戦いは、熾烈を極めた。



 旧き神と妖、どちらもこの日ノ本において、人に非ず我等に非ずと一線を引かれる者たち。
 人を超える力があるにも関わらず、否、その力こそが人が彼等を遠ざけた由縁。
 ほんの身じろぎ一つ、ほんの一呼吸で、地形すら変えてしまう神格を持つ夜刀神と、人の中だけでなく妖の中にあっても異能と呼ばれる力を持つ魑魅魍魎の主と、二つの力がぶつかり合い、湖の畔の街は荒れにあれた。



 湖の上には水も雲も巻き込んで、竜巻がいくつも立ち上がった。
 風は吹き荒れ、先刻までの凪が嘘のようである。
 湖から吹き起こる風は、桜の花弁を巻き上げ、これが梅の香りとともに街中に降り注ぐ。不思議や不思議、花弁と思われたものは火の粉であったのか、人々が畏れおののいて空を見上げているうちに、目の前に降ってきたかと思われたのが、ふ、と消える。
 こうなっては、祭事もなにも、あったものではない。

 いつしか黒い雨雲が呼ばれ、雷が鳴り響き、山深く分け入っていた人間たちをあざ笑うかのように土がぬかるみ、夜刀神が体をうねらせるたびに、砂のように山が崩れて人も獣も木も飲み込んでいく。
 人が作った道は寸断され、外へ連絡を取ろうにも風で揺られて電柱も根こそぎ倒され、電線はちぎれてどうにもならず、手段が無い。
 人知を超えた争いを湖の方へ見つけた人間が、記録に残してやれとカメラを持ち出したとしても、街全体どころか天を地を見透かす《目》が、畏れを知らぬ所行を許さず、そのような人間はたちまち雷に打たれた。

 怒り狂う雷に、叩きつけるような雨に、人々は事情を知らぬ者であっても、何事か大変なことが起こったと悟って、家の中に逃げ込み、布団をかぶって時折こっそりと、カーテンの隙間から湖方面の空を見つめるのみだ。



 人はこの中にあって、身を守る術すら無い、小さな存在だ。
 その小さな存在が、例え神につけられた目印の《目》を持っていたとしても、渦中にあってただ無事でいられるはずはない。



 雨に頭から爪先までぐっしょりと濡れていながら、何度も叩きつけるような大波に横薙ぎにされながら、それでも若菜が今無事でいるのは、夜刀神と対峙する鯉伴の懐にしっかりとしがみつき、また鯉伴の方も決して余裕があるわけもないのに、片腕で少女を抱えたまま、決して離さないからだ。

 加えて、もう一つ。
 若菜が鯉伴の側にいることで、夜刀神の攻めの手が緩んでいるようだった。
 大事な贄を喰う前に殺してはならぬと思うのか、鯉伴が若菜を抱え込んでからは、水を大槌のようにして振るうこともなく、せいぜいが、夜刀神に一太刀浴びせんと立ち向かう鯉伴を、波が、風が、遠ざけようとするぐらいだ。
 これには鯉伴も気づいていたが、何もそのために若菜を側に置いているわけではない。
 岸辺で若菜と合流したは良いが、その後、若菜を無事な場所へ送り届けるだけの時を、夜刀神が許さなかったのだ。
 当然に、鯉伴は若菜を守るために攻め手を緩めなければならなくなったので、条件は五分と五分だ。

 主のとっさの判断に、嫌な顔をする下僕たちは奴良組にはいない。
 ここまで皆を運んできた板切れから、湖畔に泊めてあった船に乗り換えて夜刀神へ立ち向かいながら、皆が若菜を気遣い、河童もこの荒波の中で、よく流れを掴んで船を安定させていた。
 しかし、これが夜刀神には、気に喰わない。
 祢々切丸の太刀を何度かかわした挙げ句、反撃しようとして贄を思いだし、おっとと手を止めたところへ、その手にこそ刃を走らせられるようなことを何度か繰り返した後、夜刀神は忌々しそうに、空気を震わせた。

