「なんや、えらい身勝手やないか、その旦那」
「うん、私も思った。やっぱりイイのは顔だけなんだ」
「ちょ、ちょっと二人とも、好き勝手言わないでくださいよそれでも私の旦那さまなんだからー!」
「あれ、つららちゃん、憎んでたんじゃないの?」
「せやせや。この際やさかい、この十年、たまっとった分があったら言うてみたらええのに。その分やとあれやろ、周囲は全員旦那の味方で、愚痴の一つも言えへんやったんとちゃいますのん?うはぁ、息つまるわぁ」
「お見合い結婚……とはまた違うんだよね。命令されたから結婚したとか、私にはあんまり想像できないけど、なんだか言い分はすごく勝手な気がするなぁ。理不尽な上から目線というか。女を馬鹿にしてるんじゃない?子供産むための道具みたいじゃない」
「………人間の世のことは詳しくないけど、周りはたしかに、主様の味方ばかりよ。でもそれは、私も含めての事。敵か味方かと言われたら、そりゃあ私は百鬼の主様の下僕ですもの、皆が主様の味方に違いはありません。……むしろ、主様がご自分で決められたことに、あれこれ口を出すなど差し出がましいこと、主様がなさったことにあれこれ悲憤を感じて憎いなどと思う、私がいたらなかっただけのことと、思われてもいたしかたないのだから、誰を責めることもできないし。
 でも……それでも……私、私が間違っているのだとしても、主様を憎まずにはおれなかったの、許してはおけなかったの。
 だってどうしても悲しくて、悲しくて、悲しくて」
「つまりなに、あの顔だけ男はつららちゃんを権力でねじ伏せて、主様が正しい、主様の言うとおりっていうイエスマンだけに囲まれて暮らしてるってわけなの?はぁ、呆れた。あ、ゆらちゃん、はい、おネギ。大根下ろし入れてもおいしいよ」
「うん、おおきに。家長さん、顔にこだわるな。なんやトラウマでもあるん?」
「だって名前がわかんないんだもん。ぬらりひょんさん、って、なんか長いし」
「せやなぁ、でも顔だけ男っちゅーんもなんや、別の妖怪みたいやね。ぬらちゃんとかで、ええんやない?うちのご先祖、そう呼んでたみたいやで。にしてもこの素麺のおだし、絶品やなぁ。鰹の香りが上品にきいとる」
「あ、ありがとう。……陰陽師に誉められるって何か不思議な気分だけど。うぅーん、ぬらちゃん……。ちゃんと言うほど可愛げがある殿方でも無いような気がするんだけど……。なんだかもっと悪戯小僧って感じよ、アレは」
「じゃあ、ぬらくん。うん、仮にぬらくんとしましょう。そのぬらくんは、つららちゃんをお屋敷に無理矢理閉じ込めて、つららちゃんが言うことに耳を貸してくれなかった。ところがこの一週間だけ、自由にさせてくれるようになった。一週間の間に、つららちゃんがその男の子の名前を思い出せなかったら、二度と機会は訪れないし、もう残り時間も短いことだから大丈夫だろうって侮ったと、そういうこと?そういうことなの?酷いじゃない、もっと時間があったら、もっとじっくり捜したり、思い出したりできるのに」
「そこんトコを言っても、しゃーないやろ。結局残された時間はあと七日。いや、夜が明けてもうあと六日か。その間に捜せなかったなら……どうなるんや、雪女」
「どうもこうも、主様が仰せの大願は成就されるのだと、そう思う。今はこうして何かを忘れているという焦りがあるけど、それも私の中からは消えて、完全に悲しみと、憎しみだけを、あの方に対して持ってしまうのでしょう。最初からなかったことになると、主様は仰せだったから」
「というと、つららちゃんは今、ぬらくんに対して憎いだけじゃないって、そういうこと?………それに、大願?って、なに?」
「遠慮しないでええんやで。何なら、このまま逃げる方に手を貸してもええんよ。女の主張は認められる時代や。女は家に従えだの女だてらにだの女の分際でだの女が女がってあいつら本当にマジうっざ、うっざいねん、ホンマ!」
「ゆらちゃん、落ち着いて」
「おお、すまんな、ついうちのアホな男どもの顔、思い出したわ。家から離れんとなかなか言えへんからなぁ、こういうこと。だから雪女、あんたも今のうちやで。ささいな事でもええから、今のうち、ここが嫌、あれはナイと思う、そういうことを吐き出してみたらええよ。そうしたらそん中に、とっかかりがあるかもしらんやろう」

 朝食には遅く、昼食には早い時間。
 昨夜遅くに家長カナが住まう賃貸マンションへたどり着いた花開院ゆらを交えて、女三人は、ざるに切った素麺にすずしげな氷を添えたのをつるりとやっていた。

 実はこの三人、夜明けまで一眠りした後、早朝に例のバス停まで赴いている。
 家長カナが小学生の頃から、学校に通うために使っていたバス停だ。
 カナが子供の頃、小学校から高校までを通うのに使ったバス停から、橋を渡って坂をあがったところにある、というのは、記憶の通りだった。

 あったのが屋敷ではなく、都会の真ん中、繰り返された地上げの嵐から逃れてぽつんと一滴、雫のように残された、鬱蒼とした林であったことを、のぞけば。

 カナはそこには昔、もっと別の何かが、そう、立派なお屋敷があったような気がするのだが、例えば通い慣れた道の途中である日、昨日まであったはずの建物が壊されて更地になっていたときに、その建物が何だったのか思い出せないように、そこにあったはずのお屋敷が、どんなたたずまいだったか、まるで覚えていないのだった。
 普段ならば、記憶違いだったのかもしれない、きっと違うものと間違えて覚えてしまったんだろうと、疑いもしなかったろうに、この時のカナが感じたのは、悔しさ。
 唇を強く噛んで、目の前の林を睨みつけて、しかし彼女にはそれ以上どうする術もなく、ちらと後ろを見やった。

