丘を二つ越え、谷へ降りた若菜を迎えたのは、暗く深い淵だった。
 寒い月が浮かぶ大きな湖に面して、祭りの準備か櫓が組まれている。

 これを回り込んで、湖から黒い水が静かに寄せる岸辺に立ったとき、若菜を支えていた意地や気力は、もうほとんど失われていた。
 そのまま倒れ伏してしまいそうな彼女を支え励ましてくれたのは、闇夜の中でぼんやりと銀色に光る、少年の霊である。

 側にいて、寄り添って、励ましてくれる。
 それだけで、どんなに心強いことか。
 只人でないことが、今この時に何の障りになるだろう。

「なんだ、さぞかし盛大なお迎えがあろうと思ってたのに、しんとしたもんだ。許嫁が自分から見合いのご破算願いに来たってぇのに、つれないねェ。それとも《あちらさん》のお迎えの準備は、まだ整ってないのかな。辛いだろうが、まだ眠るなよ、若菜。眠気覚ましになんなら少し、昔話でもしようか?」

 目ざとく、腰掛けるに丁度よい岩を見つけて、そこに若菜を導いた少年は、毛布で若菜を包んだ上、残った腕で毛布越しに、しっかり肩を抱いてくれた。
 少年がこう言ったので、若菜はそこでようやっと、この聞き覚えのある声の主が誰なのか、どうしてこの少年に抱きしめられて落ち着いたのか、わかった。

 その文句は、若菜の胸の内に住んでしまったあのひとが、若菜にも見えない遠いどこかを見つめた後で、面白おかしく思い出を聞かせてくれるときと、まるで同じだったから。

 普段の姿が立派な男姿で、揺るぎない強さを感じる大人のものだから、今はそれとかけ離れて幼く、まるでただの人間の少年のように、いや人間よりも希薄な存在になっているためにすぐにはわからなかったけれど、彼があのひとだと、お別れをしてきたはずの大好きなひとと、同じひとだとわかったのだ。
 総髪一つとっても、こちらは少し短い。
 長い髪をきっちり後ろで、朱色の紐に高く結い上げた先が、尻尾のように首筋あたりまで覆っているけれど、それだけだ。漂う妖気もまるで、感じない。

「………鯉伴さん?あなたは、鯉伴さんなの?」

 満足に動かぬ体で、震えるばかりの唇で、湖のさざなみにさえ消えてしまえそうな小さな声だったけれど、彼は少し目を見開いた後、少し照れたように鼻の頭を掻いて、おどけながら応じた。

「嬉しいねえ、わかってくれたんかい。けど、どうせならもう少し早く、わかってくれてもよかったと思うぜ?あの赤い窓枠ごしにあんなに熱く抱擁したんだから、そのときにでも。………いやあ、無理なのはわかってるさ。別人みたいだからな」
「ううん、鯉伴さんは、ちゃんと鯉伴さんだよ。でも、どうしたの。その格好。それに、なんだか、いつもより、その」
「お前はホント、優しい子だよ、若菜。今のおれなんざ、正真正銘、薄気味悪い幽鬼だろうに。それに、言ったって別に構わないんだぜ、本当のことなんだから。いつもよりてんで弱っちそうだって。
 おれはあいつの、ほんのひとかけら。あいつが立場だとか境界だとか規則だとか、そういうもので動けなくなっちまってる上、なんやかんやと理由をつけてうじうじしてるモンだから、逆にそういうのが面倒になっちまった、いいや一人でも行ってやろうって気持ちだけが飛び出したんだと思えばいい。こんなおれじゃあ頼りなかろうが、なに、そのうちあっちも追ってくるだろう」

 いまだ白い骨のままの片腕をひらひら振ってみせると、不気味にかたかた打ち鳴るが、若菜は恐れも泣きもしない。
 かえって、己の境遇よりもその痛々しさにこそ胸を打たれたらしく、痛々しいその手をそっと包むように握って頬を寄せ、心からの感謝を感じて笑うのだった。

 そう、こんな時でも、彼女は笑う。
 向日葵のように、陽のように。

 自分に備わっているのが、いつか聞いた、鯉伴の母のような力だったならとちらり、頭をよぎったろうに、無いものねだりや悲嘆に暮れることもなく、笑う。
 それが己の力だとでも、言うように。