『奴良鯉伴。今の世の魑魅魍魎どもの主か。忌々しい化外が、あろうことか天の血を引く姫をかどわかして子をはらませたとは、あわれなこと。我が贄を人質に、攻め手を緩めさせようなどとは、まこと、父譲りの卑怯者よ!』
「ハァッ?!寝言言ってんじゃねーぞ!おれが守ってなかったら、てめーの寝返りで若菜は今頃ぺしゃんこだよ!それに親父はどうでもいいが、お袋を悪く言ってんじゃねえ!あの人は自分から嫁に来たんだ、逝っちまうまでしっかりかっきり、奴良組の姐さんだったんだよ!お袋の死に顔も見たことねーくせに、勝手言ってんじゃねぇッ!てめぇこそ若い女ァ浚っては喰らう悪神の分際で、戯れ言ふいてんじゃねーぞゴラァッ」

 まるで悪童同士の喧嘩のようだ。
 いや、事実喧嘩なのだろう、互いが頭に血を上らせて刃物を持ち出せば人同士の喧嘩でも周囲に被害が及ぶのと同じ事、神と、拮抗できるほどの規格外の妖とでは、周囲へ及ぶ余波もまたすさまじいだけの話。

 ただの人の身では、満足に顔を上げることすらままならない暴風雨の中で、若菜がそれに気づいたのは、ただ夜刀神に譲られた力の一端、稀有な《目》だけがそうさせただけでは、なかったろう。
 なにせ、真横からつぶてのような雨に打たれ、かと思えば荒れ狂う湖は右から左から次々に波を叩きつけてくる上、夜刀神の気まぐれで盛り上がった湖から滑り降りたり、渦を避けるために河童が船を跳ねさせたりするので、鯉伴にしがみついて顔を伏せているのが関の山という有様では、いつも通り《目》が使えたところで、何の足しにもならなかったに違いない。
 その上、今の若菜は、彼女に目印を付けた当の本人を前にしているのだ、いつものようには《目》が見えない。



 若菜が感じたのは、心で、だった。
 あれ、おかしいな、と、しがみつきながら、感じた。



 鯉伴に怒鳴られて、一つだけになった月がほんの少し、天の近くで見開かれたように大きく膨らんで、その上、夜刀神からの返事がなかったのを。その一瞬、風が凪いだのを。
 降り懸かる冷たい雨のつぶても、全てを薙払うような大波も、その一瞬だけ、緩んだのを。
 まるで呆気に取られたように。
 夜刀神が、何を馬鹿なと笑うことすら、なかったのを。



 何かおかしい、何か妙だと、感じた。



 凪いだ一瞬で、若菜はよくよく、「彼」の顔を《視》つめた。
 湖そのものほど大きくても、よく《視》つめてみると、きょとりとした表情はわかった。
 呆気に取られた中に、ほんの少し、傷ついたような寂しさがあるのも、《視》えた。

 もっとも、そう長いこと時間はなかった。
 この一瞬を逃す鯉伴では無い。
 夜刀神の手が緩んだところで、河童が水流を作り、天に巻きあがる夜刀神の身に直接昇りあがった。湖の畔に置いてあった木の小舟が、しんがりの河童が作り出した水流で、まるでモーターボートのように、水の道を通って空へ突進する。
 己の体に乗りあがってくる狼藉者を振り落とさんと、夜刀神が身じろぐが、これも若菜を振り落としてはならぬと思うためか、動きが鈍い。
 夜刀神の身から飛び上がって現れる、妖飛魚や水蛇が次々と現れて小舟を遅うが、これは鯉伴の一閃で、首無の綾紐で、毛倡妓の髪で、ことごとく払われた。

 ついに、巨体のおとがいのところまで乗り上げた小舟を、忌々しげに夜刀神が、片方のみになった目で睨んだ。

『小賢しい真似を。昇り竜にでもなったつもりか、ちょこざいな!』
「竜だぁ〜?!流石におれもそこまでは図に乗らねーって。てめぇなんざ、この鯉の瀧昇りで充分だってだけの事ッ」

 待って、と若菜が止める隙もない。
 巻きあがる瀧の向こう、浮かぶ月を、祢々切丸が吸い込まれるように貫き、痛みにか屈辱にか、夜刀神は身をのけぞらせて、天高くに吼えた。

