湖の町が、局地的な大嵐に見舞われ、その後嘘のように静まり返ったという報せを、その男は遠く離れた東京は霞ヶ関で受け取った。

「そうか、終わったか」

 地元からもたらされた報せを第一秘書から受け取ったときも、表情一つ変えず、いつものように不機嫌な表情のまま、その後はそのことを忘れてしまった。
 特にそれ以上の感慨はなかった。
 いや、少し気分は良くなったが、それは事が上手くいったことを喜ぶのではなく、きっとこれで、己にはさらに強く追い風が吹くに違いないと、欲望が満たされる日が近いことを予感したからだ。
 欲望。そう表現したように、男自身は感じていない。
 努力が実を結ぶだろう、とだけ思った。その実、努力がどういうものか、理解していない。する必要もなかった。

 なにせ彼は忙しい身分だ。
 地元では何代も前から続く名士の家柄に生まれ、当人は今少しで属する政党の幹事長へ手が届くところにいる。
 とは言え、それはまだ約束されたものではなく、彼にとっては首をかしげることなのだが、彼と同じようにその椅子を狙う人間がいて、見苦しくも足掻いているのだ。彼にとってみれば、彼が欲するものはやがて彼の手に入ることは昔から決まっていることなので、己の前で己と同じものを欲しようとしているのが、滑稽でならない。滑稽なばかりか、ここまで粘られると、何やら吐き気すら催してくるのだった。

 地元では名士の子として生まれ、名前を言えば誰もが愛想良く迎えたものだし、子供の頃から手に入らぬものはなかった。
 金は言えば言うだけ与えられたし、株には子供の頃から小遣い代わりに手をだして、利益もあげている。
 勉学は好いてはいなかったが、昔から覚えたところだけがテストに出るので、大して努力をした事はない。

 まさに順風満帆、全ては己の才能の賜であると、男は思っていた。

 彼の思考は、こうである。
 世の中には支配する側とされる側があって、己は支配する側である。
 世の中の人間は平等だと謳われているのは、綺麗事に過ぎない。
 どんな社会においても、それが民主主義だろうが社会主義だろうが独裁主義であろうが、結局は一握りの偉い人間と、有象無象の気持ちの悪い群衆が居て、群衆は頭が悪いのでこちらから右だ左だと指示してやらなければ動くことができない。
 彼は生まれながらに、あちらだこちらだと指示してやることが決まっている、偉い方の人間で、使う方の人間で、支配する方の人間で、だから彼の前に立ちはだかり、彼が欲しようとすることを邪魔するなど、言語道断である。
 彼が命じたことはすみやかに行われなければならず、それができない無能な人間は、此の世に不要な人間だ。
 そう、此の世での要不要は己が決めるのだし、事実、不要だと考えて捨ててきた人間は、等しく社会で抹殺され、家も職も失って路頭に迷って行方知れずとなったと言う。
 生まれてからこちら、何かが上手くいかなかったことなどなく、もし障害が生じたとしても、それは有象無象の誰かが馬鹿をやったから。

 とまあ、こういう男であったが、ただ一つ誉められるようなところがあったとすれば、それは代々、彼の家に伝わるしきたりを、信心深くとさえ言えるほどに守り続けてきたことだろう。
 昔から続くならわし通り、妻とは違う女を数人抱え、それに義務的に胤付けをしてやり、呪い師だか巫子だか言う輩たちがこれと見定めた男児やら女児やらを囲うように育てて、時がくれば祭りに差し出す。
 五十年に一度あるかどうかの神事は、男の地元では当然のこと。
 それが滞りなく行われることが、地域にとっても実りあることだと、地元では誰もが疑わない。それだけの裏付けが当然にある。百年生きぬ人間たちにすら忘れられぬ、人ならざる者の息吹は、地元の人間たちを排他的な集合体にしていたが、特にそれで困ることも無かった。
 我が故郷に生まれただけで、追い風を受けるかのように、自分にとって事が上手く進むのだ、どうしてその特権を自らむざと捨てるようなことがあるだろう。