「こっちの可愛い鯉伴さんとなら、私、並んで歩いてても変に思われないかな」
「可愛い………。ちょっとそれは、なんだ、複雑だな、流石に。それになんだよ、いっつも並んで歩いてるじゃねーか。変に思われるって、なんだ」
「だって、化猫横丁に行ったときとか、みんな私のこと、妙なオマケがついてるみたいな目で見るんだもん」
「ん?そうか?あんまり気にしたこと、なかったけど」
「そうなんだったら。鯉伴さんがもうちょっと背が低くて目線が近くて、もうちょっと私と年が近い感じだったら、そんな鯉伴さんと一緒に歩けたらどんな感じかなって、そう思ったこと、何度だってあるもん。ふふふっ、一つ夢が叶っちゃった」

 こんな闇夜の中でも、一つ微笑む理由を見つけただけで、若菜は千にも万にもする術を知っていた。

 なるほど、目線が近いというのは、何か不思議な魔力があるのかもしれない。
 一つの理由でさも楽しそうに笑う若菜を、少年はどきりとした顔で、まるで初めて彼女を見たように、まじまじと見つめるのだ。
 それから何かを思い出すような、あの、遠い目で。

「そんな些細な夢でいいんなら、これからいくらだって見られるさ。お前にはそうやって、何でも笑い飛ばせる人のしなやかさがある」
「ううん、笑えるのは、鯉伴さんがいてくれるからだよ。一人きりだったら、笑ったりできないでしょ。鯉伴さんが追いかけてきてくれたから、私、すごく嬉しいの。勝手だよね。自分一人で行くって決めたのに、心細くなったから、今度は嬉しいって思うなんて。でも、巻き込みたくなかったのも、嬉しいのも、本当の本当なんだよ」
「ああ、まったく勝手だよ。勝手に手ぇ離すんじゃねぇよ。嫌なこと思い出すんだよ。すり抜けていった手を思い出すんだよ。巻き込めよ。迷惑かけてくれよ。手ぇ離されるたびに、こっちは毎度毎度、迷子なんだよ」

 ありがとうと、笑って手を離していった女もあれば、古歌一つ残して去った女もあり、恋であったと判じる前に死に別れた女もあり、決して心を開かぬぞと意固地になっていたところへ現れて、何の得にもならないだろうに優しく抱いてくれた女もあった。
 またいつかと手を振って道を別れたまま、どこで何をしているやらわからぬ師もあれば、どこへ帰ったのか、便り一通寄越さぬ薄情な守役もあった。
 いつ会えるのだろう、いつかまた会いたいと、願う心は人のもの。
 相手も同じ心を持ち続けてくれているのかさえ、不確かな陽炎、蜃気楼のようにあやうい。
 信じる心は、失われやすい。

 人の心は妖の命に応じて、長じれば相応に大人になっていくようなものではないらしい。
 妖の中にはいくら年をとっても子供のような輩も多いのに対し、人間ときたら百年足らずのうちに、昨日生まれたかと思えば今朝には青年になっていっぱしの口をきき、夕方にはまるで以前から年上であったかのように鯉伴を宥めることさえ覚え、明日にはいくらか悟った顔で死んでいく。
 鯉伴はいつまでたっても、彼等に追いつくことができず、彼等に訪れる明日が、少しでも遅いことを願う心にこそ苛まれている。

 女も男も、鯉伴に関わる彼等がどうやら勘違いしているのは、鯉伴に手を取られると、彼の庇護を受けていると思いこむのだ。
 若菜もこの時まで、そうだった。
 だから、今までもたびたびあったことと同じように、彼の手のあたたかさに甘えて、彼の強さに隠れて、彼に傷を負わせてはいけない、これ以上迷惑はかけられない、巻き込めない、だから彼の役にたつどころか重荷であろう自分は、彼から離れなければと、思いこんだ。

 しかし、どうやら違うんだなと、寂しい湖の岸辺で、初めて、わかった。
 若菜はまだ子供であったので、寂しいという気持ちはよくわかった。
 施設で自分よりも小さな子の面倒もよく見ていたので、あの手を握ったときの、逆に励まされる気持ちも知っていた。

