主との婚礼を済ませたその夜、雪女は閨で主から、一振の妖刀を賜った。
 主が羽衣狐や鵺という、日ノ本を脅かす妖怪を調伏するために振るった、妖怪のみを切る刀であった。

「そのうち、四代目に譲る退魔刀だ。お前が孕むのだから、お前が持っているがいい。これからオレはお前を抱くが、意に添わぬと思うなら、お前がそれを使ってオレを斬るのも、自由にしろ」

 己を憎んでいる女を調伏するでもなく、放逐するでもなく、己の一番の側に召し上げてしまった主は、つまり、受け入れるも殺すも好きにしろと、仰せなのだった。
 雪女が己を憎んでいると知って尚、そうかでもオレはお前を手放す気はないのだし、オレはお前を好いているのだから問題はない、妻になれと申し渡したその時と同様、口元には皮肉めいた微笑があった。

「そんなに私を信じて良いのですか。私が貴方を斬ることなどないだろうと、そう高をくくっておいでですか。刀を使わずとも、口吸いの間に貴方の五臓六腑を氷付けにしないとは限りませんのに」
「四代目に譲る刀だから、先にお前に譲っておくだけのこと。殺したいと思うなら、お前が言うように氷の息吹で凍り付かせるも、刀を使うも、好きにしろと言ったのさ」
「私の力など、他愛もないものとお思いですか。私が牙を剥いても貴方様には何の障りもないと、そうお思いですか」
「そうキャンキャン鳴くな。それも可愛いもんだが……今宵は初夜だ、少しは甘く鳴いてくれ」

 侮るなかれと雪女が声を荒げるのもどこ吹く風、主は彼女のおとがいを掴んで唇を合わせ、褥の上に彼女を組み敷いてしまった。
 ともかくこのまま流されてしまうのだけは御免だ、威嚇のつもりで、握ったままの刀を抜いた。
 主は全く怯まず、己の喉元に差し迫った刃にむしろ自ら身を進めるようにして彼女の体に覆い被さってくるので、雪女は刀を己の方に引き寄せねばならなかった。

「脅すだけじゃ、オレは殺せんぜ」

 まったく、その通りだった。
 機嫌良さそうに、主は喉の奥で笑った。

「貴方を憎いと、そう申し上げているのです。私が子を産んだとして、その子に貴方を憎めと教えたなら、いかがなさいます」

 ここで己が主を殺せぬのは、主従の誓いが阻むためだと、彼女はそう思った。
 どういういきさつで主と盃を交わしたかなど忘れてしまったが、とにかく、未来永劫離れぬと、お側でお守りすると、そう《約束》したのは体が覚えている。
 ならば我が子が代わりに討ち果たすぞと、ここで己を抱けば、きっとそういう未来があるぞと、呪うように雪女は言うのだが、主は全く怯まなかった。

「そうだな、注文をつけるならただ一つ。人に仇なしてはならんと、それだけは教えておけ。あとは、お前の好きにするがいいさ」

 この物言いにも腹がたったが、雪女は何も言えなくなってしまった。
 主に求められるまま、煽られるまま、こみあがってくる熱を、吐く息とともにこっそり逃がすのに精一杯だったのだ。
 例え夫になったとて、憎いには違いない目の前の男に、決して靡いてやるものか、声など絶対にあげてやるものかと、指を噛むのに必死であったから。

 妻になるにはなったが、逆らえないから命じられたまま従ったまで。
 妻になったからには、家に入り子を産むのが役目であるから抱かれるまで。
 けれど決して許すまじ、許すまじ。
 その夜、己の指に、噛み切らんばかりの歯の痕をつけ、呪うように雪女は一心にそう思い続けた。
 許すまじ、許すまじ、にっくきこの男を、決して許すまじ。



 ああ、なのに、憎いというのに、仇だというのに。



 どうして真名を耳元に囁かれると切なく胸がつまるのか、どうして腕に抱かれると憎さよりも悲しさが先立つのか、ふと見つめ合ったときにあちらの瞳が真摯に優しく己を見つめている様子に、どうして、どうして、いとおしいと、側によって抱きしめてしまいたいと、もういいのと許してしまいそうになるのか。