 ともかく中に入ってみれば始まらんと、足を踏み入れたのは、久しぶりの再会の挨拶もそこそこ、カナの家にたどり着くや、「少し寝かしてなー」とソファに倒れ込み、朝日とともにむくりと起きた、ゆらだった。
 彼女がおなじみの財布から、おなじみの形代を取り出して何事か口の中で呟くと、雪女はあからさまに怯えた様子でカナの背中にさっと隠れたが、カナには何がおそろしいやら、まるでわからない。
 指で印を切り、形代がその場でめらりと炎に包まれ消えてしまった以外は、さしたる変化も見えなかったためだ。
 ゆらはこれについて多くを語らなかった。
 語らなかったけれど、彼女が先頭になって林に分け入ろうというとき、「家長さんは、貪狼も見えなくなってしもたんやね」と、残念そうにため息をついた。
 そんなものはいない、ありえない、なんて目くらましを取りはずさんと、その屋敷なんぞ、絶対に見つからへんで、と。

 花開院家初の女当主の言葉は、正しかった。
 坂をあがった先は古びた大きなお屋敷があったあずなのに、三人が見たのは、年月にさらされた墓石の数々。

 どう見てもそこは、墓場であった。

 都心に忘れられて沈む、林の向こうの墓地。
 雪女が言うには、確かにその場所は彼等が住む屋敷へ続く道らしいが、常は人の目から隠されていて、ちょっとやそっとでは現れないらしい。

 屋敷の主の妻が訪れたというのに、まるで道をあける気配の無い木々と墓石に、雪女は目に見えてしょんぼりと肩を落とし、ゆらは唇を噛み、カナは憤りを感じた。

 ちょっと、閉じこもってないで、出てきなさいよ、と。
 十年以上軟禁するぐらいに大好きなあなたの奥さんくらい、迎えてあげたらどうなのよ、と。

 呼びかけたら出てくるのではないかと、すうと息を吸い込んで、しかし、呼びかけるべき名を知らぬと思い出した。

 中にいるはずのひとへ呼びかけるべき名前を持たぬ三人は、それほど深いはずはないのに、落ちる闇の濃いのが手伝うのか、向こうを見透かせぬ林の前で、ただ立ち尽くして、これをしばらく睨みつけていた。

 風雪にさらされた墓石たちが、古びているとは言え、一つも名を読めぬまでになっているのが、カナには、己の記憶に、想い出に、関係しているように感じられて、ならなかった。
 そう、名前。
 名前を捜せば、思い出せば、それを呼びかければ、きっと彼はそこから姿を現すに違いない。
 墓石の名が読めぬようになったとしても、そこに誰が眠っているのか知っている人が訪れる限りは、その墓はどこそこの某の墓であるとわかるように、あの妖怪の主の名を思い出せば、きっと。

 その場で三人はそういう結論に達し、今日は出直すことにした。
 ゆら曰く、これは戦略的撤退だった。

 だから三人が食卓を囲んで、やや夏ばて気味の胃に優しい素麺をすすりながら、あれよこれよと意見を出し合っているのは、何も、すごすごと戻ってくるしかなかったばつの悪さを、どうやらこの騒ぎの元凶らしいあの銀髪の風流男を言葉でたこ殴りすることで憂さ晴らしをするためではない。

「うん、それもそうだね。つららちゃん、何かないの。ほら、亭主関白いいかげんにしろって思うようなアレコレ。あれやっておいてくれの《あれ》って何だよとか、ろくに口もきかずに「ん」で醤油を取ってもらおうとしたりとか」
「あ、あははは、まあ、確かにそういうことも……」
「あるんかい……」
「ぬらくん最低……」
「いえあの、でもその、うちの場合はそれでだいたい分かるし」
「わかるんかい……」
「ダメよつららちゃん、ぬらくんが増長するわ。男ってのは最初の躾が肝心なんだから」

 決して、顔だけの男を言葉でたこ殴りにするためでは、無い。

「最初の躾?そ、そんな畏れ多いことは……」
「自分の洗濯物くらい、自分で畳ませるとか」
「そんなまさか、屋敷に居る女怪は私だけではないもの、私がやらなければ、ほかの端女がしてしまうわ。
 でもなんていうか、憎んでいるはずなのに、嫌いになりきれないというか、主様の身の回りのお世話を別の側女がやろうとするのを見ると、なんだか嫌な気持ちになるの。そのやり方はあの方は好まない、その振る舞いはあの方は嫌う、とね、鼻につくものだから、結局後から手直しするよりも、自分でやってしまった方が早いのよ」
「あんたなぁ、腕にそんな痣こさえるまで縛られてるってのに、庇うようなこと、言わんでええんやで。いじめられてるんやったら、いくら主様だから旦那だからと持ち上げんでも、なんならほんまにここから逃げる算段に計画変えてもええんやし」
「ううん、逃げるなんてとんでもない。今回だって、このままじゃいけない、捜さなくちゃいけないって思っただけで………優しいの、すごく。でも憎い。理由がわからなくても、憎い気持ちは色あせず、たしかに奥に残ってる。だから祝言をあげてからこちら、にこりとしたこともないわ。だけど文句一つ、お叱り一つ、仰せにならない。私ごとき側女あがりの妻なんて、一喝して黙らせておしまいになればいいのに、それをできない方ではないのに。
 私は身の回りのお世話をするばかりで、ろくに話し相手にもならずに、毎日ただ過ぎていくばかり。なのに一度だって不義理をされたことはないわ。八つ当たりをされたことも、怒鳴られたこともない。いつだって優しくて、欲しいものはないかとなにくれと気を使ってくださる。本当にお優しいから、なぜ憎んでいるのか、どうして憎み続けなければならないのか、わからなくなってきて」