 ぐらり、とよろめき月が消える。
 しかし、斃れない。夜刀神は、尚もそこにある。雨雲を、雷を、風を、眷属を纏ってそこに在るものは、まるで揺らぎもしない。

『おのれ………、おのれ、おのれ、若菜を奪うだけでなく、我が身を滅ぼして日ノ本の安寧すら脅かすつもりか、奴良鯉伴!許さぬぞ、決して許さぬぞ!天地神明に懸けて、汚らわしい貴様を滅してくれるッ!』
「あれあれ、おめめを二つ潰されたってぇのに、まーだ元気かい。おれだって流石に、神殺しなんぞしたかねぇ、そろそろ眠ってくれよ、御老人。夜更かしは体に毒だぜ」

 夜刀神が身をのけぞらせた拍子、小舟はついにひっくり返り、乗っていた妖どもは空高くで投げ出された。
 また落ちるのか!と、鯉伴の側近衆が風をつかまえ損ね不本意そうに叫びながら落ちて行く中、河童は小舟を夜刀神の体の中腹ほどでつかまえ、再び水流を作ってうまく跳ねさせては、ひょいひょいと百鬼を拾っていく。
 対して、鯉伴は夜刀神のおとがいに、踏みとどまった。

 風も雨も何するものぞ、今こそ脳天から旧き神を一刀両断!
 にするかと思われたが、ならない。

 脳天を割ったはずの刃は、たしかにほんの一瞬、水で形作られた蛇の巨体、その顔を真っ二つにしたものの、次の一瞬には、二つの器から一つの器に注がれた水のごとく、形を取り戻しているのである。

 にたり。笑ったのは、夜刀神の方だった。

『今、なんぞ、したのか?』
「………ん?え?何?なんだいそりゃあッ」

 これで終わったと思われたその瞬間を、逆に狙われたのは鯉伴だった。
 目を二つ潰したというのに、もはや湖に映る月は無いというのに、何の痛みも感じていないらしく、地の底へ続くような洞穴の口を細く釣り上げる。
 さらにはなおも見えているような正確さで、大槌では鯉伴が抱く若菜も巻き添えにすると考えてか、今度は矢のように細く鋭い水流が鯉伴を襲う。

 額を貫かれた幻を残して、若菜を抱いた鯉伴の本体は素早く五間ほど、後ろに飛び退いたが、やはりこれも水の矢が貫く。
 次から次へと幻影を繰り出し、逃れ。
 神と妖とは言え、そうは遅れを取らぬはずの鯉伴も、今日ばかりは相手が悪かった。
 なにせ今まで、若菜相手にかくれおにで勝ったためしがない。
 その異能の主が、鯉伴を逃すはずもない。

 幾重にも残した幻影をべりべりと引き裂き、ついに水の矢は、鯉伴の生身の脇腹を貫き、たまらずぐうと声が漏れた。

 手数が多い相手ならば、百の手数に対して百五十の幻で迎え撃ち、しかも鯉伴は避けるだけが能ではない。余る五十の幻影が揃って相手を囲み撃てば、どんなに隙の無い、格上と思われる相手でも、五分五分かそれ以上に渡り合えた。
 鯉伴が弱いのではない、相性が悪い。
 以前、河童がちらりと語って聞かせた、属性だの相性だのといった話がちらと鯉伴の脳裏をかすめたが、それにしたっておかしい。

 夜刀神の《目》は、たしかに潰したはずなのだ。
 力の源は、異能の象徴にこそある。
 それなのに、夜刀神は今も尚、全く視界に困った様子もなければ、弱った様子も無い。



 本 体 が 別 に あ る か の よ う に 。



『なるほど、貴様は妖にしては力の大きな方らしい。貴様の縄張りの中では我が影もろくに動けはしなかったが、ここは我が体内に等しい。貴様の動きなど、手に取るようにわかるわ。
 惑うておるな。あてが外れたという顔をしておる』
「………ご親切に顔色までうかがってくれちゃって、ありがとうよ」

 にたりと笑い返しながら、祢々切丸を握る逆の手、腕にこそ、鯉伴は力を込めた。
 そこには、若菜が居た。
 今も鯉伴と夜刀神を見つめる、若菜がいた。

 潰された目のかわりに、夜刀神が二人を《どこから視て》いるのか、鯉伴は既に察していた。
 力の源がどこにあるのかも、わかってしまった。

 ついと汗が頬を伝って顎から落ちたのを、愉快そうに、夜刀神が笑う。

『いやいや、違うな。既にお主、気づいているのだろう。そういう顔だ』
「うるせぇ」
『伊達に関東を束ねるなどと、ふいてはおらんということか』
「黙れ」
『そうとも、我の移し身なら、それ、そこにいる』

