女は、怯えた様子で、ふるふると首を振る。
 いやいやをする子供のようだった。

「妙なことを思い出しやがって ――― おかげでオレも引きずられて、久しぶりに思いだしちまったじゃねぇか。まったく、胸糞悪ィ」
「そんな風に、悪し様に仰せにならないでください!あの子だって大切な、私の、大切な。嗚呼……思い出せない」
「だから胸糞悪ィと言ったんだ。もう二度と返ってこないものを、不意に思い出すなんぞ、それ以外の何物でもねぇだろう。……懐かしいと言うには、思い出と言うには、まだ、生傷なんだよ。それを抉るような真似を、してくれるな」
「だって ――― だって、嫌なんですもの。毎日毎日、貴方を、憎んだまま暮らすのは、もう耐えられないんですもの。どうして貴方様を憎み始めたのか、どうしてだったか、何故だったか、考えて考えて考え抜いて ――― 不意に、思い出してしまったのですもの」
「それで、オレの術を破ったというか。……まったく、恐れ入るよ。だが、ここまでだ。人に仇なすは許さねぇ、それを知らぬお前じゃねぇだろう。人間の前に、のこのこ姿を現すのもそうだ。後の始末を少しは考えろ」
「いや、いやです、いや」
「ガキのような事を言うな」
「お願いです、お願いです三代目、後生ですから、どうか少しだけ、私に時間をください。どうか、どうか」

 あれほどおそろしく思えた女が、今は男の前に平伏して、どうかお願いいたしますと額を床にこすりつけているのを見て、途端にカナは彼女が気の毒に思えてきた。

「ならねぇ。オレのことなど、いくら憎んだってかまわねぇ。二度と、何故だったかと馬鹿なことを考えぬよう、次こそは厳重に忘れさせてやる。来い」
「嫌、嫌です、嫌」
「こいつ」

 男がいくら手を差し出しても、女は後ずさるばかりで命令に従わぬので、男は業を煮やしたらしい。
 どすどすと足音をたてて女に近づくと、逃げる女を捕まえ、ぐいと細い手首を捻りあげたのだ。
 いや、捻るつもりはなかったのかもしれないが、彼女の手を掴んだところで彼女が逃げようと身を捻り、それに引っ張られて手首が裏返った。

 痛みに呻く女の声を聞いて、カナはついに、黙っていられなくなった。

「や、やめなさいよ、乱暴なことは!」

 さめざめと泣く女の手首を握ったまま、男はそこに人が居たのを初めて知ったような驚いた顔をして立ち尽くした。

 言ってしまってから、カナは、こんな人でないものに、乱暴するなも何もないものだと思いつつ、それでも言い始めてしまったからには仕方が無い、これが夢であったとしても、正しくないことが目の前で行われようとしているのなら、それはならないと、唾を吐きかけられようが、言わなければ気が済まない。

「女のひとに乱暴して連れ去ろうとするなんて、男として最低だと思わないの?泣いてるじゃない、嫌って言ってるじゃない。その子、昨夜なんて、家に帰りたくない、帰ったら外に出してもらえなくなるって言ってたのよ」
「そりゃあ、こいつがこんな風に、要らんことを思い出して外に出て行こうとするからさ。要らんことを思い出して、要らぬものを捜そうとする。今回が初めてじゃねえんだから、こっちだって少しばかり警戒もする」
「そんなの、そのひとの思うようにさせてあげたらいいでしょう?」
「ふぅん、だがよ、カナちゃん、こいつの本性を前にして、ついさっき怖い想いをしたばかりじゃねぇのかい。こいつに好きなようにさせておいたら、そういう奴が増えるばかりさ。それでも、そうさせろと言えんのかい?」

 酷薄そうなのにどこか甘く、喉の奥で笑われて、カナは一瞬だけ、ぐ、と黙ったが、引かない。

「 ――― それ、は。でも、その子、腕に痣があったわよ。家に閉じ込めて、腕まで縛るなんて、どうかしてるわ」
「それは仕方ねぇ。コイツ本人ののためでもある」
「女の子に傷をつけといて、何が本人のためなのよ」
「そうでもしねぇとコイツ、自分で自分を痛めつけるのさ」
「…………どう、して ――― 」
「こいつはオレが憎い。同時に誰よりオレに忠実だ。こいつはオレのもとを離れられねぇ。そういう《約束》を、しちまってるからな。ありとあらゆる板ばさみの末に、こいつは狂うんだ。狂って、オレを憎い自分が悪いって思いこむ。思い込んで、自分自身を傷つけるから、縛り付けておくしかねぇ」
「どうして ――― 憎いなら、離れればいいのに。貴方が酷いことをして、閉じ込めてるから逃げられないんじゃないの?」
「そうかもしれねぇな、オレはこいつを手放す気は無いから」
「狂ってる。そんな関係、狂ってるわよ」
「それで?」
「それで、って」
「狂ってちゃ、いけねぇかい。狂っていようが、酷かろうが、人間様の目から見て鬼畜生、外道のように見えようが、こちとら最初っから人道なんぞ外れた道を歩んでいる。てめぇのオンナに狂って何が悪い」