 出入り先に連れては行けぬ、お前は四代目の母になるのだから万一のことがあってはならないと申し渡されたときなど、たった一人で奈落に突き落とされたように目の前が真っ暗になったほどだ。
 どうして。どうして。どうして、私を遠ざけようとするのですか、三代目。

 思ってから慌てて首を振り、許すまじ、許すまじと心の底に凍らせた呪いを呼び起こして、そうですかそれではお待ちしておりますと、慇懃に申し上げるだけのことに苦労して、困った。
 胸の前で重ね合わせた指が、彼の背を追いかけたいと、その袖にすがって掴みたいと、彼女の意に反して震えるのだ。

 憎いのに。許せないのに。憎いのに。愛しくてたまらない。

 見つめられれば苦しい。憎いと愛しいが混ざりあって、息もできない。
 オレはお前を好いているよと、からかうように笑われても、答えなど申し上げられない。
 息をするのも苦しいのに、何かを言おうなどとすれば窒息してしまう。
 雪女は何を言われてもにこりともせず、そっと顔を伏せて、不意にすぐ側の石ころに感じ入ったのだとでもいうように視線はやや横を向き、せめて彼から視線を逸らすことで、許さぬ、決して許さぬと、無言で伝えるのが精一杯だ。

 主は雪女が伝えたいことを正しく、それはもう彼女自身よりよほど正しく、汲み取ってくださる。
 彼女の想いが憎し憎しやばかりでないともご存じだから、こんな風に無礼なつれない態度をして見せても、すぐに帰ってくるよとあたたかく心を尽くして仰せになる。
 いってらっしゃいませ、お気をつけて、と、雪女はやはり顔を伏せたまま、呟くように申し上げる。

 主の不在の間、雪女は奥向きの仕事などをして過ごす。
 とは言っても、厨房の仕事はさすがに奥方さまにはさせられぬと女衆がうるさいので、針仕事が多い。

 ある時、いつものように主の不在のとき、いつものように針仕事をしていたところ、雪女は針の先で己の指を刺してしまった。
 慣れぬ仕事でもなかったのに、千々に乱れる心が指先にあらわれたのか、思いの外、深く針は刺さった。
 見る間に大きく生まれる瑪瑙の玉は、雪女の氷の肌を滑ってころりころりと、いくつか畳に散らばった。
 すぐにもう片手の指で強く押さえたので、小さな傷でもあるし、放っておいても大きな傷にはならずにすぐ消えただろうが、折悪く、主がそこへ戻ってこられた。

 大きな出入りは験を担ぐから別としても、遊歩や示談で済みそうな相手先から帰っても、大がかりな出迎えを好まぬ主は、このときも、玄関から妻を呼びつけるのではなく、帰ってきた足で雪女の部屋を訪ねたので、ちょうど、指先を押さえたところに出くわしてしまった。
 主は、指先の傷から、ころりと小さな瑪瑙を落とす雪女を見て柳眉を寄せた。

「申し訳ありません、不調法をいたしました。お召し替えをすぐに用意いたしますので、お待ちください」
「後でいい。それ、平気なのか」
「はい。針で刺しただけですから」

 そうか、と主は興味なさげに答えた。
 主は血の穢れを好まぬ御方だ。
 戦いになっても段平で相手をほふるより、陽の気をまとわせた幻術や炎で相手を黄泉へ送り届ける方を好む。
 憎んではいても、雪女は主の妻である、不調法や主が好まぬものをそのままにしておくのは彼女の意地が許さない。
 これで話はしまいとばかりに黙ると、己の指先に妖気を巡らせ、さっさと氷で傷を覆ってしまおうと思ったのだが。

「……よせ。いびつに治すこともない。ったく、完璧に奥方やってるかと思えば、どっか抜けてるな、おめぇはよ」

 主はこの指先をそっと覆うように握られて、止める間もなく、己の口元に運んでしまった。
 ちゅ、と濡れた音をたてて血を吸われると、余計にじんと痛むような気がした。
 指先ではない。
 胸が痛かった。



