此の世には、人間だけではない、多くの生き物が住んでいる。
 森の木々や動物はもちろん、海や土だって、広い意味では生き物と言えるだろう。

 だから若菜は、人間たちからは姿を見せないように隠れ住んでいる妖怪たちも、神社教会など、人々が聖域として奉る場所などに感じる気配の主たちも、そういった住人なのだろうと思っていたし、だから不必要に驚いたりもしなければ、必要以上に遠慮もしなかった。
 幼いがための怖いもの知らずは、概ね、大人の寛大な心で「まあ、子供だから、仕方ないか」と片付けられることが多く、奴良家における若菜はまさにそれだ。
 人間がこの奴良組の門を無断でくぐるなど、と普段は息巻く強面の小鬼や門番取締役の青田坊なども、門をくぐって姿を見せたのが若菜だと、なんだまた二代目の大親友殿かいと気にもしなかった。あちこち屋敷を見て回るのも、子供のすることだからと大目に見てやる者が多く、仏間の塗り仏なども、背筋をすうっと撫でられたときにうっかり鳥肌をたててしまったけれど、声をたてて笑う若菜を脅かしたりはしなかった。

 これが続くと皆、毎日学校帰りに若菜がやってくるのを楽しみにもし始めた。
 二代目が留守のときでも、若菜は奴良屋敷で小物たちと遊び、ちょっとばかりかわいげのある悪戯をしてみせ、賄い所で女衆に混じって料理を楽しみ、日が暮れる頃に帰っていく。

 ちょっと小難しい話を済ませた二代目が、顔はへらへらしていても、不機嫌や緊張を解かずにいると、妖怪どもは己の肌がぴりぴりとするような《畏》を感じて遠巻きにするが、ここへお夜食ですと下女がお茶漬けなどを、煮付けと一緒に持ってくると、ちょっぴりご機嫌が直る。
 若菜が作り置いて行った里芋の煮付けは、既に二代目の好物である。
 この頃には若菜が奴良屋敷へ行くのは、週末の決まりのようになっていた。
 妖怪たちは彼女が来ても咎めないし、若菜は物怖じしない性格なので、古ぼけた妖怪屋敷にお泊まりにくるのも平気だ。

 加えて、見るからにおどろおどろしい屋敷の門前で、入ろうか、どうしようかと見るからに迷っている様子の高齢の紳士が迷っている様子なのを、放っておくこともしない。

「おじさん、ここのお屋敷に何か、ご用事?中の人に、伝えて来ましょうか?」

 じーわじーわと蝉が鳴く、夏の真っ昼間のこと。
 学校は夏休みに入っていた。
 どこへ転校しても人懐っこく、明るく礼儀正しい若菜は友達が多いが、友達が塾や家族旅行などで留守にしてしまうと、若菜は途端に手持ちぶさたになる。
 一人で本屋に行ったり、自転車に乗って河原で涼んだりするのも好きだけれど、奴良屋敷の賑やかさに一度慣れてしまうと、自然と足はそちらに向くし、奴良屋敷の者どもは彼女を人間の大人たちのように疎んじないので、居心地がいいから、ついつい入り浸ってしまうのだ。

 今日も足を向けた先の屋敷の門の前で、一人の老紳士がぼんやりと、屋根瓦を見つめているところに出くわしたのである。

「あ、あぁ、こちらのご主人に縁があってねぇ。近くを通ったものだから、どうしているかと思って」
「ご主人って、鯉伴さん?」
「ぼく、知ってるのかい?」
「うん。友達だよ」
「ほ。そうか、友達。ははは、そうだな、奴良大佐は……あの御方は、そういう御方だった」
「大佐?」
「ああいや……こっちの話さ。すまないね、こんなところをウロウロして。それじゃあ……」
「入らないの?」
「いいんだ、本当に近くに来たから、寄ってみただけだし」
「そんな、困ります」

 言葉通り、若菜はあからさまに困った様子を見せて、老紳士の杖を握る手に、きゅっと両手を重ねた。

「せっかくの懐かしいお客様なのに、ここで帰しちゃったら、きっと鯉伴さん、残念がって寂しがるもの。ううんそれどころか、黙って帰したなんて言ったら、怒られちゃうかも?だからねえおじさん、少しだけ、中を覗いていけませんか?」