 言葉は厳しいが、音は、どこか優しく、切なく、響いた。
 捻りあげた腕はそのままに、そっと己の腕の中に女を抱く様子も、大切な宝玉を仕舞いこむかのようだ。

 そこでも、女は尚、男のおもてを見上げて、どうか、どうかお願いですと、縋りつくのだった。
 ならぬ、と男は厳しく言い渡す。
 どうしてならないのか、何故、女を閉じ込めてまで、思いだすのを阻まなければならぬのか。
 カナは目の前で繰り広げられる、どうやら夫婦の修羅場にへたりといつの間にやら座り込んでいたが、心臓をばくばくと跳ねさせながら、どこか違和感を覚えてた。
 何だろう、この違和感は。
 何かがおかしい、何がおかしい。

 答えは、いよいよ男が溜息をついて、女を無理矢理抱き上げたときに、降ってきた。

「悪いな、カナちゃん、すっかり邪魔しちまって。もう帰るから」

 男は、カナの名を知っていたのだ。
 はっと弾かれたように目を見開いたカナの目の前に、男は泣きじゃくる女をしっかと腕に抱いたまま、いつの間にか距離を縮めて立っていた。

 見れば見るほどに、美しい男だった。
 ただ顔の綺麗なだけの男に、頬を染める少女の頃などとうの昔に過ぎ去ったと言うのに、カナはずいと顔を覗き込まれて、頬の熱が上がるのをどうにもできなかった。



「もう帰るから ――― 目ぇ、瞑ってな。一眠りして、目を開けたら、怖いことなんて、全部忘れてるから」



 春の宵の甘い香りが鼻腔をくすぐったと思うと、不意に眠気が襲ってくる。
 そのまま倒れこんで眠ってしまうかと思われたが、カナは必死に首を振った。

「だめ ――― ダメ!」

 自分でもどうしてそんな事をしたのかわからないが、カナは闇雲に腕を振り回して男を威嚇すると、その腕から、冷たく咲き誇る白い女を取り返したのだった。
 と言うより、カナの突然の行動に男が戸惑っているうちに、どうにかその両腕をほどいたと言う方が、正しい。

 泣きじゃくった女が力なくその場に座り込んでしまったが、カナの力では男のかわりに彼女を抱き上げるなどできるはずもなく、せいぜいが、フローリングを引きずって、部屋の隅っこの方に二人、小さくなるのが関の山だ。

「おいおい……何のつもりだい」
「もう目は瞑らないの!どんな事でも、ただ目を閉じてても、見逃すばっかりだから!」
「 ――― へえ」
「何。何なのよアンタたち。つららちゃんはつららちゃんで、可愛い女の子かと思ってたらいきなりこんな綺麗なおねーさんになるし!怖いし!でも泣くまで虐めることないでしょ?!しかも貴方、つららちゃんの、その、彼氏か何かなのよね!」
「いや、旦那だけど」
「へー、御主人なの!だったらねぇ、こういうの、憶えておきなさいな。こういうのはね、DVって言うのよ!いくら自分の奥様でも、自分の思うがままにするのは人権侵害なの!」
「いや、人じゃなくて妖怪だし」
「それでも!していいことと悪いことってあるでしょうが!人の良し悪しがわからなくっても、仁義とかその辺、どうなのよ!こんな可愛い女の人が泣きじゃくって、許してください、せめてもう少しって言ってるのよ!旦那として、懐深いところ、見せてあげたらどうなの!イイのは顔だけかーッ!」

 ビシ!と、人差し指を突きつけ怒鳴り散らすうちに、眠気など吹き飛んでいた。

 怒鳴った後にぜいはあと、肩を上下させていると、カナが庇うように抱き寄せていた白い女は目をぱちくりとさせて彼女を見つめていたし、目の前の男の方も、同じ様に目を見開いて、彼女に伸ばしかけた手をそのまま止めていた。

 やがて、男の唇が上向きに弧を描き、くつくつと笑いが起こる。

「 ――― オレの行いは仁義にもとる、そう言いたいのかい」
「そ、そう、ソレ!そう言いたかった!」
「クックック……はははははッ、そうかい、そりゃあマズイ事をしたな。だがよ、わかってんのかい。今、あんたが庇ってるその女は、箍がはずれかかってる雪女だ。オレが来なかったら、どうなってたと思う」
「それは ――― そうだけど、でも ――― それでも」

 ちらと女を見下ろすと、女は今度もまた、すがるような目でカナを見つめ、しかし先刻の己の所業を省みて、さらに願いなどできぬと思ったのだろう、顔を伏せた。
 はらり、霙の涙が彼女の胸元に落ちる。

