スポーツバッグに詰め込んだだけの荷物を肩に担ぎ、スニーカーを履いてさっさと玄関を出ようと、踵を踏みつけたまま、第一歩を。
 いや、やはり気になる。
 幼い頃からスニーカーより下駄、靴下より足袋で育ってきた身であるので、スニーカー自体も実は好きではないし、ボタンが一つ取れただけでも、そのシャツはそのままでは着られないと思ってしまう性質なので、歩み出せずに舌打ち一つ。
 神経質な己に嫌気が差しながら、一度は担いだスポーツバッグを下ろし、かたくなっていた紐を結び直そうと、上り框に腰掛けた。

 思ったよりも紐がかたくなっており、手古摺っていると、廊下から見守るように覗いていた気配がするすると近づき、白い手が伸びてきた。

「要らないよ」

 もう少しで、その手が紐に届こうかというところで、顔を見ようともせずに言い渡す。
 もっとも、顔など見ようとしても、この存在は透けていて、全部が見えるわけではない。顔など見えなくなって何年も経つ。だと言うのに、まだ未練がましく手をのばしてくるこの白い手が、癪に障った。

「前々から言ってるよね。身の回りのことぐらい、全部自分でやるって」
「若、しかし……」
「もうボクはこの家を出て行く。若なんて呼ばないでくれよ」

 戸惑ったような白い手が、ややしばらくスニーカーの傍で揺れていたが、諦めたようにすうと消えた。
 それでも、気配がまだ感じられるので、姿が見えぬだけで、きっと己のことをじっと見つめているのだろうと思うと、苛々とした気分に拍車がかかった。さっさとこの屋敷を出て行きたい、気持ちだけが空回りして、中々紐が解けてくれない。
 やっとのことで解き、足を入れ、また紐を結び直す。
 それだけの動きを、すぐ傍の気配 ――― あの、白い腕の持ち主だ ――― は、じいと息を殺して見つめているようだった。
 まるで、その一つ一つの動きを、瞼に焼き付けるように。
 まるで、己が溜息一つついて、そちらを見やり、その気配の主の名を呼ぶのを、待っているかのように。
 してやるものか。
 手早く紐を結び、荷物を背負い直すと、今度こそ玄関を出た。

 気配は、追ってこなかった。

 苛々とする気分を追い払うように、振り返りもせずに走り出す。
 空は、己の気分を代弁するような曇天だった。今にも振り出しそうだ。
 天気予報では、この数日の雨で桜は全て散るだろうと言っていた。
 天気予報。文明がもたらした、素晴らしいものだ。
 世の中の普通の人間は、決して、風神や雷神が雨を降らせるなどとは考えないし、黒い雲に何か人でないものが乗って騒いでいるなどとは言わない。だから己も、南の空からものすごい勢いで沸き起る黒雲に、何か得体の知れないものがぼんやりと見えたとしても、そんな事を他人には言わないし、気のせいだと思い込むことにした。
 そうすると決めたとき、母からもらった銀縁眼鏡は、上手いこと、そういった得体の知れない者どもの視線をかわしてくれた。
 ああいう者どもは、自分の姿を見ているものに、集中的に攻撃をしかけてくるから、もし本当に関わりあいになるのが嫌なら、目が悪いふりをして、何か聞いたとしても決して返事をしないことだ、とは、その母が教えてくれたことだ。

 果たして、そのようにして生きてきた。
 見えるものを見えないと言い、聞いたことを聞こえないと言い。
 すると、次第に、本当に見えなくなってきた。聞こえなくなってきた。
 なのに、今でも時折、先ほどのように、ぼんやりとした白い手が現れて、己の行き先を阻んだり、何かしら手を出してきたり、朝を告げ、夜には水差しを用意したりなど、要らぬ世話を焼こうとする。

