血の池地獄に針の山、獣や鬼が容赦なく亡者を責め立て、亡者たちは血塗れになって土の上を転がり、呪詛や悔恨の念を言葉にする暇もなく悲鳴を上げ続ける。

 いくら言葉を用いても生やさしい、その光景を、男は百鬼夜行の中でも一際大きな百足の尻尾に括りつけられ、旗のように高々と掲げられながら見せつけられていた。
 高いところには風と呼ぶにも生やさしい、衝撃波のようなものが絶え間無く吹いていて、これで男の顔の肉は削げ落ち、あまりの光景に目を瞑ろうとしても、瞼など一番最初にちぎれ飛んでいてままならない。
 肉が落ちて骨すら削れているというのに、それでも、視界を閉ざすこともかなわない。

 亡者のものなのか、それとも己のものなのか、ひいひいとすすり泣く声ばかりが鼓膜を震わせる。

 こんな地獄にあって、一番におそろしいのは、百鬼夜行の先頭を行く彼だ。
 ひょいひょいと足を進める彼は、ただ遊歩のついでに彼を連れ回しているかのようで、こんなに凄まじい風が吹いているというのに、まるでこたえた様子もなければ、恐れている様子も無い。
 場違いに、ただ美しい。

 亡者たちが血塗れになってあちこちに転がっているというのに、彼だけは現れたときと同じ姿のまま。
 春の野原に立つように、時折悪戯な風が髪を撫でるのだけが困ると言った様子で、形の良い指で髪を押さえているくらいのもの。
 血の池に進もうが湖面をすいすいと浮かんで行くし、針の山を行こうが、これも己を突き刺そうとする針たちをすいすいと避けて行く。

 男自身は、自分で歩いてすらいないのに、百足がはかったように血の池に彼を浸したり、針の山では特に彼に気を使わないせいで、服も肉もぼろぼろである。

 そんな散歩がどれほど続いたろうか。
 一時間か、半日か、一週間か、一ヶ月か。
 連れられた男には、永劫の時間のようにも感じられたが、百鬼夜行はある場所で、唐突に止まった。

「ほーら、ついた。兄さん、目の前にぽっかりとあいてる穴が、見えるかい」

 先頭を行く美丈夫が、振り返って、にたりと笑った。
 笑ってはいるが、その実、この美丈夫が男に伝えてくる感情は、笑いに属するものではない。嘲笑ですら無い。
 あるのは憤怒だ。
 男は、目の前の美丈夫に全く心当たりが無いのだが、何かに怒っているらしいのはよくわかった。
 黙って言うことをきいていなければ、さらにどんな目に合わされるか、わからない。

 死んでいてもおかしくないような傷を負いながら、ここまで意識を失うことすら許されなかった男は、ひいひいと悲鳴をあげながら、目の前に広がったものを目にしたとき、さらにひいと情けない悲鳴をあげた。

 目の前に広がるのは、荒涼とした土地で亡者が鬼たちに皮をはがれ舌を引き抜かれている光景でも、血の池でも、針の山でも、煮えたぎる油が亡者たちを茹でている光景でもない。
 ない。
 なにも、無い。

 ひたすら目の前には、何も。

「この先が無間地獄。地獄の中でも、一番底にあるところ。地獄の底。奈落。あんまり深いんで、光なんてこれっぽっちも届かねェ。この先が、お前さんが行くところだよ」
「こ、こ、この、先………?」
「そうさ。ここまではほんの通り道。お前さんは死んだ後、ここまでの道のりを今度は一人でやってきて、それぞれの責め苦をたっぷり味わった後、ここに落とされる。
 悪ィが、おれが案内してやれるのは、ここまでだ。
 流石にこの底までは、行くのに片道二千年かかる。一日体験ではちィとスケジュールがキツかろう?」
「ど、ど、どうして………」

 何故、こんな目に合わなければならないのか。

 男はようやっと与えられた考える時間に、困惑しながら、ある一つの答えを導き出した。

 やはり、しきたりの神事は何らかの理由で、失敗したのだ。
 それで、あの湖の影が怒った。
 怒った影はこの男を使って、己にそれを伝えているに違いない。

 男は泣きわめき、すまなかった、悪かった、許してくれ、そう泣いた。
 嘘だったとしても、そこまででやめておけば良かったのに、あまりに反省していたので、余計な一言を、加えてしまった。

