか……」 「あの、気を落とさないで。きっと見つかるわよ。まずその前に、家のひと、お父さんやお母さんのほかに、誰かいないの?とにかく女の子がこんな夜中に一人で歩いてちゃだめよ。すぐに連絡して、迎えに来てもらいましょ」 「だ、だめです!ようやく、逃げてこられたんです!連絡なんて、しないでください!」 「………逃げてきたって………」 必死に言い募る少女、つららの言い分に、カナは顔色を変え、己の手を握ってきていた彼女のブラウスの袖をまくった。 思っていたよりマシだったが、あった。 手首に鬱血の痣。 縛られた痕、虐待の証だった。 「家に、帰りたくないの?」 関われば、面倒なことになるのは、わかっていた。 わかっていたけれど、ぐったりと疲れてもいたけれど、他にどんな選択肢があったと言うだろう。 この少女は、己を虐待する家から逃げ出して、誰かを、きっと彼女にとって大切な誰かを、すがる想いで見つけたいと望む一心でここに居るのだ。 相手の顔を知っているから、きっと相手も自分を知っていると思いこむのはよくあることだし、この少女のように、切羽詰まった状況におかれたならば、錯乱しているとも考えられる。 本当は警察へ行かなければならないけれど、カナは、警察ができることの限度も知っている。 今は錯乱しているらしい、ただ知っている人の顔を見たとだけで、カナにすがってきているのならば、少し眠れば落ち着くことも考えられるし、とにかく保護して、一晩様子を見て、明日の朝にでも、警察に届け出よう。 そう決めた。 「はい。………帰りたくないです。帰ったらまた、外に出してもらえなくなる。………彼を、探させてもらえなくなります。どうしても、探さなくちゃいけないんです。もうすぐ、あの人が帰ってくるより前に探さなくちゃ、私、私、あの人が帰ってきたらすぐに、見つかっちゃうから。だから、今しか無いんです。あの人が留守にするなんて、滅多にないことだから」 「そう、わかった」 覚悟も決まった。 子供の頃は怖がりだった。妖怪やお化けの類が、怖くて怖くて、たまらなかった。 今は違う。一番怖いのは、人間だと知ってしまったから。 来るなら来いと、虚勢を張る方法を、学んでしまったから。 「つららちゃん、今晩は私の家においで。とにかく一晩眠って、明日の朝、また落ち着いてから一緒に探そう?」 「さ、探してくれるんですか?!家長さんも、一緒に?!」 「うん」 「よかったぁ、それなら、きっと見つかります」 「うーん、どうかな、力になれたらいいんだけど。とにかく、もう行きましょ。こんなところ、もう二度と一人で歩いちゃだめよ?」 「家長さんは、いいんですか?」 「私くらいのおばさんが目つき鋭くして歩いてるとね、誰も声なんてかけないの」 「おばさんなんて、家長さん、まだまだお若くて美人なのに」 「あら、ありがとう。さ、行きましょう。夜ごはん、何か食べてる?」 「いいえ、でもあの、あまりお腹、減ってませんから」 遠慮を見せる彼女の手を引いて歩き出すや、小さなお腹からお約束の可愛い音が響いた。 顔を真っ赤にして伏せるつららに、妹がいたらこんな感じかしらと、庇護欲をかきたてられたカナは、そんな音など聞こえなかった素振りでこう切り出した。 「そっか。でも悪いんだけど、私がお腹減ってるの。家の近くに二十四時間営業のスーパーがあるから、寄って行かせてもらうわね。つららちゃん、ついでに何か一緒に食べてくれない?今は一人暮らしで、いつも食事の相手がいなくて寂しいの」 これにつららは顔を上げ、無垢すぎる笑みを浮かべた。 「はい、喜んで。……ありがとうございます、家長さん」 これこのように、家長カナはその日、一人の少女を拾ってしまった。 +++