 唇を尖らせてすねたような表情をしている、少年にかける言葉も、簡単に見つかった。

「ごめんね、鯉伴さん。ちゃんと話せばよかったね。ごめんね、もう、手は離さないから。迷子になんてしないから」

 鯉伴の庇護を自分が必要としていただけではなく、初めて会ったあの日あのときに、若菜が鯉伴の力になれたように、ささやかな日常の中で、彼の力になれていたのだと。
 手を離して自分が独りになったのではない、鯉伴を独り、今までも続きこれからも続く、長い長い時の中に置き去りにしてしまったと、思い当たったのだ。

「それにきっと、またみんなに会える日が来るよ。おばあちゃんが言ってた。亡くなる前にね、ほんの少し休みに行くだけだから、って」
「少し、休みに、か。そうか。おれもまた会えるかな、あいつ等に」
「会えるよ、きっと」

 二人、顔を見合わせて笑った。
 それから、示し合わせたように、己等を見下ろす金の月を見上げたところ、これを横切る、小さな影がある。

 宝船だった。



+++



 見覚えのある船影に、若菜はぱっと目を輝かせたが、次に、月を横切るその船が、これほど辺り一帯を得体の知れない気配が包んでいると言うのにまるで気づかず、湖の上を通り過ぎてしまいそうになっているのを目にして、気づいた。
 若菜を欲する湖の主は、あれが煩わしい邪魔者だと知っている。
 それで今は姿を現さず、湖面はしんと静まり返っているのだ。

「大丈夫だ、若菜」

 気づいてと知らせる術を持たない若菜の隣、鯉伴は何の心配もいらないと、肩を抱く腕に力を込めた。
 確信なのか、ただ信じているのか、若菜と同じように、空を横切る船を、見つめながら。

「気づくさ。お前が気づいたんだから、あっちだって、気づく。お前に見られると、そういう気分になるんだよ。見つめ返したくなるんだ」

 まもなく、変化は起こった。
 小さな宝船から、さらに小さな影が飛び降りたかと思うと、これに続いてバラバラと、やはり小さな影が続いたのだ。
 息を呑んだ若菜の前で、湖に浮かぶ月の影に真っ逆様。
 しかし、若菜にも、これをただ見守る時間は許されなかった。
 湖の上に、ほんの僅かでも異物が触れようとするのが許せぬとばかり、水面が、鳴った。
 風が強く吹いた。
 水面はますます波立ち、泡立ち、続いてうねりをあげて、湖が立ち上がる。
 少なくとも、湖の岸辺に立ちすくんでいた若菜には、湖から比べれば、木の葉一枚と同じ程度に小さな若菜には、そう見えた。

 対岸が見えぬ海ほど大きな湖は、月が浮かぶその中心からぐわりと立ち上がり、向こう側から水底へ向かって巻いた渦は、逆にこちら側では隆起する角と化し、同じように、水面の月と思われていたものは、いつしか二つに増えて、流れる水の膜の向こう、爛々と光る目玉になった。
 夜刀神。
 角の生えた、蛇。

 人の身でどうしてそれ以上、神を言霊に封じることができたろう。
 神を言葉などであらわすことができたろう。
 古くより日ノ本にあり、人が増えるに応じて彼等は去ったと伝えられるが、しかし卑小な人の身で、どうして彼等に打ち勝つことができたろう。彼等は敗れたのではない、去ったのだ。人智を越えた世を見据える目を持ち、人などただ腕を一振りしただけで大風に、地鳴りに、大雨に、飲まれて消えるだけの小さく矮小な人などを、いちいち潰していてはきりがないと考える者もあったろうし、中にはあはれを感じ入る神もあって、増える人等にもいとしきかなしきがあろうと、相応の慈悲を持つ者もあったろうが、とにかく彼等は、日ノ本に蔓延る新たな神や人に、敗れたのでは決して、ない。

 杭を標てて、境の堀を置き、夜刀神に告げて曰く、此より以下は、人の田と作すべし、今より以後、吾は神の祝となりて、永代に敬ひ祭らむ。ねがはくは祟ることなく恨むことなかれ。

 このように約束されて、彼等はこの土地を、人に貸与しているのみに他ならない。
 約束された奉納物を受け取り、見返りにいくらかの加護を人々に約束して、連綿と続く時の中、彼等にしてみればほんの、まばたきの一瞬かもしれぬこの時代、人が幅をきかせる窮屈な時代をまどろんで過ごしているだけに違いない。



