あの日、カナはこっそり聞いていた。
 しげみに隠れて、こっそり、彼等の話を聞いていた。

「若はこれから、この幼稚園に通うんですよ」
「ここに?ふぅん、ここで、何すればいいの?」
「ここには、若と同じ年頃の人間の子供たちがたくさんやってきます。今まではお屋敷の中ばかりでしたけれど、外で人間のお友達を作ることも大切だと、二代目はお考えなのですよ」
「お父さんが?ふぅん。……屋敷のみんなと遊ぶ方が楽しいのに、変なの」
「若ぁ、あんまりわがまま言って、人間たちを困らせちゃいけませんぜ。それに、人間どもときたらおいらたちがいることなんてすっかり忘れちまってんです、妖怪の話はなしにしといた方がいい」
「そうなの?ボクたちは人間たちのこと知ってるのに、人間たちはボクたちのこと忘れてるなんて、不公平だよ、そんなの。納豆は悔しくないのかい?」
「悔しいもなにも、仕方のねぇことでさぁ。それだけ、此の世は明るくなっちまった。棲みにくくなったってもんです」
「しかし、若は人間の血も引いておられる。そろそろ人の事を知り、人同士の約束ごとや人が妖怪をどう見ているのかも知るべきなのです」

 不思議な光景だった。
 カナと同じ年頃の少年が、奇妙な生き物たちに囲まれて、あれこれ言い聞かせられている。

 電柱にとぐろを巻いた、一口でその少年を飲み込んでしまいそうな大百足があり、一本足に下駄をはいた一ツ目の傘があり、豆腐を持った小僧があり、火の玉があり、つるりとした禿頭の男の顔が真ん中にくっついた車輪があり、他にも大小様々な生き物たちが、人気を避けてか、幼稚園の裏手で、あれこれと少年の世話を焼いているのだ。

 その日は、入園式。
 カナにとっても初めての幼稚園だったけれど、両親が先生と話している間、退屈してしまって、何を思ったか、裏手に出てしまったのだった。
 そこで見た光景に、目も口も限界まで開き、声も出せずにいたのである。
 それはそうだ、だってそのとき目の前にいたのは、絵本やおとぎ話の中にしか出てこなかった、怖い化け物たちそのものだったのだから。

 けれど、その中に居た、同じ年頃の男の子が、まるで物怖じしないで彼等と対等に、いやむしろ彼こそが目上のように振る舞っているので、どういうことだろうかと、物音をたてないようにして、じいと見入っていたのだった。

 その少年にとって、幼稚園はあまり、魅力的な場所ではなかった様子だった。
 彼等と離れたがらぬ様子で、唇をとがらせ、彼等の顔を順番に見回すと、最後に一番側に立っている女の、着物の袖を引いた。

「雪女は、くるの?」
「いいえ、若。ここに通うのは若だけです。そして、通ってくる子供たちは若の目下の者たちではありません。若の言うことを聞く必要もありませんし、若も、言うことを聞かないからと言って、相手を叱ることもできません。よろしいですね」

 応じた女は、他の者たちに比べてよほど人間らしかったけれど、カナは一目で、あれも人間ではない、とわかった。
 なにせ、綺麗過ぎる。
 どこもかしこも真っ白で、陶器のように肌はすべらか。
 着物をすべる黒髪は、絹糸のようだった。

 もちろん幼い頃のことなので、とにかく綺麗だ、お人形さんのようだとカナは想い、あこがれた。

 魅入ってしまったのが悪かったか、そこでカナは落ちていた缶に気づかず、こつんとやってしまい、そこで彼等ははっとこちらを見て、カナを睨んだ。

「何奴だ」
「人間の子だぞ」
「我等が見えているのか」
「お主、我等が見えるのか。ん?見えているのか?」
「何とする。若が妖の血を引くと、ふれ回られては大変だぞ」
「食うか」
「これこれ」
「しかし」