 誰彼構わず招くのではない。
 若菜はしっかり、その目でそのひとが屋敷の主を懐かしんで訪ねてきた客人か、それとも利用しようと良からぬ企みを抱いた悪人かを見定めた上だ。

 もちろん、意識してではない。
 彼女にはそれが《視》えてしまうのだ。
 今は、この老紳士がぼんやりと奴良屋敷の門構えを見つめている間、老紳士が思い描いた過去だろう、周囲に投影したセピア色の風景があれこれ浮かんでは消え、その中には目をそらしたくなるような戦争の光景、火の海、鬼のような形相で唾を飛ばし殴りつけてくる上官、蹴散らされた小さな花畑もあったのだけれど、立派にしつらえられたどこか洋風の部屋で、今のような着物でなく、昔の軍服を纏った鯉伴の姿があり、これがこちらに向かってにっこり笑い、「あれ、加藤くん。まぁた殴られたんかい」と手を伸ばしてきたから、若菜には老紳士が、悪い人ではない、本当に鯉伴の知己なのだとわかった。

 それでも、当の老紳士は恐縮するばかりで、いやいやと手を振り、去ろうとするから、若菜は引き留めようとするあまりつい、たまにやらかす間違いを、ここでやらかしてしまった。

「だめ、だめです、帰らないで加藤さん。加藤さんに会えたら、鯉伴さん、きっと、ううん、絶対嬉しがるに決まってるもの」
「………どうして私の名を?」
「あ、あれ?」

 声が聞こえてくるまでに強い想いを《視》てしまったとき、こうして、何故、どうしてと大人が気味悪がるのは知っているのに、つい、口にしてしまう若菜である。
 しかし場所は、妖怪屋敷の門の前。
 慌てて、えへへと誤魔化した若菜と、門とをもう一度見比べた老紳士は、それ以上驚きも、気味悪がりもしなかった。

 優しい目を細めて若菜の笑顔に微笑で応えると、覚悟を決めて奴良屋敷へと、足を進めたのである。
 元気そうだが、片足を引きずるようにして歩くので、若菜はすぐに杖を握る腕とは逆の方へまわり、支えるようにしながら歩いた。
 若菜ではない人間の客に、門番の小鬼はすぐに気づいて、かさかさと風に転がる落ち葉の音と影に隠れながら、奥へと姿を消す。

 老紳士の目には、誰が手入れしているやら広い庭の置き石の陰や、趣のある堂々とした屋敷の天井裏からこっそりこちらをうかがい見ている小物どもは、見えていないらしい。
 門をくぐって玄関に入る前に立ち止まると、ただただ懐かしそうに、庭や屋敷に見入っているばかりだ。

 そのうちに、先ほどの小鬼が知らせでもしたか、玄関にひょいと顔をだした者があった。
 今日も縞模様の褞袍をだらしなく着崩して、ぺたりぺたりと床板を歩んできたのは、長い黒髪を一括り、黒漆のように艶やかな風情の一人の男。
 彼は連れだってやってきた二人を認めると、へえとすっとんきょうな声をあげた。
 先ほど若菜が《視》た姿形と、衣服以外は全く変わらぬその姿で、

「加藤くん、久しぶり〜。いつの間に若菜坊と仲良くなったい?」

 全く変わらぬ声でそんなことを言う。

「もうっ!また若菜坊って言った!」
「悪ィ、つい癖で」

 若菜にとっては、この老紳士が思い出していた鯉伴も、目の前の鯉伴も、ただ同じ人なのだなあとしか思わず、それよりもそんな呼び名はやめてと言っているのに、からかって若菜坊、若菜丸、などと言ってくるのにぷくうと頬を膨らませたのだが、これはすぐにしぼんだ。
 それよりも、傍らの老紳士がわなわなと震えだしたことにこそ、ぎょっとしたのだ。

 見上げれば、老紳士は泣いていた。
 大人が目の前で泣き出すところなんて、そう観たことはないので、若菜はびっくりして怒りを忘れてしまった。

「………大佐。奴良大佐!ああ、懐かしい。わかってはいましたがあれから何十年も経つのに、貴方は本当に、お変わりない!」

 杖をつく手はそのままに、きをつけの姿勢を作ると、涙も拭わずに敬礼までするのだから、ぽかんと口を開けてしまっても、仕方がなかったろう。
 上がりかまちから彼等を見下ろす屋敷の主は、これに苦笑し、とりあえずの敬礼で応えて見せた。