「どうして、どうして、どうして」 白い女が、泣いている。 白い着物の、長い袖で己の涙を拭いても、あとからあとから、涙は溢れてこぼれて行く。 「どうして、あの子を殺してしまったんです。どうして、どうして、どうして。あの子は悪いことなんて、何もしていなかったんです。ただただ、人の子がするように、学び舎へ行って、友達と話して、遊んで、ただただ、そうしていたかっただけじゃありませんか。それなのにどうして、どうして、あの子を殺してしまったんです。嗚呼、嗚呼、返して、あの子を返してください。私の大事なあの子の、名前を呼ばせてください」 風が嗚咽のように吹きすさぶ。 暗い闇の夜に、ぼんやり浮かんだその女を包むように、びょおびょおと吹いている。 寒い。 凍えてしまいそうだ。 見ると、はらりはらりと落ちる女の涙は、喉を破ってしまうのではないかと思われるほどの熱い嘆きとは裏腹、カツリカツリと音を立てて、足下に転がるのだった。 女の嘆きが、嗚咽が、激しさを増せば増すほどに、風はさらに激しくなる。 氷雪纏うこの風は、女が呼んでいるのだった。 「殺すしか無かった」 ぼんやりと、暗闇の中、浮かび上がるように現れたのは、長い白銀の髪をこの風に遊ばせる、美しい妖の男だった。 紅い瞳が、今は少しくすんで見える。 何者も恐れず射ぬくだろう瞳が、今は彼女を映せずに、いや何も見たくはないとばかり、そっと伏せられた。 「わきまえろ、雪女。ああするしか、方法は無かったんだ」 「だとしても!私は!」 「………わかっている。許せとは、言っていない」 「嗚呼、わかっておいでなら、それなら、それなら、何故、どうして、そんなことを。主様、三代目、若、私は、私は、あの子もとても愛していたのに、どうして奪ってしまわれたのです。どうして。どうして」 半狂乱の女は袖から顔をあらわし、泣き濡れた顔のまま、きっと男を睨んだ。 怒りと、嘆きと、思いやりが、入り交じった表情だった。 「貴方だとしても、いいえ、貴方だから許せない。でも、嗚呼、貴方以外の誰がそれをできたでしょう、私は貴方を許せない、だけど貴方だから、許さなくちゃならない、だって貴方がきっと一番、哀しんでいるはずなのですから。 嗚呼、でも、嗚呼、だけど、ねえ、ねえ、お願い、誰か、あの子を、あの子を呼び戻して。お願い、あの子を」 「忘れろ、雪女」 「いいえ、いいえ、忘れるものですか。だってもう、その名は喪われてしまったのですもの、姿を覚えている者だって、あの屋敷には私しかいないのですもの、みんな、みんな、三代目、あの子の分だけの貴方を、忘れてしまっているんですよ。私が忘れてしまったら、貴方だって」 「そうだ」 「いいのですか。そんなことでいいのですか」 「………雪女」 「いいえ、良いはずがない。良いはずがないんです」 「………つらら」 「嗚呼………貴方の名を、私は呼べません、主様。もう、そんなことまで忘れてしまいました」 「いいんだ。それで、いいんだ。水面に映る月、鏡に映る花、だから名など、最初から無かった。それで、いいのだ」 「でも、それでも!」 「忘れろ、雪女。日々は夢幻だった。だから美しかった。失われて嘆くのは妖の性なれど、今回ばかりは既に戻らぬ。失われたものは、オレにとっても大事なものだった。嘆いてくれるのは嬉しい。だがこうも考えてみてくれないか、オレにとって大事なものであったから、それを守って消えていけるのなら、《ボク》にとっても満足な結果なんだと」 「哀しいです、主さま。だって守られた者たちは、誰に守られたのか、その名を知らず、守られたことすら忘れてしまうでしょうに。哀しいです、彼奴等が憎いです、彼奴等に踊らされた人間どもが憎いです、そんな人間どもすら守ろうとなさる貴方様が、憎いです」 「ならば、オレだけを憎め。