約束通り次の日に、老紳士は一通の手紙といくらか荷物を携えて、奴良屋敷を訪れた。
 夏休みとは言え、若菜には店番や手伝いがある。
 老紳士の屋敷を訪れた後は駄菓子屋でラムネを飲んで、駅前でケーキを買って、奴良屋敷で一休みした後すぐに帰ってしまったから、翌日に老紳士を迎えたのは、鯉伴一人だった。

「若菜ちゃんには、また申し訳ないことをしてしまいました。せっかくご指摘いただいたというのに、追い返すような真似をして、本当に申し訳ない」
「うん。加藤くんならそう言うと思ってた。ま、あいつも少し落ち込んでたけど、大丈夫だよ、そんな事で拗ねるような奴じゃないから」
「本日は一言だけでも謝れたらと」
「どうかな、あいつも家の店番だ何だと忙しいからね。来てくれるといいんだけど、毎日来るわけじゃないし」
「そうですか。それは寂しいですな。早いところ、奥様にお迎えできるとよろしいですね」
「………だから。そりゃあ誤解だって言ったろうが」
「冗談ですよ、大佐」
「どうだかねぇ。お前、妖は女と見りゃ年を考えず娶ったり喰らったりするもんだと、思ってんじゃねぇのかい」

 老紳士は、一昨日、奴良屋敷を訪れたときよりも、笑う顔が晴れやかだった。
 鯉伴は以前と同じように、客間へ彼を迎えようとしたのだが、外に車を待たせているからと、今日はあがろうとしない。
 代わりに、麻の背広の内ポケットから、黄ばんだ封筒を取り出して、鯉伴に差し出す。

「実を言うと、私はその手紙のことを、昨日まで忘れておりました。いや、忘れるように努力し、実際そうなったのです。昨日ご指摘いただいて、原因がわかったような気がいたします」
「この封筒は、佐和子さん宛だな。誰からだい?」
「佐和子の………妻の、身内の者からです」
「………身内?しかし、そいつは」
「はい。戦時中に佐和子の屋敷は焼け、奥様は火事に巻き込まれお亡くなりになられました。大将閣下は戦死なされ、親戚もことごとく皆、行方知れずとなり、佐和子は天涯孤独の身となりました。私もそう思っていた。その手紙が来るまでは。
 手紙が来たのは、戦争が終わり、占領が解かれて、日本が日本を取り戻した後の事です。佐和子と夫婦になった私は、子供を授かり、今の商売を軌道に乗せようと躍起になっていた。商売をうまくいかせるために、銀行から金を借りて、店も土地も屋敷も担保に入れて、失敗すれば後はないというところで、その手紙が来たのです。
 手紙には、佐和子の親戚から、佐和子の家の財産について書かれておりました。元々が伯爵家の出自の佐和子には、財産を受け取る権利があった。その頃の私にしてみれば、喉から手が出るほど欲しい金でした。金さえあれば不安もなくなる、商売もうまくいくに違いない。
 しかし。私は佐和子を疑ってしまった。
 全てをなくしたと思ったからこそ、佐和子は私についてくるしか無かった。妻になってついてくるしか、無かったに違いない。ここで財産があることを、家が続いていることを知ったら、佐和子は、行ってしまうのではないかと。
 それで、この手紙を私は机に隠し、鍵をかけて、ひた隠しにしたのです。いつかは話そう、この商売がうまくいったら話そう、きっと話そうと決めて。けれど、話そうか、どうしようか、迷うたびに決まって苦難というのは訪れる。苦難の最中に手紙のことを知られるわけにはいきませんでした。そうこうするうちに、私はこれを隠すことをだけ覚えていて、何を隠したかは忘れ、それを当然だと、思いこむようになっていたのです。
 結局、私は佐和子に大きな嘘をついたまま、佐和子を喪ってしまいました」

 淡々と、ほろ苦く笑いながら、老紳士は全てを語った。
 昨日はきっと一人、何が入っているのか忘れて、隠すことこそが本意になっていた引き出しと、格闘したのだろう。
 杖を握る手のあちこちに、昨日はなかった擦り傷があった。

「この引き出しの鍵はいつの間にかなくしてしまっておりまして、昨日は力任せに引っ張ったり、こじ開けようとして指を挟んだりと、大変な思いをいたしましたよ。
 ついに鍵を壊して引っ張りだしたときに、何を隠したか全て思い出しまして、佐和子には悪いことをしてしまった、親戚があることを知らせずにいてしまったのだからと、心の底から悔やみました。
 けれどね、思えば私が佐和子に嘘をつき通すなんて、できるはずが無かったのです」
「うん。加藤くんの嘘って、わかりやすいもんなぁ。すぐ下唇噛むし」
「ええ。佐和子の方がよほどけろりとした顔で、嘘をつき通したものです。私などより、よほど商談が上手かった。最後の最後までそうだった。
 大佐、封筒の中には二通、手紙が入っていたのです。
 一通は確かに、私が若い頃に隠した、佐和子の家からのものでしたが、もう一通は、覚えのないものでした」
「見ても、いいかい?」
「どうぞ」

