宝船は、街の火を眼下に、ゆったりと風に任せて天の川を泳ぐ。
 外に出てみれば、座敷の格子戸から眺めるのとはまた違った風情で、若菜はうわぁと思わず感嘆の声を上げ、いつもより多く見える星明かりを、眼下のまばゆい街の火を、大きな瞳に全て映して綺羅綺羅とさせながら、うっとりと見つめた。

「うわぁ〜、綺麗ー。街の人たち、まさかこんな風に空に船が浮いてるなんて、思わないんだろうねぇ。私、知らなかったなぁ、クラヤミ街って、あの病院の廃墟の事を言ってるんだと思ってた。まさかこんなに大きなお船、隠してるなんて」
「隠してるっていうか、元々あそこは天の川の船着場なんだ。奴良組のシマとかじゃなくて、皆が自由に使ってたんだよ。シマにしちまったら、手間賃取らなくちゃならねぇ、面倒だって、二代目が目こぼししてた場所なんだ。それを最近のわけぇ連中が、真上のあんな気味悪いところに住み着いちまって、加えて変な連中が集るようにもなっちまってたってわけさ。二代目が出入りしたから、また元通り、船着場になったってだけ」
「ふぅん、鯉伴さんって、ちゃんとお仕事してるんだぁ」
「ずるッ。……若菜さまぁ、それ聞いたら二代目、また拗ねるぜー?」
「くすくすくす……だって、私、さっきみたいな鯉伴さんしか見たことないんだもん」
「ま、それもそうかー。けどそれって、結構特別な事なんだぜ。今日は酒の席だからああやって騒いで好きにさせてくれてるけどさ、出入りン時は、コワい御方なんだから」
「コワい鯉伴さん?うーん、想像つかないなぁ」
「クラヤミ街に出入りしたとき、そこに居ただろうに」
「ああ、あの時は確かに、普段と違ったかも。でもあれは何て言うか、コワいというより」

 美しく近寄り難く、ああ、この御方はあやしのひとの、その主であるのだと。
 恐怖というより、あれは、畏怖? ――― いいや、畏敬。
 この御方の腕の中にあれば安らかだと、心から安堵できるひと。

 眼下の街灯りを目に映しながら、ぽうと頬を赤らめた若菜は、自分の中の気持ちを知っていたけれど、口に出すのはやめておいた。

「 ――― よく、わからないや。でも、あの時の鯉伴さん、普段とは違ったね」

 言葉にしてしまうと、勿体無いような気がしたから。
 それに、二代目のそういう御顔は、あまり見る機会が無い方が良いに違いない。
 荒ぶる力を見せるのは、平穏が破られたときなのだ。
 本人だって、本当はあんなふうに楽しく騒いでいる方が好きなのだろうし、若菜も、どちらの二代目も好きだけれど、子供のようにじゃれてくる二代目の方が、何だか可愛らしくて、甘やかしてあげたい気にもなる。
 ……今日のような酔っ払いは、どうかと思うけれど。

 物思いが振り出しにもどりそうになったところで、若菜は気持ちを切り替えることにした。
 ともかく、一生に一度あるかないかの船遊びだ、楽しまなければ損だ。

 若菜の機嫌がよくなったところで、天の川の船幽霊が、手だけをぷかぷかさせてすいと寄って来た。
 何だろうと首を傾げていると、小鬼がすかさず、人数分の林檎飴を買い求める。
 行商らしい。
 見れば、天の川には他にも小船がいくつも浮き、この間を、星光の尾を引いて、いくつもの腕が荷物を持ってぷかぷか浮いていたり、船に乗った妖怪が鉢巻をしてじゅうじゅうたこ焼きを焼いていたりと忙しい。

「ほい、若菜さまの分。他に何か喰いたいモンあったら、ほら、あっちこっちの奴等に合図したら寄って来やすぜ」
「すごい!面白い!」
「ちょいとびっくりする顔もあるかもしれねぇけど……まァ、若菜さまだったら大丈夫かな」