オレを憎むも、寝首をかこうとするも、お前の好きにするがいい」 「酷い御方。私は未来永劫、御側におりますと申し上げておりますのに、離れられぬ御方を憎めと仰せになるのですか」 「離れるは許さぬ。 ――― お前は、忘れるんだ。忘れて、何を忘れているのかすら忘れて、何故憎んでいるのかも忘れて、ただオレを憎めばいい。《ボク》が失われて哀しい分だけ憎んでくれるのなら、それでもオレのもとを離れぬと言うのなら、オレはそれでいい」 「嫌です、嫌、嫌、嫌、ああ、嫌、嫌なのに ――― 貴方様に従うことも、貴方様に交わした《約束》なればどうして逆らえましょう。ああ、消えていく、私の中からあの子が消えていく ――― 消えていく、消えていく ――― ああ、嫌、嫌、嫌、消えて行かないで、お願い、お願い、嫌、嫌なの」 主命には逆らえぬ。 けれど主命だとしても、何より愛しい守子を忘れるなど、非情以外のなにものでもない。 忘れなければならない。主がそう仰せなら、主を憎んだとしてもその憎しみが他の人間に向かってはならぬ。 主を憎むなどもっての他だ、けれど主は強い、彼女の憎しみなどいなしてもまだ有り余る力をお持ちだ、逆に人間は弱い、彼女の憎しみを受ければまず間違いなく、その身を氷雪に閉ざされて死に至るだろう。 主は人間を守ると仰せだ、主の下僕である彼女も従わねばならない、だが彼女は人間が憎い、もう愛せない、何故なら彼女の大事な大事な、あの子を奪ってしまったからだ。敵に踊らされ、あの子を犬のように追いかけ、ついにあの子に、自らの命を捨てさせるまでに、追い詰めてしまったからだ。だから彼女は、人間が憎い、人間を守れなどと言う、主までも憎い。 己を憎んで良いと、主は雪女の逃げ道を用意する。 そこへ、追い詰められた彼女は、嫌だ嫌だといいながらも、追い立てられて逃げ込むしかなかった。 主命と情の間で、どちらにも苛まれながら髪を振り乱し、狂って憤死してしまうのではないかと思うほど大声で、わあわあと泣いた。 泣いた彼女を、主は優しく強く抱き寄せ、今一度耳元で、忘れろと囁いた。 斬ったと思っても斬れぬのが、鏡の向こうの花。 手にしたと思っても掴めぬのが、湖面の月。 このように主は何もかもを欺く夢幻の力をお持ちであるから、それまであった何かをぱっと消してしまうなど、たいした手間でもない。 それが己にまつわる事であるのなら、下僕どもや人どもに、ただ一言告げるだけでよかった。 ――― 目を閉じて、忘れるがいい、と。 他の下僕どもは、すぐに従った。 あとは、腕の中の彼女だけだった。 主に一番に忠実で、主を一番に大切に思っていた彼女であったのに、いいや、彼女だったからこそ、すぐには従えず、最後まで、嫌だ嫌だと呟き続けた。 「ああ、嫌、嫌なの、忘れたくない」 「忘れろ」 「酷い方、憎い方」 「そうだ。オレを憎め。その分だけ、愛してくれていたのだと思えば、それだけで満ち足りる」 「嫌です、ああ、嫌、なのに」 「眠れ。一夜眠って、目覚めたときには、お前は《ボク》を忘れている。……皆から忘れられた《ボク》を、オレも、忘れている」 主の息吹は春の宵のように甘く、とろりと眠気を感じると、そこまでだった。 雪女は彼の腕の中でくたりと四肢から力を抜き、彼に身をまかせた。 「すまねェな、つらら」 腕の中で眠った女の頬を一撫で。 涙の跡を優しくなぞると、男は微笑んで、詫びた。 今後、己を優しく見つめることなどないに違いない、彼女の寝顔を、憶えておこうとするかのように、じいと見つめながら。 「お前がオレをいくら憎んでも、オレはお前を手放してなどやれねぇんだ」 その夜から一月としないうちに、妖どもの世界はにわかに慌しくなった。 魑魅魍魎どもを統べる主の血族、その三代目が、妻を娶られたのである。 