 賄い中は袖をまくり上げ、長い髪を鼈甲の簪でまとめあげていたのを、はらり流してびんの辺りをなでつけ、夢見るように続ける女は、気づいているのだろうか。
 色褪せた紫陽花のように乾いて疲れきったところから、何かが生まれ出ようとしているのを。
 ちょうど今、疲れきったようにため息をついたその所作が、逆に涙に濡れた花びらのように艶めいているのを。

 彼女自身が気づいた、十年の間に注がれた優しさから生まれようとしている、憎い方、けれど優しく愛しい方と想い始めた気持ちよりも、もっと深いところから、分け入るように、生まれてくる何かが、あるのを。
 華奢な手で、そっと臍の下あたりを撫でた己の所作を、己で気づいていたろうか。

「本当は、愛したいんだと、思うの。でもそれが、無理なの。それに主様は、私を愛するばかりで、愛されたいと、望んではくれない。悲しくて、辛くて、やりきれなくて」

「おかしいでしょ、憎いのに、嫌ってるはずなのに、彼が私に好かれるために優しくしているんじゃないのが、すごく悔しい。ええそう、主様は、私に好かれるためや私の機嫌を取るために、優しくしてくださるのではないのよ。……わかるわよ、私は雪女だもの、向けられる感情が打算なのか愛情なのか執着なのか、どういうものが入り交じっているのかくらい、すぐにわかる。そういう色や香がするものなんですもの」

「主様から香るのは、ただひたすら、無垢なまでの優しさと、それから独占欲、終着、ほんの少しの申し訳なさと、いたわり、それから真っ暗な……諦め?見限り?……絶望にとても近い色をしているのに、主様は強い御方だから、かろうじてそうはなっていないという、それだけの、暗い色。
 主様は、私から憎しみ以外のものを向けられることはないと、ご存知なんだわ。だから私たちはいつも一方通行で、私は、私の憎しみを超えて生まれそうな想いは、主様に欲されていないために、生まれることができない。このまま何も思い出せずにいたら私、本当に、生まれてくる子に父を憎め恨め殺せと、教えてしまうかもしれない。ううん、きっとそう教えてしまう」

 本心では、そんな風に教えたくないのだと、吐露した雪女を、素麺のつゆまで飲み干したゆらが、常に瞑想するような半眼でしばらくじいと見つめた後、なああんた、と一声かけ、あとはおもむろに訊いた。

「雪女、あんた、妊娠したんとちゃうの?」
「ふえっ?!」
「え、ちょ、妊娠って……まさか、つららちゃん、そうなの?!」

 三人、今は擬態を解いた、雪模様の白小袖を纏う女怪の、帯をきっちり締めた腹の辺りをじいと見てから、顔を見合わせた。

 当の本人までが、まさか、という顔をして己の腹を見やり、その後、二人に助けを求めるような視線を送ってくるので、二人は心当たりを促すように、むむ、と雪女の視線を迎えうつ。

 やがて、雪女はここ最近の己の挙動や体調を省みると、頬を淡く朱に染めた。

「……夏バテであんまり食べる気がしないって、さっき、言ってたよね」

 と、カナが言えば、こくんと可愛らしく人妻は頷く。

「雪女とは言え、妖怪に夏バテなんてあるんかいなと思ったけど、下手なモン食べようとすると吐き気がするとか、素麺みたいなあっさりだったら大丈夫とか、酸っぱいモン好きとか、それ、ご懐妊しはったんやない?」

 ずばり、ゆらが追い打ちをかければ、目が泳いだ。

「心当たり、ある、ってことだよね?」

 カナがさらにつめよると、ついに雪女は袖口で口元を隠し、戸惑いながら、

「………月のものも、そう言えば遅れていて……」

 白状した。

「なるほど、話はわかった」

 つゆを飲み干した小鉢の上に、かつんと揃えた箸を置き、ゆらはこっくり、しっかり、頷いた。

「そのままだと、その腹の子に旦那を憎むよう教えることになる。あんた、本心ではそれをしとうなくて、それで、十年も封じられとった記憶、どんなにがんばっても半年に一度解けるようなもんでしかなかったのが、ついに妖怪の主の力ですら抑えられなくなった、そういう事か」

 妖怪の主の命令であれば、下僕の百鬼は従うもの、憎し憎しやと念じていても尚、自ら刃は向けられなかった雪女こそが良い例だ。
 ゆらは人の身なれども妖を知り尽くしているから、記憶を奪われたらしい雪女が、忘れろと主に囁かれながら、無意識にでも刃向かおうとしたとなれば、彼女の中で、主より何か優れた力がより大きく働いたのであろうと理解した。

 古来より伝えられる雪女は、妖と一括りにされてはいても、その実、山神の使いとして神性を帯びた存在だ。
 例えば母性、愛情などは、人の世では執着、煩悩と断じられることもあるし、大陸より伝わった神々のように社もない上、怪談話などでなまじ有名になってしまったので、今でこそ妖に近い種属ではあるが、元々は恵みと祟りを等しく司る天女に近い。