 どんなに要らぬと言っても、お前など見えないのだから、見えないものに世話を焼かれても気持ちが悪いと蔑んでやっても、他の気配たちが諦めて己の前に一切姿を見せなくなったとしても、あの白い手だけは、これまでもずうっと己の世話を焼いてきた。
 いい加減、うんざりとしてきたので、大学は遠方を選んだ。
 京都には、そういった者どもを排する力が働いていると中学の頃に聞いており、それが頭に残っていた。
 勉学は元々得意であったし、人でない気味の悪い得体の知れない者どもとの付き合いをきっぱりとやめようと思ってからは、バイトで将来の学費を稼ぐ傍ら、奨学金を得るよう努力もした。ここまで、誰の手も借りず、家の財力もなるべく頼らず、借りを作ってしまった分は時代錯誤な証文を作って将来返す借金とした。

 そこまでしたのだ、高校を卒業した今は、いよいよ、この化け物屋敷と別れを告げることができると、晴れ晴れとした気分で春休みを迎えたのに、様々準備を整えた後、春休みが終わる昨日になって、母から申し渡されたのは、親子の縁切りであった。
 母はいつも明るく笑う人だ。そう、人間だ。
 だからこの大きな化け物屋敷の中で、母だけは己の味方で、母の姿だけはよく見え、母の声だけはよく聞こえていた。母を大切にしてきたつもりだし、母の味方であろうともしてきたつもりだ。父も己の幼い頃に他界しているから、さぞかしこんな化け物屋敷では住み難かろう、己が出て行くときは母を連れていこうと思っていたのに、昨日、母は「リクオは本当に立派な人間になったわね」と朗らかに言い、同じ表情のまま、「明日出発だったわね。もう、さようならね、リクオ」と別れを告げたのだ。
 驚き、己の考えとして、大学を出て働くようになったら、きっと母を迎えに来ると言うと、彼女は首を横に振り、きっぱりと、この屋敷こそが己が嫁いだ家であり、あの気味の悪い者どものことを、己の家族であると言った。

 説得しようと考えたが、ダメだった。
 今は仕方が無い、諦めることにした。
 屋敷の者どもは気味が悪いが、母は概ね彼等と仲良くやっていたようだし、己がこの年になるまで、危害を加えられたことは無い。母のことは、母が己で立てなくなり、介護が必要になるまでに引き取れば良い話だ。

 ともかく、過去を振り切るようにして、いよいよ屋敷を後にした。
 振り返らず、ただひたすらに、駅へと向かう。

 時は夕暮れ、黄昏刻。
 向かう先は、深夜バスの駅だ。

 己の足元を見つめ、ひたすら歩を進めていたが、ふと気付くと、思ったところとは、違う道を歩いている。
 おや道を間違えたかなと、普通の人間なら思っただろうが、すぐにわかった。
 人でないものが、己の道行きを阻もうとして、迷わせたのだ、と。

 歩みを止めると、はらり、はらり、どこからか、桜の花弁が舞い落ちる。
 ネオン街を歩いていたはずが、辺りには人の気配なく、影絵のように月光に切り取られた草叢が、さわさわと揺れていた。
 背の高いビルがあったはずが、それ等も全て、木立に姿を変え。
 凝った演出だとあきれ果てながら、行く先を見つめていると、浮世絵橋の向こうから、雨でもないのに緋色の番傘をさした着流しの人影が、ゆうるりとこちらに歩んで ――― ぴたり、己の前で、歩みを止めた。

 己を睨みつけて来るそいつを、忘れるはずは無かった。

 長いしろがねの髪は風も無いのに吹き上がり、切れ長の瞳はとろりと甘そうな紅瑪瑙。
 全てを威圧していながら、全てを従え全てに受け入れられる、風情ある美しい妖だった。

 顔をしかめる。
 出てくるだろうと思ってはいたが、なにもわざわざ、こんな風に、バスの時間がせまっているときに出てこなくても良いじゃないか。



「何の用だよ、妖怪」
「お前こそ、何のつもりだ、人間」



 人と妖、その血をそれぞれ顕著にあらわした、その姿。

 江戸の頃に迷い込んだかと思われる、まるで影絵の橋のたもとで、二人は邂逅した。



 ぎろりと睨まれても、怯まずに睨み返した。
 目の前の妖怪は、魑魅魍魎の主であったが、怯む理由はなかった。
 なにせ、今はこうして相対しているが、現ではこうして二人同時に存在できるはずが、無い。