 納豆小僧が心配したのは、そこ等にいる妖怪が決して、見目麗しい妖ばかりでないからだ。
 もちろん、若菜相手にそれは杞憂だった。
 さっそく、じゅうじゅうと美味そうなたこ焼きを焼いていた船に合図して側に来てもらった若菜は、笠をかぶった店主が「ほいよ!」とあつあつのたこ焼きを手渡してきたところで顔をあげ、これがのっぺらぼうを通り越し、げっそりとこけた骸骨であっても「ありがとう、おじさん!」で済ませてしまっているのだから。
 骸骨と少し世間話をすると、元気で陽気な若菜を骸骨おじさんも気に入ってしまい、こっそり、もう一箱おまけしてくれた。

 納豆小僧がうっかり豆腐小僧の林檎飴に納豆をつけてしまい、豆腐小僧が泣いては若菜が笑い、火の玉小僧が怒ってたこ焼きを消し炭に変えてしまっては若菜が笑いして、にぎやかに時間が過ぎ行く。

 そうこうするうち、もうすぐ花火が上がる合図の、前触れが上がった。



 ひゅるるるる………ドーン………ぱらぱらぱら………。



 遠く川向こうで、この一発、大輪の花が上がると、小鬼は「お、そろそろかな」と、呟いた。

「若菜さま、そろそろ始まりますぜ。せっかくだから、座敷に戻ってみませんか。あっちも、襖を開ければ、天守閣のように見晴らしがいいんです」
「そうなの?……うーん……どうしようかな」

 若菜が、このままこの甲板から見ていようかな、などと少し迷ったのは、先刻の二代目の姿があったからだ。
 座敷に帰ってみて、二代目がさらに輪をかけた乱痴気騒ぎをしていないとは限らないし、前触れの花火があがったので、賄いの女衆たちも甲板にあがって賑やかになってきたし、ここでも構わないような気がしてきたのだ。
 それはもちろん、二代目の隣で、こんな大きくて立派な船の天守閣から花火を見られたなら、良い想い出になるに違いない。
 でも ――― 。
 けど ――― 。
 いかにも少女に当然の戸惑いを、取り囲む小物たちは察して、それじゃあちょっとだけあちらの様子を見てこようと数人が座敷へ向かい、若菜も欄干に腰掛けて、彼等の帰りを待つことにした。
 火の玉小僧がすぐ側で、ぴったりと守るように居てくれるから、見知らぬ妖怪たちが甲板に出てきてもいくらか安心できた。

 女の子の格好をしていても、外を長く出歩いたわけではないし、こうやって大勢の妖怪たちの中に紛れていれば、大丈夫なんじゃないか、そう思われた。

 と、髪留めが風に緩んだ気がして、手をやったところで、

「あっ、いけない ――― 」

 椿の髪飾りは、若菜の指をすりぬけて、からん、からん、からん。
 音をたてて、宝船の欄干を通り抜け、落ちてしまった。

 あちこちに、提灯が浮かんでいるとは言え、闇夜だ。
 下まで落ちてしまったのか、それとも、いくつか下の階に引っかかっているのか、若菜が目を凝らしていると、同じ様に下を覗き込んでいた火の玉小僧が指をさした。

「お、あった、見つけた!俺様、取ってきてやるよ」
「うん、おねがいね、ありがとう、火の玉小僧さん」
「なーに、お安い御用だい」

 ひょいと欄干を乗り越え、火の玉小僧は身軽に一つ、二つと、大きな宝船の下へ下へ降りていく。
 これを目で追っていた若菜は、ふと、あたりが急に暗くなったように感じた。



 ふ、と、辺りの提灯が一つ、二つ、消えて ――― 。



 あれ、と辺りを見回せば、視界の中に残っていた提灯の明かりが、星明りが、視線に追われるように消えた。
 それだけではない、あれほど賑やかだったのに、音楽も、笑い声も、遠く遠くへ消えて行き、天の川のさらさらとした水音も遠くなって ――― 。