 この神が ――― 日ノ本の湖が、 身 を 起 こ し た 。



 大陸の人間からしてみれば、山紫水明の極東の島国に溢れる水の加護こそ類稀なもの。
 類稀なる水の性を内に秘め、隆起する二つの渦から絶え間なく流れ続ける神性はまさしく、加護を身に纏った神と呼べよう。
 その身に比べれば、魑魅魍魎だのその主だのは所詮、その大きな身の上でどんぐりが背比べをしているのみに他ならない。

 若菜はまばたきすら忘れて、湖の神が身を起こした拍子に嵩を増して岸辺から溢れた波に、あやうくのまれてしまうところだった。
 天に向けて咆哮した湖の、声に縛られたかのようにびくりと身体を震わせるや、爛々と光る目から不思議な力が彼女を射抜いて縫いとめてしまったように、動けなくなったのだ。

「あぶねェッ。若菜、下がれッ!」

 彼女を抱きかかえたまま、鯉伴が横飛びに避けていなければ、神の飛沫に隠れて泳ぐ使いの妖魚に、胸を貫かれ死んでいたろう。

「若菜、しっかりしろ。あんな不細工に魅入られる奴があるか。破談に来たんだろ?」
「り、鯉伴さん。……鯉伴さん?鯉伴さん?!血、血が!」

 はっと若菜が我に返ったときには、遅い。
 いくらかの妖魚は、無事な片腕で逆手一文字、閃かせた匕首で払いのけたものの、無防備な贄を無傷で守るほどの力は、今は想念のみで動いている鯉伴に、残さされていなかった。
 濡れた黒い岸辺に若菜を押し付けて庇いながら、牙持つ小さな魚を避けきれず、ほんの拳ほどの大きさの妖魚に背中から胸を貫かれ、鯉伴はぼたぼたと胸から血を流した。
 流したが、その傷に驚いているのは若菜ばかりで、彼自身は己の胸を食い破った妖魚どもを、返す一撃の剣圧で全て押し返し、もう一度、しっかりしろと、繰り返しただけだ。

「しっかりしろったら、若菜。奴さんの目を見ろ。お前の目で、しっかり、見返してやれ。
 厳しいようだがこれは、お前の血に流れる業のようなモンだ。お前じゃねぇと勝てないし、お前が決める必要があるんだ。お前のばあちゃんが、昔から続く因縁を断ち切ろうとしてできなかった、けどそこからお前を逃がそうとしたってことは、ばあちゃんにとってもこれは続いてちゃダメだって、そう思えたってこと。この年まで逃げられそうだったってことは、あの野郎はなにも、全知全能ってわけじゃねえ、そういうことさ。
 若菜、言うんだろう。そのために、ここに来たんだろう。ばあちゃんがちっちゃなお前の手を取って隠して繋いだその命で、でっけぇ啖呵を切りに来たんだろう。言ってやれ。睨みつけて、言ってやれ。
 なに ――― おれは死ぬわけじゃねえ。幽霊みたいなもんが、死ぬわけねぇだろうが。心配は、いらねぇよ」
「でも、でも、傷。傷が!」
「大丈夫だから。あっちに、戻るだけさ。ちょいとしばらく眠るかもしれねぇが、それだけだ」

 幽鬼だとしても、若菜には生身にしか見えない。
 胸からだくだくと血を流し、青い顔をして弱々しく膝をついて笑った鯉伴は、今にも死んでしまいそうだった。

 死ぬのではないとわかっていても、目を見開き、恐れおののいてふるふると首を横に振る。
 強く強く、鯉伴の手を握って、逝かないで、逝かないでと涙を零す。
 淡い銀色が、今はもうほとんど霞のように消えてしまいそうなほど弱々しくなって、なのに鯉伴が消えてしまえないのは、こんな風に大きな目で、ぽろぽろぽろぽろと涙を零されては、いつも太陽のように笑っている彼女が、こんな風に大雨を降らせているのでは、消えるにしても後ろ髪が引かれてならないためだ。

 だから、鯉伴は若菜の手を握り返し、力を使い切った虚ろな体を岸辺に横たえて、例えばこれが今生の別れであるとしても、きっと同じ約束をしたろうと思える、少年の姿と心のままの己だから言えること、口にした。