 ざわついた妖怪どもを前にして、カナは動けず怯えたが、彼等を一喝したのは、誰あろう、その少年であった。

「やめねーか!驚かすんじゃねぇ!」

 そうして、つかつかとこちらにやってくると、宝石のように綺羅綺羅とした目で、カナを見つめ、

「お前、あいつ等が見えるのか?」

 たぶん、彼としては最大限に丁寧にだろう、話しかけてきた。
 しかしそれはカナにとって、何だか不愉快な話し方だった。
 お前、だなんて乱暴な物言いを、その頃は父親にだってされたことはなかったから。

「カナ」
「うん?」
「私の名前。お前、じゃないわ、カナって言うの」
「ふぅん、カナか。ボク、父さんたちの言いつけで、人間と友達にならなくちゃいけないらしいんだ。ボクと友達になれよ」
「……カナちゃんって呼んでくれたら、友達になってあげても、いいよ?……あと、なんかその言い方、嫌」
「……言い方?」
「友達になれ、って。何か、偉そう」
「え?そうかなぁ。……まあいいや、こっち来いよ、みんなに紹介するよ」
「え、でも……」
「いーから」

 自分の何が悪かったのか、てんで思い当たらぬらしい少年は、元々細かいことを気にせぬ性格なのか、カナの小さな手を引いて、あのおどろおどろしい者どもの元へと連れようとするのだった。
 もちろん、カナは抵抗して、半ば引きずられるようになった。
 もうすぐ泣き出してしまいそうに顔を歪めたとき、割って入ったのは、あの綺麗な女怪だった。

「若、なりません。その子が、痛がっていますし、怖がっています」
「え?」
「それに、その子は若の手下ではありませんよ。対等な相手や目上の相手には、してください、こうしてくれませんかと、語りかけるものです。お父様やお母様、お爺様に話しかけるように、なさってみてください」

 やんわりと、少年の手を、白い手を隠した袖でおさえると、少年の強い力が和らいだ。
 カナはぱっと手を引いて、涙の滲んだ目で、少年を睨む。

 少年は、少し力を込めて握っただけで、真っ赤なあざをこさえたカナの肌にこそ、驚いた様子だった。

「ごめんよ、カナちゃん。参ったな、人間って、すごく脆いんだ。知らなかった。これから気をつけるよ。ごめんね、本当に、ごめんね。許して」

 けれど少年が、一度カナが言ったことをちゃんと覚えていてくれたので、カナは泣きながらそこを去ったりはしなかった。
 周囲の者どもが、二人の様子を見て、ほっとしたらしいのも、何だか大勢の親戚がこの少年を見送りに来ただけのように思えて、するとあまり怖くもなくなった。

「うん。………許してあげる」
「よかったぁ」
「あの……名前、なんていうの?」
「ボク?ボクは ――― って言うんだ。お父さんは半妖だけど、妖怪たちの総大将やってる。いずれはボクも家を継ぐんだよ」
「じゃあ、 ――― くんも、妖怪さんなの?お化けなの?」
「母さんは人間だよ。お婆ちゃんも。でも、少しはボクも妖怪だから、大きくなったらもっと妖怪っぽく、かっこよくなるんだ」
「妖怪さんになっちゃうの?」
「え、えーと。……なったら、だめ?」
「怖いの、嫌」
「怖くしないよ。あいつ等だって、いい奴等だよ」
「怖くしない?」
「しないよ。約束する。それとも、人間じゃなかったら、友達は無理かな?」
「んー……わかんない。怖いの、やっぱり嫌だもん。でも、今の ――― くんは、怖くないから、友達になってあげても、いいよ」
「よかったぁ」

 その後、さっそく手と手を握り合って、また裏口から幼稚園の中に戻った二人の縁は、そこから始まったのだ。

 何をするにも少し力加減が強すぎたり、勝手がわからなかったりした少年は、カナからあれこれと何事も教わって、日々を過ごした。
 先生の話を聞かなければいけない時間でも、自由に教室の外に遊びに行ってしまいそうになったり、遊具の遊びに飽きて、幼稚園の屋根に登ろうとしたり、なにせ破天荒で先生たちはやきもきしていたみたいだが、それでも素直なので、ちゃんと言って聞かせればそうかと納得したし、カナが「普通の人はそんなことしない」と言うと、これにもそうかと納得してやめた。

