不気味な気配が去ってしまった後も、二代目は若菜を腕にかかえ、ぽんぽんと背中を撫でていた。
 宝船を急襲した、見知らぬ気配の主に、乗り合わせた妖怪達は皆、二代目の後ろに続いてぎろり睨みをきかせていたが、この気配がすっかり消えて、空にドーンと、ついに大輪の花が咲くと、おお、と声を上げて、すっかり夏の風物詩にこそ心奪われた様子だった。

 ドーン………ぱらぱらぱら………ドーン、ドーン………。

「おお、たーまやーぁ」
「かぎやーぁ」

 とたん、賑やかになった甲板で。
 目を閉じていてすら、その向こうで極彩色が踊るのを感じて。
 ぽん、ぽんと、規則的に背中を叩かれていると、二代目の手が触れたところから、不思議と痛みが引き、ぽかぽかとあたたかくなってきた。
 あれほど恐ろしかったのに、もう駄目かもしれないとさえ思ったのに、不安も恐怖もとけて、癒されてしまった。

「けっ。うちの組の船の上で、誰がかどわかしなんざさせるかよ。一昨日きやがれってんだ。……若菜、もう大丈夫だ。目、開けられるか?」

 無理はさせない、閉じていたかったらそのまま閉じていてもいいんだよとでも言うような、気遣いに溢れた優しげな、耳に滑り込んできた声を聞いていると、父親とはこういう存在なのだろうかとも思えた。
 けれど、ひりつく目元を払って顔を上げたとき、すぐ目の前の秀麗な顔立ちに、安堵したそのときには忘れていた恋心を瞬時に思い出してしまい、それで若菜が再び顔を伏せてしまうと、今度は二代目が何やら面白くない。
 いつもにこにことしている少女が、今は泣きべそをかいているのが、己の顔をちらと見た顔が、いつもよりも少女が際だつせいか余計に、招いた覚えのない客のせいと思えばいささか腹も立つ。

「……そりゃあなぁ、怖かったよなぁ。でも大丈夫だ、もうあいつの気配はしないだろ?にしても、勝手なこと言う奴だったよなぁ、若菜が自分のものだとかなんだとか、ごちゃごちゃ言いやがって。お前は誰のモンでもねぇや、なあ?強いて言やあ、おれの大親友だ。そうだよな?」

 おどけたように言ってくれる口調が、自分を励ましてくれるものだとわかってはいても、若菜は困ってしまって顔を上げられない。

 恥ずかしい。すぐ側に、鯉伴さんの顔がある。
 いつもおどけたような顔をして、ころころと表情が変わるからあまり気にしたことはないけれど、近くで見ると、妖の主というのは己が帯びる陰影すら支配するのか、今はいつもと違って若菜を気遣う優しさに溢れているからか、普段の悪童の雰囲気が取り払われてしまうと、あまりに精巧なそれで、直視できなかった。
 そのひとの黒曜の瞳に、自分が映っているとなれば、尚更、気恥ずかしい。
 しかも、泣いたすぐ後の顔なんて、見られたものでないのは、百も承知なのだから。

「ん、なんだよ、まだ泣いてんのか?若菜、おい若菜坊、あんな奴の言うこと、気にすんな。はぐれ外道どもはああやって、自分の餌だって言い張って唾付けようとするもんさ、いちいち気にしてたら埒があかねぇぞ。
 ……おい、若菜、花火終わっちまうぞ、ほら。
 若菜丸。こら。……ったく、いつになくビビってんなぁ。妖怪相手に並大抵のことじゃあビビらねぇお前がなぁ」

 強いて言えば魑魅魍魎の主、そのひとの妖艶なるたたずまいにビビってはいるのだが、若菜にはそれを表現する語彙が無い。
 ひたすら目をつむって、ふるふる、ふるふるとやっていた。
 もちろん、これを黙って許しておく二代目では無い。

 顔をのぞき込もうとしたり、腕の中から抜け出ようとするのを許さず、むずがる子猫をつかまえておく勝手で、両腕に力を込めたり。
 それでも若菜が顔を上げられないでいるのに業を煮やして、

「なんだい、あんな奴に唾けられたのがそんなに不安か?だったらほら、こうやって唾つけなおし、」
「ちょ、鯉伴さん、やめて、大丈夫、もう大丈夫だから、下ろして!」
「お、ようやっと喋ったなぁ?ほら、こっち見ろ、若菜」
「近い!顔、近いから!」
「そりゃー近づけてるもんー。若菜ちゃんのほっぺやわらかー。すべすべー」