 目の前の彼の名は、奴良リクオ。
 同時に己も、奴良リクオ。
 目の前の妖怪は、人の血を濃くして生まれてきた己の中に、いつの間にか巣食っていた妖の部分で、己がまっとうな人間として生活しようしてきたこれまでも、夜の間に勝手に己の体を使って歩き回り、己の邪魔をしようとしてきた奴だ。
 己が奴を邪魔だと思うように、奴も己を邪魔だと思っている ――― 奴は、まっとうな妖怪として生きようとしているがゆえに。

 今こうして向かい合っているように、これまでに何度も、向かい合って不毛なやり取りをしてきた。
 己は、まっとうな人間として生きるために、奴を押さえつけようとし。
 奴は、まっとうな妖怪として生きるために、己を押さえつけようとした。
 およそ、お互いの妥協点は見つからず、体を奪い合う争いは激化し、お互いに譲ろうとしない。

 昼の間に必要な教材を買いそろえ本棚に並べたとしても、夜には全て本棚の中身が入れ替えられており、いつ得たのかわからぬような、螺鈿細工の煙草盆の一式や、高価そうな酒が棚にあったりする。
 朝になって己が意識を取り戻して一番最初にすることは、覚えの無いそれ等を全てゴミ袋につめ、代わりに、ゴミ袋に詰められていた教材を本棚に並べ直すことだ。
 そうしたとき、たまに使えそうなもの ――― ちりめん素材のやわらかな筆入れだとか、新しい硯だとかは、捨てずに己のものに加えたりもしたが、夜の間に増えた贅沢品など、長く持っていたためしがない。

 互いに互いと分かり合うことなどできないのだし、追い出すこともままならない。
 己にとっては、性質の悪いものにとり憑かれてしまったかのようであるし、どうやら奴にとっても、それは同じであるらしい。

 京都の大学へ行くと決めてから、こうして奴が邪魔をする頻度も高くなってきていたので、この日に何も起こらないとは思っていなかったが、まさかここまで、大きな邪魔をしてくるとは思わなかった。
 別世界を作り出して、無理矢理引きずり込まれれば、己がいくら目を合わせぬよう、見なかった振りをしようとしても、かなわない。

「何のつもりって、ボクはこれから大学に進学するんだ。深夜バスで京都に行く」
「それはならねぇな。長いこと、オレは浮世絵町を留守になんぞできねぇ。ただでさえ、オレは夜しか睨みをきかせられねぇんだ、これ以上シマが荒れちまうのは勘弁だぜ」
「それがボクに、何の関係がある?」
「お前のことだろうが」
「君の都合だろう?ボクには何の関係もない」
「オレは、魑魅魍魎の主になる。お前にも関係あることだろう。生まれた家のことだ。いつまで目を背けていやがる」
「ボクは妖怪の総大将になんてならない、立派な人間になって、こんな家は棄ててやる。妖怪の世界で何が起ころうが誰が消えようが知ったことか、目障りだ、君は消えろ」
「本気で言ってるのか」
「ボクは本気だ。昔から、立派な人間になろうとしてた。邪魔をしてるのは君じゃないか」
「立派な人間?てめぇがやってきたのは、他人の顔色伺って、他人が白と言えば黒でも白と言い、臭いものには蓋をして、息を潜めて小賢しく生きてきただけじゃねえか。それが立派な人間だって言うのかい」
「君みたいに横暴な生き方していたら、いつか皆に嫌われちゃうよ」
「てめぇのような日和見ばかりしていたら、そのうち愛想を尽かされる。母さんにそうされたようにな」
「母さんは、自分からあの屋敷に残ったんだ!君に言われることじゃない!」
「わからねぇのか、愛想を尽かしたんだよ。オレだから言うんだ」
「うるさいうるさいうるさい!どうして、どうして立派な人間になろうとしてるってときに、邪魔ばっかりするんだよ!君は強いからいいさ、君はそうやって、強くて、おそろしくて、皆に慕われてるからいいさ!けど、けど、ボクは、ボクは、君が生きてる妖怪の世では、生きていけないんだ!」
「オレにお前の賢さと優しさは無い。オレは押さえつけるだけで、迎えることはできねぇからな、オレは人間の世では生きていけねぇ」