 いや、時には理想的なヒューマニズムとやらに流されて、それはおかしいと声高らかに叫ぶ者があったとしても、彼等は少数である。
 風習の細かなところまでは知らぬ者がほとんどだし、そういった者たちは、せいぜい生贄と言っても、眠らせた動物を殺すぐらいものだろうとしか、考えていない。
 生贄として育てる子供は屋敷の奥深くに閉じこめているし、生まれたという証拠もどこにも無い。役所などに届けてもいないから、学校などへも行かない。まず戸籍というものが無い。まさか人間を生贄にしているのだとは、街の人々は思いもしない。
 あるいは事情を知って良心の呵責を覚えるものがあったとしても、事情を知っているからにはそれなりの地位がある者たちだ。
 とすれば、彼等もまた、街の人間たちよりも多くおこぼれに預かっているので、口を噤んだ。

 過去に、生贄を連れて逃げた者が無かったわけではないが、全て失敗に終わってきた。
 なにせ、男を含めた街の人間たちが信奉する存在は、自分が欲する生贄を、決して見逃しはしないのだ。
 どこそこにこれこれと言う家があり、そこの娘が過去に逃げた生贄だ、と、故郷の湖の上に立つ大きな影が告げる夢を見たとき、男は部下に命じて、ちょっと行き来のある家を頼り、速やかに連れ出してもらう、それだけで良かった。

 こういう、夢のお告げ、というものがあるからこそ、男はこれほど身勝手でいながら、故郷の神事を気にするような信心深さを持ち続けていられた。
 信心深さ ――― とは、また少し、違うのかもしれない。
 彼の場合は、見えざる世界があるというのはわかりきったことだった。
 故郷の神事さえ行っていれば、自分にとって都合の良い風が吹いてくるので、義務的に行っているのだ。
 どんなに面倒でも、腹が減れば飯を食う。
 飯を食うためには、自分で作るか他人に作らせなければならない。
 もちろん自分で飯など作ったことのない男は、他人に作らせるわけだが、それだって、何を食うかは口を使って伝える必要がある。
 彼にとっては、それくらいの労力なのだ。

 もっとも、こういった見えざる世界とやらが、社会一般的にはオカルトと呼ばれ、表沙汰になれば非難を浴びることには違いない。
 信じられる相手 ――― 彼と同じ価値観を持ち、彼と同じように、他人を犠牲にしてでも追い風を得たいと望む人間 ――― にしか、こういった事情は話しておらず、彼自身も信仰と言うよりは、特権を利用するという気持ちだった。

 だいたい、子を産ませた女も、生まれた子供も、彼の金で養ってやっているのだ。
 世の中の何の苦労も知らなくて良いのだから、運が良いと言えるではないか、とさえ、彼は思っていた。

 こういう思考をするときにはもちろん、その金もまた、先祖代々、彼女等を生贄にしたことで蓄えてきた金だということには、思い当たらない。

 とにかくこういう男であったので、その夜、どうやら滞りなく終わったらしいとわかると、ここ十年近く忌々しい想いをさせられた諸悪の根源である、己の父の後妻を口の中で罵り、あらかじめ決めてあった会合に赴くため、車に乗り込もうとした。

 ところがだ。
 なんと、その会合が直前に中止になった、と、知らせが入った。
 己の断りもなく中止とはどういうことか。
 そもそもその会合で、さらなる栄達にいたるために必要な根回しをする予定であった男は、どういう事かと報せをもたらした秘書を怒鳴りつけ、「ただ先方から伝えられたことを持ってくるだけならば、留守番電話にもできる」と、その場で彼を放逐した。
 さらに、残った秘書に事情を探るよう伝え、その場で携帯電話を使い、会合相手と連絡を取らんと試みたが、相手は出ず、向こうの秘書が出て、慇懃だが頑なに、「先生は急にお体が悪くなりまして……」と、言うことを利かない。

 電話で顔が見えないのを良いことに、この電話を繋がなければ貴様が後悔することになるだの、仕事のできない電話番を持った先生は不幸だの、相手の人格すら否定するような事を平気で言い募り、それでも相手が頑として電話を繋がず、三十分も話した頃に、あろうことかあちらから電話を切った。
 すぐに電話をかけ直すが、今度は誰も出ない。
 腹立たしいこと、あってはならない事だったが、相手が居ないのでは会合も何も無い。
 しばらく粘ったがいたしかたなく、また、こうも邪魔が入るのはもしかしたら、例の追い風とやらが吹いていて、この会合は自分にとって良くないものなのかもしれないと思い直し、その考えに至ると少しは腹の虫もおさまったので、ぽかりと急に空いた時間に、妾宅へ向かうことにした。

 本宅は地元に構え、そちらにも家族を残している男だが、東京には数件、便利の良いところに妾宅がある。
 彼にとって女は便利の良い召使で、ついでに性欲を満たすために手をつけているに過ぎない。
 この日も、愛人のところへ訪問し、湯を使い、夕食をたいらげたついで、愛人でもって性欲を満たした後、気分良く眠ることにした。