「そうかい?加藤くんだって、昔と同じ、美男子じゃねーか。おまけに泣き虫も変わってねぇ。
 上がれよ。もてなしくらい、させてくれ、戦友」

 ずうっと昔。
 若菜の学校の先生でも、おじいちゃん先生やおばあちゃん先生が少年や少女だった頃。
 戦争があったことは、若菜だってちゃんと知っていた。
 毎年夏休みになると、テレビでは戦争についての特集番組をやるし、広島と長崎に原爆が落とされたという日は、常識として知っているし、その戦争を、第二次世界大戦と呼ぶのだとも、知っている。

 けれどもそれがどれだけ昔なのかと言うことを、これまで若菜は考えてこなかった。
 同じように、鯉伴が四百年以上、江戸の頃から生きているということもこれまで、ふうんそうなんだ、とぐらいしか思わなかった。
 ところが、屋敷に招かれた老紳士はどう見ても鯉伴より年上に見えるのに、これが鯉伴の前だと、座布団に座るなどとんでもない、足を崩すなどとんでもないと、いちいち断りから入るし、泣いたと思えば次には、まるで英雄に憧れる少年のように、綺羅綺羅とした目で彼を見つめている。

 若菜は、すぐにわかった。
 きっとこの老紳士は、まだ青年に成り立ての日に、鯉伴と会い、その背に憧れたりもしていたのだろう、と。
 テレビで見る戦争ではない、先ほど門の前で、老紳士が強く念じたことをつい若菜は《視》てしまったが、あれが彼にとっての、本物の戦争で、あの時に、鯉伴と何かしらの縁があったのだろう、と。

 それなら、今日のところは退散して、図書館にでも行っていようかと考えた若菜は、老紳士がどうにか悪い足を崩して席につくのを承知したのを見届けると、また来るねと口を開きかけたのだが。

「若菜、着替えてこいよ。あと悪ィんだけど賄いに、葡萄酒持ってくるように言いつけてくれるかい」

 鯉伴が先んじて、若菜をこのまま帰すなど頭から考えていなかったように言うものだから、若菜は少しだけ面食らった。
 大人だけの話をするときには、子供は邪魔者と、相場が決まっているだろうに、鯉伴は若菜に気を使って引き留めたのではなく、むしろ若菜がきょとりと己を見返してくると、かえって自分が傷ついたような顔をする。

「まさか、帰るつもりだったとか言わねぇよな?夏休みだろ?泊まっていけんだろ?」
「えーと、うん。今日の夜、セツ子おばさん、いないから」

 女の子一人で家に居るのも心配だし、泊めてもらえるんならその方がいいねと言われていたのは本当だ。
 言うと、鯉伴の方が逆にほっとしたような顔でにかりと笑うので、若菜はほんの少しだけ得意な気持ちになった。

 まさかとは思うけれど、時折、こんな風に、自分だけはちょっぴり特別扱いしてもらえているのかと思えば、嬉しくないはずはない。

「すぐにお茶とお酒、お持ちしますね」
「うん、頼む」

 可愛い足音を響かせて去った若菜は、最近、奴良屋敷で過ごすときには、色褪せたジーンズやジャージでは趣がないからと、色鮮やかな着物に袖を通す。
 いつもの銀縁眼鏡も、ここでは取り払う。

 あの船遊びの際、見慣れぬ若菜の着物姿にらしくもなく動揺した鯉伴は、普段から見慣れていなかったから良くなかったのだと無理矢理自分を納得させ、奴良屋敷の中なら女の格好でも構わないだろう、その格好をするのが嫌いなわけじゃないんだからと、優しくも強引に、若菜が断る間もなく次々に、あれこれ用意してしまった。