「 ――― なに?」



 ここは、宝船の上のはず。
 なのに、若菜は一寸先も見えぬ、闇の中に居た。
 側で笑っていた男女二人連れも、欄干をくぐって髪飾りを取りに行ってくれた火の玉小僧も、広い甲板で音楽を奏でていた妖怪たちも、誰も、誰も、誰も、居ない。

 突如として、静まり返った真暗闇の中に、若菜は一人、取り残されていた。

 ちゃぷり、ちゃぷり、ちゃぷり。

 川の上を、何かがこちらへ、近づいて来るような音が、する。



 しゃりん、と、清らかな、鈴の音が、鳴った。
 途端、若菜は何だかぼうっとして、ああ、迎えが来るのだったと思い当たった。
 闇の中に取り残されてしまったときの不安は、もう、無かった。






 若菜。



 呼ばれた。



「誰?」



 若菜。



「誰?」



 ちゃぷり、ちゃぷり、ちゃぷり。



「誰なの?」



 こちらへおいで。そこは、良くないところだ。



「どうして?」



 そこは、悪い妖怪たちが居るところだからだよ。



「みんな、いいひとたちだよ?」



 いいやそいつらは、悪い妖怪たちなんだ。
 だってそうだろう、若菜を取ろうとするんだから。
 若菜はこちらに来なくてはならないんだ。

 そうだったよね?



「 ――― うん。そうだった、かも」



 そういう、約束なんだ。



「 ――― 約束」

 不意に思いだす、あたたかな約束。

(――― おれ、飛んでくるから)

 濃霧の中に思考も体も絡め取られてしまいそうだった若菜を、引き戻す、二代目の声。
 これを思い出した瞬間に、それまで当然のように声の方へ歩んでいた若菜は、立ち止まった。



 どうしたことだろう、行きたくない。
 一歩踏み出すたびに、二代目の声が遠くなる。二代目の笑い顔が遠くなる。
 嫌だ、と、思った。



「………やっぱり、行きたくない」



 口に出して言ってみると、行かなければという気持ちより、行きたくない気持ちの方が大きくなる。
 行きたくない。行けばきっともう、あのひとには会えない。



 会 え な く な る 。



 ただそれだけが、怖ろしくなって、途端、若菜は己を取り巻く暗闇への恐怖を思い出し、くるりと踵を返して走り出した。



「いや!行きたくない!だって、そんな約束、私、知らない!私、鯉伴さんのところに、帰る!」



 若菜が走る闇の中、巨大な目が彼女の背後でぎろりと開いて、血走った憤怒の視線を、小さな背に送っていた。



 鯉伴さん。

 その名前を口にしてすぐに、若菜は我に返っていた。
 つい先刻まで、宝船の上、天の川から街の火を見下ろしていたのに、どういうことか、今は真っ暗闇の中に居るのだ、おそろしくて仕方がなくなった。
 不可思議がおそろしいのではない、不可思議に呼ばれているらしい、誰かが線引きした世界に、ふらふらと呼び込まれていたらしいとわかったので、おそろしくて仕方がなかった。

 怖い、怖い、怖い、いや、ここは嫌い。

 元来た道をまっしぐら、今度は逆に引き返す。
 どこの細道かわからぬ闇の中へ、下駄の音が高く響く。


 おのれ、逃げるか、若菜。



 甘い声で若菜を誘い出していた声の主が、怒った。
 闇の向こうから、はっきりと怒りの思念が波になった届き、その波間で、ぐわり、すべてを見通し逃がさない、紺碧の目が若菜の背を射る。
 蛇のように縦の瞳孔をひくひくとさせているところから、怒りがいかほどのものか、感じられた。



 逃がさぬぞ、逃がさぬぞ、そちは、我のもの。



 逃がさぬ。逃がさぬ。逃げられぬ。そういう、《約束》であるのだ。



 振り返らずにまっしぐら、走る若菜の背に、ヒュッと風を切って鞭のようにしなる闇そのものが、ばしりとたたきつけられた。
 たまらず吹き飛ばされ、ばたりと倒れ込んだ若菜だが、すぐに起き上がり再び走り出す。