 どれほど眠ったろうか、男はふと、目を覚ました。
 すると途端に目が覚めて、再び寝ようとしても、眠れない。





 真っ暗である。目が慣れていないのだろうかと思ったが、違う。
 部屋は暗くなければ眠れない性質なので、部屋の明かりは消し、遮光カーテンをつかっているが、それでもカーテンの隙間から入ってくる、外の街灯の明かりを完全に封じることはできないはずだ。
 怪訝に思って、デジタル時計のほんのりとした光を求めて視線を彷徨わせるが、これも見つからない。

 ならば、手の届くところにあるはずの、ナイトスタンドの明かりを点けようと手を伸ばしかけて、そこで男は異変を悟った。

 体が、動かない。

 腕を上げようとすると、ぐ、と力を込めて、押さえつける者がある。
 いや、腕だけではない。足首を押さえるものがある。額を押さえるものがある。
 胸の辺りに腰かけて、子供のような小さな手で、ぐ、と首をおさえる者がある。

 勘の鈍い男だが、前述の通り、《そういうもの》は彼にとって現実だった。
 金縛りに合ったことはないが、これがそうだというのは、すぐに理解した。
 すぐ隣で寝ているはずの女を呼んで起こすために声をあげようとしても、これは自分が横たわっているベットの上の方、隙間など無く、ぴったりと壁につけているはずの天板の向こう側から、にょっきりと生えた白い腕が、すかさずぎゅっと口を封じた。

 さあっと、男は血の気が下がるのを感じた。



 くすくすくす。あはははは。
 こわがってる、こわがってる。
 なあにいさんよ、こわいかい、おそろしいかい。
 謝るなら今のうちだよ、ほら、大声でごめんなさいって、言ってみなよ。




 かと思えば、己を押さえつけるそれ等が、口をきくのだ。
 愛人の他は誰もいないはずの、妾宅の寝室。
 鍵はもちろんかけている。むしろフロントロビーで、不審者は追い返す。
 窓から入ろうにも、高層階だ、複数で忍び込むのは難しい。

 何より、人間は上半身だけにょっきり壁や床から生やしたりしない。

 明かりの無い部屋で、己をおさえつける影のような存在が見えてくるにつれ、男は、やはりこれが《そういうもの》だと理解し、だがどうしてこのような怪異が起こるのか、そちらは全く理解ができず、謝れと言われても、全く心当たりが無い。
 手に目玉をつけた、顔には鼻と口しかない、奇妙な生き物があった。
 藁に包まれた納豆の頭に、子供のように細い胴と手足をした、やはり奇妙な生き物があった。
 豆腐を持って傘をかぶったのが。傘に一つ足を生やしたのが。
 破れたところから、んばあと舌を出した提灯が。ふわふわと青白く浮かぶ人魂が。
 どうしてこれ等に囲まれて、責められるような目で睨まなければならないのか、全く理解できない。



 だぁめだァ、こいつ、全然わかってねーってツラしてるよォ。
 そりゃそうか、腐ってねーと、あんなこと、できねーよな。
 そうそう、可愛い女の子を一人、バケモンにくれて平気なツラしてんだぜ。
 その夜に、自分は女相手に腰振ってんだから。
 ほらだめだ、やっぱりだめだ。馬鹿は死ななきゃ治らねェって、あの鴆さまですら言ってんだ。
 ああ、だけど、《若菜》さまは、哀しがるんだろうなァ ――― 。




 若菜。
 その言葉に、男は目を見開く。
 (彼に金で雇われた人間が)苦労して探し出し、(浚って)連れてきたはずの生贄は、地元でめでたく、捧げられたのではなかったか。
 荒れ狂っていた湖が静まったと聞いたので、男はすっかりそう思っていたが、ここで疑いが生じた。
 何か手違いがあって、例のしきたりに綻びが生じたのではないか、と。

 脂汗が額を伝ったとき、ふ、と、男を押さえつけていた奇妙な生き物たちが、消えた。



 視界が、戻ってきた。

 遠くから、救急車のサイレンが聞こえる。
 隣に眠る女の、寝息も。
 デジタル時計は、真夜中の二時を示していた。

 男はびっしょりと汗をかいていた。むくりと起き上がる。
 暢気に眠り続けている女を腹立たしげに起こし、おい水、と言い捨てて、自分は地元の様子を今一度確かめるために、本家へ電話をかけた。