 幼い日の怪異など、すぐに忘れ去ってしまうもの。
 カナもまた、入園式の日に見た、人でない者どもの事などすぐに忘れてしまった。

 以来カナの中で、《彼》は、育ちのよい、少し世間知らずの男の子、ということになった。





 居た。彼は居た。カナは思い出した。
 名前以外は、すべて。

 途端に、どうして居なくなったのかと、青ざめた。

 どうして。いつ。

 どうして今まで、気づかなかったのだろう。

 それが妖の業だから?
 それがぬらりひょんの、大妖たる由縁だから?
 いいや、そんな事なんて、なにも関係の無いことだ。
 友達を忘れる理由になんて、絶対絶対、ならないことだ。

 だって、幼馴染の《彼》を、異性に興味を持ち始めた彼女は、憎からず想い始めていたのだから。
 それまでただの遊び友達だったのが、異性という区切りをもって見始めたときに、ああ、彼も男性であったと気づいてみれば、素直で優しい心根の彼は、芽生え始めた少女の心を育てるには、良い相手に思えた。

 けれど、彼は居なくなった。

 そして、彼を知っている人たちの記憶からも、居なくなろうとしている。

 もうそこまで、出かかっているのに、名前が思い出せないと、カナは申し訳なさに机に突っ伏した。
 雪女が唇を噛み、ゆらがカナの背を撫でる。

「名前を、思い出せん、か。それはうちも同じやわ。
 妖怪の術を破れんで、何が陰陽師やと思うやろうけどね、主の力ってのは、それだけ強力なもんやし、それに………。
 言いにくいんやけど、あの頃のあいつとうちの家の協力関係からして、名前を忘れさせるって話を、知らんかったとは思えん。うちが、あいつの名前を忘れているのも含めて、あの頃、何かあったんやろうと思っとる。
 大願成就と言うたやろう。
 長い時間がかかる術を敷いているんやないかと思ってなぁ、家長さんが思いだそうとしている間に、うちも十三年前の記録、ちょいと家のモンに調べてもらいましたんや。
 するとなぁ、この東京全域で、暴動が起きたという記録がある。
 その暴動の原因と言いますんがな、まぁよくある話なんやけども、世界が滅びる系の予言なんや」
「……それ、お母さんも言ってた。あの頃、このあたりで、暴動が起こったって。集団ヒステリーがどうのとか」
「せや。表向き、そういうことになっとる。うち等の家はな、裏の世界で何が起こっているのかというのを、すべて記録する役目もある。表の歴史やない、裏の世界の歴史を、花開院の家が始まった頃から、全部記録しとるんよ。
 あやしの記録、不吉な予言、一言一句漏らさぬように、全部記録しとるのが、うちら花開院家や。だから当然、その予言も記録されとるやろうと思って、調べてもらいましたらな、綺麗に、ないのや」
「ないって?」
「予言はこうや。《 ――― を殺さねば、日ノ本が滅びる。だから ――― を殺せ》と。《 ――― 》って何やねん、そこには何が入るのやとせっついたら、そこは綺麗に消されとるんやと。忌み言葉として、真っ黒に。
 最初は、誰かが消したか何かしたんかと思って、他の記録も全部探してもらいましたんやけどなぁ、どこを探しても、その部分だけはやっぱり無い。全部無い。でな、うちの兄ちゃんに訊いてみたら、こう答えがあったわ。
 《殺せ》というからには、記録からも抹消する必要があったんやろう、と」
「……どうして。どうして殺す必要があったの?そんな、予言なんかで、どうして」
「その予言が本当になれば、人間たちが苦しむ。
 あの頃はあいつやうちらへの敵対勢力が多くてな、主の力はこれにようやっと拮抗するかどうかと言ったところ。主は父親を早くに亡くしたらしいから、充分な力を蓄えての世代交代とはならなかったんやろう。ために、それまで父親がおさえてきた、闇の世界のみを求める妖怪たちの動きが活発になって、さらには終末を求める人間たちもこれに加わり、主を殺そうとした……ってあたりやないんかなぁ。
 死ねば、主の力が及ばなくなれば、いよいよ日ノ本は闇の者たちに覆われ、人間たちは生き餌となってしまう。これはならない。死ななければ、日ノ本はやはり滅ぶ。世界が破滅するとかそういう予言でなかったからな、どういう風に滅ぶやらわからんが、とにかくそこに住む人間には凶兆には違いない。これもならない。
 だから多分、あいつは、自分の名前を殺したんや」