「大丈夫さ。ちょいと、眠るだけだ ――― 独りなんかにゃ、させねぇよ。絶対、絶対に、させねぇよ。お前が、言ったんだろ ――― またきっと、会えるって。おれも、今は、そう思うよ」
「じゃあ ――― じゃあ、また、その姿で。会える?鯉伴さんと、一緒に、会える?」

 今度は例えば桜並木を仰ぎながら、手を繋いで。
 夏に河原を、秋には色づく紅葉を見つめながら、あるいは冬の日、一つの傘の下で。

「ああ。約束するよ」

 はにかむように笑みを浮かべて、ことりと眠りについた鯉伴は、刹那、淡い光に包まれて消えた。

 若菜は、独りぼっちに、なってしまった。



+++



 独りぼっちになった若菜を見下ろすのは、湖の神に他ならない。
 己の身じろぎ一つで、彼女の傍らにあった幽鬼が一つ消えたことなど、気づいてもいない様子で、流れ続ける水の身から、ぎょろり輝く二つの月が、若菜を見下ろしていた。

 現れ出でたそのときよりも、いくらか落ち着いた様子で、岸辺に佇む若菜に、物珍しそうにしている。
 向かい合って立っていても、今度は岸辺から妖魚を迸らせることのないよう、あちらから気を使っている様子だった。

「あ ――― あなたが ――― あなたが、この場所の、主なんですか?」

 話は、いやその前に言葉は通じるのだろうか、何から話せばいいのか。
 ばくりと喰われればそれで終わるほどに大きな相手と対峙して、疲れだけではない、若菜はもう恐怖で今にも崩れ落ちそうなのだが、鯉伴に言い聞かせられたとおり、天に浮かぶ二つの月を、睨み返した。
 すると、どうだろう、その月の一つが、内側からぐにぐにと動いている。
 目の主は、あまりこれが面白くないらしく、時折、人が瞬きをするように己の月の上にさざなみを起こして湖面の月をゆがめるなどして、振り払おうとしているらしい。

『贄が口をきいた。面白い』

 しかし返ってきた答えは、若菜への問いに対するものではなく、純粋に好奇心を憶えて彼自身が独り呟いた、それだえのものだった。

「私 ――― 私は、この街に連れ戻されてきました。今まで何度あったかなんて知らないけど、生贄にするって、そう言われました。でも嫌です。そんなの、嫌。私は、生きてます。風が吹けば枝が揺れるだけの、そんな条件反射で生きてるんじゃないんです。怖いものを《視》れば、怯えます。楽しいことがあれば、笑います。私は、人間です。貴方に食べられて終わるために生まれてきたんじゃないもん。ううん、私だけじゃない、貴方に食べられてきた人たちも、きっとそうです」
『そちは、若菜だ』
「そう。私の名前は、そうです」
『ならば、そちは贄だ。そういう約束であるから』
「そんな約束、私、してません!」
『そちがしていなかろうと、その身の内に流れる血との約束』
「そんなの、私、憶えてない!」
『そちが憶えている必要はない。我が、憶えている。それで良い』
「そんな。乱暴です。食べられる方はそんな約束、憶えてないのに』
『そちの親御、親戚、縁者一同は知っているはず』
「私に両親なんて居ない、会ったことも無い!そんな他人に身を売られて、これが黙っていられますか!私は嫌、絶対、絶対、嫌!」
『やれやれ、聞き分けの無い ――― 《外》の彼奴と言い、そちと言い、どうしてそう、卑小な輩は忘れやすいのだ』
「だって、知らないもん!お父さんも、お母さんも知らない。おばあちゃんは死んじゃったし、私の家族はこの街なんかに、ただの一人も居ない!私は、私は、あなたなんかとの約束を守りに来たんじゃない、破談に来たんだもの!」
『ほぉ ――― 破約、とな。《神の祝となりて、永代に敬ひ祭らむ》と、それを破約するとな』
「そんなの知らない、わかんない!」
『そちが我のモノにならぬなら、一族の皆は加護を失う。これまで栄えてきた家は枯れ、栄えてきた血は衰えていくだろう。構わぬというか。そちは、己さえよければ、それでよしとするか』
「 ――― 」