 真夜中でも、使用人が出るだろう。
 本当に例のしきたりは上手くいったのかと問い正し、どのようにそれを確かめたのかまで、きっちりと報告させるつもりだったのだが ――― プルルルル、プルルルル、ガチャリ。相手が受話器を取った途端、「おい私だが、例の件は本当に上手く……」、まくし立てようとした男の耳に、 ――― 「なァに、そう急かすなよ、今そっちに向かってるからよ」 ――― とんと聞き覚えの無い、男の声が。低くしっとりとした、しかし男の心に冷水を浴びせるような、慈悲の一片も感じられない男の声が届いて、プツリ、ツーツーツー。
 電話は、切れた。

 いよいよ、男の顔が引き攣った。
 水を運んできた女を突き飛ばし、「水はいい、着替えだ!それから、車を呼べ!」叫んで、女の支度の遅さに毒づきながら、この女もそろそろ要らないなとちらと脳裏で考えつつ、着替え終えたところでフロントが車の準備を到着を知らせてきた。
 一人で妾宅を出て、向かう先はもちろん、地元である。

「こんな夜中に、お一人でですか?」
「そうだ。至急で確かめねばならんことがある。とばせ!」

 叩き起こした運転手に労い一つなく、男は後部座席に乗り込むと、携帯電話でもう一度地元の本家へ連絡を取るが、今度は誰も出ない。
 この怠けものどもがと毒づきながら、電話をかけ続けるが、やはり出ない。
 一度電話を切り、汗を拭おうとハンカチを取り出したところへ、逆に今度は誰かから、電話がかかってきた。

 さては本家の奴かとすぐに出たところ、



「だから、そう焦んなって。待っててくれりゃあ、こっちから行くのに。そうだな、あと半刻も待たせねェさ」



 例の底冷えするような声が鼓膜を震わせ、またあちらから、プツリ、と、切れる。
 一体何者だ。どういうつもりで、こんな事を言う。
 いつもならば腹立たしく、怒鳴り返しでもするものを、男は全く、声が出なかった。

 生まれて初めて感じる、尻の座りが悪いような心地。

 恐怖。

 感情と、知識が合致したとき、男は沈黙した。
 まさか、しきたりの神事が、上手くいかなかったとか。
 何かしらの邪魔が入って、よくない事がおこったとか。

 恐怖は様々、これまでの男ならば考えもしなかった、自分にとって都合の悪いことを考える想像力を齎した。
 努力は報われるためにあるもので、報われていないものがあるとすればそれは、努力をしなかったからだなどと偉そうに嘯いてきた男は、自分でどうにも出来ない状況というのが信じられず、またこうなったときに呆然としてしまったが、そのうちはたと思い当たって、数人の部下に連絡することにした。
 なにやら悪いことが起こっているらしいから、便宜を図ってやっている総会屋から、用心棒を数名寄越してもらおうとしたのだ。

 しかしこれも、繋がらない。
 プルルルル、プルルルル、と、呼び出し音が木霊するばかり。
 そのうち車は高速道路に入り、真夜中に、都心を飛び出て西へと向かう。

 苛々としながら、指で膝をこつこつと叩いていた男が、一度切るかと舌打ちしたときに、やっと相手が出た。
 おい、いつまで待たせるつもりだ、とまたいつものように怒鳴ろうとしたところで ―――



「堪え性がねぇ男は嫌われるぜ? もうすぐご対面だ。楽しみだなァ?」



 ――― またも、あの声だった。

 こうなると、もう、男は放心してしまい、携帯電話の電源まで切って、汚いもののように、座席の端っこへ投げ捨てた。
 がたがたと震えがおさまらず、それは汗が冷えてきたためだけではないようだった。
 とにかく早く、とにかく早く、本家へ帰って事の次第を確かめねば ――― 。

 運転手に狼狽している様子だけは感づかれまいとして、せいぜいどっしりと腕を組み、その実、窓の外の景色も目に入っていない男だったので、車がどんどん見知らぬ山奥へ分け入っているのに、気づかない。
 いや、景色が見えていたとしても、車に乗って地名を言いさえすれば目的地へ行けると疑っていない男だったので、気づいたかどうか。