 ええっ、火傷しちゃったの?……ホント、つららはドジだなぁ。
 見せて。ボクが治してあげる。
 痛いの、痛いの、飛んで行けって、してあげるから、ほら。




「小さな傷でも、そこから呪いが入り込まないとも限らねぇ。魔除けはしておいた、絆創膏、しばらく取るなよ。
 ……なぜ、泣く」
「…………………え?」

 言われるまで、雪女は己の涙に気づかなかった。
 ただ、主の所作に、魔除けだという言葉に、彼女の細い指をそっと両手に包むようにして撫でてくる、大きくあたたかな手に、何だか懐かしい声を、思い出したような気がしたのだった。

「憎む男の前で、笑っていろとは言わねぇが」

 主は、祝言以来、己の前でにこりともせぬ女の涙を、これも優しく払われ、苦い笑いを浮かべられた。

「せめて、泣くな」



 お前はいつでも脳天気に笑ってる方が、いいよ。
 その方が、いいよ。
 だから笑ってなよ。それだけで、ボクは、守られるんだ。




 雪女はふと何かを、思い出しかけた。
 同時に、どうしてこの御方を憎んでいるのだったか、と、今まで不思議と考えぬようにしていたことを、今一度、改めて思い返してみた。
 不思議なもので、一度憎いと思ってしまうと、何故憎かったのかその理由など、無くても気持ちというものは続くらしい。
 これほどお優しい方を憎むのだ、きっと相応しい理由があったろうと思うのだが、どれだけ探しても見あたらない。

 思えば祝言から、十年の歳月が経っていた。
 その間、雪女は、とにかく夫を、主を、憎んできた。
 幾度、褥をともにしても、凍り付いた心は変わらず、子を孕んだならきっと宣誓通り、この御方を討つのだ、母の無念を晴らしておくれ、この雪女の力を侮った主を、誓いに縛られぬお前が果たしておくれと、父を討つための四代目にしてみせると、思い続けてきた。
 何故憎いのか考えることもなく、ただひたすら、憎し憎しや、酷な御方よ、主従の誓いさえなければと思い続けた。

 このとき初めて、何故憎いのかと、思った。
 しかし、とにかく、憎いのだ。どうしてかはわからない。
 どれほど考えても考えても、どうして憎いのかがわからない。



 思い出せない。



 この十年、とにかく主は妻に優しかった。
 酌婦には酌以上を求めず、妾を持とうという素振りもなかった。
 にこりともせぬ女が屋敷にあったとしても、何の慰めにもなるまいに、愛想良く喉を鳴らして懐いてくる猫又にも、扇情的に体をくねらせて寄ってくる蛇女にも、まるで靡く素振りはない。
 一度でも不義理を働いたなら、己を裏切った男などとの夫婦の盃もこれまで、狭量と笑われようともかまわぬ、万年雪の中へ消えてしまうも雪女の里へ帰るもその時の気分のまま、すぐさま屋敷を飛び出してやろうと待ちかまえていたのに、まるでない。

 噂は色々と、あった。
 どこぞの人の女を助けたらしい、主はあの女を気に召したのではないか、だとか。
 どこぞの妖の女と男の縁を取り持ってやったらしい、実は主こそ、その女を娶りたかったのではないか、だとか。

 雪女は一度これと思うと一途である。
 夫婦の盃はいわずもがな、一度、憎しと思えば、氷りついた薔薇のように、いつまでも棘をそのまま残す。
 あれでは主も心休まるまいにとは、屋敷の者のみならず、外の妖怪どもも知っていること。
 それでも主は、凍り付いて決して咲かぬ花びらを前に、木漏れ日のように笑いかける。
 金銀珠玉、更紗はもちろん、蒔絵の鏡に化粧道具、遊歩の途中に見つけたという野の花まで、およそ女がほしがるものは何から何まで揃えていただいたし、惜しむことなく言葉も尽くされた。

 女相手にはお優しい方だから、それも妻となった女を立てようとする気遣いだろうとも思えた。
 しばらくは、そうなのだろうとしか思っていなかった雪女が、だがこれは違うらしいと思い知らされたのは祝言を挙げてまもなくのことだ。
 雪女が全く主に靡かぬのと、仁義に厚くお優しい主の話を噂に聞いたとある女怪が、事もあろうか、己がどこぞの男相手に孕んだのを、主との一夜で為した子だと、屋敷の外に出てきた主の袖を掴んで申し上げたのである。
 目鼻立ちのくっきりとした美しい女であったので、屋敷の前で待ち伏せするような物乞いじみた行いではあっても、主の供をしていた近侍などは、これを追い払うよりも、はっとした顔をして主を仰ぎ見た。