相手は、その男を心底憎む、まさに氷雪のごとくに冷たい目をした雪女らしい、主様も物好きなことであると噂したが、やがてそれもおさまった。 元服前に羽衣狐を下し、元服後まもなくして、二代目が長い間戦い続けてきた百物語組との戦いを制し、さらにはあの鵺までをも地獄にとんぼ返りさせた、三代目である。 ただ己に従うだけの女ではつまらぬと三代目がにやりと笑えば誰もが納得したし、主への憎しみに満ちた女の目を見れば、言葉通りの夫婦ではないのは明らかだった。 なれど妖とはそういうもの。 主にとっては己に向けられる憎しみさえ、おもしろげなる酒肴にすぎぬのだろう、あれほどの御方に夜伽をせよと申し渡されれば、あらゆる女怪が嬉しく侍るに違いないのに、あの雪女はそれをしないから、珍しく思われたのだろうと、誰もが思えば、もう女に同情する者もなかった。 女が主をどう思っているのかが重要なのではない、主は女を蝶よ花よと愛でていたし、靡かぬ女に誰もが眉を顰めこそすれ、女の味方になろうなどと言う者はなかった。 また、そのような女を主の側に置いても良いものかと、言う者もなかった。 女は主に従い、決して主を裏切らぬのだ。 ただ、決して愛さなかっただけだ。 そのような女を、魑魅魍魎の主が娶ったのは、もう一昔も前の話である。 +++
翌朝、カナは予定よりも少し、寝過ごした。 帰ってきたときには日が変わっていたし、それから少女の寝床を準備したりシャワーを浴びたり、持ち帰った仕事の整理をしていると、気づけばもう朝方だった。 つららが安らかな寝顔を見せて眠っているのを見てから、妙なことを抱え込んでしまったと思いつつ眠りについた。 うっかり、目覚ましをかけるのを、忘れていた。 気づいたときには、もう陽は高く昇っている。 もっと朝早くに起きて、少女を警察に預けるか、行政に相談するなどして、正午からは職場に出るつもりだったのが、数時間多めに眠ってしまったばっかりに、すっかり予定が狂ってしまった。 「いけない、寝坊しちゃった!」 タオルケットをはねのけて、すぐにカーテンを開ける。 はたと傍らを見ると、すぐ脇のフローリングカーペットの上に敷いていた布団の中では、つららもカナの声に目覚めたらしく、もぞもぞと動いて目を擦っていた。 「寝坊ですか?えっと、いけない、どうしましょう。ええと、まず身支度ですね、はい」 「つららちゃんは寝てていいから。ごめんね、起こしちゃって。本当は朝のうちに相談にのりたかったんだけど、ゴメン、どうしても今日のうちに片づけたい仕事があるの。夕方までには帰ってこれるから、この家で待ってられる?」 寝ぼけた様子でもごもごと口ごもり、ろくに開いていない目をしきりに擦るいたいけな少女は、カナの声を聞いてぱちりと目を大きく開けた。 自分がどこで眠っていたか、思い出したらしい。 「え?こ、この家?あ、はい、わかりました。お留守番していればいいんですね?」 「うん、そう、お留守番。お願いできる?夕方の……三時……うーん、四時までには帰ってくるから」 「それから、一緒に探してくれるんですか?」 「探し人よね、うん、わかってる。探しましょう」 安請け合いのつもりは無かった。 無かったけれど、顔を洗って髪をとかしてファンデーションをぬったくりながらスーツに袖を通して、次々に戦闘準備を整えていたところだったので、急ぎめに返事をしたのは、確かだ。 人探しのあてなどもちろんなかったけれど、詳しい話は、帰ってから聞くつもりだった。 それだけで、つららはほうと息をついて、こくんと小さく頷いた。 「わかりました。ここに居ます」 「うん。あー………あれ、つららちゃん、学校は?その制服、浮世絵中学だよね?そっちも寝坊じゃない?」 