「それでも、結局私は今、別に彼女に何もされてないわ。うん。むしろ今日は朝から一緒に尋ね人を捜す予定だったのに、それがダメになっちゃったのは私の寝坊のせいだし、夕方前には家に帰ってくる予定だったのに、それもダメになっちゃったし、なのにつららちゃんは、この家をまるっと掃除して、洗濯して、お夕飯まで作って待っててくれたわけ。ちょっとスケールが大きくて困ってたけど、うん、この際、仕方ない。だから、お願い、ちょっと時間を頂戴。何が何だかいまだに良くわかってないけど、でも、このままじゃ何だか、いけない気がするの。だから、お願い」
「 ―――― だがなぁ、そいつは人間を憎んでる。いつまた気が変わって、あんたに矛先を向けるかわからんぜ?」
「お願いです、主様。決して、決して、もう二度と、家長さんに手をかけるなど、冗談だとしても考えません。決して、二度と!ですから、どうか、どうか!」

 二人の女に下から見上げられて懇願され、男は一つ溜息をつく。

「つらら、七日、やる」
「はい」
「これで駄目だったら、諦める。そう《約束》しろ」
「 ――― 」
「それができねぇのなら、オレはこのままお前を連れて帰る」
「 ――― 承知、いたしました。《お約束》を致します」
「七日後、迎えに来る。すまねぇがカナちゃん、こいつを頼む。嘘はつかねぇ奴だ、こいつがもう二度としないと言うんなら、あんたに危害を加えることはねぇだろう。家事は得意な奴だから、使いたおしてやってくれていいぜ。あ、でもゴキブリだけは駄目なんだ、そこはあてにしないでくれな」
「人を暴君のように言わないでください」
「それから、もう一つ」
「今度は何ですか」

 常にとろりと甘そうな、笑みをたたえていた口元がきゅっと引かれて、カナは寒気を覚えた。
 男は何も、カナを睨んだわけではない。銀色の長い睫に縁取られた切れ長の瞳で、ちらとカナを見やり、表情を消した、それだけだったのに。



「そいつが望む奴を捜し当てるのは、凶兆だ」



 物々しく、囁くように呟かれた不吉な予言を、カナは一瞬、理解できなかった。



「きょうちょう?」
「悪い兆しってことさ。この国にとって、ひいては、あんたたちにとって。そいつの言うことをきくかどうか、良く考えるんだな。
 捜し当てたら凶兆だと知っていて尚、捜してやるのかい?  わざわざそんな事をしなくても、その女はもう、あんたに手出しはできねぇよ」



 昨日拾った少女の正体が妖であった事から始まり、さらには旦那だと言うこれまた妖の男が家に押しかけて来たり、さらには今のように、不吉な予言じみたものを残して、目の前でふうわりと消えて見せたり。

 かと思うと、消えていた明かりがまたもとのようについたり。

 あまりの眩しさにこそ、カナは目を瞑って手をひさしに、眩しい明かりを消した。
 次に、寝る前につけるダウンライトを灯す。

 目まぐるしい。
 目まぐるしすぎる。
 頭痛を覚えて米神を抑えた。明日はまた仕事なのに、興奮して今日は眠れそうにない。

 部屋の隅をふと見やると、例の女が、今度はまたも例の少女の擬態でしょんぼりと佇んでいた。
 それが例え、本性の白い女の方だったとしても、カナは胸が痛んだだろう。
 泣いた目を擦ったので、目元は真っ赤だし、あの男が要らぬことを言い残していったので、カナが物怖じすると考えているに違いない、それで、お願いです捜してくださいとは言えず、しかし自分からここを去ることもできず、すがる想いで佇んでいるに違いないのだ。

 彼女に声をかけるのは後回しとして、カナはひとまず、すぐに携帯を取り出して、友人たちに連絡を取った。
 数人に電話をかけ、ある人には繋がり、ある人には留守電にメッセージを入れとやりつつ、最後に、本命の彼女へ電話をかけた。
 数年ぶりだから、憶えてくれているかどうかわからないし、家の電話でもまだ同じ番号を使っているかどうかわからない。
 不安だったが、取材だの何だので、見知らぬ場所にさえ電話をかけるのにももう慣れっこだ。

 物怖じせずかけてみると、電話口で目当ての苗字の名乗りがあった。

「花開院ゆらさんの中学時代の同級生で、家長カナと言います。お忙しいとは思うのですが、御繋ぎいただけませんでしょうか」

 花開院。その名が出ただけで、びくりとつららの肩が跳ね上がり、顔が前を向いた。

『当主でしたら、只今留守にしております。ご用件があれば、お伝えいたしますが』
「ええと……同窓会のお誘いだったんです。お元気かなと思いまして、それで、ついでに声が聞けたらと」
『左様でございましたか、それはわざわざありがとうございます。当主には間違いなく伝えておきます、どちらへご連絡差し上げるとよろしいですか?』
「それでは、番号を申し上げておきますので、お伝えいただけますか」

 電話番らしき男性へこちらの携帯の番号を告げ、電話を切ったが、感触としては首を捻るものだった。
 当主になったという話は聞いているから、すぐに繋いでくれるとは思っていなかったが、いつ折り返すという約束に確たる返事が貰えなかったところを見ると、そこで揉み消される確立が高い。
 携帯を少し見つめて、物は試しと、消すに消せないでいた、彼女の携帯電話の方へ、電話をかけてみた。