 三人が見た、古びた墓石のどれかに、きっと、彼の名前も刻まれていたに違いない。

「加えて、予言にはこういう続きがある。《しかし ――― の死があれば、日ノ本の国は千代八千代の安寧を約束される。何人たりとも、この安寧を破ることは叶わぬ》とな。これが大願の部分や。前半の《予言》は、とある村で生まれた、人頭牛身の《クダン》ちゅー妖怪が下したと言われとるが、対して大願は、それをなしたときのおまけというか、願掛けを人間側からする術式や。後付けやけどな、効果はある。予言を回避するための努力、祈りやったり、贄やったり、そういうモンをつこうて、のろいをまじないに変えるんや。
 この予言の続きは、破滅を守護に変え、さらには改変を許しとらん。一の犠牲で全を守る、こういうんを、神さんは好むらしいからなぁ、最近の大安吉日ワゴンセールは、そういう理由やったと、そういうことやろう」

 そいつを捜すのは凶兆だと、しろがねの大妖は皮肉に笑ってそう言った。
 カナは迷う。
 彼を思い出したが、まだ名前を思い出してはいない。
 これならば彼は死んだままだ、悪いことは起きない。
 けれどこのままでは ――― ちらと雪女の顔を見ると、彼女も白いおもてをさらに青ざめさせ、じっと黙りこくっていた。
 そこへ、ゆらは容赦なく、事実を淡々と突きつける。

「なあ雪女、あんたの旦那は、あんたに憎まれて、ちょいと嬉しかったんやないのかな。自分のもう一つの姿とやらが死んでも、忘れられとるんやから、誰も悲しまん。居たことも、あったことも、、普段は自分も忘れとる。それが死んだのを、殺したのを、感情だけでも覚えとってくれるなら、それの仇を討つとまで言ってくれるんなら、本望やったのと違うやろうか。
 妖としての自分は生きとるかもしれん、けど、自分の半分、人間としての自分は死んでしまって、しかも誰もそれには気づかへん。
 だから、子供にまでその悲しさを教える言うても、止めなかったんと、ちゃいますの?
 実際に自分が自分の仇なんやから、殺されても文句は言えへんし……あいつなら、嬉しい、と言ってもおかしくない。それに、己の子が己を上回るほどの力をつけたなら、代替わりは今度こそうまくいくやろう。名前だけでない、物理的に己が予言の贄になれば、後半の大願も間違いなく成就する。名前だけ殺したんは、それまでの時間稼ぎとちゃうのか。次の代替わりにこそ充分な時間を稼ぎ、さらには次の世代にも力を及ぼそうとする、絶対守護の、言霊を超えたまさに大願やで、これは。
 それを、あんた一人の感情で、ぶち壊していいのか。それを本当にあいつは、望んどるんか」

 この言い分、カナにはあんまりなように思えた。
 正しいのかもしれない。
 たった一人を思い出すことが、破滅につながると言うのなら、小を殺して大を生かすの言葉通り、今は目を瞑ってやり過ごすのが、皆のためなのかもしれない。
 けれど。

「……ゆらちゃん、でも、それは」
「家長さんは、黙っといて。個人的な感情で測るもんやないで、これは。自分が犠牲になってでもと思うんは、並大抵の覚悟でできることやない。それだけ守りたいものがあるから出来ることや。家長さんも、その内の一人なんやで。大願を破らせるつもりなら、それなりの覚悟が必要や。それこそ、あいつの敵に回ってでもっていう、覚悟がな。
 そして、うちはあいつの戦友や。今んとこ、同じ敵を前にしている、味方や。
 あんたら、あいつにそれを破らせはるつもりなら、うちの敵になるのと同じやで。
 家長さん、雪女、あんた等にその覚悟はあるのか」