 主の稚気だから、どうか許してくださいなとは、気を使った毛倡妓が若菜に耳打ちしたことだが、七五三すらまともに祝ってこなかった若菜にとって、着物は貴重品。最初は気後れするばかりだったけれど、着付けを習って着てみれば、洋服よりも身が引き締まるような気がするし、女怪たちが教えてくれる作法なども勉強になる。
 古着もしっかり用意してくれているので、正装と、そうでないときと、それぞれの使い分けもできるから、うっかり屋敷の探検ついでに服を汚して、家で洗濯することもなくなった。
 今では、若菜のお泊まりのとき用の客間には、すっかり若菜が使うあれこれが揃えられて、お泊まりのときにはまずそこで着替えをするのが、決まりのようになっている。
 ここでは顔を出す妖怪たちから目を逸らす必要もないし、外にさえ出なければ、少しは女の子らしい格好をしても構わないのではないか ――― 祖母の言いつけを破っていると思えば、もちろん後ろめたさはあった。
 あったが、ここだけだから、鯉伴の前だけだから、と誰にともなく心の中で言い訳して、ささやかな少女としての楽しみを満喫していた。

 一度だけ居住まいをただした首無から、「若菜さま、何もあいつの……鯉伴さまの我侭につき合ってやる必要、ねぇんですからね」と、気を使うように言われたことがあるけれど、若菜には未だに意味がわからないでいる。
 何が我侭なものか。
 手触りのよい着物や、可愛い髪かざりなどを用意してもらえて、しかもそれを全部使っていいなんて言われたときには、初めて選ぶのに困る、という経験をしたのを、ありがたく想いこそすれ、迷惑に感じるはずがない。
 今も若菜は、言いつけ通りに新しく用意されていた藍染めの着物に着替えた後で、賄いの女怪たちに用意してもらった、瑠璃色が涼しげな、玻璃の徳利と揃いのゴブレット、それからちょっとつまむものやアルコールに舌が参ったときの水等を揃えた盆を、何の疑いもなく客間に運んだときに、鯉伴がとろりと目を細めて笑い、「やっぱりその色、似合うなぁ」などと評してくれるのが嬉しいばかりだ。

 もっとも、この主の稚気を、老紳士は察したらしく、若菜がお行儀よく二人の前に盆の上のものを並べて席を辞すと、いやはや、と、吹き出す汗をしきりにハンカチで拭った。

「………女の子でしたか、あの子は」
「そうだよ、可愛い子だろう。だめだぞ、《ぼく》とか呼ぶんじゃねぇ。あいつ、慣れてるからって自分から否定なんざ、しねーんだから」
「大佐の、そのぅ……お友達だとか?」
「うん」
「娘さんとかではなく?」
「おれぁ、男寡婦だよ」
「はぁ……」

 老紳士の目にも、若菜はなにやら、特別扱いをされているように映った。
 鯉伴は誰にでも概ね情け深いし、女相手とならば尚更だが、若菜に対して「おぉ似合う似合う」と喜んで評したときの可愛がりようや、自ら離れがたそうに引き留める様子ときたら、ただ近所の子供への親切では片づけにくい。

 ゆえあって、目の前のかつての上官殿が、只人ではないのをよく知っている老紳士だから、しばらく考え込み、やがて口にした。

「……となると、いずれ奥方になる御方ですか」

 せっかく口に含んだ葡萄酒に、鯉伴がひどく噎せたのは言うまでもない。


<2へ続く>






アトガキ
この頃は、千代、山吹と先立たれて、きっと他にも手痛い失恋を繰り返し、もう再婚はしないつもりの鯉さんです。いや千代とは結婚にすらいきませんでしたが。

ていうかね、若菜さんの年を考えたときにね、リクオさんを産んでその四年後には未亡人だとすると。
知り合ってすぐ結婚→リクオ生まれる→未亡人、だと全然鯉伴さんと触れ合えないじゃないですか。
結婚前の蜜月期間がもっと長くてラブラブしてりゃーいいんじゃないかと思ったらこんなことに。
違いますよ鯉伴さんは娘のように可愛がってるだけですよ。今は。

もっとも、奴良屋敷の皆さんは河童含めて「きっと若菜ちゃんが十三になったら祝言あげるんだろ」とか思ってるに違いありません。
片想い同士なので見ている周囲がはらはらやきもきしてるんでしょう。すっかり立ち位置が奥様です。
久しぶりに合った知人の目から見てもそうだったようです。