 番号は変わっているかもしれない。
 違う人が出るかもしれない。
 あの頃から全く同じ番号だなんて、あまり、考えられないかもしれない。

 一度コールされて、二度目、三度目、そして。

『はい、もしもし?』

 出た。
 少し京都訛りのある、ふんわりとした声は、間違いない、彼女だ。

「ゆらちゃん?!私、家長カナです。憶えてる?」
『おぉ〜、えらい懐かしいわぁ。そんなん、あたりまえでっしゃろ。元気してたん?どうしたん、困り事?』
「ぐ。あ、あはは……よく判るね、ゆらちゃん」
『そらなぁ、うちみたいな生業してるところに昔の知り合いから電話来るときは、結構そういう事、多いんよ。同じクラスなった言うだけで、一度もしゃべれへんかった子からも、何度か電話が来たことあるしなぁ。でも、家長さんやったらそれでも嬉しいわぁ』
「さっき、家の方に電話したんだけど」
『ああ、うん、家の電話には昔の知り合い言うて、営業の電話とかぎょうさんかかってくるから、断ってもらってるんよ。こっちに電話もらって良かったわ』
「そっかぁ、やっぱり。実はね、相談したいことって言うのは」

 昨日の夜、可愛い女の子が乱暴されそうになってたから、助けてみたら妖怪だったみたいなの。
 それで、人捜しをしてほしいって言われてるんだけど。
 と言うより、思い出せとか何だとか言われてるんだけど、とんと見当がつかなくて。
 いやいやそれより、その女の子って言うのが、中学生くらいに見えたのに妖怪姿になると、すごく綺麗な女の人で、どうやら旦那がいてね。
 びっくりしたわよそりゃもう、私が男だったら美人局の被害に合うところだったの。

 いやいや言いたいことがありすぎてなにを言ったらいいやら、カナは言い出すところを考えながら、これ等を「うーん、何から話せばいいやら……」という迷いにひっくるめた。

 泣き濡れた瞳を大きく見開いて、こちらを縋るように見てくる彼女のためにも、とにかくこの、あの頃からいざと言うとき一番頼りになる、ヒーロー気質の友人に頼るしかないと、わかっているのだが。

「 ――― 妖怪の夫婦喧嘩に巻き込まれたみたいなんだけど、どうしたら良いと思う?」
『は?何言うてんの?』
「ですよねぇ………」

 しかしこの夜のことは、カナにとってはそうとしか思えぬ騒動であったのだ。



+++



 妖怪は黒で、人間は白。
 そう教わってきたゆらだったのに、そういうものだと思いこんで過ごしてきたのに、当主の座を継いですぐにしたのは、この教義に少しばかり変更、と言うよりも、疑問を投げかけることだった。

 曰く、妖怪は黒であるが、黒とは何であるか。
 曰く、人間は白であるが、白とは何であるか。
 黒とは悪であり、白とは善であるとするならば。
 善とは、優しさと等しいものだろうか。
 悪とは、此の世から駆逐せねばならぬほど、憎まなくてはならないほどの絶望であるのか。
 正しく美しいだけが、立派であるということだろうか。

 禅問答のような問いを付け加えただけで、教義は途端、複雑になった。
 投げた小石が池に波紋を呼ぶように、花開院の陰陽師たちは騒がしくなり、これを邪道であるだとか、あるいはこれこそ真道であるだとか、勝手に好き勝手なことを言うようになった。
 ゆらはいつの間にか、古くから続いて保守的に過ぎた花開院の改革を求める者たちの旗印に祭り上げられ、花開院家の保守派は逆に、当主である彼女に従わなくなってしまった。
 彼女には、誰かを非難し否定するつもりなど、全く無かったので、これにはほとほと困ってしまった。

 ここで実の兄が、そんな世迷言を言うような愚妹はやはり当主には相応しくない、それは「灰色の改悪」であると、舌鋒鋭く攻撃してきた。
 花開院から排斥されそうだと思い込んでいた保守派は、その兄を旗印にして集った。
 この兄は昔から、変わらず誰にも彼にも厳しい。
 ゆらだから、幼い頃にぽこりと叩かれたと思ったらもう片方の手でパピコを半分与えられてきたゆらだから、兄が何か言ってきても昔から、あー、そーですか、はいはい、わかったわかった、勝手にしいやー、と、流して済ませてきたゆらだから、何も思わなかったけれども、敵方の旗印になった兄はこれまた強烈で、最初は救世主のように兄を崇め奉っていた保守派の人間たち、つまりゆらの政敵ですら彼女に同情するようになり、そこでゆらが、兄はいつもああだから、みんなには苦労させてすまんな、かんにんな、この通りや、これからも竜二兄を助けてやってくれなと頭を下げると、なんと、逆に彼等はゆらの元に帰ってきて、結果、ゆらの教義を、女当主という前代未聞の珍事ともども、花開院の各位は概ねおとなしく受け入れてしまった。