 ゆらが、厳しい目をカナと、そして雪女に交互に向けた。
 二人は、日ノ本の裏を守護する陰陽師の視線に、ぐ、と言葉を飲み込む。

 一時の感情で、それでも、などと言えば。
 たった一つのためにこの世界の全てを壊すなどと言えば、ゆらは即座に此の場で、それを悪と定めるだろう。
 彼女はそういう世界で育ってきた人間だ。
 彼女の役目は、あくまで、何も知らぬ、何も気づかぬ、善良で優しく日々を暮らす、多くの人々が救われる道を選ぶことであって、彼女の力は、大切な友達、あるいは戦友とは言え、たった一人のためだけに使われるものであってはならないのだから。

 すぐには答えの出ない問いである。
 なのに、時間は少ない。

 はりつめた沈黙の時、しばし。

 その後、雪女がまず、白い息を吐いて、くすりと、笑った。

 知らなければよかったという、後悔か。
 それでもという、迷いか。

 雪女は、懐かしいあの日の一瞬を閉じこめた写真の中の、少年のおもてをそっと指先で撫でながら、目を閉じた。
 潤んだ瞳から、また、はらり、と。
 白い花弁のような霙がこぼれ。

 彼女は唇を開いた。





 その後、残りの日々は、あっと言う間に過ぎた。

 ゆらの携帯は日毎に、向こう側から怒鳴る声のほうが大きくなったが、彼女がしまいに電源を切ってしまったので、それ以降は当然に、おとなしくなった。
 雪女は毎日楽しそうに三人分の食事を作り、洗濯や掃除にいそしんでいる。

 折角だから、七日たっぷり東京見物をすると言うゆらにつき合って、カナも仕事を早めに終わらせ、夕方からは三人で銀座に出て、買い物や食事を楽しんだりもした。

 深刻な話など忘れたように、日々を楽しみながら、まるでただの懐かしい友人同士、お喋りをして。
 笑って。
 日々は、夢のように過ぎた。
 僅かな猶予期間と知らぬまま緩慢に過ぎた、子供の頃よりも、時間の進み方は残酷なまでに速く。

 瞬く間に、過ぎた。





+++





 ゆらり幽玄、ぬらり夢幻の気配たれこめる、西に紅の雲の更紗を長く引いた、夕暮れ刻 。
 何を感じ取ったか、じいとガードレールに止まったままの蜻蛉が一匹、飛び立つや、陽炎のように気配が一つ、そこに揺らめいた。

 約束の日、三人の目の前に立ったのは、件の魑魅魍魎の主、そのひとだった。

 それまで誰の気配もなかった、墓場へ続くあの坂道の木立の前、三人が待ちかまえていたところへ、まるで見えない水面があったかのように、すいと姿を現したのだ。
 電灯の明かりがあちらから、ぽつ、ぽつとついているのに、彼が姿をあらわすや、役目を忘れてしまったように、すいと消えた。
 道端に咲く竜胆が、風に揺れて、目には星明かりのようである。

 三人を認めた彼はまず、ついと、まだ残照をよこす太陽が眩しかったのか、手のひらをかざした。
 周囲を己の気配で包む、合図だったのかもしれない。
 遠くの人々の気配、往来、車のエンジン音、クラクション、普段聞こえてくるはずの当たり前の音が、消えた。
 気づけばリー、リー、と、近くの草むらで、秋の虫が鳴いているばかり。

 不意にふわと、青い粒のような燐光が立ち上った。

 闇が濃くなるその時刻、甘い妖気を求めて舞い上がった意志無き霊魂が、主の妖気に誘われたらしく、蝶の姿を借りて舞い上がったのだった。

 これを従えて、少し坂の上の方から、夕暮れ時の遊歩のような足取りで、着流しに羽織姿の主が、やってくる。
 風もないのに、しろがねの髪はふわと靡き、瑠璃色の蝶も彼が立ち上らせる濃紫の妖気に乗って楽しそうに泳ぎやがて満足すると、ちらちらと鏡のように綺羅めく羽をひらめかせ、互いに戯れながらすいと空へ昇り、消える。
 じゃり、じゃり、と近づいてくる主を、三人はその場で待った。