 今 度 こ そ 絶 対 に ヘ マ を せ ず 、 生 贄 を 捧 げ る か ら 、 と 。



 くすくすくす。あははははは。
 ほらね、総大将、だから言ったでしょ?
 腐ってやがるんですよ、コイツ。
 おーぉ、くせぇくせぇ、見ろよ、腹の中はやっぱり真っ黒だ。




 小さな魑魅魍魎たちが手を叩いて囃す傍ら、先頭の美丈夫は沈黙したままだ。
 常にとろりと浮かべていた微笑すら、消して、沈黙した。



「………首無ィ」
「はッ」



 彼が一言、側に控えていた青年に呼びかけると、男を百足の尻尾に縛り付けていた紐がぐぐりときつくなり、手足を容赦なく締め付けた。
 かろうじて骨にこびりつくようにして残っていた肉や、分厚い贅肉のおかげで無事だった内臓にまで紐が食い込み、それでも紐はゆるまないので、やがて男は五体のあちこちがちぎれ飛び、百足の尻尾から解放されて、土の上にぼたりと、落ちた。
 それでも許されず、今度はあちこちに散らばった肉が、美丈夫の足下に引きずられる。
 紐はそこで、ようやく止まった。



「生贄を捧げる。てめェ、そう言ったか。ァア?言ったな。言ったよな?
 よし、そんじゃあ一つ、やってもらおうじゃねーか。
 一日体験のつもりだったが、おれぁ、ころっと気が変わっちまった。生身のまま妖怪になる奴がいるんだ、てめェも生身のまま、無間地獄に飛び込んで亡者になっちまったらいいや。てめェが生贄だ。それで満足してやるよ。どうせあと百年も生きないんだ、ちょっと遅いか早いかの違いさ。てめェのようなモンが一人、地獄の裁判すっとばして無間地獄に落ちてきたって、だぁれも気づきやしねぇよ。
 おおい、おめーら、このばっちぃモン、そこの穴に放り込んでやんな」




 こうなると、もう止まらない。
 よしきた、ほいきたと腕を捲り上げた小物妖怪たちが、あちこちに散らばった男の腕や手や、落ちた拍子に転がった目玉を抱えて、すぐそこにぽっかりと開いた穴に向かって今にも放り投げようとする。

 やめてくれ、やめてくれと、すぐ側に迫った暗闇の穴を間近にした男が、尚もみっともなく泣き喚くが、これに誰が耳を貸したろうか。
 これまで、要不要を決めてきた男が、決められる側にまわった、ただそれだけの事だ。
 誰も同情などしない、誰も、男を無間地獄に放り込む作業を、止めようなどとしない。
 この先の無間地獄に比べれば、これまで通ってきた地獄など、夢のような幸福であると言う。
 地獄の底、奈落へ向かって真っ逆さま、落ちようとする男を、地獄のどこに救う者があるだろう。
 世界を遍く照らす陽の光も、ここまでは届かない。

 闇の世界を、妖の世を統べる男を、止められる者が、あるだろうか。

 いや、居た。



「 ――― 待って。待って、鯉伴さん」



 する、と。

 牛車の御簾の向こうから、細い腕が伸びて、褞袍の袖を掴んだ。
 外気に触れたのがよくなかったのか、瞬く間にその白い腕も、それを包む真新しい着物の袖も、百年の月日を過ごしたかのように、色を失いぼろりと崩れ落ちんとした。
 これを目の当たりにして、百鬼夜行の魑魅魍魎たち、はっと息を呑んで動きを止めた。
 いや、彼等ばかりではない、袖を掴まれた主の方が、怒りで我を忘れそうだった己を取り戻し、己の袖を掴む手が、人の身では耐えられぬ暴風に千切れそうになっているのに気づいて、慌ててこれを掴み、御簾の奥へ押し込める。
 それでも主の袖をその手の主が離さないらしく、主は体半分を牛車の中に乗り上げるようにしなければならなかった。