 そうなってから、それまで彼女の人格まで否定するような言葉をあれこれ連ねてきた実兄は、さらりと涼しい顔で「何か奢れよ」と言ってきた。
 まったく、あの兄の言葉は何が嘘なのかわかったものではないが、厳しすぎる言葉がかえってゆらに同情票を集めさせたのなら、なるほど、兄の断固反対は、彼女の援護でもあったのかもしれない。

 とにかく、花開院は変わった。
 妖怪と見れば即滅する、これはやめた。

 髪が伸びるまでに情を注がれた人形を預かれば、丁重に経をあげて宥めることから始めた。
 即滅するよりも時間がかかるし、中には、結局最後に滅しなければならないような呪いを帯びたものもあったが、多くの人形は供養されれば大人しくなった。

 むしろ、妖怪が出たと言われれば赴き、手当たり次第に滅していた頃に比べて、人間の嘘や傲慢が目に付いてくるようになった。
 妖怪が出るためにせっかく買った土地に手が着けられないでいると言うのを祓えば、緑の山は瞬く間に赤茶けた土がむき出しに、あるいは獣も飲む泉だというのにコンクリートで囲んで売り物にする者があった。
 怨霊が出るために祖父の遺産を分けられぬと遺族が泣きついてくるのを祓うより前に、怨霊が音を立てたり物を壊すだけのものではなく、何かを伝えたがっていると判じて、一体ここで何をしたいのかと声なき言葉に耳を傾ける姿勢を見せたところ、怨霊の導きの元にまさしくその遺族の持ち物の中から、身寄りのない子供たちへ全てを寄付するという、祖父の隠された遺書が見つかったりもした。

 妖怪どもはそういった人の心を見いだして、指さしあざ笑い利用することはあれど、悪しき心それ自体は、元々人の中にあったものだった。

 やはりと思いこそすれ、ゆらが人間に絶望することは無かった。
 人は弱い。人は脆い。人は狡く、人は醜い。
 だから時折魅せる強さや、正しさや、優しさや、友愛が、尊いものなのだから。

 誰に知らされたのだったか、これを思い出そうとすると、記憶には靄がかかったように判然とせず、加えて当主の身では次から次と仕事が舞い込んできて、昔懐かしい思い出に浸っている暇などない。

 花開院家は数百年の宿敵、羽衣狐と鵺を下したのはよいが、世の中の悪しき妖怪というのはやはりまだあるのだから。

 そんな彼女だったので、ある日唐突に、惰性で変えぬままにしておいた携帯電話の液晶に、これまた惰性と消すには惜しいという気持ちから、電話帳にそのままにしておいた懐かしい名前が呼び出されたときには、常に何かを思案しているような半眼を大きく見開いた。



 ああ、よかった、この刻が来たんだ。



 思ってから、何が良かったのかと首を傾げるも、ゆらは元々兄とは違い、長い熟慮の末に答えを導き出すより、直感により一瞬にして正しい方向へ導かれる才能に溢れていたので、そうかこの誘いを断ってはならぬということかと、納得しただけだった。

 まぁ久しぶりやし、少しゆっくり話したらどうなん、と電話を肩で挟みつつ、ごそごそと遠出の準備をし始めたゆらに、カナは結局、最初から全部話し始めた。

 昨夜仕事帰りに、チンピラに囲まれた中学生の少女を一人、拾ったこと。
 お節介とは知りつつ、連れ帰って一晩止めたこと。
 腕には縛られた痕があり、只事ではないように思えたので、家に帰りたくないという彼女の言い分にも、納得してしまったこと。

 なんでもその少女は、中学生くらいの男の子を捜しているらしく、自分が彼を捜せないのなら殺してしまうと言って、目の前で、氷雪纏う白い着物の女へと変わってしまった。
 かと思えば、彼女の旦那だという、只人とは思えぬ妖艶な男があらわれて ――― 。

「で、奥さんの方は雪女やて?家長さん、平気なん?危害は加えられてへん?」
『うん、大丈夫。ちょっと危なかったけど、旦那さんの方が、奥さんに人間の危害は加えるなって言ってくれて、それで、なんとか。その代わり、人捜しに参加させられたってわけ』
「………その旦那の方って、何の妖怪?」
『え?えぇと、何の妖怪なんだろう。うんと………ごめん、聞いてない』
「長い髪の、えらい美形とちゃう?招きもせんうちに部屋にぬらっと入ってくる………」
『そ、そう!ゆらちゃん、知ってるの?!』