「学校、別に、行ってないんです」 「…………そう」 何だかこれも複雑そうだ。 ふと、やはり一緒に出かけて、この少女を警察に預けた方が良いだろうかという考えが頭をよぎった。 現実的に、常識的に、この家出少女を匿って警察に届け出もしないというのは、まずくはないだろうか。 焦りのためになかなかうまく留められない腕時計をいじりながら、しばし思案する。 と、布団の上で目を擦っていたつららが、ついと手を伸ばしてきて、華奢な指で腕時計をとめてくれた。 「ご飯は食べて行かれないんですか?」 「あー……うん、いいや。今日、本当は仕事、休みの日なの。ちょっと用事があって行くだけだから、本当、すぐに帰ってくるから。それから何か食べましょ」 「はい。行ってらっしゃい、家長さん」 戸惑いはあったが、悪い子ではなさそうだし、盗まれて困るようなものは金庫に入れている。 とにかく早く行って、早く帰って来ようを家を出て ――― 結局、カナが帰ってきたのは夕方を過ぎ、もう夕飯時かと言う頃だった。 時刻は四時をとうに過ぎ、時計の針は五時に近づいている。 家に一度連絡を入れたが、つららは出なかった。 カナが帰ってこないと思って、一人でまたどこかへ行ってしまったのかもしれない、そう思っていたので、自然と足早になったが、そうではなかった。 家に帰ってきたカナを迎えたのは、コンソメスープの良い匂い。 そして奥から顔をのぞかせた、エプロン姿のつらら。 「おかえりなさい。遅かったんですね」 「うん。ごめんねぇ、つららちゃん。何度か電話したんだけど」 「あ、家長さんだったんですね。おうちの人かもしれないと思ったから、私が出ちゃまずいかと思っていたんです」 機転の利く少女である。 カナが遅くなってしまったことを、頭を下げて拝むように謝ると、笑って許してくれた。 優しい子で、しかも、冷蔵庫の中のもので作ってみたと出された野菜とベーコンのスープは美味しかった。 他にも、トマトと茄子を使ったグラタン、パンのかわりのホットケーキが焼きあがっていたし、ベランダには洗濯物が陽を受けてそよいでいる。 部屋の中も、カナが家を出る前より綺麗に片付いていた。 カナも綺麗好きな方だし、休みのたびに家を片付けてはいるのだが、今は埃一つ落ちてない。 「それで、あの、家長さんが居ない間、ちょっと手持ち無沙汰だったので、家のこと色々片付けてしまいました」 「いやー……そんなことさせるつもりじゃなかったんだけど」 「す、スミマセン、勝手に色々しちゃって」 「ううん、とんでもない、助かっちゃった。すごいわねぇつららちゃん、お料理も上手だし、きっといいお嫁さんになれるわよ」 「…………」 と、それまでの朗らかだったつららの表情が、一瞬にして冷えて固まった。 「…………私、悪いこと、言っちゃった?」 「…………いいえ、スミマセン、ちょっと嫌なこと、思い出しちゃって」 「おうちのこと?」 「はい」 蓋を開けば、さて、どんな蛇がとぐろを巻いているやら、知れたものではない。ないが。 カナは覚悟を決めた。 「約束だったわよね、人を捜すって。それ、どんな子なの?」 「ええと ――― すみません、私もよく、憶えていないんです。この前、ようやく思い出せたくらいですし」 「名前は?」 「それです!それも、探してるんです!」 「しばらく忘れてて ――― 名前も、憶えてなくて?それじゃあ、捜しようが……」 「ううん、家長さんなら、きっと家長さんなら!皆さんなら、きっと捜してくれる、捜し当ててくれるって思ったんです、清十字探偵団の皆さんなら、きっと!」 「………何、それ。ううん、なんだっけ、知ってる、それ。………ええと」 古い記憶の隅っこに、引っかかるものがあった。 十年以上も前のこと、それも、中学生の一時期、同級生たちと集った放課後の気だるい時間。 