「ば、馬鹿、外に出ちゃ行けねェって、言ったろうが!」
「だって、だって、鯉伴さん、止めないと本当にやっちゃいそうで」
「だから。見てらんねぇなら目ェ瞑ってろって、言ったろうがよ。宝船で待ってろって言ってもきかねぇから、仕方なく連れて来てみれば、全く、無茶をする。外は地獄風が吹いてるんだ、生身で外に出ればたちまちこれこの通り。痛かったろう。それ、痛いの痛いの飛んで ――― 行ったぞ?ああ、胆冷えた。お前の可愛い手がぼろって崩れるかと思っちまった。……ほら、おれはもう一仕事するから、袖を離せ」
「ううん、離さない。ダメ。これ以上はダメ。殺しちゃダメ」
「なんでだよ?あんな奴、生かしておくだけ公害だ。ここでやっちまう方が、みんな幸せにならァ。お前の血縁と思えば気も引けるが、悪ィな、おれの我慢も限界だ」
「違う。あんな人なんて、どうでもいい。私が嫌なのは、あんな人の分だけ、鯉伴さんが何かを背負うこと。あんな、あんな人の命を、鯉伴さんが背負ってあげる必要なんて無い!」

 この口上に、主が怒気を緩めたのを、百鬼の下僕たちは敏感に察する。
 呆気に取られたように力が緩んだ拍子、うっかりと、豆腐小僧が抱えていた男の目の玉が転がり穴から落ちていったが、それにすら誰も気づかない。



 少し、間があって。



「わかったよ、若菜。こいつを許しはしねェが、今日のところは勘弁しておいてやろう。
 このまま業に気づかず寿命で死ねば、どうせ同じ場所に行き着くんだ」



 諦めたような主の声が聞こえ、そこで男の意識は、一度途切れた。










 次に目を覚ませば、ちゃぷ、ちゃぷりと、水音がする。
 男が目を開くと、西に傾き始めた月光と、東をささやかな桃色に染め始めた空がある。

 目の前に広がるのは、地元の湖に違いなかった。

 夢だったのか ――― しかし、だとすれば、どこから夢だったのであろうか ――― それに、自分はいつから、ここに居たのだろう、地元に帰ってきたつもりは全く無いが ――― 。
 困惑する男に、おい、と後ろから声がかかり、ぎくりとして、首をぎしぎし言わせながら振り返った。
 そこで、再び目を見開き、カラカラに乾いた喉からまたもか細い悲鳴をあげて、のけぞるように後ろへと這う。
 後ろが湖であることも忘れて、あるいは湖の底に沈んでしまったほうがまだマシだと思うのか、ばしゃばしゃともがき進んでは溺れかけ、目を白黒させていたところを、ぐるりと長い髪が縛りあげて宙に浮かせた。
 よって、彼は再び、あの人でない者どもと、対峙せねばならなかった。

 明方の、地平に朝と夜を等しく抱く時刻。
 霞がしっとりと足元を多う湖の岸辺、先程と全く同じ顔ぶれが、男の前に並んでいた。

 一つ違うのは、牛車の御簾が上がっている。
 その中には、明るい茶色の髪に、榛色の目をした少女が、百鬼とその主に守られるように、ちょこんと座っていた。
 明るい橙色の生地に、黄色の枝葉を散らした着物。これを白い帯できゅっと結んだのが、初々しい少女によく似合っており、逆に言えばどう見ても人でない者たちの中で、生き生きと目を輝かせている彼女は異質だった。
 それがなければ、男は恐慌の中で、こんな小さな少女になど、気づかなかったかもしれない。

 同時に男は気づかざるをえなかった。
 少女の着物の肩袖が、色を失い、そこだけが百年の月日を過ごしたかのように、襤褸と化していること。その中に包まれていた腕の傷は、不思議に癒えていたけれど、先程、たしかにあの腕も、一瞬にして肉をこそぎ落とされたのだということ。
 今この場所が、あの夢の、続きだと言うこと。

 男の視線が少女を認めたのに満足したか、主は先程より少し落ち着いた様子で、よしよしと呟き、顎を撫でた。

「はい、お戻りなさいませー、てなモンだ。どうだったい、地獄の先取りは。おれは別に、片道行ったっきりツアーでも良かったんだけどな?若菜が言うから、今日のところはこれまでにしておいてやるよ」
「わ、わ、《若菜》 ――― やはり、それが、《若菜》、なのか?!」
「《ソレ》って。てめェ、おれの逆鱗を何度逆撫ですりゃあ気が済むんだもっぺん叩き落してやろうかおんどりゃあ」
「二代目、落ち着いて。……俺ですら我慢してんです。腐りきった悪人の言うことにいちいち反応してたら、時間がいくらあったって足りやしませんぜ。さっさと言い置いて、若菜さまをあたたかい場所にお連れしないと。……若菜さま、もうちょっとだけ、我慢しててくださいね。すぐ終わりますから」
「首無、お前のその二面性、怖いよ」
「飼い主に似たんです」
「はいはい。そういう事でだ。おいお前、ここの湖の主とは、話をつけてある。もう二度と、《若菜》だと捧げられようと、手は出さない、この街の人間たちの前にも、姿を現さんとさ」
「何を ――― な、なにを、勝手なことを?!……ということは、貴様等、あの主の使いでは無いのか?!な、なんだ、それをなんだ、使いでも無い者が、どうしてそんな勝手なことを?!貴様、なんだ、何なのだ?!」