 もっとも、流行神という言葉があるほど、あやしの者たちは人々の念、つまり《畏れ》に存在を左右される存在なので、信仰を忘れられた現代で、彼女等はただ吹雪をひゅうと吹かせる気まぐれな北風と同じであると扱われるようになった。その後になってから生まれたこの雪女の氷麗などは、ゆらに己が主よりも優れている力があるなどと言われて初めて、それが強まる原因は体に宿ったもう一つの命の分だけ増した妖力、あるいは通力のためであろうと指摘されて初めて、思い当たったようだった。
 それでも、女の身で主を出し抜こうとするなど、畏れ多いと恥入る彼女は、戸惑い視線を惑わせた。

「でも……そんな、体調が最近優れないなって、そう思うことは増えたけど……ただの気鬱かなと思っていたから、確かめたことなんて全然無いし、わからないわ、そんなの」
「……まあ、どっちにしても、つららちゃんはいずれ、ぬらくんとの子供、欲しいと思ってるってわけ?憎いけど、でも、好きだから?」

 憎い。けれど愛しい。そして優しい。嫌いになりたいのではない、むしろ愛したい。私も優しくしたい。

 あてられてしまいそうな情を、言葉を尽くして語る雪女を、カナは笑わなかった。
 全身全霊をかけて、主を語る彼女の不安を、どうにかして取り除いてやりたい、今はもしやの話でも、いつかは本当になることなら、父を憎めと教える母より教えられる子より、父と母が互いに許し合い愛しながら、二人ですこやかに成長する子を見守る方が、きっとしあわせに違いないと思えば、同じ女として応援もしてあげたい。
 真摯なカナの想いが通じたか、雪女は、憎くも愛しい男との子が欲しいのか、戸惑いつつも考えた。

「………妻となれば、跡目を産むのは義務だから、欲しいの欲しくないのと、今まで考えたことは無かったかも。でも、改めて考えてみると………欲しいのだと、思う。
 主様と二人、庭で遊ぶ子を、見守ったり………それを見て、笑い合ったり」

 主の前で、これまでにこりともしなかった雪女だが、子供が居る風景をいざ考えてみると、目を潤ませながら、こう語った。

 カナは学生の頃に、恋とはどういうものだろうかと思いつつ、見よう見まねで彼氏彼女と呼ばれたり、大学に入ってから少し大人になった気分で、講義やゼミで一緒になった彼氏と、結婚も視野に入れた語らいをしたこともあった。
 念願の職についてからも同じように、出会いと別れを繰り返してもきた。
 苦しいと思うことも、恋や仕事で、様々あった。

 けれど、こんな風に、憎い男に妻になれと求められ、断るなど身分ゆえに選択肢にすら無いなどと、まるで時代錯誤の身の上になったことは、もちろんない。
 それどころか、被差別問題を根底にした女性差別、暴力問題は、憎むべき題材だ。
 逆に言えば、その奥で絡み合う、男女の間の、愛とも憎しみとも呼べぬ何かを、理解しようと感情で考えることはなかった。

 初めて、この人たちを応援したい、と思った。
 社会だとか環境だとかの問題ではなくて、この二人の問題を、どうにかしたい、と思った。

「子供、欲しいんだね?」

 応援したい。
 気持ちが通じたのか、ついと雪女の目元から、霙の涙が落ちると、こくり、彼女はしかと頷いた。

「あのひととちゃんと愛し合って、笑い合って、言い争いをしてもいいから、仲直りして………。夫婦として、寄り添いたいんです」

 すぐに涙を拭った彼女は、カナが彼女を拾ったときと同じ言葉を、今はゆらとカナが見守る前で、もう一度くりかえした。

「だから、お願いです、家長さん、それから……花開院さん。あの子の名前を。……あのひとが隠してしまった、あのひとのもう一つの姿を、あのひとの名前を探すのを、どうか、手伝って下さい」



+++



 次の日からの三人の行動は、意欲的だったと言って良い。
 ゆらは、己が知っている魑魅魍魎の主の姿を、あの頃、裏の世界と呼ばれるところで、カナが目を瞑り続けてきた恐怖の世界で何があったのかを事細かに語ってくれたし、雪女もこれに加わった。
 カナも積極的に、あの頃のことを思い出そうとした。

 妖怪の主はどこにでもぬらりくらりと入り込む、隠形の術に長けた大妖。
 妖怪とはそのものが姿を消し、風に乗り空を飛ぶ、あやしの者たちのこと。
 この中にあってさらに姿を消すというのは、どういうことか。

 人が目に見えぬものを畏れて敬うように、あやしのものたちもそれは同じである。
 例えば人が、「お天道さんが見ているから」と言って、悪さをするのを己で咎めたりするように、あやしの者たちも、もしかしたら姿は見えないが、今まさにそこに主様がいらして、己の所行をご覧になっているかもしれないとおそれる。
 同じあやしの者であったとしても、主の隠形を見破るとなれば、よほどの力を持つ者でなければ、かなわない。
 弱いから隠れるのではない、あまりに大きく強い力を持つ者が目の前にあったとして、あやしの者たちは、気づけない、あるいは気づくのをやめてしまうのだ。
 あるいは、仁義を失わずに、主様の意向に沿って、ひっそりと暮らすだけの妖怪たちを、主様は驚かさぬように、やはり隠れてその場を素通りなされる。

 どんな神にも調伏されず、どんな妖怪に下ることもない、それが魑魅魍魎の主。
 あやしの者と人々の境界線のこちら側で、あやしの者どもに手を伸ばし利用しようとする人間どもを咎めたり、あちらからたまに人間に過ぎた悪さをしようとしゃしゃり出てくる恐ろしい妖怪を調伏して人間を守るのが花開院ゆらならば、あちら側で同じように、人どもに手を伸ばし利用しようとする妖どもを咎め、あるいは弱い妖怪どもを手に入れて利用しようとする、道を外れた人間どもをこらしめるのが、彼なのだ。