モラトリアムを謳歌していたあの頃は、今や小学校から高校生あたりまでが一括りで、学生時代として記憶の中で扱われている。 その中の一つに、やけに押しの強い同級生が、自分の名前を一文字冠した探偵団を作り、怖がりのカナと数人の友人たちを巻き込んで、日々妖怪探しに明け暮れていた、という面白おかしいものがある。 そう、その名前こそが、清十字探偵団。 カナは弾かれたように、目の前の少女を見た。 その少女は、あの頃のカナと同じ年の頃。 いくらあの中学校でしばらく噂になっていたとしても、もう十何年も前のことだし、教師たちの中で話題にのぼったとしても、それだけでここを訪ねてくるとも考えにくい。 第一、その探偵団目当てなら、清継くんを頼りにするのが本当ではないか。 「どうして ――― どうして、つららちゃんがその名前、知ってるの?」 不意に、不気味さを感じた。 どくんと、心臓が跳ねた。 目の前の少女は、何者なのだろう。 どうして自分は彼女を、こんなに警戒せずに招きいれてしまったのだろう。 まるで無害そうに見えて、庇ってあげなくてはならないと思えて、頭から、自分を害するだろうとは思わなかった。 それは、どうしてなのだろう。 どくん。どくん。どくん。 ――― 妖怪っていうんは、そういうモンや。 清十字探偵団、その名を思い出したせいか、しばらく連絡を取っていない同級生の、言葉を思い出した。 ――― えてして、人間にとって魅力的な姿か、おそろしい姿をとるモンなんや。 ――― おそろしい、神々しい、そういう気持ちこそが、奴等の糧やからなァ。 「思い出してくれませんか、家長さん」 テーブルを囲んで向かい合わせ、哀しげにカナを見つめていた彼女が纏う空気が、不意に変わった。 それまでの無垢な少女から、途端、透明で冷徹な女のものへと。 どこからか氷雪の風が吹き込んだかと思うと、少女をぐるりと囲んで、次には学生服を着ていた少女は、白い着物姿の女へと姿を変えていた。 雪のように白く、きめ細かな肌、匂いたつ百合のごとくに神々しさすら覚える、妖の女へと。 「私は先日、ようやく貴女を思いだすことができたんです」 本当に驚いたときとは、それもたった一人でそこに居るときには、声など出ないものだ。 あんぐりと口を開け、目を見開いて、ううんと唸ったカナの反応は、正常なものだったろう。 最近、子供の頃の怖がりは克服したが、それだって、お化けなんて居ない、小さな頃に見たのは全部、豊か過ぎる想像力のせいで、全部白昼夢、無かったことなのだと思いこみ続けてきたためなのだから。 結局、怖がりは治っていない。 ついこの前だって、祖父が亡くなる一週間前に、夜中、己の指を握る何者かの気配に目を覚まし、ふと手元を見ると誰かの手だけが己の手をそっと握っていて、ううんと唸って全部夢のせいにしたばかり。 そう、全部夢だ、これも夢だ。 思いこもうとするが、上手くいかない。 目の前の、どう見たって人間ではない妖の女が、さらに言葉を重ねるためだ。 「お願いです、家長さん、あの子を思い出してくれませんか。一緒に捜してくれませんか」 「ちょ、ちょっと待って。あなた、何。思いだすって ――― 」 夢だと思い込もうとしても、幻であるはずの目の前の女が必死な様子で語りかけてくるのだ。 お願い、どうか、と、カナにすがってくるのだ。 少女のまろやかさを脱ぎ捨て、おそろしいばかりに整ったおもてで、ずいとにじり寄られ、冷たい手で手を取られて、満月のように黄金の、螺旋を描く瞳に魅入られて、カナは動けなくなった。 女の必死の奥にあるのは、哀しいばかりの狂気だ。 今は必死でも、これが叶わないとわかれば、すぐに暴力に変わりそうな、気配だ。 