 くすくすくす。くすくすくす。

 小さき者どもが、男の身の程知らずを笑う。嗤う。嘲笑う。

 誰かが、歌うように申し上げる。

「人にして妖、妖にして人」
「神でなく、人でなく、妖でなく」
「日ノ本の闇を統べる御方である」
「この御方こそ我等が闇の主。人間め、口が過ぎるわ」
「魑魅魍魎の主さまの、御前であるぞ」

 人に非ずの凄惨な者たちの中心にあって、そのひとは漆のように艶やかに笑み、金に燃える瞳で真っ直ぐ男を射抜き囚えて放さない。
 にたり。憤怒を抱えた例の笑みを浮かべて、告げた。

「そういうモンだ。おれの事は忘れて構わねぇが、さっき見せた地獄は本物。お前、あの無間地獄に百万遍落とされても仕方がねぇことをしてやがったわけだが、先祖代々受けてきた湖の主の恩恵を、お前の代で失うってのも考えてみりゃあ可哀相だ。
 だから、機会をくれてやろう。
 お前はこれから先祖が受けてきた加護を ――― ちょいとした追い風や、オマケみたいなものを、全部失う。これからはてめェの力だけで、歯ァ食いしばって生きて行くんだな。そうすりゃ、ちったァ地獄の閻魔さまも努力を認めて、罪を軽くしてくれるかもしれんぜ。
 おおっと、そうそう、人助けって奴は神様や仏様が好むモンらしいから、これから老い先短い人生の中で、せいぜい試してみたらどうだい?
 おれから言うことは、それだけだ。あばよ」

 これだけ言うと、男は踵を返し、牛車の中に座る少女に手を伸ばして、そっと抱きかかえた。

「ま、待て。そいつをどうするつもりだ」
「てめェにゃ、必要なかろう?こいつはおれがもらう。おれの若菜にする」
「勝手なことを、おい、やめろ!それは湖の主の、大事な……!」
「聞き分けのねぇことを。夜刀神は、湖の主は、もうお前たちとは一切、縁を持たぬようにするんだと。これまで隠せたような悪事も、奴さんの加護がない分見つかりやすいだろうから、せいぜい気をつけな。当然、こいつをまた連れ去ろうとする事があれば、そん時ゃ、今度こそ ――― わかるな?」

 少女を宝物のように腕に抱えた優しげな所作とは裏腹、男をぎらりと最後に睨みつけた視線ときたら、鬼神すらかくや。
 いよいよ男は返す言葉を失い、また先刻までの恐怖をぶり返して、己を縛り上げていた髪がするりと解けたのも気づかず、座り込んだまま動けなくなった。

 かと思えば、彼の視線の先で、百鬼夜行は朝靄のように、消えてしまったのである。

 せめてここで気を失えば、全て夢だと思い込むこともできたろうに、ならなかった。
 地獄の底に続く穴の手前で、豆腐小僧が落とした目玉一つ。
 これだけは、此の世に舞い戻っても男のところには戻らず、また、目の前から魑魅魍魎どもが消え去った途端、抉り取られた目が痛んで痛んで仕方なくなったのだ。加えて、穴にころりと落ちた先、虚無の中で何が行われているやら、無いはずの目玉が、奇妙な生き物たちが闇の中に蠢いて落下するものを責め苛む様子を、映す。
 痛みと恐怖に再び恐慌をきたし、男は這いずるように、よろよろ街へ帰っていった。

 以後、男が東京に戻ることは、その生涯で二度と、無かったという。



+++



 ついぞ、あの男が若菜を、娘と呼ぶことは無かった。
 それどころか、生贄以外のものとして、人間として、数えることは無かった。

 風に乗り、宝船へついた後も、鯉伴は腕の中の小さな少女が、手放した拍子に身を投げてしまうのではないかと気が気でなく、帆が風を受けて朝陽の中、東京へ向かう間も、彼女に付き合って甲板で、地上を見下ろしているのだった。