 顔をのぞき込むついで、耳元で口づけの音だけをたてるのだから、それが戯れでも、実際にはくすぐる程度の触れ合いだったとしても、若菜にとってはたまったものではない。
 いよいよ耳まで真っ赤になって、若菜は下駄がぽろりと脱げるのもかまわぬまま、じたばたとよりいっそう暴れ始めた。
 子供のようにはしゃぐ二代目と、その腕の中で暴れはするも本気は出せない若菜とを、止める者などその場には無い。

 ああ、またやってるよ、と、皆が新婚夫婦のじゃれ合いを見つめるような視線を送って、若菜と目が合うや、さっとそらす。
 邪魔が入らないのを良いことに、ついに二代目はその場に座り込んで、若菜をがっちりと抱え込むと、あちこちくすぐり始めたから、もうたまらない。

「も、もう、鯉伴さん、降参する!するから、ちょ、やだ、あはははッ、くすぐったい!そんなトコだめッ」
「首筋は弱いトコでしたかー、そんじゃー背筋はどうかなー?」
「あははははははッ」
「よーし笑ったーぁ。いいか若菜ァ、おれの船で陰気は無しだ」
「わ、わかった、わかったからぁ……あは、あははッ、だめ、脇腹は、お願いッ、足の裏はもっとだめええぇッ」
「そーれ、こちょこちょこちょ………」
「ひぃーんッ」

 そういうことは、閨でやれ。頼むから。
 と、その場の誰もが思いたくなる会話なのだが、若菜が二代目をそういう相手として危機感を持っていないらしい上に、二代目も二代目で、普段ひとに見せている大将としてのおふざけというより、まるで一人の少年のような無邪気な顔で笑いながら若菜を構うものだから、つい先ほどまで侍っていた商売女たちも、己の分をわきまえれば口出しできるはずもない。
 聞いている方が恥ずかしくなるこのやりとりは、やがて若菜がくすぐり倒されて、二代目の腕の中でぐったりとなったところで、終わった。

 顔を隠すどころか、ぐったりと二代目の胸に背を預けるようにして座り込み、少し着崩れた裾から片方の膝小僧を惜しげもなくさらして、若菜はぜえはあと荒い息をつきながら、ふと、空を見上げた。


 ドーン……ドーン………


 次々と空に打ちあがる大輪の花は、宝船が泳ぐさらさらとした天の川の星光に乱反射し、例えようもない美しさ。

「……きれい」

 足を投げ出し、二代目に抱えられたまま、若菜はぽつり、呟いた。

「だろう?見ておかにゃ、損だろう?」
「うん。鯉伴さんと一緒に見られて、良かった」

 二代目という立場が、よくわからないけれど、大変なんだろうなあ、偉い人たちやお姉さんたちの相手も、しなくちゃいけないのだろうなあということぐらいは、若菜にもわかる。
 船には多くの幹部たちが乗っているようだったし、なら、ただの遊びではなくて、きっとお仕事にも絡んでいるのだろうなあと、聡い若菜にはわかる。
 いつもは、若菜が遊びに行ったときには必ず顔を出してくれる二代目だし、お料理をしても喜んでくれるし、学校の友達とはできない不思議な妖たちについても詳しいし、面白い話をたくさん聞かせてもくれるからついつい入り浸ってしまうけれど、本当は、若菜にだけかまっていられるはずもない。
 だから今日は、ただ隣合って見られる運に恵まれたらいいなあ、とだけ思っていた若菜だ。
 多くの妖怪達にいつも囲まれている二代目だから、もう片方の隣には、綺麗なお姉さんがいて、若菜にはできないような色気を帯びた目配せをして、二代目にしなだれかかっているかもしれないな、とも。

 なのに、それどころか今この時、二代目の両腕を独り占めできている。
 たくさん暴れて笑ったせいもあり、泣いてしまった顔のことなんて小さなものに思えて、ふふり、と、笑った。
 その顔を見て、二代目がほっとしたようだと感じたのは、自分の気のせいか、過分な期待だろうと、若菜は思ったが。