 了解を得てから、封筒の中をのぞく。
 手紙はご丁寧に、「加藤様方」の後に、佐和子の旧姓から始まる、彼女の名前へ宛てられていた。

 年月を重ねて古びた便箋に綴られた内容は、老紳士が話した通り、彼女の家の財産のこと、彼女の家が続いていること、そして許嫁でもあった従兄が今はこれを預かっていることなど。
 宛名からも、内容からも、老紳士と佐和子の結婚を認めていない姿勢がありありと伺えたが、しかしその頃、既に老紳士の方が青年実業家であったことも手伝って、乱暴な手段には出られず、こうした手紙となったのだろう。

 これを見せたくないと判断した老紳士の判断は正しいように、鯉伴には思えた。
 言葉は丁寧だが、家に帰れば金があるぞ、不自由なく暮らせるぞ、そんな身分の無い成金などのところから帰ってこいと読めてしまう。

 老紳士は、妻が家に帰ることだけを心配していた様子だが、鯉伴から見て、この二人はおしどり夫婦だっただけに、妻の方が夫に出資する金を持てるなら、一度は結婚を解消することになろうとも、自ら家に戻ろうとしたかもしれない。

 だがこれも、杞憂だったようだ。
 封筒に入っていた、もう一通の手紙は、他でもない、佐和子からこの手紙の差出人への返事だった。

 まずはじめに、無事であったことを喜び、家の血が絶えていなかったことを、総領娘として言祝ぎ、これを預かっているという従兄へのねぎらいの言葉があった。
 次に、結婚の報告があった。
 夫がどれだけ誠実な人か、どれだけ幸せかという、ちょっとしたのろけもあった。
 子供が生まれ、孫にも恵まれたという、報告があった。
 さらには、己の家の金などなくとも、夫婦二人、二人三脚で、どうにか事業を起こし、成功させたこと。
 少しぐらい得意になってくれてもいいのに、相変わらず夫が低姿勢で、妻である自分の手柄のように言ってくれること。嘘をついたり隠し事をすると下唇を噛むからすぐにわかってしまうこと、それが自慢の夫であることが、いとしさが溢れるほど伝わってくる言葉で、綴られている。
 あのまま華族の娘として、親の言われるまま暮らしていたなら、今の幸せは決してなかったろう、として、佐和子宛の慇懃無礼な手紙に、一矢報いていた。

 他人の恋文を盗み見たときのようないたたまれなさに、思わず鯉伴が玄関口で、うわぁと呟き、口元を覆ってしまったほどだ。

 最後は、その返事を綴った年月、去年の春の日付と、加藤佐和子、という署名でしめくくられていた。

「………愛されてるねぇ、加藤くん。つまり、知られてた、ってことだ」
「そのようです」
「下唇噛む癖も」
「はい」
「嘘、ついてなかったじゃない。佐和子さんは、わかってたんだから。なんとなく、そう思ってたんだよなぁ。あの佐和子さんをさ、加藤くんが出し抜けるはず、ねぇもん」
「そうなんです。あの引き出しの鍵は、佐和子が持っていたらしく、引き出しを開けた後に遺品を少し整理してみたら、あったんですよ」

 老紳士が、帽子をかぶりなおした。
 きりと顔を引き締めてはいるが、それも昔から変わらない、照れたときの癖だ。

「今から、この手紙の返事を、出して来ることにします。届くかどうか、わかりませんが」
「おいおい、これは加藤くんへの恋文だぜ?」
「しかし、一応、お返事ですし。それに、写しはとりましたから」

 ここで、老紳士は踵をぴったりと揃え、魑魅魍魎の主へ、己の青年期の頃から少しも変わらぬ、見目麗しい英雄へ、敬礼をした。

「この度は、誠にありがとうございました、奴良大佐。これで私には、何の心残りもありません」
「縁起でもねぇこと、言ってくれるなよ。まだまだ元気でいてくれねぇと困るぜ。あの戦争なんて、つい数十年前だってぇのに、その話ができる奴が次々減っていく。こっちは完全に浦島太郎だ。加藤くんにはまだまだ長生きしてもらわねぇと。また来いよ。そうすりゃそん時は、若菜も居るかもしれねぇ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、また、お邪魔いたします。
 そうですな、大佐と若菜奥様との祝言を見届けるくらいまでは、生きねばなりませんな。なに、あと四、五年余分に生きるくらいなら、なんとか」
「………お前な、いい加減、怒るぞ」
「おお怖い怖い、それでは、大佐の逆鱗が騒がぬうちに退散いたします」
「おお帰れ。まったく、ひとをからかう口だけは達者になりやがって。これだから人間って奴ぁ」