 若菜は、少しだけ泣いた。
 愛してほしかったわけではない、有難がって欲しいと思ったわけでもない。
 けれど、それだけでは割り切れない心がしくしくと痛んで、どうしても堪えられず、鯉伴に抱えられて宝船へ百鬼が乗り込むまでの間、こっそりと、声もなく泣いた。
 その後は、涙を見せず、中へ入れと言っても、うんと答えはするが、こうして地上を見下ろしている。

 鯉伴としては、あのように身勝手な男から、どうしてこのように健気な娘が出来上がるか首をかしげつつ、唯一あの男に誉めてやれるところがあったとするなら、逆にこの娘を己の娘だなどと我が物顔で呼ばなかったところだと考えていたが、しかし若菜にとっては顔も知らなかったとは言え実の父親であるのだから、己を娘とも呼んでもらえなかったのはさぞかし哀しかったろうと思いやり、優しく頭や背を撫でてやって、彼女が欲するなら、しばらくはたっぷり甘やかしてやろうと決めていた。
 
 出入り用の《畏》紋の羽織を着せてやり、その隣に立って、鯉伴は若菜と同じように、地上を見つめた。

 夜刀神が眠る湖も、真下から視線のやや左側へと移っていき、若菜はこれを見つめている様子で、欄干から身を乗り出したりするので、見ていて危なっかしい。
 背の小さな若菜には欄干が邪魔なんだと気づいて、鯉伴は彼女をひょいと抱き上げた。
 子供みたいで恥ずかしいと彼女は顔を赤らめたが、まァいいじゃねぇか、これならよく見えるだろうと鯉伴は流し、若菜の方も鯉伴に抱き上げられると欄干に登るよりもよく周囲が見えるのと、何より腕の中が安心するのとで、うんと小さく頷き、されるがままになった。

 湖が、視界の先で、小さな水滴のようになってしまい、そこにしがみつくような街など見えなくなった頃、若菜が口を開いた。

「神様、眠るって言ってたけど、どれくらい眠るのかなぁ」
「ん?……さぁ……あいつ等の場合、おれたちより尺度が大きいらしいからなぁ。千年二千年なんて瞬きだって言うから、一万年か、二万年か。もしかしたら、今の世はあんまり住みにくいから、もう少し人間が減ってから顔出そうって、思ってるのかもな」

 恋の終わりを知った夜刀神は、あの後、ゆっくりと湖に沈んでいった。
 眠ることにする、と、呟いて。



 どこを捜してもあの娘が居ないのなら。もう会えないのなら。もう己に《視えない》のなら。
 それなら、我はもう人間になど、用は無い。
 生贄がなければ祟りがある?
 馬鹿を申せ。何故に我が人間のような卑小なものを祟らねばならぬ。
 人間など、祟りを与えるまでもなく、勝手に減って死んでいくではないか ――― 。

 これまで、《若菜》が居ると思うから、より良い風を届けようと思ったまで。
 《若菜》が喜ぶと思うから、《若菜》の家族には人間どもの言う、仕送りのつもりで、少し加勢をしていたまで。
 我と同じ《目》を《若菜》に持たせたのは、我と同じものを、《視》て、同じように感じて欲しいから ――― 。
 我は人間をよく知らぬ。血によって異能が受け継がれるなど、我は知らなかった。
 同じものなのだと思っていた。だが、違う。違うとわかった。

 だからもう、終わりにする ――― いや、もう、とうの昔に、終わっていたのだ ――― 。



 ひどく疲れた様子の夜刀神は、潰された両の目を、己で癒しもしなかった。
 できなくはなかったろうが、それよりも、さっさと湖の底でとぐろを巻いて眠ってしまいたいのだと、言うようだった。
 最後に彼は、何ともいとしそうな《視線》を、今代の若菜に向けた。



 やれ、怖い想いをさせてしまったろうなあ。
 これまでに弱って死んでいった《若菜》の末たちも、本当は、そちのように生きたかったのかもしれぬ。
 言祝ぐぞ。我はそちが齎した、終焉を喜んで受け入れよう。
 あの娘こそ我が《若菜》であったと、知らせてくれたのだからな。やれ、気持ちの良い声であったわ。
 そちの目は、我の《目》の一端。
 我はこのまま眠るが、どうかこの先、その目で幸せを《視》るがいい。
 眠りの中で、我はそちが《視る》幸せを、夢に《視》よう。
 我が目となって、世界を《視て》おくれ、《若菜》の末よ。我が娘よ。