 やがて。
 星明かりと、残照と、人と、妖と、坂道の真ん中で、彼等は向かい合った。

「……迎えに来たぞ、氷麗」

 前置きは無く、主は口を開いた。
 帰るぞという強制ではないが、妻の自由を許したり、意志を尋ねる口調では無かった。
 優しいが、否定は許さぬ声だった。

「はい、主様」

 三人の真ん中から、夏の空色のワンピースに身を包んだ雪女が、七日前よりもよほど穏やかな顔で、一歩、踏み出す。
 あまりに素直に雪女が戻ろうとするのと、他の二人が何も言わぬのを、主は僅か怪訝に思ったらしい。

 形の良い眉を、僅かにぴくりと跳ね上げた。
 己の妻の顔を見て、後ろのカナと、それからゆらを、見回す。

「てっきり、もう帰らないとでも言うのかと思っていたぜ」
「いいえ、帰ります。主様の妻ですから。なりませんか?」
「いいや。三人で買い物したり食事をしたり、ずいぶんと楽しんでいたみてぇだからな、今更、辛気臭ェ異界なんぞに戻りたくはないと言うかと思っていた」
「まぁ、やっぱりご覧になっていらした。一声かけてくださればいいのに、意地悪な御方」
「帰るぞ。いいんだな」
「………はい。………家長さんは、あの子の、………貴方の顔を、思い出してくれました。花開院さんも、あの頃の、貴方の友達は皆、貴方を覚えていてくれた。
 名前までは出てきませんでしたが、それでも確かに《居た》ことを、思い出してくれた。
 充分です、もう………」
「そうか」
「はい」

 雪女が頷き、小さく微笑みまで浮かべたので、主は眩しいものを見るように、目を細めた。

「久しぶりだな、おめーの笑った顔」
「はい、私も、こんなに穏やかな気持ちは久しぶりです。あの子を、もう一人の貴方を、顔だけとは言え、ちゃんと思い出せたからかもしれません」
「戻ったなら、また、忘れることになる」
「はい」
「今度こそ、思い出すことはねぇ」
「はい」
「……行くぞ」
「はい。ですが、その前に、主様に申し上げることがございます」

 泣き崩れ、カナの背に隠れたときとは裏腹、雪女はもう一歩、主の前に歩み寄り、空色のワンピースを瞬時に雪模様の小袖に纏いかえて、はきと申し上げ、少し背の高い主の顔を、まっすぐに見上げた。
 主が、何事だとも言わぬうち、淀み無く。
 己の腹のあたりを、そっと撫でながら。

「どうやら、身ごもりました」

 言うと、これには流石に主も驚いたか、綺羅と輝く紅眼にが見開かれ、続いて喜色が浮かぶ。

「確かか」
「まだ、医者に見せたわけではありませんが、確かだと思います」
「そうか、それは、めでたい」
「雪女が殿方と結ばれて最初に産む子は、男児と決まっております。お望みの、四代目となるでしょう」
「ああ」
「宿った四代目への言祝ぎに、《約束》を致します」

 主が止める間もなく、雪女は淀みなく続けた。

「母として、我が子を強く育てます。私はお屋敷に戻ればまたすべてを忘れ、理由も無いまま貴方を憎み、産まれる子には貴方を憎めと教えることになるでしょう。ですから、なるべく早く貴方を討てるように、私はその子を、強く、育てます。貴方の虚ろな生が、早くおしまいになるように。
 そののちに、貴方がいよいよ本当に死んでおしまいになったら、私は、今のように、貴方を憎む理由を、ちゃんと、思い出すことに致します。
 そういう、《約束》をいたします」
「余計な気をきかせるんじゃねぇ、そんな《約束》しちまったら、おまえ……」
「周囲の者は狂女と笑い謗り罵ることでしょう、己で己の子に父を憎め、父を討てとけしかけて、いざ首を跳ねたなら、その首を抱いて私は、きっと泣くのでしょうから」
「……………」
「きっと誰より貴方の死を、嘆くのでしょうから。誰もが貴方の名を、あの子を、忘れている中で私は、貴方を、あの子を、呼ぶのでしょうから」