 不思議に思ったことは、己が奴を貶せば、奴も己を貶め、己が奴の美徳をあげれば、奴も己で気付かなかった美徳を上げて来る点だった。
 けれど、深く考えている時間は無い。バスの時間がせまっている。
 いや、バスなど明日でも良いのだが、何より、もうこれ以上悩みたくなかった。

 悩みたくないのに、奴は言葉を重ねてくる。
 気づきたくもないことに、気づけと。

「もう、うんざりなんだ。こういうの。ボクは一人で生きていく。ああ、そうさ、人間の中で、生きていくんだ」
「人間、お前の四分の一は妖怪だぞ」
「知ってるよ、妖怪。だからボクは ――― ボクは、きっとずっと、一人なんだ」
「一人か」
「一人さ」
「なら、やってみな。だが忘れるなよ、選んだのは、お前だ」
「わかってるよ」
「選んだのはお前で、そして、オレだ」
「選んだのはボクだ。君じゃない」
「お前はオレだ。オレは、お前に負けたんだろう」
「ボクが、勝った?」
「ああ、そうさ。本当なら、この場でお前を滅して、引き返そうと思っていたんだがなぁ」
「どうして、そうしなかったの」

 諦めたような溜息をつき、奴は番傘を閉じると、足元に落ちていた何かを拾い上げ、己に突き出してきた。
 ずっと使っていた、ちりめんの筆入れだった。
 学校でも家でも使っていて、ちょっとぼろぼろになっていたけれど、捨てる気がしなくて、京都にも持って行こうとしたものだった。どうしてそんなところにと思うと、スポーツバックのファスナーが少し開いている。そこから、飛び出したらしい。

「落ちてたぜ」
「あ ――― ありがとう。……これって、君のじゃないの」
「お前がこれを大事にしてなけりゃ、《そう》していただろうさ。赤子の手を捻るより簡単だ」
「 ――― 」
「せいぜい、一人寂しく生きていけよ」

 受け取ると、奴は天を見上げて、舞い落ちる桜にうっとりと目を細め ――― すうと、己の目の前で、消えた。



 気付けば、己はまた元の通り、コンクリートのビルの谷間で、点滅する信号機の前、横断歩道のたもとに立ち尽くしているのだった。
 やがて信号は赤にかわり、目の前を車が横切っていく。



 呆然とした。

 ああ、あの妖怪はもう二度と、己の前に現れぬだろうと、そう思った。

 受け取ったちりめんの筆入れを、送った主が誰だったか、すぐに思い出した。
 常に現れていた、白い腕。
 半透明だった白い腕の主が、記憶の中によみがえると、無垢な白い肌の、白い振袖を纏った、絹糸のような黒髪に満月の瞳の、美しい少女としてよみがえった。
 誕生日の贈り物だと言って、屋敷に住む皆からは、夜の己が好む煙管や煙草盆、酒や刀、扇子などを貰ったが、こうしたものは昼に扱いが困るなと苦笑いしていたところに、楚々とやってきてこれを差し出したのは、あの少女だった。

 ささやかなものですが、こうしたものは、夜にも昼にも使えましょうからと笑った彼女の、美しいこと、愛らしいこと。

 つい先ほど、玄関を出てきたときには、哀しそうな目でじいと己の横顔を見つめていた。
 義兄弟から贈られた螺鈿細工の煙草盆のことも、屋敷の妖怪たちから贈られた酒のことも、夜の間に行われた出入り粛清の数々も、己で見てきたことのように、これまで夜の間に何が起こっていたのか知ろうとしても術がなかったのに、ほんの一瞬の間に何が起こったのか、我が事のように思い出せる。



 ――― 否。



 あれは、ボクの、想い出。捨ててきた、ボクの場所。
 あの妖怪は ――― あれは、ボクだったんだ。


<了>











...早 春 賦...
やがて時が経ち、年老いて、尚も思いだすのは、あのときの君の瞳。その後、春は来たのだろうか。