「いい夢、見られるといいね」
「ああ。そのためには、お前が幸せになんないと。お前が泣いてばっかりいたら、奴さんの夢が悪夢になっちまう」
「大丈夫。私、毎日、楽しいもん」
「そうかい」
「そうだよ」

 泣いた目元も赤く腫らしたまま、若菜は笑う。太陽のように笑う。
 鯉伴もつられてへらりと少年のように笑い、それから心を決めて、あのさぁ、と切り出した。

「あのさぁ、若菜。お前が姿を消した後、セツ子おばさんがうちに来てな」
「セツ子おばさん?!おばさん、無事なの?!大丈夫なの?!」
「ああ、大丈夫。ちょっと衰弱してたが、怪我は癒したし、屋敷の奴等が面倒を見てる」
「そっかぁ……。よかったぁ……」
「けど、今回の騒ぎで、ちょいと持病が悪くなっちまって、店を畳もうかどうしようかって、考えてるんだってさ」
「うん…………」

 若菜は、何度もこういう話を切り出されてきた。
 大人は、最初にどんと重要なことを言いはしない。
 何気なく、さりげなく、これこれこういう事情があって、それで相談なんだけど、と、子供が聞き分けが良ければ良いほど、首を横に振ることができないタイミングを計って、切り込んで来る。
 若菜は慣れてしまっていた。
 苗字がころころ変わるから、毎日持ち歩くハンカチには、自分の名前だけ書くようになったくらい。

「セツ子おばさんな、お前のように色々《視える》ことはねェが、そういうモンが居るってことを信じてる部類の人間で、だからお前の事も、気味が悪いとかそういうんじゃなく、そういうモノが見える人間もいるだろうって納得してたんだってさ。お前には店を色々手伝ってもらってて、手伝いとして呼んでるわけじゃねぇのに悪いことしてると思ってる、って。
 例えこの騒ぎからお前が助け出されたとしても、帰ってきた家で今度は自分の看病に煩わせるなんて、もっての他だって、言うんだ」
「…………うん」
「それでな、ここから、相談なんだけど」

 すう、と息を吸って、吐いて。

「 ――― 奴良若菜、とか、どうかな。おれの娘になんねぇか、お前。うちにこいよ」



 きょとん、と。若菜は目を丸くした。
 これは予想外だった。



 二人、見つめ合う。
 やがて。



「ヤダ」



 どきっぱり、若菜は首を横に振り、がくり、と鯉伴は項垂れる。



「そ、そうですか……。ちょっとは懐いてもらってたと思ってましたが、気のせいでしたか……」
「鯉伴さん、ひどい!私、ちゃんと伝えたもん!あれは懐くとか、そういうんじゃないもん!」

 ぺちん、と、己を抱き上げるその人の頬を、小さな手で軽く叩き、憤慨したついで、若菜はまくし立てた。

「私、奴良若菜になるんなら、鯉伴さんの子供なんかじゃなくて、奥さんがいい!」
「 ――― ぅぼぁッ?!」
「変な声出さないでったら!……好きって、ちゃんと、私、言ったもん」
「え、あ、う、そ、そりゃ、たしかに、聞いた。聞いたが。いやしかし、若菜ちゃーん?」
「ヤダからね!私、そうじゃなきゃ、奴良若菜になんて、なってあげないもん!」
「え、いやいや、冷静になりましょ、若菜ちゃん。この春からやっと中学生でしょうが?!」
「妖怪さんたちは、十三歳で大人なんでしょう?」
「それはそれ、これはこれ。お前さんは人間!」

 するりと鯉伴の腕から逃れた若菜を、小さなぬくもりを取り戻そうとした鯉伴が追う、若菜がさらに逃げる。
 甲板で始まった二人の追いかけっこを、なんだなんだと小物たちが顔を出して見つめ、小物どもに呼ばれてやってきた大物どもも、どうしたどうしたと二人を遠巻きにして眺めやる。

「危ない!若菜、危ないから、走るんじゃない!落ちたらどーすんの?!」
「鯉伴さんこそ、追っかけてこないでよ!もう!子供扱いしないで!」

 この二人の追いかけっこの理由を青田坊や黒田坊が問えば、納豆小僧がせいぜい長老ぶって、

「あのお二人さんの、いつものじゃれ合いだよ。二代目が奴良若菜になんねぇか、うちの娘になんねぇかって口説いたら、若菜さま、『ヤダ』って。二代目も迂遠なんだよなァ、さっさと嫁にしちまえばいいのに。嫁だったら来るって、言ってくれてんだからさぁ。万々歳じゃねーか」