 知っていると言えば、知っている。それは、ぬらりひょんだ。

 花開院家に伝わる書に、ぬらりひょんについての記述がある。
 陰陽師の家にまで、ぬらりくらりと入って飯を食ったり酒を飲んだりしている、妖怪の総大将、らしい。

 ところがゆらは、だからそうだと思った、というわけではなかった。

 その妖怪を、知っていた。
 羽衣狐、さらには地獄から舞い戻った鵺を地獄に封じたのは、その妖怪と、花開院であったのだから。

「ん……多分。昔、会ったことがあるような、気ィするわ。なんや、あの頃のことは、ばたばたしとってよう憶えてへんのやけど」

 言ってから、やはりおかしいと感じた。

 なるほど、あれからずいぶん、時が経つ。
 年を重ねるごとに、子供の頃の記憶が遠ざかるのは致し方ないとも思う。
 一年一年が長いと感じていたはずの幼少期、学校に上がる前のことなどは、今でははるか昔の頃であるし、あの頃は些細なことが哀しくも辛くも感じたり、あるいは人の死が遠すぎて、葬儀が重なったとしてもあまり涙が出なかったりもした。
 学校へ上がった後は、小学校と中学校ではまるで様子が違ったし、高校生になると大人になった気分にもなって、年下の子供たちの面倒を見なければ、私が守らなければと思うようにもなった。

 けれど今となっては、あの頃の自分たちは全て、子供の頃の自分。
 今の自分への道筋ではあるけれど、きっと今の自分が持っている物をまだ持っておらず、同時に今の自分が忘れてしまったもの、見失ってしまったものを、まだ持っていたに違いない、眩しい日々である。

 だから、あの頃のことが遠く眩しくて、よく思いだせないのは、よくある話だ。
 よくある話だが、直感からやはり何かがおかしいなと思い、鼻の奥にとろりと甘い春の香をかすかに感じると、うむ、やはりこれはおかしいと理性も追随した。

 思い出そうと思っても、一緒に戦ったはずのあの妖の男の顔は思い出せるのに、呼びかけた名があったはずなのに ――― その名が、思い出せない。

「んにゃ ――― 知ってる。うち、そいつのこと、知ってるはずなんや」

 知っている、気がする。
 そう思うのに、思う端から、輪郭がぼやけていく。

 彼の名前。背を合わせて戦うこともあったはずだ。
 人と妖、種は違えど、敵は等しかったから。
 敵が同じ間だけ、味方のつもりだったから、だからあまり思い入れも無かったのだろうか?

 ――― いいや。

 ゆらは彼を知っていた。彼は優しい《ひと》だ。
 光が強まる世界の中で、消え往く妖を守るための主だった。
 彼にとっても羽衣狐は宿敵で、同じ敵だったから供に戦ったのかと言うと、違う。

 たしかに、ゆらと彼の敵は一緒だった。
 敵が羽衣狐でなかったとしても、鵺でなかったとしても、二人に絶望を齎すものである限り、二人は肩を並べて戦っただろう。
 人のために、妖のために。絶望ではなく、希望のために。

 ――― そうだ。うちは。

 春の香を、あたかも風が雲を払うように、直感を強い言霊に乗せて払う。

「うちは知ってる。その男んこと、よう知ってるわ。どえらい大物妖怪相手に、花開院だけじゃあきつい言うときに、肩を並べて戦ったことも、あるんよ」

 言ってしまえば、確かにそうだと言う気がした。
 脳髄を甘く焼いて痺れさせていた、鬱陶しい甘い香がふわりと己を離れ、目を覆っていた霞が晴れるのを感じた。
 花弁の幻がひとひら、目の前に舞い上がって、消えた。



 怒りが、生まれた。
 出所はまだ、よくわからぬ怒りだった。
 ただ直感が、許してはならぬ、よう欺いてくれたもんやと、彼女を憤らせて唇を尖らせた。



『ほ、本当?!あのね、そのひとが言うのよ。つららちゃん ――― 雪女さんの名前らしいんだけどね、つららちゃんが捜したい人が見つかったとすれば、それは凶兆だって。良くないことが起こる、前触れなんだって』
「凶兆。……ふぅん、ほんま、そんな事、言ったん?」
『うん、そう言ってた』
「それは、おもろいなぁ。ここ十三年、毎年毎日占っても、出てくる卦にこれと言った凶兆は無し。鵺っちゅう超大物を封じて社なんぞを作ってからこっち、商売あがったりかと思うほどにあやしおそろしも無し。この、太平極まりない世が、乱れる兆しでも出してくれるっちゅーんか」
『私はそういうの、よくわからないけど……あのね、ゆらちゃん、私もあのひとに昔、助けられたことがあるような、そんな気がするの』
「ふうん?」

 ゆらの旅支度は、あらかた終わった。
 足りぬものがあったなら、あちらで買い揃えれば良いとおもっているから、旅行鞄には一泊二日程度の着替えと旅費を詰め込んだくらいだ。
 片隅に、お気に入りの椿油の小瓶を忘れなかったのは、少年に間違われることの多かった子供の頃とは違い、髪を長く伸ばした彼女の、ささやかな女心だったかもしれない。