 その場の誰もが同じ光景を、思い描いた。



 雪女は約束通り、きっと、きっと、我が子をいつくしみ、強くしなやかに育てるに違いない。
 産まれた息子も、この父と母のもとで育ち、きっと見事な大妖となるのだろう。

 常に夫に付き従いながら、しかし夫を憎む妻を、けれど産まれくる子は、どう見るのだろう。

 彼女が育てるのなら、優しい子に育つに違いない。
 屋敷に、主に囚われた母を、解放してさしあげようと思うほどには。
 彼が心得や業を教えるのなら、きっと仁義に厚い四代目になるに違いない。
 だからこそ、力づくで母を手込めにした父を、許せぬと思うほどには。

 産まれくる四代目の力が、今の主の力を上回ったときに、きっと。










 あやしの幻は、誰が描いたものなのか、ゆらも、カナも、まるで時の歯車を早回しに進めて、その場に居合わせてしまったかのようである。
 周囲もただの草むらから、立派な屋敷の庭先へと、いつの間にか変じているのだった。

 主はいない。雪女もいない。

 カナが息をのんで、ただ見つめている先で、目まぐるしく、舞台は変わる。
 隣で、ゆらがカナの腕を掴み、「大丈夫や」と一言囁いてくれなければ、カナは自分が一瞬のうちに、いくらか時を超えてしまったのではないかと、思ったろう。
 幻とは思えぬ光景の中に、彼女等は紛れ込んでしまった。










 そこは、主か、雪女か、あるいは両方ともが描いた、ただの想像であったに違いない。
 想像だけれど、やがて現実になるだろう、僅かな未来であったに違いない。










 屋敷でいつもかしましく、飲んで遊んで騒いでの小物どもが、ざわざわ、こそこそと囁き合うばかりだと思っていると、屋敷のどこからか、言い争う声がする。
 どちらも男の声だ。
 一方は、しっとりと落ち着いた大人のもので、もう片方はまだ若い。

 若い声が問う。
 父さんは母さんをどうして屋敷に閉じこめているのか、どうしてあれほど憎まれる真似をしたのか、そんな真似をして、どんな仁義を説くというのか。
 大人びた声が答える。
 ガキはすっこんでろ、あいつの事でお前と言い争うつもりはねぇ。
 酒がまずくなる、行け。
 多分、幾度となく繰り返された問答なのであろう、若い声は、いつもそれだと吐き捨てて、さらに何事か、続けた。
 若い声が、母を解放せよと迫り、男の声がせせら笑う。

 天下の奴良組若頭が、まだまだ母親の乳が恋しいやや子のままだとは知らなかった。
 オレはあいつを自由にしてやるつもりはねぇし、する必要もねぇことよ。
 なにせあれの頭のてっぺんから足の爪先まで、いいや、あれの心も魂もがオレのもの。
 どうして側から離す必要があるか。
 おめぇ、そんなにあれが欲しいなら、力づくで奪ってみるしかねぇんじゃねーの。

 これが仲睦まじい夫婦であるのなら、夫ののろけであると一蹴もできたろうし、これほど緊迫した空気は流れなかったろう。
 妻は憎々しげに夫を睨み、にこりともしないで籠の鳥のような生活をしているから、子は母を想い、母の父への恨みを、抱きしめられながら小声で聞いてきたから、父が常は重んじるはずの義理を、母相手には不条理に歪めて見せるから、許せなくなって。










 何度か繰り返された諍いは、時を経て、若い声が長じるにつれて緊迫感を増し、やがて母を連れて子が出奔したのを引き金に、主とその息子と、それぞれに従う者で、家は真っ二つに割れて。
 強い者が正しさをあらわすのは、古来からのならい。
 万古に渡り覆せぬ事実。
 人であれ神であれ、力があってこその正義。










 母を虐げてきた男を討たんと、優しく育った次代の主は、力を蓄え味方を集め、己の百鬼夜行を従えて、育った屋敷を襲う。
 憎々しげに男を睨む母の前で、ついに、彼の男を討ち果たすや、ふき上がる血しぶき、どうと血濡れの座敷に倒れる、しろがねの髪の男。