 顎をしゃくるような所作をして、夜刀神は震えた。
 勝ち誇った笑み。
 己が有利を、疑っていない笑み。

 その意図を、若菜は正しく悟り、青ざめた。

「………………私?」
「違う。若菜、お前は…………」

 即座に否定するも、鯉伴が言い切るより先に、そうともと、夜刀神は出来の悪い子がついに正解を導き出したのを誉めるように、大仰にゆっくりとうなずいて見せた。

『そうとも、若菜。そちが我の移し身だ。そちは若菜であるのだから。そういう約束であったろう?我と同じを《視》て、我に仕える、だから我はそちに預けている。わかったならこっちへきやれ、若菜。なに、我は元よりこの男との勝負などどうでもよいこと、そちが我が元に来さえすれば、それでいいのよ』
「勝手に決めてんじゃねーよ、御老人。若菜はてめぇんところに嫁入りする気なんざ、全く、これっぽっちも無いんだとよ」
『貴様こそ、勝手にほざいておるがいい。これは若菜と我との約定、貴様には何の関わりもないことだ。ここまでの無礼は許してつかわす、若菜を我に返し、さっさとここから去ね!それとも、試してみるか?!貴様が持つ、人が作り出した、妖のみを斬るという妖刀が、我と若菜との縁をきることができるか、試してみるか?!若菜の中の我の力だけを、斬ることができるかどうか、やってみるか?!』

 ぎり、と、鯉伴は唇を噛む。
 ここまでの立ち回りなど、夜刀神にとっては、ただの鍔迫り合いだった。
 夜刀神は、最初からわかっていたのだ。
 目の前に立ちふさがる巨大な神威に、無闇に斬りかかってくるだけでは、決して己を封じることも、滅することもかなわぬことを。
 最後に笑うのは、己であることを。
 鯉伴が若菜を大事に思えば思うだけ、若菜を助けようと思えば思うだけ、夜刀神を弱らせる術は、なくなることを。

 あるいは、祢々切丸ならば。そして鯉伴の腕があれば。
 賭けではあるが、若菜と夜刀神の力の繋がりを、斬ることができるかもしれない。
 やってみるか。
 人は斬れぬはずの刀だ、そして若菜は人間だ、ならば。

「 ――― やってみて、鯉伴さん」

 湖面では、奴良組の妖怪たちが、湖から湧き出づる夜刀神の下僕たちを相手に、逼迫した争いを繰り広げている。
 彼らの主は、若菜を片腕に抱いて、夜刀神とにらみ合いを続けている。

 この状況で時を止めてしまいそうだったところへ、先を促したのは、他でもない、若菜だった。

 鯉伴だけでない、夜刀神すら、少女の声に呆気にとられた様子で、その夜刀神の狼狽こそ、今の若菜にはよく《視》えた。

「私の《目》が、この神様の力の本体だって言うんなら、その刀で、斬ってみて。人間は斬れない刀なんでしょ?だったら、大丈夫だよ、きっと。私、怖くなんてない」
『………馬鹿を申すな。人は斬らぬとしても、そちの《目》は我の一端ぞ。その《目》がどうなるか………』
「そんなの知らない!わかんない!だってどうせ食べられて死んじゃうんなら、鯉伴さんに斬られたって同じじゃない!ううん、鯉伴さんならきっと、目だけ上手に斬ってくれる。この先、ずっと目が見えなくなったって、ここで食べられて終わっちゃうより、絶対にいい!
 私は、神様、終わらせに来ました。
 こんなの、こんなこと、これからずっと繰り返していくなんて、嫌だもの。私、怖かった。今だって、すごく怖い。きっとこれまでに何人も居た若菜さんたちだって、怖かったに決まってる。この街の、こんなお祭り、絶対変だよ、おかしいよ、だって、自分が幸せになるために、誰かをその分犠牲にするなんて、それで平気な顔してるなんて、絶対におかしいもの!
 贄がなかったら祟りがあるから、祟りが怖いから、神様があんまり大きくて、この土地でやっていくためには、その力にひれ伏さなくちゃいけないからって、そうやって続けてきたことなら、みんなで少しずつ苦労して、ここじゃないどこかでやり直せばいい。貴方みたいな神様に頼らずに、別の土地でやり直せばいい。
 そうしたら、ここはいずれ忘れられる。わからずやの貴方なんか、みんなから忘れられて、誰にも省みられることなく、一人っきりで暮らしていればいいじゃない!」
『………な………!』
「さあ、やっちゃって、鯉伴さん!もう私、覚悟は決めました。」