 やはり電話を続けたまま、ゆらはカナの言葉に耳を傾ける。

『ほら、ゆらちゃんが言ってたけど、この辺ってその……』
「うん、よう出るからなぁ」
『もう〜!はっきり言わないでよ!学校にも七不思議とかあったし、私も、小さい頃に君の悪い鏡を拾ったりして、怖い目にあって ――― その時に助けてくれたひとに、よく似てるの』
「ほうほう」

 このときにはもう、ゆらは使用人に合図して車を玄関前にまわさせている。
 鞄を肩にかついで、身一つ、あちこち飛び回るのは職業柄よくあることだ。
 当主の身であれば、彼女を頼りたいという相談者もあちらこちらにあって、予約がびっちり三ヶ月後まで埋まっているけれど、なに、三ヶ月後が、あと三ヶ月と少し後になるだけだ。三ヶ月待てるのなら、もうあと少しだけ待つだろう。命に別状が無いとわかっているから待てるのだろうから。

 カナの話をあらかた聞き終えた頃、ゆらを後部座席にいただいた車は、もうすぐ京都駅へと着く頃だった。



 二人は、少し、黙った。

 互いに、少し違和感を覚えていた。

 この違和感を、ゆらにとっては既に直感的に、誰かが己等を化かしているがためだと思いこんでおり、カナはしかし、話し終えてからようやっと気づいたものらしかった。



『ねぇ、ゆらちゃん』
「うん?」
『私たち、お互いにその《ひと》のこと、知ってるって事だよねぇ』
「せやね」
『なのに、どうして私たち、その《ひと》の事、お互い話し合わなかったんだろう?』
「え?話したこと、なかったっけ?」

 ゆらの問いかけは、本心の疑問からではない、ちょっとしたまじないだった。
 暗示をかけられている者は、最初から視野を狭められているから、暗示に気づかずに、あらかじめ決められた箱の中でだけ蠢くのだ。
 こうして、「本当にそうだった?」と問いかけてやれば、

『え?あ、ううんと、……話したこと、そう言えば、あれ……、私、どうして忘れてたんだろう』

 簡単に箱の蓋は開かれる。

『話したこと、あった。そうよ、あったわよね。うん、そう、あの《ひと》なのよ』



 ゆらの直感は、ここで確信に変わった。
 事実をかき集めて真実に一歩ずつ近づいていく、いわばこれから行く場所がどこにあるのかを探りながら歩を進める兄のやり方とは違い、ゆらは初めから、行く先はあそこだろうと直感し、だとしたらこうなのだろうなあ、とやはり直感で己の足元まで逆に線を引いて来るようなやり方をするから、妖怪の振りをした人間の謀略とやらにはてんで疎いが、相手が正真正銘のあやしあやかしであるのなら、彼女の天賦の才に勝るものは無い。

「きっとうちらは、忘れとるんよ、何か大事なこと」
『大事な、こと?』
「うちはあの妖の男を知っとる。戦友やったからね。だからあの、ぬらりひょんっちゅう魑魅魍魎の主が、まぁ、許せない部類の悪ではないっちゅーのも、わかってるつもりや。けど、なんでかなぁ、その雪女の捜し人っていうんは、家長さんの方がうちよりよく知ってはる気ィするわ」
『 ――― 』
「憶えてへん?うち、家長さんちに遊びに行ったこと」
『 ――― あった。あったね、そんなこと』
「あのとき、うち、家長さんに訊きたいことがあったんやったね。何を訊きに言ったか、憶えてはる?」
『うん、そうだった!あの時はねぇ、ええと ――― あれ ――― 私 ――― 忘れてる』
「うん。うちもや。嫌な気分やわぁ、無理矢理忘れさせられて、しかも、忘れてるっちゅーことに気づく、たったそれだけの事に、えらい時間がかかってしまうんやから」
『私 ――― なんで ――― あれ、どうして、何も思い出せないんだろう』

 恐慌をきたしはじめたカナに、ゆらは優しく、落ち着いて家長さん、大丈夫、大丈夫やからと語りかける。
 ぽっかりと開いた記憶の闇に気づくと、それがただの忘却でないことなど、すぐに知れる。
 ただの忘却ではない、無理矢理に捻じ曲げて、あるはずのものを見えなくしてしまうのが、彼の本来の術なのだから。

「それがあの、ぬらりひょんっちゅー妖怪の悪行なんよ。物事を捻じ曲げて、よう見えんようにしてしまう。それが自分の姿でも、人の心や記憶でも。人の心にすうっと入ってきよるくせに、いつ出て行ったかもわからん、去った後は誰が居たかすら忘れてしまう。それが、妖の術や」