 溢れんばかりだった妖気は、長引いた戦いの果てに尽き、月光のように見事に輝くしろがねの髪も、今はただ白く乾いたたてがみのようで、あれほど艶めいていた男が、見る影もない。
 長い戦いの終わりに、男は倒れたところから、何かを探すように手を伸ばしたが、結局、指先は何もつかめずに、虚空を掻いてぱたりと落ちる。










 その、落ちた手を。



 閉じた瞼を。



 血濡れの体を、疲れきった髪を、もう笑みを結ばぬ唇を。



 動かぬ骸を。



 ほんの一筋、涙が伝った目尻の痕が寂しげな、けれど安らかに眠る少年のような表情を。











 これ等を前にして、抗争によって力を示した四代目こそが次代の、いや今こそ当代の主、魑魅魍魎の主よと、従った者もまつろわぬ者も、今こそ時代が変わるときと、受け入れるに違いない。
 彼に従う誰もが賛歌を、まつろわぬ者も呪詛ではなく、先代の死を悲しみながらも、当代の主を認める言祝ぎを、血の臭い満ちる屋敷に粛々とした空気が満ちる頃。

 それまで一歩引いたところで我が子を見守ってきた、父を討てと教えてきた、雪女がはたと、夢から醒めたように目を見開いて、目の前に倒れるその男を、認めるのだ。
 己の白い足袋の爪先に、あと僅かで届かなかった、愛しい男が伸ばした血濡れの手を認め、悲鳴を、あげて。



 誰も心当たりの無い、その男の名を叫んで、すがりついて、事切れる間際、最後の力を振り絞ったに違いない手を、届かなかった手を強く握って、彼が最後の力で多分己に触れようとした、あのほんの僅かな一瞬を、巻き戻そう、取り戻そうとして揺さぶり嘆くに違いないのだ。
 愛であるのか憎しみであるのか、いずれにしてもこの女は主の妻であったのだと、わかったような振りをする者はあるかもしれないが、きっと真実など誰も知らぬ、理解できぬ。
 事切れた男をかき抱く女が、なんとも優しく、血で頬や額に張り付いた、白く乾いた髪をかきあげてやるのが、まるで守子にするようだと想いはしても、本当にそうであった過去など、その頃はもう誰も知らず、誰も思い出せぬに違いないのだから。
 目を開けて、目を覚ましてと語りかける甘い女の声が、男がもう応えぬと、そう、もう二度と応えることはないのだと悟ると、嘆いて嘆いて悲憤に暮れて、それでもひっしとしがみついて離さぬのを、ただただ、周囲の者どもには理解できぬ、夫婦の情だとばかり考えるのだろう。










 主の死を目にして、《約束》通り、憎んでいた理由を再び思い出した彼女は、彼を追って死を選ぶのか。
 それとも、命を絶つ手段すら忘れて、全て夢であったと思い込んで、誰かが与えた人形を守子としてあやす、狂女として生きるのか。
 いずれにしろ、そこでようやく、次代の主は気づくのだ。

 手にかけてはならぬひとを、手にかけたのだと。

 なれど後戻りはできぬ。
 すでにその時にはもう、彼もまた魑魅魍魎の主である。
 修羅の道を、妖怪どもを束ねる道を、粛々と往くに違いない。










「きっとその時には届かないのでしょうし、これより以後、私はすべてを忘れて貴方をまた憎むのでしょうから、だから、今こそ最後に伝えておきます」



 狂い泣くか、狂い笑う末路だけが待つ女は、愛しい男と向かい合い、そっと優しくその頬に、ひんやりと白い手をあてて撫でながら、時を戻して今、先に伝えておくことにした。



「主様、私は、こんなにも貴方が好きです。……思い出すことができた、最後にお伝えできてよかった」



 血濡れの屋敷は、また元通り、ゆらとカナを包む秋の木立にとって変わる。
 倒れ伏していた男と、これを抱いて嘆く女は、二人の前でそんな未来を描いて見せたとは思えぬほど、幸せそうに、どこか切なく微笑み合っている。



「貴方がお決めになられたことなら、貴方が守りたいと望むものなら、私もともに、その未来へ参ります。
 主様と、ともに往きます。
 その覚悟が、決まりました」



 これが、雪女が出した結論だった。