 だからゆらは、魑魅魍魎の主である彼を、妖の彼をよく知っている。
 彼女にとって、彼は戦友だ。
 同じ戦場に立ち、ときには同じ陣営で敵を迎え討った。
 もちろん、それが終わればお互いが率いる者どもの大将の身、必要以上になれなれしく語ることもなく、また、次に会うことがあればそれは、手を組まねばならぬほどの危急の時であるので、再会の約束もとくに交わさず、けれど互いが背負ったものの重さは、きっと理解し合っていたはず。
 あの奇妙な親近感は、戦友と言わずして、何と言おう。
 恋や愛が生まれる土壌ではない。
 互いのどちらかが境界線を犯して互いの敵となったなら、迷わず互いの首を狙うだろう。
 あのぴんと張りつめた空気の中で育ってきたのは、理解、それだけのはずだ。

 これをゆらが講釈し、さらに雪女がしきりにカナに向かって、陰陽師のゆらは主様の戦友だから、こうして主様の妖怪の姿をよく知っているが、人間の姿を、あの子をよく知っているのは貴女のはずだ、だから思い出して欲しい、主様の命令に従わなくて良い対等な間柄なのは、貴女たち二人しかおらず、また、思い出さなければならないのは貴女が知る姿なのだと、切羽詰まったように言い募るので、カナも仕事の合間に、ときには仕事の取材と称して中抜けまでして、《彼》《あの子》を思い出すための欠片を、探し続けた。

 名前というのは不思議なもので、今までそんな事があったろうか、そんな人があったろうかと疑わしいばかりであったとしても、いざ、「ぬらくん」と名前が決まってしまうと、うん確かにそういう友人がいたかもしれない、いや、いたはずだと、思ってしまうのである。
 同じ人間だったとしても、妖の力を使っていなかったとしても、同じ学級でそれほど話さなかった人のことは、どうしてか年月とともに忘れていく。
 けれど、アルバムを開いて、同じ時期をともに過ごした友人とともにこれを覗いて、あの時はああだった、このときは、この人は、などと語り合っていると、おのずと口から、この人はこれこれと言う人だと、名前が出てくるのである。

 ゆらと雪女に囲まれて、カナがこれまで省みなかった記憶の片隅を振り返ってみると、そこには。
 思い出したのは。

 通学路に、あったはずの、お屋敷。
 居たはずの、友達。

 小学校、中学校、あのバス停から自分は一人で通っていたではないか、と、これまで信じてきた世界だけを見た答えをまず否定して、本当にそうだったか、小学校の一年生から、たった一人でバスに乗せるほど、我が家の両親は一人娘に対し放任主義だったか、と疑問にしてみると、答えは案外、簡単に見つかった。



 大丈夫だよ、おばさん、おじさん。
 カナちゃんをいじめる奴は、ボクが絶対許さないから。



 あらまあ、頼もしいボディガードねぇ。
 カナ、大丈夫?
 ――― くんと一緒に、ちゃんとバスに乗れるかしら。




 そこには、一人、居た。



 大人になったカナの目の前で彼は、幼い日のカナに向かって、「行こう、カナちゃん」と手を出して、二人手をつなぎバスに乗り込むと、あのバス停から記憶の彼方、黒か白か、いずれにしてもどれだけ目をこらしても見えぬ彼方に、バスは走り去ってしまった。

 居た。確かに、居た。
 どういう子だったか。

 二日、三日と日々は過ぎ、土日を挟んで週明け、流石に仕事は休めないと断ると、雪女もゆらも、確かにただ三人顔を突き合わせているだけでは思い出せないからと、案外さっぱり彼女を送り出してくれたものの、いざ職場でデスクに向かっても、仕事もあまり手に着かず、ぼんやりと物思いにふける。

 カナは幼稚園の頃、よく男の子からいじめられた。
 洋服に泥をつけられたり、砂をかけられたり、お気に入りの髪留めを壊されたり、今なら他愛もない子供同士の諍いと片づけてしまう些細なことが、あの頃はこわくて悲しくて、すんすんと泣いていたものだ。

 それでもカナは、幼稚園に行くのをやめる、とは言わなかった。
 幼稚園には、 ――― くんが居て、必ずいじめられっこを懲らしめてくれたから。



 やめろよ、カナちゃんをいじめるな!
 カナちゃんは弱い女の子なんだ、自分より弱いモンいじめて、何が楽しいんだ。




 デスクに向かっても、スケジュールをこなすばかりで、集中などできない。
 ゆらと雪女、二人はカナの仕事を理解してくれて、夕方以降の捜索に理解を示してくれるけれど、カナ自身はそうもいかない。

 あの子は確かにいたはずだ。
 ――― くん。
 なんという名前だったか。
 どういう子だったか。
 どうして、いなくなってしまったのだったか。

 机の前でしばらく考え、取材と称して席を立つと、考えをまとめるためにと思ってとにかく歩いた。
 何気なく歩いて、涼を求めて電車に乗ると、懐かしい駅の名前を聞いたので、衝動にかられて降りてみたものの、いつもならしないはずの行動を起こした自分にまず驚いた。
 少しの間、呆然として、乗ってきた電車がすっかり見えなくなってしまった頃にようやく、我に返った。

 後はとくに深く考えず、足の向くまま、そこへ向かった。

 駅から歩いて少し。
 その先に、浮世絵中学校はある。
 つい二日前までは、そう真剣に思い出すこともなかった中学校の頃の生活は、いざ学舎を前にすると、つい昨日までここへ通っていたかのように、白黒からセピアへ、そして極彩色へと変わって蘇る。
 そうだ、あの頃。