「……そうそう。お前さんは、そうやって笑ってるのが一番可愛い。お前は笑ってると、どこでも日だまりにしちまうから、悪い妖怪どもは欲しがるのかもしれねぇなあ。そんな格好させたのは、ちょいとまずかったか」
「まずかったって?……その、やっぱり、似合ってない?」
「誰がそんな事、言ったよ」
「だって。鯉伴さん、あんまり興味なさそうだったよ?」
「いや、それは……だな、何というか。あー、そうそう、任侠の男児たるもの浮ついた言葉をそうほいほいと吐くもんじゃねえっていうか」
「猫又さんたちには、いつも可愛い可愛いって言ってるのに」
「……ソウデスネ。……いや、若菜、お前が素だなんてことはよくわかってる。わかってるんだが、そう虐めないでくれ」
「虐めるって?」

 赤に黄色に色づく夏の空。
 光を受けて、染まる白い肌。
 涙の痕をうっすら残し、目元をぽっと朱に染めて。
 若菜は二代目の胸に頭を預け、無邪気に笑いながら、まだ幼い恋の相手を仰ぎ見る。

 ぐ、と、二代目が黙る。
 若菜の視線に誘われて見下ろしてみれば、紺色の浴衣の胸元のあわせからのぞく肌が、のけぞった首の白さが、やけに目を引いたのだ。

(………冷静になれ、おれ。紫式部の頃とは時代が違う)

 あーとかうーとか唸りつつ、二代目は己にそう言い聞かせ、まあつまり、と、続けた。

「猫又の姉ちゃんたちを可愛いっていうのと、お前に言うのは、なんか違うんだよ」
「違うって?」
「猫又の姉ちゃんたちが可愛いのはな、それが仕事だからだ。可愛くなけりゃ、仕事になんねーんだ、あいつ等は。だからいわば、あいつ等に可愛いって言うのは、今日もきっちり仕事してんなって認めるような言葉というか。まあ、そんなもんなんだ。
 お前はその、なんていうか………軽々しくそんな事言う野郎がいたならむしろ蹴飛ばしてやりたいっていうか」
「……やっぱり、似合わなかったかなぁ。あんまり女の子らしい格好、したことなかったから」
「や。そーじゃなくて。……想像以上だったから、参ってるんだよ。今度はこっちが降参だ、勘弁してくれ本当。これ以上、言わせてくれるな」

 これがもう少し、若菜が年を重ねていたなら、わかったのかもしれないが、どれほど聡くても、彼女はまだ子供だった。
 大人の男のひとなはずの二代目が、機嫌を悪くしたようにも見える表情で、花火をじっと睨みつけてしまったなら、不安にもなる。

「……降参って?」

 意味がわからなかったから、訊ねた。
 それだけだったのに、二代目はやけに重苦しいため息をつき、がっくりと、うなだれてしまった。

「鯉伴さん?」

 顔が見えなくなってしまった不安から、ぱさりと落ちた前髪を、くいくいと引いてみると、答えがあった。

「……可愛い。可愛くって、びっくりした。おれの知ってる若菜じゃねぇみたいでさ。別の奴になっちまったみたいで。びっくりしたんだよ」
「ほんと?」
「ああ、本当だよ」

 二代目が、無理矢理にでも笑みを作って見せられたので、大人の面目は保たれたと言えよう。
 もっとも、その後は心おきなく二代目の胸に背を預け、特等席から花火を見ていた若菜とは裏腹、二代目は花火を見つめて笑う若菜の顔しか、そこから先は覚えていない。
 花火のように、ほんの刹那。
 花開いて、実をなして、散っていく。
 浮き世の人どものうつりかわる様を、これまでも見つめ続けてきた二代目だからこそ、今の若菜の顔から、目が離せなかったのだ。



 もう少し、もう少しでいいから。
 もう少しだけ、このままで。



 空に花咲く大輪を見つめながら、若菜が。
 笑う若菜を見つめながら、二代目が。



 視線の先は違えども、抱く願いは同じ、刹那の夏の夜だった。


<船遊び・了>









...一期一縁 もう少しだけ...
いつか散るとは知っている。けれど花が咲くのは、散るためだけではないように、出会いは喪失のためだけにあるものではないのだから。
だから、今、もう少しだけ。








アトガキ

そうだよ冷静になってよ鯉伴さん。
紫式部の頃には無かった規制とかもたくさんあるんだから。
でもこの二人がエロいことしないと、ぬらりひょんの孫は始まらなかったんだよ!
まぁこのサイトは、親御さんに履歴を見られて安心・親御さんは履歴を見て安心の、年齢制限無サイトです(キワドイ気はするが)。
二代目が若菜さんに教えた、「あんなことこんなこといっぱい♪」や「できるかな♪」については、有明薄井本組の幹部たちに任せる。