 ともかく、車はいつの間にか高速道路を降りて、奥へ、奥へと入っていく。

 やがてアスファルトで敷き詰められた道が終わり、砂利道に入ったために振動が腰に伝わってきて、男は不可思議に気づいた。

「おい、道を間違えているんじゃないのか?」
「いいえ、この道ですよ」
「しかし、いつもは砂利道なんぞ、通らないではないか」
「いえいえ、この道で合ってます」
「行く先はわかって言ってるんだろうな?!本家へ行くんだぞ?!」
「本家?いえいえ、本家なんてそんな、あんまり畏れ多いこと言わないでくださいよ、お客さん」
「お客さんだと?!おい貴様、タクシーじゃないんだ、過ぎた口をきくと ――― 」

 いつもは、先生、と己を呼ぶ運転手が、こう言ったので、おいと身を乗り出し叱ってやろうと頭に血を上らせた男、そこで初めて運転席に座る男の顔を見て、ひっ、と息を呑んだ。
 抱えている運転手ではなかった。
 いや、人相が違うだけでは、運転手の顔など憶えていない男だ、わからなかったろうが、こればかりはわかった。

 なにせ、運転手の顔には、何もついていなかったのだから。

 目も、鼻も、口も。

 それが、びっしりとスーツを着て、運転手の帽子を被り、自在にハンドルを動かしている。

 あんぐりと顎が外れそうなぐらい口をあけ、瞬きも忘れてバックミラーに映る運転手の顔を見つめる男を、さらなる怪異が襲う。
 電源を切ったはずの携帯電話が、鳴った。

 だらだらと汗を流し、呼吸を乱し、おそるおそる、電話を、取り、耳へあてる。



「ここが地獄の一丁目さ。おひとりさま、ごあんな〜い♪」



 もう、驚くという感覚が、麻痺してしまった。

 男はぷちりと電話を切り、窓を開けてぽいと投げ捨てたが、すると逆の窓から、ぽとりと同じ携帯電話が投げ込まれる。
 この様子を見て、顔の無い運転手が、けたけたと嗤った。

「だめですよぉ、お客さん。ゴミのポイ捨ては」
「 ――― なんだ ――― 貴様は ――― どういう ――― ここは何だ、私を、どこへ連れて行こうって」
「私ですか?見ての通り、のっぺらぼうですわ。ここの事は、お電話でご案内があったんでしょ?ええ、地獄の一丁目です。この先、二丁目、三丁目って続きます。あ、ほら、左手に見えますのが、三途の河ですよ。人魂が綺羅綺羅してて、綺麗でしょう〜」
「降ろせ ――― 私を降ろせ!」
「ダメですよ。総大将にくれぐれも失礼のないようにお迎えしろって言われてんです」
「総大将?!お迎え?!知るか!!私は降りる、降りるぞ!!」
「いけませんよお客さん、こんなところで降りちゃ、危ないですって!あ、危ない!!」

 もう耐えられない。
 男はドアを開け、失踪する車から飛び降りた。
 かなりの速度で失踪していたらしく、地面に叩きつけられてしばらく動けなかったが、恐怖が突き動かした。
 砂利は鋭く、転がった体のあちこちを突き刺し、男は血を流したが、構わない。
 失踪した車がどこかでUターンして戻って来る方こそを怖ろしく思い、必死に、もときた道をもがくようにして歩んだ。

 ひいひい言いながら、どれだけ歩いたろうか。
 砂利道は終わらなかったが、歩む先から、明かりが見えた。
 横に二つ並んで光る光が、砂利道を軽く踏みながら走って来る様子を見て、男は車だと思った。
 助かった、と、思った。

 なにが地獄の一丁目だ、普通の田舎道ではないかと、少しほっとしながら、おおい、おおいと手を振る。
 男に気づいたのか、あちらの方も減速して、互いに少しずつ歩み寄るが、何やら様子がおかしいと気づいた男は、やがてぴたりと、歩みを止めた。

 車の周囲を、ふわふわと飛び回っている青白い光は、なんだろう。
 横に広がる人の群れ。ぞろぞろと歩く彼等は、なんだろう。

 人にしては不気味な輩だ。手が無いものあるいは余分にあるもの、足が無いもの、あるいは余分にあるもの、首の無いもの、もしくは長いもの、うねうねと長い髪を生き物のようになびかせているもの、曲芸のように大きな水の珠に乗っているもの、僧形、乞食、男、女、それぞれ現代にそぐわぬ、歴史がかった着物姿で、あるいは獣の姿で、ゆっくり、ゆっくりと、こちらに近づいて来る。