 教室にはいつでも、綺麗な花が活けられた花瓶があった。
 あの水は誰がかえていたっけ。

 黒板は授業が終わるたびに、まっさらにされて、黒板消しはクリーナーでふかふかだった。
 グラウンドは大風の後でも、ちゃんと整えられていたし、陸上部の朝練の前には白線がきちんと引かれていた。

 あれは、誰がしていたんだっけ。

 用務員さんや学校の先生に任せておけばいいのに、と、ぼんやり霞がかった光景の向こうで、少し大人びたつもりの、カナが言うと、彼はきょとりとした顔で、こう答えた。



 うん、用務員さんってすごいよね、学校中、いつでもぴかぴかにしてるんだもの。
 学校の先生も、勉強を教える勉強をたくさんしてて、すごいなって思うよ。
 ボクもがんばって、立派な人間になるよ。




 まるで、人間ではないかのような言い種だ、と、大人になった今のカナは。
 ぞくり、残暑厳しい太陽の下で、寒気を覚えた。



「え、カナ?うわぁー、久しぶり〜、テレビ見てるよ!え、中学校の頃?うんうん覚えてる、あの変な部活。帰宅部っぽかったし楽だったけど、たまに合宿とかあってさあ、色々行ったよねえ、捻眼山とか、京都とか、他にも色々」
「あの頃はあんまり不思議に思わなかったけどさあ、よく学校とかPTA、許してたよねえ、あんな活動。完全にオカルトじゃん。後で聞いたらさ、民族学的な部活だってことにして、毎月レポート出してたらしいよ、うちの部長。島とかに手伝わせて。その情熱どこからくるんだっつーの」
「いやでも俺、全然役にたってなかったと思うっすよ、せいぜい資料のあれを図書室から取ってくるとか、荷物持ちとか、そっちの部活でもまるで体育会系だったし、正直息抜き程度にしか思ってなかったなぁ。あの頃、サッカーで食っていけんのか、かと言って諦められんのかって、悩んでた時期だったし。でもあの部活よかったっすよね!今だからぶっちゃけるけど、可愛かったよなぁ、あの子。えーと、なんて言ったっけ。まあ、あっちは俺のことなんて全然お呼びじゃなくて、ええと、あれ、もう一人いなかったっけ、あの部活の男子って、清継くんと、俺と、あれ、それだけだったっけ?いや、あの子が好きだったのは清継くんじゃなかったし、だから、もう一人、いたと思うんだけどなー。……サッカー上手い奴が、一人」
「やあやあ家長くん!よく連絡をくれたねえマイファミリー!え?島くん?ああ、今でも年賀状くらいのつきあいはあるけど、さすがにねぇ。あっちも地球の裏側で忙しくいているようだし、そうそう家長くん、君も忙しそうじゃないか。ふふふ、報道特集に君の名前があったりすると、ちょっと得意な気持ちになるよ。え、あの頃の部活?いやぁ、うれしいなあ、覚えていてくれるなんて!そうだねぇ、あれが今の僕の原点と言うべきか、祖父と同じく民俗学に踏み込む起因になったのは確かだねぇ。……え、あ、もしかして、あれかい?!僕に取材なのかい?!いやぁまいったなぁははは、どうしよう僕が特集にくまれちゃったりなんてする日がついに来たのかそうか!え、違う?……あの頃の部活のメンバー?って、そりゃあ僕に、島くん、君に、鳥居さん、巻さん。……それから、真夏でもマフラーをしていた女の子、と、ああそうだ、ガタイのいい、ドクロTシャツの暴走族がたまに来たよね。……それだけだったかな?
 ああ、レポートの話?うん、たしかに島くんには手伝ってもらったけど、彼は頭脳派じゃないし、およそ研究には向かないねえ。五分と机にむかっていられないんだから。いや流石に僕でもそう毎月、先生を唸らせるようなレポートを一人で書き上げるのは厳しいよ、他にも勉強をおさめないと、父がうるさかったし。そこは優秀な秘書が!
 あー、そうそう、ほら、彼だよ、思い出した!
 ええと、なんて言ったっけ。彼。おや不思議だ、思い出せない。
 まあいいや、とにかく彼とほとんど二人で書き上げていたね。彼はなかなか熱心に妖怪のことについて調べていたし、歴史のあれこれにも詳しいし、古典は楷書だろうが草書だろうがすらすら読んでくれるから、ああいうときには重宝したっけ。
 名前って、卒業アルバムなんかに乗ってないかい?写真もきっとそこにあるはずだよ」



 呼び覚まされた記憶に背を押され、近くの喫茶店に駆け込んで、システム手帳に挟んだままの、薄い電話帳に片っ端から連絡をつけると、不思議なことに次から次ぎ、あの頃の面子に連絡がつく。
 地球の裏側にいるはずの、日本サッカー代表選手すら、たまたま実家に帰っていたらしく、突然の不躾な連絡に明るく応えてくれた。

 すべての事柄が、数珠つなぎに陽の当たるところに引きずり出されてくるように、カナの記憶も鮮明になってくるのに、どうしてか、彼の名前が出てこない。

 けれど、居た。
 最後に、あの頃の部活の部長に連絡がついて、彼から確かに「居た」という事実を聞かされたとき、カナは一人、窓際のソファ席で、アイスコーヒーの氷が溶けてからりと音をたててもまだ、手で顔を覆っていた。