 主はいつも通りの涼しい御顔をなさっていたが、一言そうかと仰せになると、おもむろに懐の長ドスを抜いて、ひたり、女の大きな腹につきつけた。
 それから、こう仰せになったのである。



「オレには全く覚えはねぇが、言った言わないの押し問答に興味もねぇ、女、お前の言う通り、その腹の子はオレの一夜の相手の結果であると、そういうことにしよう。
 だがな、それはつまり、オレにはそいつを精算する必要があるってぇことだ。
 お前が、あくまでその腹の子の父がオレだと言うのなら、今ここでその腹を裂いて子を取り出し、くびり殺してやらねばならん。
 何故って、過ちは正す必要がある。
 オレの妻は、雪女の氷麗、ただ一人。
 奴良家の跡目を産む女もまた、あいつただ一人だからだ。
 ………さて、もう一度訊こうか。
 その腹の子の父親は、誰だって?」



 これを聞いて、また主の冷酷な視線にじいと見つめられて女は青ざめ、額を土にこすりつけて無礼を詫びた。
 己を捨てた男があって、一人で己と腹の子を食わせてやらねばならない、主の子をはらんだとなれば、食うに困らぬ生活ができると企み、籠絡しようなどと身の程知らずをいたしました、と。
 一部始終を聞いた主は、女が己を騙そうとしたことなど忘れてしまったかのように、近侍に向かって、働き口が見つかるまで賄い所で使ってやれと言い捨て、さっぱりとした顔で自分は一人、ふらりと遊歩へ出かけてしまったのである。

 他にもこの十年、様々な出来事があって、雪女がどれだけ心を閉ざそう、耳を塞ごうと思っても、屋敷の女衆たちと話をすれば自然と、主の物言い、態度、どれも目にしてしまうし、耳に入ってくる。
 心が雪解けを迎えぬまでも、優しく春風が心を撫でていくのを、止められはしない。

 主は雪女に優しく、切ないほどに一途で、なのに決して愛を求めなかった。
 子が貴方を恨むように憎むように育てましょうと威嚇しても、好きにしろと笑って雪女を抱いた。
 子がなかなか生まれぬと周囲が囁いても、雪女もまた妻として焦りを感じても、焦りなど感じる必要はない、そのうちできる、ただオレはお前を抱きたいだけだと、舞い上がりそうな甘い声で仰せになる。

 十年まで、雪女はそのように、奴良家の妻として日々を過ごしてきた。

 どんなに優しくされても、甘く囁かれても、憎い憎い、憎いのだと、半ば自分に言い聞かせながら。



 けれど、気づいてしまった。
 笑うなとは言わない、泣くな、と慰められて。

 血の汚れを嫌うはずの主が、それを身に含んでなお、己を気遣う優しさの光を浴びて。

 気づいてしまった。



 貴方は私に笑いかけてくださるけれど、貴方は本当に笑っておられるのですか。
 こんな女が妻として隣にいても、なんの楽しみもないでしょうに、それで良いのですか。
 ねぇ、貴方は、貴方は、貴方は。
 いいえ、私は、私は、私は。



 貴方は、なにをしたのでしょう。
 私は、どうして貴方を憎むのでしょう。



 気づいてしまってから、雪女は青ざめた。
 憎む理由に、思い当たらないと、そのとき初めて、知ってしまったのだ。



 暗示は解けた。
 流れる涙とともに、雪女の心の氷はほどけて、嗚呼、と、雪女は叫び声をあげた。
 主を愛せぬ己に、憎む己に、憎しみの理由すら思い当たらず憎み続けた十年という月日と、その間の主の孤独を慮るや、押しつぶされそうになって、悲鳴をあげた。
 許せなかった。己自身が。
 憎かった。主も、主を守れなかった己も。
 悲しかった。己にだけは打ち明けてくれてもよかったろうに、己すら欺いた主が。
 辛かった。主がこれからも、己に何も求めぬのかと思うと。