 若菜への土産だという荷物や、鯉伴への礼だという酒などを玄関口に置いて、老紳士は屋敷を去った。
 矍鑠とした足取りであったので、確かにあと四、五年はいけるだろうと思われたのだが、彼がこの後、この屋敷を訪れることは、なかった。



+++



「あと、四、五年なんて、言ってたのになァ」
「………うん。私もちゃんと御礼、言いたかった」

 若菜の前で、鯉伴が煙管をぷかりとやるのは、珍しい事だった。
 彼女の姿を認めると、火をつけたばかりでも落とすのが常だが、今日は何だかそんな気になれず、深く苦みを吸い込んでは、吐き出された煙が夜空に吸い込まれていくのを、見送っている。
 いつも賑やかな奴良屋敷も、今日は主の気落ちを察してだろうか、とたぱたと屋根裏を走る小物すら、足音を忍ばせ、話し声もこそこそと、抑えているらしい。

 老紳士は、若菜の夏休みが明けぬうちに、此の世を去った。
 鯉伴がまさに、次に若菜が来たらもう一度二人で彼を訪ねようとしていたところへの、訃報であった。

 奴良家のカラスは街のいたるところから、鯉伴の耳となり目となってありとあらゆる物事を報せる。
 縁を紡いだ人々の喜びも危機も。

 今日もたらされたのは、懐かしい人の、訃報だった。
 もちろんこれだって、鯉伴にとっては初めてのことではない。
 ないが、何度あっても、慣れるものではない。

 聞いたその足で、若菜の家に向かった。
 散歩がてらに店番をする彼女のところに顔を出して、そのまま帰ってくるのはよくあったけれど、そのまま連れ出してきたのは、初めてのことだった。
 もっとも、老紳士の訃報を聞くと彼女の方から慌てた様子で供をすると言って、店番を切り上げ、ちょっと見られる服に着替えた。

 昼間に屋敷を訪ねて、鯉伴はこれまでしてきたように、縁を紡いだその人が、棺桶の中にほっとしたような寝顔で横たわり、涙に濡れる親族がこれを囲んでいるのを遠くから少し眺めて、帰ってきた。
 今までと違うことはと言えば、これに若菜という供が居た、ということ。
 自分から彼女を迎えに行ったというのに、老紳士を見送った帰り道、鯉伴は若菜の事を忘れてしまったように、足元に落とした視線を中々上げようとはしなかった。

 いつかのように、若菜がそっと鯉伴の手を握ってきたところで、鯉伴はようやく若菜を思い出し、ぼんやり顔を上げて少し疲れたように、笑った。

 奴良屋敷に帰ってきたのは、夕暮れ時。
 泣きたくなるほど真っ赤な夕焼けが綺麗で、これに照らされた部屋の中で、若菜は老紳士が自分に持って来てくれたという、デパートの包装紙でしっかりくるまれたいくつもの箱を、鯉伴に促されてから開けてみた。
 中に入っていたのは、スカートやワンピース、ちょっとした余所行きの靴。
 リボンやレースをあしらったそれらは、和服とはまた違い、確かに、若菜が一度は着てみたいと思えるようなものばかりで、あの老紳士が生きていてくれたなら、飛び上がって喜んでいただろう。

 普段なら鯉伴も、この屋敷の中だけならいいだろう、着てみるといいなどと言ったろうが、今日はそんな気分でもなく、どれも若菜に似合いそうだなと、言うだけに留まった。

 今日は帰るといいとも、泊まっていけとも、鯉伴は言わなかった。
 ただの人の子である、それもまだ死を理解するには幼い彼女を今日の己の側に置いておくのは酷なような気がして、帰さなければならないとは思った。けれど、送って行くからそろそろ帰れと、鯉伴が口にしようとすると決まって若菜の方から、着替えてお台所の手伝いをしてくるね、先にお酒でも飲みますか、それともお茶にしておきますかなどと、口を開く。
 なら泊まっていけと言うにしても、今更ではあるがただの人の子を、あやしの道に引きずり込む前触れのような気がして、気が引けて言うに言えない。

 今の自分が普段の己ではない、ただの妖には判らぬだろう、失う痛みに溢れていると気配で察するのか、陽気ばかりが身上の妖怪たちは、近づきもしない。触れれば鯉伴が内側に飼う、人の闇に引きずりこまれて、一度その甘さを知ってしまうと、妖怪どもは人の闇とはこれほど美味いものかと思い、他の人間どももそうだろうかなどと考えるから、今までも無かったことではないから、鯉伴もこういう己に、妖怪どもを近づけはしない。