 ショックだった。
 忘れていた。いや、忘れさせられていたのが。



 カナちゃん、怖いから、目ぇ瞑ってな。



 優しい声が、カナの目を覆う。カナの記憶を覆う。

 それが取り払われた向こう、闇夜に踊る、妖の者どもを、思い出す。

 腕が無い者があった。奇妙に手足が曲がった者があった。
 あるいは、手足が何本も肩から生えて、それぞれ好き勝手に動く者があった。
 ぎしぎしと、大きな口から二重三重に生えた歯をふるえさせ、笑う者があった。

 炎があった。人魂があった。
 鳥が、獣が、唐笠や瓶などが、目をぱちぱちさせて、こちらをみていた。

 おどろおどろしい姿形の者どもを目にしてひきつるカナに、彼は。
 その中にあって、彼等を優しく撫でてやり、カナに向かっては、少し、悲しそうに笑って。



 さようならだ、カナちゃん。
 今まで友達でいてくれて、ありがとう。



 怖い想いさせて、ごめんな。




 いたわりと、思いやりのこもったその顔は、あの、魑魅魍魎の主のものだった。
 そうだ、彼は、カナの、幼友達だった。

 彼は姿を変えて、あのしろがねの美丈夫となると、闇夜の向こうに消えていった。
 百鬼を従えて消えていった。
 暗雲垂れ込める世界の中、人々の悲鳴怒号に追われ追われて、石を投げられ矢を射かけられ、それで傷つこうともまっすぐ前を向いて。

 カナは、その背を見ているしか、できなかった。
 何事も無かったように《その日》が過ぎ去った後、布団の中で目を覚まし、ただ、悪い夢を見たとだけ思って。
 いつも誰かを待っていたような気がするバス停に、いいえ、一人で通っていたじゃないのと立って。
 すぐ側の林に、ここはお屋敷がなかったかしらと思っても、一緒に並んでいた人に、ここには建物がありませんでしたかと尋ねても、いいやここは前からこんな林だったよと応えられると、そうかと、自分の記憶よりも、名前も知らぬその人の方を信じてしまった。

 ガラス窓の向こう、町は懐かしげなだいだい色に染まっている。
 覆っていた手をはずし、流れる涙を拭うのもそこそこ、頼んだアイスコーヒーには結局、一口も口をつけずに、カナは店を飛び出した。
 駅に向かいながら、気分が優れないので今日はこのまま帰宅すると職場に告げたが、入社以来、欠勤遅刻まるでなしのカナだったので、デスク長は何も疑わずに半休扱いにしてくれた。

 涙を拭いながら駅に立ち、しゃくりあげるのを我慢して、電車の隅っこでハンカチを目に当て、ただただ、泣くしかなかった。



 バカだ、私は。



 目を瞑らないなんて言っておいて、結局、幼友達から告げられた別れに気づくのに、十年以上もかかってしまった。

 けれど、今度こそ。今度こそ、目は瞑らない。 ――― くんは、居た。
 ぬらくんは、私の幼友達だった。
 幼稚園の頃から、中学校の途中までは、確かに側に居た。
 これは、間違いない。

 高校にあがる前、卒業式の日、カナは一人、中学校の屋上に、陽が暮れるまで居た。
 何故なら、待っていたからだ。
 不思議と、去り難く思って、待っていると、来るんじゃないかと思って、誰を待っているのかもわからないまま待ち続けて、結局学校がしんと静まり返ってしまったときにも、カナは理由もわからないまま、泣いた。

 卒業式だから感傷的になっていたんだとばかり、思っていたけれど、違う。

 あの日、カナは、《彼》を待っていたのだ。
 幼稚園、小学校と同じように、《彼》もまた同じ中学校の卒業証書を持って、「おまたせカナちゃん、最後の掃除だから、ちょっと念入りにしてきたよ!」なんて、迎えに来てくれるんじゃないか、と。

 けれど、来なかった。《彼》は来なかった。

 泣きながら、カナは卒業証書と卒業アルバムを、まるで穢れのように、クローゼットの奥深くに仕舞った。
 高校を卒業する頃には、どこに仕舞ったのかもわからなくなった。
 一人暮らしの今の住まいに無いのはわかっていたので、前触れもなく、喫茶店を出た足で実家に向かい、両親に挨拶もそこそこ、探し物のために物置をあっちこっち探して、ようやく見つけた分厚い卒業アルバムがあった。

 両親にしてみれば、独り立ちして都心で仕事をしているはずの娘が、突然泣きながら帰ってきて、無言で物置を漁り始めたのだから心配もするというもの。
 珈琲でも淹れようか、仕事で何かあったのかと、声をかけてくるのだった。
 十代の頃には煩わしい、上から押さえつけようとしているとばかり感じた両親の事も、増えた白髪や顔の皺をふとした拍子に見つけてしまうと、成人してもまだ心配をかけているのが逆に恥ずかしくて、泣き笑いながらなんでもないのと答えるのに精一杯だ。

 なんでもないなら、いいんだけど、と、母親は洗い物をしていた手をエプロンで拭きながら、それでも物置のあたりから去り難そうにしていた。
 折角なので、卒業アルバムを取り出したカナは、荒らしてしまった物置を、また元通りに仕舞いながら尋ねてみることにした。

「ねぇ、母さん。私の幼稚園の頃からの幼馴染って、憶えてる?ほら、小学校や中学校に通うとき、同じバス停から通ってた……」
「え?幼馴染?……ううーん、そんな子、いたかい?なんて名前の?」
「名前が思い出せないのよ、もし憶えてたらって、思ったんだけど。クラスとか、中学校の頃までは、一緒だったんだ。でも、高校からは別々で」
「さぁー、どうだったかねぇ」