 十年分、せき止められた想いがついに溢れたそのとき、雪女は何より己が許せなくて、この十年の間、主を憎いと思い続けて主を傷つけてきた己が何より憎くなって、悲鳴とともに吐き出した凍り付く息吹で、己の肌のありとあらゆるところを突き刺した。
 絹のようにすべらかな肌は瞬く間に血に濡れて、主がすぐに彼女を抱きしめなければ、そのまま彼女は己が生み出した氷の刃に己を張り付けにさせ、息絶えていたかもしれない。

 暗示は解けたが、しかし全てでは無かった。
 主を憎む理由が思い当たららないという、それを今まで不思議に思っていなかったのが、何も思い出せぬことに気づいた、ただそれだけだった。
 主が子守歌のように、お前が苦しむ必要はない、お前が責めを負う必要はない、お前はオレを憎いのだろう、憎めばいい、オレを憎む四代目を産むんだろうと、冗談を交えながら抱きしめながら言い聞かせ、ふうと吐息に甘い春の宵の香を乗せて雪女に吹きかけると、不思議と、雪女の中から、再び、何故どうしての思いは消えていき、己を八つ裂きにしてもあきたらない後悔、悲しみ、憎しみは、消えた。
 そこでは、確かに、消えた。
 けれどもそれ以降、同じことは頻繁に起こるようになった。

 最初は一年後、次は半年後、それからは一ヶ月毎に。



 雪女はやがて、一人の少年を思いだした。



 そうだ、主があの子を消してしまったために、己は主を憎む結果になったのだと、そこまで思い出してしまった。

 雪女は、おののいた。

 もしも、これまでに主の子を孕み、産んでいたなら、暗示が解ける前に、彼女は己の子に己の恨みだけを、憎しみだけを、そっくり教えて討たせていたかもしれない。
 ぞっとした。
 また忘れてしまったなら、また、自分でも知らぬうちに、理由すらわからぬまま、主を憎いと、憎々しいと、思いこんでしまうかもしれない。
 あるいは、子など待てぬと、己で手を下してしまうかもしれない。

 そんなことになってはと、雪女は以来、暗示をかけ直されるたび、己を傷つけるようになった。
 肌を貫く痛みを与えて、何故こんなことをしたのか、どうして己を己で痛めつけるのかということから始め、痛みの理由を思いだし、そこから糸をたどるように、思いだせぬ何かを探すことを、思い出すために。

 これは上手くいった。
 雪女が暗示をかけられても、己の肌を幾重にも氷の刃で傷つけるようになると、主はすぐには暗示をかけず、彼女の手当を優先するし、その間に彼女はゆっくりと、これまでの十年や、それ以前の時間を振り返ることができる。

 けれど、やがて、主は彼女を柔らかい絹の縄で縛り付けて自由を奪い、無理矢理にでも暗示をかけるようになった。
 そこに在るを無しとしそこに無しを在ると見せる、ぬらりひょんの鏡花水月、夢幻の術に、抵抗する術を奪われ、それでも。

 それでも、今度は雪女は己の舌を噛んで、痛みでもってこれにあらがった。

 忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘れてはならない、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、忘るるな、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して、決して。
 ………言い聞かせた?

 いいや、己を、呪った。
 どれほどの痛みでもかまわない、どれほどの苦しみでもかまわない、もう主を独りでは歩かせない、その一心だった。

 こうなって初めてわかったことは、主自身もまた、全てを覚えているわけではない、ということだ。
 主は常に、憎まれて当然のことをした、という想いだけを抱いていて、雪女が何かを思い出そうというところまで暗示が解けると、主の方は痛みを堪えるような顔をした。

 彼は己の記憶を、雪女の中へ封じこめていたのだ。
 彼女の一途な性を借りて、一度憎いと思えば簡単にはその怒り憎しみの氷は溶けぬであろうからと、彼女の中にこそ、彼自身の十年前までの記憶を、封じ込めていたのである。



「何故。どうしてなのです、三代目。どうして私は、忘れなければならないのです。貴方は。私が忘れていたあの子は。誰なのです。ねぇ、教えてください、主様、あの子は、あの子の名は、私、私、どうして忘れて ――― ?」
「それは、教えてやれねぇんだ。すまねェなつらら。もう少しの辛抱だ。あと少しすれば、もう苦しむこともねぇ」