 さっそく酒を食らいながら肩をすくめる。
 これを聞いて、側近衆は顔を見合わせた。
 皆が皆、納豆小僧とまさに同じ意見だったのだ。
 しかし同時に、どこか釈然としない想いを抱いたのも事実。

 物言いたげな側近衆や小物衆の視線の先、くるくると踊るような足取りで逃れる若菜と、これを捕らえられない鯉伴の追いかけっこは続く。
 普通の相手なら、姿を消して目の前に現れて捕まえるだけで事足りるも、厄介な《目》を持つ若菜は足も早く小柄なので、鯉伴の脇をするりと抜けて、しかも鯉伴の明鏡止水をことごとく見破ってしまう。
 側近衆たちから見れば、まさに鯉伴の懐に入ろうとしているのに、彼女はその幻影を突き破って逃げてしまうのだ。

 朝陽を浴びて追いかけ合う二人、いつしかころころと笑い合っているのだから、見ている方も呆れると言うもの。

「 ――― 奥方さまねぇ。あの親友殿がそうなるところなんて、俺ぁ全く考えられねぇや。いや違うな。『考えたくねぇ』んだな」
「同感だ。もしもあの男がそのような事をするならば ――― 青よ、我等、子供等を守る者として、二代目にキツイ灸をすえねばならんかもしれんぞ」
「うむ」
「あらあら、青田坊も黒田坊も、何さ、反対なのかい?若菜さまは、そりゃあちょいとお転婆かもしれないけど、真っ直ぐなご気性で、それに何より素直で可愛いじゃないのさ。奴良組の姐さんと言うには足りないところがあるかもしれないけど、そこはあたしたちが、きちんと支えて差し上げればいいことだろう?違うかい?」
「いや毛倡妓、違うのだ、そういうわけではない。ただ何と言うか ――― なんというか ――― 若菜さまを前にすると、二代目の親友殿と最初は思っていたのがな、不思議と、妹か娘のように思えてきてな。すると今度は、若菜さまが好いて一緒になりたいなどと言う男は、一発殴らんと気がすまんと思ってしまうのだ」
「うむ。現代では、娘が彼氏を連れてきたなら、挨拶代わりに父はそやつを殴って良いと聞いた。つまり、我等はそういう気分だ」
「何を馬鹿なこと言ってんのさ。若菜さまがいいって言ってるんだし、ほら、総大将だってあんなに楽しそうなのに、男ってのは野暮だねぇ、全く。首無、アンタも何か言ってやって………首無?」
「 ――― 若 菜 さ ま を 手篭め に す る 、 だ と ……?……奴良ろ鯉伴……見下げ果てた野郎だ……吊るす……」
「ちょッ、何を想像だけで闇堕ちしかけてんだい、この人はッ!手篭めは言ってないから!」

 ただ一人、河童は大きな横帆がたなびく、その上の柱に危なげなく寝そべり、ふわと欠伸をした。
 女と見れば優しい言葉に口説き文句を、あれこれ尽くしてはちやほやされていた遊び人の鯉さん時代ばかりを知っている他の側近衆と違い、彼は、ああ、こういう鯉伴は本当に《久しぶり》だなあと、何だか安心していたので、きっとこの二人は近いうち、結婚することになるだろうと、確信めいた予感をした。

 理由すら忘れられた陽気な追いかけっこに、宝船が義理の分だけ鯉伴に加勢をして、風を捕まえそこねたふりで少しだけ船を傾ければ、若菜はころりと転がって、鯉伴の腕の中におさまった。
 そこでがっしり受け止めれば格好がついたものの、鯉伴の方も傾いた船に足をとられて、そこへ若菜が飛び込んできたものだから、勢いついたまま、欄干に後ろ頭をごつんとやって、可哀相に、涙目になった。

 こうなると若菜も鯉伴が可哀相になってくるので、どこが瘤になったのと尋ねるくらいで、腕の中から逃れようとはしない。
 鯉伴が幼いような所作で、ここ、と後ろ頭を見せてくるので、よしよしと撫でてやった。
 撫でられた後で、前にもこんな事、あったかなあ、などと鯉伴が言っているから、これには河童がぽつりと、「それ昔、守役のお兄ちゃんによくやってもらってたよね」と柱の上で呟いたが、誰の耳にも届かなかったし、河童も自分だけが知っていれば良いことだったので、それ以上は何も言わない。