 そんなことより、と言いながら、運転手が開けたドアから悠然と車を降りて荷物を担ぎ直し、八条口の車寄せから真っ直ぐ、駅の窓口へ向かう。

「そんなことより、家長さん。うち、ずうっと思ってたことがあるんよ。ここ十数年の平安は、本当にたいしたもんや。羽衣狐や鵺を倒して以来、どんだけ国の行く末とやらを占っても、揺れ幅の無い、概ね良好な気運やもの。おかげさんで花開院家も、最近政界からマスコミから引っ張りだこや」
『あ……ごめんなさいね、ゆらちゃん、忙しいのに』
「ううん、ちゃいますの、そういう事を言いたいんやない。うちが言いたいのはな、それはオカシイ、という事なんよ」
『おかしいって、何が?国にとって良いことなら、いいことなんじゃ、ないの?』
「国難よ起これと願っているのとも違う。ただな、ありえへんよ。極楽浄土やあるまいし、毎日毎日良い結果が出るなんてことも、それを疑うもんがまるで居ないと言うんもな。それに、いくら社に封じて毎日毎晩祈祷したから言うて、あれほどの荒ぶる魂だった鵺が、おとなしゅうしとるんも、妙や。
 まぁ確かに、悪いことやない、悪いことやないから、こんなモンかと思っとった。思っとったが、うちな、不安やったんや。
 ――― 自分が、何かから目を背けたままになってるんやないか、って」

 東京行きのチケットを買って、新幹線乗り場へ急いだ。
 平日の夜だったので、思ったよりすんなりと、指定席のチケットが取れた。
 宿もまだ決めてはいないが、まあ何とかなるだろう。

 電話の向こうで黙ってしまったカナもまた、身に覚えがあるらしい、ゆらの話を聞いているうちに、次第に黙ることが多くなった。
 それでもゆらは、改札口に向かいつつもまだ、切るで、とは言わなかった。
 例えば夢だと思い込もうとしていた事柄や、忘れてしまおうと思っていた不吉の予兆を吐き出す前に、人はこうして考え込み、やがて、「実は」と、語り始めるものだから。

 案の定、家長カナは思い切ったように、「おかしな話かもしれないんだけど」と、話し出す。

『私ね、小学校や中学校に通うとき、電車とバスを乗り継いでたの。なんだけど ――― 小学生の頃、誰かと一緒に通ってた気がするのに、その子が誰だったか思い出せないの。
 ……ほら、同じクラスですごく親しかったのに、クラスが変わったり、高校に進学したりして、最初は仲良くして連絡取ったりするんだけど、だんだん疎遠になっちゃうことって、あるでしょ?子供の頃の友達なんてそんなもんだよって、昔、誰かに言われたときは、そんな事あるはずないって怒ったことだってあったのに、今振り返ってみたら結局、そういうことを繰り返して繰り返して、大人になってきちゃった。だから、その子のこともそれかなって思ってたんだけど、何だか、今はそれだけとは思えないの。
 そのバス停のすぐ側に、大きなお屋敷があって、それがその子の家だったと思うんだけど ――― この前久しぶりにそこの前を通ったらね、ちょっとした林みたいになってて ――― あれ、こんな空き地だったかなって ――― 。確かに、小さな頃の記憶って曖昧になること多いし、それかな、って思って、それっきりだったんだけど ――― 』

 また少し、間があいて、

『 ――― 私、また、目を瞑っていた気がする。確かめようとしたこと、なかったの。その林に分け入ってみたことも、無かったの』

 それっきり、家長カナは打ちのめされたように、黙ってしまった。
 ゆらもまた、唇を噛んだ。自分も、彼女という切欠がなければ気づけなかった力不足を思ってでもあり、何か大きなものを失わせた何者かへの、苛立ちを募らせてでもあった。
 気を取り直して、言葉を継ぐ。

「……そんなん、しゃーないわ。女の子一人で、そんな危ないところに行けへんし。暴漢が潜んでるかもしらん。怖いところには、二人以上が基本や。家長さんは、悪ぅないよ」
『うん ――― わかった、これから、つららちゃんと二人で行ってみる』
「三人や」
『え?』
「今、新幹線乗るところなんよ。東京駅についたらまた電話しますよって、ちょい待ち。もしその辺りに例の妖の男のけったいな妖術がかかってるんやったら、それを破るのは、家長さんにも、男の下僕の雪女にも無理やろ」
『え、え、え?これからって、ゆらちゃん、でも、お仕事とか』
「そんなん、後からいくらでもできるわ。その男が言うんは、七日が最終期限やったな。一刻一秒を争うということやないの?まあとにかく、そろそろ充電まずいから、一旦切るで」
『え、ちょ、あの、ゆらちゃん……?!』
「つくまでに、うちはあの妖の男のこと、よくよく思い出してみる。だから家長さんはその同級生のこと、よう思い出してみてや。そんで、どんな子だったか、うちに教えてくれはったらええんよ。いきなり名前は無理かもしれへんけど、どんな子やったとか、そういうんは最初に思い出しやすいやろ?それじゃあ」

 ぷつりと電話を切って、新幹線に乗り込む間際、七日後か、と、ゆらは呟いた。
 暦の上では秋とは言え、少し外を歩いただけで、まだ暑いのはどこも同じ。まだ夏と言っても良いほどだ。

 東京もそうだろうが、七日後と言えば。



 ――― 秋分の日やね。



 羽衣狐を倒したあの夏の日から数えて、十三回目の秋分の日が、迫っている。