 今度こそ、気のせいではないことが、はっきりした。
 夜刀神は、若菜の物言いに、今度こそ狼狽した様子を見せたのだ。



 腕の中で両の拳を握りしめ、さあ、やっちゃってください、と、可愛い顔をせいぜいきりりと引き締め、己を見つめてくる少女に、鯉伴は。



「……………ぷっ」



 一瞬、呆気にとられた後、吹き出し。



「……………く、くくくっ……………ふっ、ふははははッ、面白ぇ!やっぱこの娘、最高におもしれぇや!」
「えッ?!ちょっ!ひとの本気を笑わないでよ!」
「啖呵切るのも堂に入ったもんだ。肝も据わってる。震えてんのは抱いててようやくわかる。だがそれも健気でいい。ホント、人間にしておくのはもったいねぇ。いや、人間だからこそ面白ぇのか?いずれにしても、やっぱいい、いいわぁ、お前、最高だ。
 こんな上玉、傷物なんかにしてたまっかよ。おれだって、お前の目は気に入ってんだ。おれが見つけてほしくねぇときに限って見つけちまう、厄介な目ン玉だが、ないとなると、ちと困る。《視つけて》もらえなくなる。
 おぉ、おれも腹ァ、決まったわ。
 夜刀神さんよォ、こりゃあもう、どっちかが消えるまでやり合うしかねぇな?」
「ちょっと鯉伴さん!私の話、聞いてるの?!」
「はいはい、その話は終わりました。終了です。いまね、鯉伴おじさんは、ここのぬめっとしたおじいさんと話があるから。ナシつかなかったら、ちょっと派手にやり合うから。若菜坊や、舌噛むといけねーから、黙ってなさい」
「黙ってられない!またすぐそうやって、話を逸らすんだから!私は決めたの!私が終わらせるの!もう加護なんていらない、その分ここの土地に祟りがあるんなら、別のところに行きますって、言いに来たんだもん!
 それでこの土地のひとたちが困るのは、今までオマケしてもらってた分だもの。ちょっとずつがんばるしかないじゃない。やるしかないじゃない。私はなにも、自分だけ傷つかないで終わろうとしてるわけじゃない。そりゃあ、食べられるのなんて嫌だし、助かりたいけど、ここの土地の人たちが困る分と同じくらいは、ちょっとぐらい怪我をする覚悟は…………したつもりでも、後ですごく後悔するかもしれないけど、それでも、今は、したの。覚悟したの!
 神様、先へ行くのに必要なら、この目、お返しします。だからお願い、私たちを、往かせて下さい!」



 夜刀神の沈黙を、若菜は正しく、理解していた。
 たぶん、ここでは、若菜だけが。

 約束であったはずのことに、約束の相手から何やらまくしたてられて、夜刀神は混乱しているようだった。
 これまで当然のことだとばかり思いこんで、約束の相手だってそう納得しているとばかり思いこんでいたところへまくしたてられ、混乱していたので、目の前に己の贄を奪う敵があることすら忘れて、ふと思い当たったことを若菜に問う方を、選んだ。

 おや、おかしいな、何かが違うと、今初めて、思い当たったように。



『……………だが、そちは、若菜、なのだろう?覚えておらなんでも、若菜、なのだろう?』



 すがるような声だった。
 確かめるような声だった。

 今一度、問われたことに、今度こそ、若菜は言葉を選ぶ。
 そうだ、自分は若菜という名だけれど。



「私の名は、若菜です。だけど神様、貴方が探している《若菜さん》は、どんな人?それはきっと、私じゃない」
『しかし。しかし若菜、そちは約束した。我と約束した。《また会える》と。
 ここに住む人間どもは、そちを我に差し出すたび、こう言った。《これが若菜だ》と。そして確かに、若菜、そちの血に流れる我の力の一端も、たしかにあるではないか』
「ねえ神様、約束をしたのはいつの話?何年前だったの?」
『何年だなどと………一万年も経っておらぬぞ。たかだか、千年か二千年か。そこらの話ではないか』