 どれだけ生きても瑞々しいまでに人間らしい鯉伴は、だからこそ妖怪どもにとって魅力に溢れ、だからこそ多くの百鬼を率いていても、時折とてつもなく、独りだった。
 ここには、彼と同じ生き物が居ない。
 彼の哀しさを、理解できる生き物が居ない。
 人間とは死ぬものではないか、わかっていたはずではないか、なのにどうして繰り返すのかと、主の癖のようなものだと諦めているだけで、この点で、彼と下僕たちが理解し合うことは、決して無い。

「若菜が、加藤くんのこと、知っててくれて、よかったよ」

 日が暮れて、いつものように大広間で妖怪どもが夕餉をとっても、鯉伴はそちらに顔を出す気になれず、いいや、夕餉を取るのも忘れて部屋から庭を望みながら、若菜が勝手に運んで来る酒だの、膳にするほどではない小鉢だのをつまんでいたが、不意に、口を開いた。
 若菜が用事を全て終えたか、己の側で蚊取り線香に火をつけて、濡れ縁で寝転がる己を団扇で柔らかく扇いでくれているなと思ってから、しばらくした頃だった。

 あと、四、五年。

 それは鯉伴にとって、長いと言える時間だった。
 妖の尺度にしてみれば、春に桜が咲いて散る程度の短い時と言えたかもしれないが、人の尺度にしてみれば、なんだまだまだ、話足りないことをあれこれ言い合えるじゃないかと、安堵できる程度には、長い時間だった。
 これが唐突に奪われたような気がして、けれど寿命であるのなら、誰に口惜しさをぶつけるわけにもいかず、ぼんやりとしていたところへ、するりと欲した答えがあったので、鯉伴はさらに、言葉を重ねた。

 これまでこの奴良屋敷では、母が死んだ後は望めなかった答えがあったものだから、つんと喉の奥の方が痛くなった。
 懐かしいのか嬉しいのか哀しいのか、それともその全部なのか、ぐちゃぐちゃになってよく判らぬ痛みだった。
 笑うのに苦労した。

「……若菜が加藤くんのこと知らなかったら、おれ、あいつの恥ずかしい思い出話をする相手もいねぇところだった」
「恥ずかしい話?」
「おう。軍との繋ぎをしてたって話は、しただろう?軍って奴は、融通のきかねぇ奴の集りでなぁ、加藤くんだってそうだったんだ。最初は妖怪だの悪霊だのなんざいるはずがないの一転張りでな、おれの事だって、奇術師かペテン師扱いだ。見極めるつもりなのでそのつもりで、なんて挑戦的な小僧っ子でさ。首無の奴、沸点低いから一度あいつと大喧嘩になったな」
「加藤さんがそんな?すごく優しそうな人なのに。それに、鯉伴さんのこと、大好きみたいだったけど」
「色々あって、お互い信じ合うようになったんだよ。……そう、色々。聞きたいか?」

 片目を瞑ってこう言ってやると、鯉伴の幼い友人は、いつものように元気よく、うんと頷いた。

「うん、聞きたい。たくさん、お話して?」
「そうだなァ、何から話そうかねぇ」
「首無さんと喧嘩になったって、何があってそうなっちゃったの?」
「おぉ、じゃ、その頃のことから話そうか ――― あの戦は長かったからなぁ、ちょいと長い話になるかもしれねぇが。
 お前さんにとっちゃもう、歴史って話になるのかもしれないがなァ、この国は、外つ国と戦争をしていたことがあるんだよ」

 夏の夜風がすいと吹き、安堵したように枝垂桜が揺れる。
 語る相手を見つけた哀しみは、不思議なことに言葉を重ねるといとしさに変わって、通り過ぎて行ったと言うにはまだ早いあれこれを話しているうち、泡立っていた心の海が、鏡のように穏やかな湖面へと変わる。
 話している間に、これを不思議に思った鯉伴がふと、視線を庭から上げた。

 目が合うと、若菜がにこり、笑った。
 陽のように、向日葵のように、笑っていた。


<夏の日・了>









...花の下の 半日の客...
あれはああいう奴だったよなと、言える相手が減っていき、しまいに皆が先んじて旅立っていく。そう知っていても尚、手を伸ばさずにはいられない。
嗚呼、人とはどうしてこんなにも、いとしく、せつなく、さみしい生き物なのだろう。








アトガキ
このように、魑魅魍魎の主は、召喚主に傾倒していくわけです。というかすでに若菜ちゃんが実家と嫁ぎ先を行き来する妻な扱い。
イメージはR/A/D W/I/N/P/Sの「最大公約数」な感じな二人なんですけど。無理に寄り添わなくていいというか。
若菜ちゃんの話させ上手、聞き上手は、昼姿の息子にちゃんと受け継がれていればいい。
鯉伴×若菜で一番最初に思いついた話をようやく書けました。