 とにかく一晩中起きていた若菜は、太陽の中ではしゃいで笑って鯉伴の腕の中に飛び込んで、途端、眠くなってしまった。

 今まで起きていた娘が、己の胸に重さを預けてきたので、鯉伴も苦笑するしかない。
 健気に勇気を振り絞ったかと思えば、小さくほろりと泣き、かと思えば太陽のように笑い、弱々しい人間かと思えば、地獄の底の手前で地獄風の中にぬっと腕を突き出すような危なっかしい真似をして見せ、子供かと思えば女で、口を尖らせて娘でなく妻にしろなどと啖呵を切ったと思えば、今度はこうして腕の中、幼子のようにこてんと眠りに落ちる。

 これではまるで、どちらがぬらりひょんか、わかりゃしない。

「お前を見てると、健気と欲張りって両立するんだなーと、思い知らされる。お前だったら夫婦になったとしても、たった二世の縁なんぞでは満足しねぇ、とかも言いそうだな。まったく、妖怪の上を行く欲張りさんめ」

 この娘と同じ年の頃、鯉伴は初めて恋をした。
 たどたどしくお互いをなぞる様な、手管も何も無い、真っ直ぐな恋だった。

 現代になって、「初恋は実らない」などという迷信を耳にしたとき、思い出したのはあの少女の事だった。
 なるほど、己の初恋は、今でも胸をちくりと刺すような痛みになった。
 けれど、実らなかったのではない ――― あの時、彼女とは確かに、手と手を合わせて、互いの体温を重ねたのだから。





 お前はどうだい、おれを初恋の相手にしてくれんのかい。
 やがて痛みを伴う想い出になったとしても、おれとの恋を後悔しないでくれるかい。

 仔猫のように眠ってしまった若菜をしばらく見つめ、魑魅魍魎の主は、やがて、天を仰いだ。





「はいはい、参った参った、降参だ。友達?親友?娘? ――― 嗚呼、色々逃げ道用意したんだけどな」





 あの不意打ちの口づけのお返しに、くてんと眠るその顔の、今日は額に口づけた。





「 ――― そうだな、お前さんが十八になっても同じ気持ちでいてくれたら、おれも返事、するわ。
 なにせおれは神様と違って、心狭いし。一度飛び込んで来ちまったら、間違いだったとしても、きっともう逃がさねぇ。
 なあ若菜、おれはあの湖の神様なんかより、もっとずっとおそろしい生き物だから、もう一度ゆっくり、考えるといい」





 父よりその座を受け継ぎし、魑魅魍魎の主・奴良鯉伴。
 旧き時代の夜刀神の娘・若菜。

 二人の間に奴良組三代目が恵まれるのは、神の尺度にして明日と同じくらい近い未来。
 人や妖の尺度にすれば、まだもう少し、先のこと。


<吾不知足・了>









...たった二巡りの縁だけなんて...
親子は一世、夫婦は二世、主従は三世と言うけれど。きっとあなたとなら、お前となら。何度めぐり合ったって、これという関係でなんぞ満足できやしない。







アトガキ
首無が似非さわやかなキャットスーツを脱ぎ、本性をさらけ出しました。えげつない責め苦をやらせると彼ほど文章的にあるいは絵面的に映える男はいません。
昔こういう荒事を平気でやってた男が、「リクオ様、元気出して!」(1巻)、とか言ってるかと思うとギャップ萌えする。
エグい表現色々使いましたが、悪人が落ちる地獄とはこういうものだよー、と伝えている昔の仏典とか、ある意味発禁処分モノですな。
しかし、閻魔の裁判待たずに放り込んじゃったりすると、閻魔の側近の鬼神とかが冷徹に、「困るんですよね、不法投棄は」とか言うんでしょうね。
「まあ、予定が繰り上がっただけですから、かまわないんですけど。今度から一言、事前に言ってくださいね。ビジター用の入獄許可証渡しますから」

鯉伴さん、もうこの時から嫁にする気です。所詮は常識人の皮を被ったケダモノですから。
若菜ちゃんの父親やるって言い出したのも、「近所のお兄さん」ポジションだけでは満足いかなくなっただけです。
若菜ちゃんの異性に対する思慕であれば、それが父であれ兄であれ夫であれ、全部独り占めしなくちゃ気がすまない男。奴良ろ鯉伴。