 きゃっきゃ、きゃっきゃとはしゃぎながら飛び回る小さなアレは、先程、己を押さえつけた者たちではなかろうか。
 車の後ろには、彼等の邪魔にならぬよう、ぎちぎちと甲殻をきしませながらついてくる大きな百足や、平べったい顔をして、髪まで生やした蛇もある。

 光源は確かに、車だった。
 だが、男が望んでいたようなものではなく、ギシギシと車輪を軋ませる、牛車だった。
 但し、これを引く牛は無い。代わりに、前方の御簾のところに不気味な顔が浮かび上がり、これの目玉が眩しく己を照らし出しているのだった。

 さらに、男からは逆光でよく見えないのだが、この人でないものたちは、どうやら先頭を歩む一人に、付き従っているようだった。

 風も無いのに、ふわりと、黒檀のような髪が靡く。
 纏っているのは、決して贅沢なものではない。
 着物に縞の褞袍姿だが、これを着崩して、片腕を抜いて懐に収め、もう片方の手は肩に長物を担いでいるのが、なんとも様になっている。
 表情は、見えない。

 この一団が人でないものだと、やはりここは此の世ではないのだと、男は即座に理解した。
 腰をぬかし、へたりと座り込んだ男よりやや距離をとって、一団はふと、歩みを止めた。

 にやり、と、表情の見えないはずの先頭の男が、獲物を見つけた猫のように笑ったのを、男はたしかに感じた。



「ちわぁ〜、奴良組でーす。百鬼夜行に来ましたぁ〜」



 ズルッ。
 周囲の人ではないものたちが、同時に少したたらを踏んだ。

 ちょっと!と、すかさずその脇の、首の無い青年が、先頭の男の脇腹を小突く。

「三河屋か!総大将!大事なトコなんですから!キメてくださいよ、ココはッ!」
「えぇ〜?キメるって言ったってなァ。ほら、奴さん、もう小便垂らしてビビってやがるしさー。今更口上もねェだろう」
「いいえ、首無の言う通りですよォ、総大将。あの男、どうせ私等が何か、見当もついてませんよ。魅せつけてやってくださいな。恐怖のあまりにうっかりと、おっ死んじまうくらい、魅せつけてやればいいんです」
「毛倡妓まで、やる気だなァ」
「馬鹿を言わないでくださいな。総大将がお怒りでないときに、どうして私等だけが怒るって言うんです?」
「はははは、手厳しいな。いや、ちょいと間抜けな事言っておかねーとさァ ――― 手加減できなかったら、困るだろ?嬲るだけのつもりが、嬲り殺しになっちまうといけねェ」



 くすくすくす。あははははは。



 取り巻く小さな者どもが、先頭の男が不意に見せた狂気に呼応して笑う。
 ざわざわと、獣たちが荒ぶる。

 何やら人でない者たちは、あちらのノリで楽しくやっているらしいが、射すくめられている男の方は、へたりと座り込んだまま、己の下肢が濡れているのにも気づかず、ガタガタ震えていた。
 己が生まれた家のしきたりも、己のために利用してきた彼。
 それを当然の権利だと、疑いも持たずに享受してきた彼は、すがる神仏すらこの時知らず、ただ、ガタガタと震えて、目の前の男が、不意に笑みを消したのを、感じた。



「馬鹿につける薬はねェんだってさ。うちの薬師も匙投げた。だから治療してやろうって言うんじゃねェ、ただ、てめェが死んだ後、どういう場所へ行くか、それを特別に一日体験させてやろうってことさ。
 なに、遠慮すんな ――― おれの気がすまねェだけだからよ、遠慮なく、楽しんでくれや」




 それは電話の向こうから聞こえてきた、しっとりとしながら底冷えするような、あの声だった。


<6へ続く>






アトガキ
ずっと前から書きたかった、二代目による「ちわー、奴良組でーす」のノリの百鬼夜行。ついに書けました。楽しかったー。
首無にツッコミもさせたかった ヾ(ーー )ォィコラ ので、満足です。人間側から見る百鬼夜行を書くのが、やっぱり楽しいでス。
前に「闇夜に烏 雪に鷺」では若君Verをやりましたが、二代目Verもいつかやりたいと思ってたんです。

「鬼太郎夜話」的な地獄巡りの旅みたいなの、二代目も絶対やってんじゃないかなーとか。
二代目、いつもより二割り増しぐらいでおそろしく書けましたでしょうか。
言うこときかない悪い子にゃ、夜中迎えにくるんだよ……