 さして期待していたわけでもない。
 カナは一言、そうだよね、と応じて、片付けに集中するつもりだったのだが。

「その子のことはよく知らないけど、カナが中学校の頃と言えばほら、浮世絵町で暴動が起こったりしたでしょ。あれは怖かったなぁ〜。もしうちの子が巻き込まれたりしたらと思うと、ほんと、ぞっとしちゃった」
「……暴動?」
「うん。憶えてない?ほらあの後、ニュースでよく、集団ヒステリーがどうの、なんて言われてたじゃないの。母さんの頃はノストラダムスの大予言がどうのとか、恐怖を煽るようなこと、確かによく言われてたけど、それが過ぎたら過ぎたで、次々悪い予言って出てくるもんなのよね。いつからか本気になんてしなくなったけど、そういう予言を本気にした新興宗教の人たちが起こしたデモだとかが広がって……って。
 ちょうど下校時刻から始まったし、あんたは気づいたら自分の部屋に戻ってるし、翌朝、帰ったならただいまって言いなさいって、喧嘩になったのは、母さんよく憶えてるわ。ほんと、心配だったんだから」
「……そんなこと、あったっけ」

 あったのよ、と、母親は笑った。
 夕食、食べて行けるんでしょうと、当然のように誘われたので、家で友達を待たせているからと断り、逃手早く片付けを終わらせて、逃げるようにその場を後にした。





 帰り道は、黄昏時の晴天が嘘のような、雨だった。
 仕事鞄を肩にかけ、アルバムを抱え傘をさして電車を乗り継ぎ、息を切らして帰ってきたカナを、ゆらと雪女は二人、夕食の支度をしながら ――― 支度をしていたのは雪女で、ゆらは主に携帯電話(の向こうの、部下だろう)に向かってあれこれ指示していただけだが ――― 迎えた。
 これを認めて、カナはさっそくダイニングの明かりの下、卒業アルバムを捲る。
 顔をよく思い出せない、名前もまだ思い出せない、けれど《居た》と、今ははっきり言い切れる《彼》を捜すために。

 カナが何かしら、手がかりを持って帰ってきたと二人は悟ったのか、ゆらは「ほな、切るでー」と電話をやめ、雪女は手ぬぐいで手を拭きながら、彼女の両脇に集り、同じようにこれを覗く。

 学年集合写真 ――― 小さくて、居るのか居ないのか、よくわからない。
 学級写真 ――― 一人ずつ確かめるが、居ない、気がする。
 これ等は、卒業間際に撮った三年生のときのものなので、もしかしたらこの時にはもう、《彼》はここには居なかったのかもしれない。
 ちらりと雪女を見ると、やはり、ふるふると首を横に振った。

 次は文集、そして一年生から三年生までの間に撮られた写真。
 こちらの方こそ、カナにとっては本命だった。
 ぬらりひょんという妖は、家にも心にも、するりと入ってくる大妖らしい。
 カナや他の人々がそうであるように、入っていたことも後から無かったことにできる、妖術を使えるらしい。
 けれど、撮った写真を、後から無かったことには出来ないのではないか ――― 。

 いや、よく考えてみたならば、彼は百鬼の主なのだから、足首にまで届かぬような、小さな妖怪どもに言いつけて、己の姿を映したものを、全て集めて燃やして参れと言えばいいだけだ、望みは薄いかもしれない。
 それでも、もしかしたら、一枚くらい。

 祈るような気持ちで、部活の様子を映した、スナップショットを捲る。
 華道部、書道部に代表する文系の部活があり、島くんが在籍していたサッカー部では、試合の様子などが映っていた。
 皆がそれぞれ、写真の向こうで笑ったり真剣な顔をしたり、一つの瞬間が閉じ込められている。
 捲る。

 次、次、と、捲っていく。
 清十字探偵団は、部活というより、同好会に近い少人数だったけれど、活動は意欲的に行っていた。
 主に、部長が。

 しかも、部長は一年生にして生徒会長の椅子についたやり手だったから、写真は他の部活に紛れて一枚、確かにあった。

 あ、と雪女が小さく声をあげた。
 お、とゆらが常に省エネモードの目を、見開いた。
 カナも、はっと息を呑んで、その一枚に見入った。

 《彼》は居た。

 生徒会室をそのまま部室にした清十字探偵団は、部長を中心に集って、笑っていた。
 どんな話をしていたのか忘れたけれど、部長は偉そうに真ん中で腕を組み胸を張って、その横で島くんがピースしている。
 部長の後ろでは、巻が振りかぶったピコハンを、今にも部長に振り下ろそうとしている。
 それを鳥居が笑って見ていた。
 さらに鳥居の横には、今より幼い顔立ちをしたゆらが、半眼のまま、小さく微笑みをたたえて立っている。

 部長のもう片方の隣に、《彼》は。

 やや逆光気味の光が、彼の顔元を暗く、見えにくくしていたけれど。
 色合いも、カナの薄れた記憶がそうさせているのか、不思議と色を感じさせぬ、セピアのものだったけれど。

「これ。これです、この子です。嗚呼、懐かしい……」

 その顔の輪郭を、愛しいものにするように、そっと、雪女が撫でる。

 輪郭を撫でられた《彼》は、笑いを浮かべたまま、ピコハンを振り下ろそうとしていた巻を止めようと片手を上げて、半分振り返ろうとしていた。
 横顔からでもわかる、銀縁眼鏡と、色素の薄い髪の色。
 髪は襟足までを覆い、体は少し小柄だった。
 この隣に、及川氷麗と名乗った、そう、カナがあの夜に助けた、少女が居た。
 妖怪などとは思えぬ満面の笑みで、カメラに向かっている。
 しっかり《彼》の片腕を捕まえた彼女を、さらにその隣から、あの日のカナが、気後れしたように見つめていた。