 どこまで走っても、走っても、出口は見えない。

 ただひたすら、続くは闇の細道だけ。



「いや!そんなの知らない!私は鯉伴さんのところへ帰るんだ、戻るんだもん!」



 ずきずきと痛む背に、どこまでも続く闇の世界への恐怖に、若菜はたまらず涙をぼろぼろ零しながら、それでも走る。
 人ならざる者を前にして、あまりに卑小な若菜であるから、どれだけ足が早くとも、このまま絡めとられ、誰も知らぬまま、闇の底へ引きずりこまれてしまうと思われた。  何者かもわからぬ輩の虜囚となり、とこしえを慰み者として、魂までをも辱められ、堕ちるのか。
 そうなるはずだった若菜の目の前で、するり、闇が直接切り裂かれ、落ちた。



「 ――― おれの縄張りで、女に手ぇだそうたァ、ふてぇ野郎だ」



 闇の中を走っていたと思ったのに、気がつけば若菜は転がり落ちるように、二代目の腕の中に居た。
 目の前にはしった閃光は、二代目が今は肩にかついだ祢々切丸の一閃。
 彼女は、己をとらえんとしていた輩の術から、間一髪というところで、助け出されたのだ。

 いつからか、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた若菜は、己を抱き上げた二代目にひっしとしがみつき、二代目もこれを離さずに、しっかと片腕で抱き上げる。

「その中でも、いっとう大事な奴に手を出すとはよ。若菜はおれの大事な客人だ。どこのどちらさんか知らねェが、ココはどういう場所か知らずに入りましたじゃ、済まされんぜぇ?」

 二代目の肩口に顔を埋めて震えていると、若菜の耳に届いたのは、底冷えするような二代目の声。
 ぞくりと鬼気迫る声であるが、もうおそろしくなど無い。
 その怖い声は、若菜を守る声だからだ。
 ぐっと力強く抱いてくれた腕にも安心できた。
 とくり、とくりと、伝わって来る鼓動にも。
 寄せられた頬の熱にも。

 じんじんと、打たれた背が、焼けるように痛い。
 背後から、あの大きな目の主が己を見つめているのが、気配だけでもわかった。
 若菜の意志とは裏腹に、背の傷が、これを与えた主の気配を、探ろう、求めようとしているかのようだ。



 ――― 奴良、鯉伴、か………。おのれ………。おのれ………。



 睨みつけられてもまだ、声の主はその辺りをうろうろとしていたようだが、流石にたったひとりで、関東奴良組二代目そのひとに、慣れぬ場所で楯突くつもりはなかったらしい。
 ゆらり、ゆらりと、しばらくその辺りを黒い気配だけが巡っていたが、やがて、すうと夜に溶けるように、消えてしまった。



 たった一言、



 ――― だが、 《 見 つ け た ぞ 》 、若菜。



 二代目の腕の中に守られる、少女の耳元だけに、こそりと呟いて。


<後編へ続く>






アトガキ

若菜ぴーんち。って、またこの展開か!と思いつつやってしまうのは、二代目夫婦の年の差萌えというやつだろうか。
二代目はちゃんと、若菜ちゃんの知らないところではキメるときにキメられる男だと思うわけなんですよ。
ずっとヘタレてるわけじゃないんですよ。
余裕があり過ぎて、大抵の相手に本気にならないだけだと思うのね。
「だって、ちいっと撫でたら終わっちまったんだもん」とか言いそうかな、と。

相手が「おのれ、奴良鯉伴!覚えておけ!」とか言っても、
「おれ頭悪いから、再試合は半月以内に頼むわー」とか言いそうな。
「美人はとこしえに忘れんが、てめェのような不細工、半月も覚えてられるかどうか自信ねェんだよ」とか言いそうな。

木公の中で甘ったれな二代目が言う「最初に見た美人」はもちろん珱姫さまで。
木公の中で最強な二代目は、「真剣な表情しないと勝てない相手なんざ中々現れないぐらい強ぇ」から、ヘタレなとこしか書けない。