カナは急き立てられるようにうんと頷いてしまいそうな自分を抑え、震える唇を開いた。 「思い出せなかったら ――― 捜せなかったら ――― ?」 「いいえ、思い出してもらいます。捜してもらいます」 「い、いやだって、言ったら ――― ?」 「死んでもらうわ。私のこの姿を見たのだもの、ただで生かしておくわけにはいかない」 「お願いじゃなくて、それ、脅迫じゃないの」 「元はと言えば、貴女が、貴方たちが悪いんじゃない!忘れたりするから!」 「だから、一体何を」 「それを思い出してって、そう言ってるんでしょ!」 「そんな事言われたって、わからないものは仕方ないじゃない、一体いつの話なのよ!」 「たかだか、十年と少し前じゃないの」 「十年以上も前?そんな頃のこと、少ししか」 「はぁ、人間ってどうしてそんなに忘れん坊なのかしら。私たちが主様のご命令で忘れてしまうのは、そりゃあご命令だから、忘れるしかないけど。でも、貴方たちは術なんてかけられなくっても、すっかり忘れてしまうものなんでしょうね。……薄情だこと」 勝手な言い分なのに、言い返す気がしなかったのは、図星だったせいもあるけれど、目の前の妖の女が、哀しそうに目を伏せたからだった。 「あの頃、あの子の一番側にいた人間の貴女が思い出せないんなら、他の人間に会ったって無駄かもしれない ――― ううん、いいえ、もしかしたら」 椅子に座ったままのけぞって、立ち上がれずにいるカナの前で、一人女は何事か思案していたが、やがて、ついと冷たい眼差しを彼女に向けた。 「 ――― そうね、貴女を殺したなら、もしかしたら主様は思いだしてくださるかしら、あの子のこと」 「 ――― ひぅ」 部屋の温度が、真夏だと言うのに寒いぐらいだ。 気のせいではない。カナの口から漏れる息が、真白だった。 一体これはどういうことか、夢ではないのか、子供の頃の想像力で片付けていたあの、不思議なこと、不可解なこと、妖怪たち、あれは全部、全部、夢だったのではないのか。 目の前の女が口元を隠した袖から、白い霧がたゆたい始めた。 「ちょ、ちょっと待って、殺すってどういうこと。まだ、何を捜すかもわかってないのに」 「あら。捜す気になってくれたのかしら」 「そんな事言われたら、捜すしかないわけでしょ!」 「そう。捜すしか無いのよ ――― 私がこうやって、憶えていられるうちに」 女は、焦っていた。 どうして焦っているのか、何を恐れているのか。 カナが長い時間、考える必要は無かった。 目の前で女は弾かれたように立ち上がり、辺りを気にし始めたかと思うと、ふ、と、家の明かりが消えた。 「な、なに、停電?!」 思って手探りでカーテンを開けるが、すぐ向こうのマンションは、まばらに明かりがついている。 すぐ隣のベランダにも、明かりが漏れている。 どういうことか ――― 。 次にブレーカーが落ちたのだろうか、と振り返ると、そこには既に一人、入り込んでいた。 「ひっ」 今度もカナは息を呑む。 目の前に立っていたのは、しろがねの髪を吹き上げた、紅瑪瑙の瞳の美丈夫だった。 おそろしのはずなのに、一目見ると不思議と目を放せない。 見れば見るほど、うっとりとするような妖艶な ――― 決して只人ではありえない、妖の男だった。 もっとも、カナがさらに彼から目を離せないままなのは、そればかりではない。 彼をどこかで、見かけたことがあるような、そんな気がした。 知っているような、甘酸っぱいような、切ない想いが胸を満たしたからだ。 男は着流しに羽織を粋に着こなし、散歩のついでになじみの声が聞こえたから寄ってみた、という様子で、部屋をぐるりと見回し、それから、暗闇の中でも自ら光輝くようにただ白い、女を見た。 「捜したぞ、つらら。こんな所で何をしていやがる。帰るぞ」 |