 言い換えされて、若菜は言葉を失った。

 呆れたのではない、どうしてか、悲しかったからだ。
 必死に言い募る巨神が、小さな子供のように、思えたからだ。

 黙る若菜の代わりに、話を続けたのは、鯉伴の方だ。
 彼は若菜と同時に、とあることに気がついて、途端に刃物を握っている腕が、ぐっと重くなったが、言わなければならなかった。



「ボケが。人間がそんなに昔のこと、覚えてっかよ。この若菜は、若菜って名前の娘だが、お前の若菜になると約束した女じゃねぇ。
 千年か二千年か、いつの頃か。
 てめェと約束した女が、どうなったのか知らねぇが、そんな奴、とっくの昔に死んじまってるに決まってる」
『当たり前だ、人間は弱い。永くは生きられない。若菜、だからそちは約束したではないか。我にその身を喰らって、血肉となせば、ともに在れると。その昔、約束したではないか。我とともに在ると、そちは言ったぞ。だから、若菜、そちが再び生まれたと人間どもが連れてくるたび、我等は、ともにあろうとしたではないか。今まで、そちがそのように約束を違えたことは、ないではないか。覚えておらなんでも、若菜、そちは我の血肉となってきた。であるのに、今更、何故 ――― 』
「あのよう、夜刀神さん。おれの耳がおかしいんじゃなければ、まるでそりゃあ、口説いてるように聞こえんぜ?まるで、カミさんに逃げられる直前の亭主だ」
「極道者が、下卑た口をききおる。若菜は、我のもの。そういう決まり。若菜がそれでよいと言ったのだ。そう、《笑って》言ったのだ。我の心を、あの心地の良い笑みで、声で、撫でながら、言ったのだ。我は若菜を欲した。とこしえに、ともに在りたいと願った。だから今際の際、若菜がそうせよと言ったから、若菜を喰った。他の人間どもはもう喰わぬと、そういう約束をした。若菜さえ喰えれば、我はそれ以外の不味い人間でなぞ、腹を満たす必要がない、若菜、そちさえ在ればいい』



 杭を標てて、境の堀を置き、夜刀神に告げて曰く、此より以下は、人の田と作すべし、今より以後、吾は神の祝となりて、永代に敬ひ祭らむ。ねがはくは祟ることなく恨むことなかれ。



 いにしえの、忘れられた言葉は、今はもう、その頃の想いを伝えない。
 その頃の熱を忘れている。
 杭とはどこにたてたものであったろう。堀とはどこにあつらえたものであったろう。

 夜刀神に刻まれた杭は、ただ一人の娘だった。
 人と神、あまりに違いすぎるものたちが歩み寄るために、理解しあうために、夫婦となる以上に良い方法があったろうか。
 心に刻む恋慕、愛情、それ以上にたしかな杭など、あったろうか。



 ああ、やっぱり、と、若菜は。

 見たのではない、人としてこれまで育ってきた心で、敏感に感じ取った。





 この神様は、ずうっとずうっと昔に《若菜》と呼んだ娘をこそ、欲していたのだ。
 神だからこそ、人を詳しく知らぬ存在だからこそ、《若菜》であるとなれば、その血脈が続いて徴をあらわせば同じものであると思い込んで、与えられるままに欲したのだ。
 いびつな恋の、続きのように。