 何度暗示をかけても解くようになった雪女は、やがて、一日に一度は必ず何かを思いだすようになってしまったので、その度に狂い泣いた。
 髪を振り乱し昼となく夜となく絶叫し、氷剣を生み出して己を貫こうとするものだから、主は彼女をできるだけ側に置き、常に抱き寄せその時に備えるしかなくなった。
 放っておくと氷の薙刀や短刀を作り出して、己の腕や足を何度も何度も傷つけるから、柔らかな絹の布で四肢を縛りあげもした。

 冷めた憎しみを向けられてきた十年よりも、こうして雪女が狂乱するようになったのを抱いている方がよほど、主は痛むような表情をされた。

 ある時、雪女が何度も繰り返した問いに、こんな答えを返されたのは、彼こそが苦しんでいたからなのかもしれない。

 主は暦を数えて、まだ暑いからお前にゃ厳しい季節だが、とお笑いになり。



「 ――― 十三年、人も妖も捨てずに生きて元服を迎えたが、その後これまで十二回、人を捨ててこの季節を迎えた。この季節が十三回目。あの時から、オレは妖としての十三度目の生を数える。そうなりゃあ、オレは妖としての元服を迎えたことになり、完全な妖となるだろう。
 思いだすものなど無くなり、お前が苦しむこともなくなる ――― それまでだ、それまでだから」
「それまでとは。三代目、それまでとは、何なのです。それからは、どうなってしまうというのです。私は、私は思い出せなくなるというのですか。あの子が誰なのかも?」
「言ったろう。嘘が真になる。思いだすことなど、元から無かったことになるんだ、苦しむことも、なくなるさ」
「嫌です、嫌、嫌、嫌。そんなの、嫌です。主様、主様も憶えていらっしゃるでしょう、あの子のことを?
 月光のように冴え冴えとした貴方様とはまた違う、陽光のようにあたたかなあの方を、どうして隠しておしまいなのです。
 どうか思い出してくださいませ、あの子を、私に返してくださいませ」
「参ったな、そこまで思い出しちまったのかい。悪いが、できねぇよ。それは大願成就の妨げになる。地獄の奴等も騒ぎだしちまうだろう」
「それが何だと言うのです、分際をわきまえず地獄から這い上がって来ようとするものなど、蹴り戻しておしまいになればよろしいではありませんか。それが、何だと言うのです!」
「地獄の釜の蓋が開くときに、現世の者どもが巻き添えを喰う。世が乱れる」
「それが何だと言うのです、それが何だと言うのです。あの子よりも大切な事ですか。貴方よりも大切な事ですか」
「 ――― 氷麗。終わった事を、蒸し返すな」
「何が終わったのです、終わってなどいません、何も!」
「もう良い、眠れ。忘れろ」



 嫌だ、と思っても、より濃い香がたちこめるや、雪女は眠りに落ちた。
 しかしこの日から、憎しみよりも不安と焦りを抱くようになり、主の目を盗んで屋敷を出ては、あの少年の面影を、捜し歩くようになったのである。

 主は雪女の想いを、彼女自身よりも正しく汲み取って下さるが、同じ様に雪女もまた、主自身よりも主を理解できるのだ。

 主は、もう少しだと仰せだった。






 もういいかい。まぁだだよ。






 もう少しで、彼女の憎しみは本物になってしまう。
 何も思い出せぬのに、それを不思議に思わずに、ただ憎いだけが本当になって、いつか産み落とす四代目は父の教えと母の憎しみを注がれる器となって、やがて主は滅されるだろう。

 そうなってしまわぬよう、その日までに、彼女はあの少年を、捜さねばならない。






 え、ボクを見つけたいの?困ったなぁ。
 ねぇだって、此の世の全てと引き換えにできる?
 ボクを見つけ出した途端、世界が割れてなくなってもいいのなら、別だけれど。







 憎しみは愛情の裏返し、それほど愛してくれていたというのなら ――― 見つけてほしいと、主は仰せなのだ。





 じゃあ、つららが鬼だよ。つららは、かくれおにが苦手だからなぁ、見つけられるかな。






 その日。
 もう間もなく訪れる、九月二十三日までに。






 ――― 現世にいきとしいける者、全てと引き換えにしても良いんなら、捜してごらんよ。






 ――― もう、いいかい ――― もう、いいよ。