 千年、二千年前、その《若菜》は、この夜刀神を、どのように呼んだのだろう。
 どんな話をして、どんな風に笑い、そしてこの大きな神と、どのような縁を結んだのだろう。





「今際の際 ――― てめぇのカミさん、厄介な約束をしたもんだよ。おかげでその千年だか二千年、てめェは勘違いしっぱなし。あのなァ、夜刀神さん、おれぁ妖だからよ、お前さんより人間の方にこそ近いな。その上、おれは半妖だから、さらに人間に詳しい。
 だから教えてやるよ。
 一度死んだ人間は、帰ってなんぞこねぇ。絶対に。
 死ねば、骸。やがて土に還る。それだけだ」
『 ――― だが』
「《また会える》、ああ、おれもそうは思うよ。また会いたい、いつか会いたい、死して尚、来世でも、ってな。
 それは、願いだ。また会いたいと思うほど、《アンタの若菜》は、アンタを愛した。
 ……死にはせぬ、どこにも行かぬ、ここに居る。たずねはするな、ものはいわぬぞ。って。
 そう言われたら、残されたおれたちだって、嬉しいじゃねェか。どこかにいるのかもなって、そう思うじゃねえか。見えねぇだけで、どこかに居るのかもな、って」
『我に、《視えぬ》ものが、《在る》と?……《視えぬ》ならば、それは、《無》ではないか。居ないことと同じではないか。あの娘は、我に嘘を、ついたのか?』
「わからずやめ。そういうんじゃねぇんだよ。っかー、どうしてこう、神様って奴は人情がわかんねぇかな!あ、人じゃねーからか!」





 これ以上、どう説明せよと言うんだと、渋い顔をする鯉伴と、今度こそ呆然とした夜刀神と。
 その中にあって、若菜が、いつも信じているあの言葉を、静かに口にした。
 あのね、神様、と。

 旧い時代、夜刀神が暴れるたびに、一人の娘がおずおずと、人間の事情を申し述べたように。





「あのね、神様。私、《視えない》ものでも、信じられるよ。神様の力で色々なものが《視える》私だけど、けど、《視えない》ものも、たくさんあったよ。明日がどうなるかなんてわからなかったし、悪いことを考えて、心を揺らしている人が、結局そんな自分を叱って逆に私に優しくしてくれることも、たくさんあったの。
 だから、私、わかります。神様の《若菜さん》も、きっと、どこかに、居るんだと思う」





 こう言われて、夜刀神は途端に、理解に及んだようだった。

 雨が小降りになり、あれほど荒れ狂っていた湖が静まり、黒雲が去り。
 美しい、月が今度こそ一つだけ、ぽつんと、空に。夜刀神をすら包む夜空に、姿を現した。





『 ――― そうか ――― 』





 切ない響きだった。慟哭は無かった。後悔が少し、あるようだった。そうか、ともう一つ繰り返して、夜刀神は、





『そうか、《若菜》。あれは、そちの、最後のいつくしみであったのだな。すまなんだ。我は人に詳しゅうなくてな ――― そうか。道理で、《人間ども》が連れてきた若菜たちは、虚ろな、人形のようであったと、思っていた。自ら動かず、抵抗もせず、話さず、世話をしようと思うてもやがて弱って死んでいくから ――― 《若菜》、そちが五十年の命を閉じたその後そうしたように、我は、そちの骸を喰らった、喰らい続けたつもりであったが ――― そうか、違ったか。
 ――― 《若菜》、そちは我にすら、《視えない》ものに、なってしまったのだな。今の今まで、気付かなんだ ――― 。
 ふ、ふ、ふ。いや、何千年たっても、まこと、人間とは理解できぬものよ。脆く、傷つきやすく、そのくせ何千年も悩ませるような謎かけを ――― 』





 納得、した様子だった。





『 ――― 嗚呼、《若菜》の声を、もっとよう、聴いておけばよかったわ。《若菜》の姿を、もっとよう、視ておけば、よかった』





 ここできっと、一つ、恋が終わった。


<5へ続く>






アトガキ
夜刀神は神格が大きすぎて、人間を理解できてません。人間がミジンコの思考を理解できないのと同じです。
え、ミジンコに思考があるの?!と、思ってたような感じです。
傍迷惑な話。

やっぱり将来の極妻として、啖呵切るのは大事だと思うんだ。
だって黒塗りの朧車から、颯爽と降り立って前向いて歩かなくちゃならないわけだからね(極妻イメージ)。
けど若菜ちゃんはそういうの求められてなさそうだよね。
奴良本家の中で、幼妻として誰からも甘やかされてたような気がします。いや良い意味で。皆のアイドル的な。
山吹さんがマドンナなら、若菜ちゃんはアイドル。この路線で。
特に首無。江戸から平成の間に、似非爽やかにイメチェンをはかる理由が何かあったとするなら、若菜さんか、若か。