 これには少し、答えを迷った。
 見も知らぬ人たちではあるが、加護を失えば悲嘆に暮れるだろう。これまでどれだけ繰り返してきたのかしらないが、続けてきた分だけ余分なオマケがあったのなら、これからはそれを失えば、余分に努力を強いられることにもなるだろう。
 それがわかっていても尚、つい先ほどまで側にいてくれた、あの人に向かって練習したように、今一度。

「私は、摘まれるための若菜なんかじゃない。供物なんかにはなりません。ううん、供物になるためだけに産まれる子供なんて、いやしない。これまでも、これからも。
 これまで、私の生まれた家の人たちが、お世話になりました。
 でももう、結構です。私は ――― 私は、貴方のところには、行きません」
『………家を捨て、土地を捨て、加護を失い、そちはそれで、どこへ行こうと言う。卑小で、矮小で、支えが無ければ満足に立ってすらいられぬ分際で』

 分厚い膜を通り抜けようとする何者かが、天に届くような巨大な水の蛇の目玉の奥で、暴れまわっている。
 瞬きもせず睨みつけている若菜だから、わかった。
 目が乾いて涙が出そうになっても、目を閉じずに睨んでいると、こっちがだめならあっち、あっちがだめならこっちと、内側で暴れまわっている何かがいる。

 あちらはあちら、こちらはこちらで、別々に閉じている。
 だからあちらとこちら、まるで手の届かぬように思えるし、事実、己の目が歪むのだけが煩わしそうに水の蛇は思っているようだが、他ならぬ、若菜だけは知っていた。
 若菜を欲する力の強い妖怪どもすら物怖じする、痛い呪詛を施したあの赤い窓枠も、彼には何の役にも立たなかった。涙を拭うため、ただそれだけのために、何度でも何度でも、あの白く乾いた骨が砕けて粉になって風になったとしても、きっと今度はその風の姿で、会いに来てくれると、知っていた。



「支えたいひとがいるんです。迷子にしちゃいけないひとがいるの。手を握っていてあげたいの。
 一番に見つけてもらえないと拗ねるくせに、かくれんぼが一番得意なの。私じゃなくちゃ、見つけられないの。
 家がなくても、土地がなくても、加護なんかがなくても、その人と、鯉伴さんと、私、一緒にいたいの!」



 途端、境界が、壊れた。

 轟く音がして、空が破裂したかのようだった。
 まるで、この街の夜空を大きな紙風船が被っていて、空気をいっぱいに含んだのが、突然ぺしゃりと叩き落された、そんな音だった。
 突如として、若菜と対峙していた巨大な蛇の片目が、天空に浮かぶ二つの月の内一つが、内側から破れて流れる血のごとく水を噴出したのだ。

 驚いたのは若菜ばかりではない、目の主も同じだった。
 おおと巨体をよろけさせ、内側から生まれ出でて片目を喰らった無礼な輩に、若菜とは違う、憎々しげな眼差しを向けた。



『おのれ、おのれ ――― 貴様!』



 ところが睨まれた方にはまるで、睨まれる危機感など無い。
 むしろ、一閃させた祢々切丸の刃が今度こそ届いたと思われたその瞬間、あちらからこちらへ真っ逆さまに落ちたので、あちらからしてみれば、底へ向かって渦を巻いていた湖だと思っていたのが、外に出てみれば天高くに水が巻き上げるそのてっぺんに放り出されたのだから、たまらない。

「あ、れー?水の底に向かってなかった?おれたち?」
「や、やだやだやだやだッ、高いところ怖いよぉ首無ィ!」
「また落ちんのか!もうやだアンタの側近!だ、大丈夫、大丈夫だから紀乃!お前も俺も妖怪だろうが!落ち着け!胴体返せ!」
「黒、何とかしろ!特攻隊長なのだろうが!」
「こんな時だけ役職譲るな、青!お前が何とかしろ!先輩だろうが!」
「 ――― もー。鯉伴、二代目になって何百年経つのさ。計画性を持とうよ、計画性を〜」
「おめーの愚痴小言は飽きた!なんとかしろ、河童!」
「ったく、しょうがないんだからー。河童忍法、《波乗りの術》」

 宝船から降りたときなど例えようもなく、天まで届く水の蛇のまさに目の玉から放り出された彼等は、そのまま水面に叩きつけられると思われたが、しんがりを守った河童がそうはさせない。
 急勾配を描く水の蛇の身にひょいと乗り上げると、これに上手いこと足をつけると、どこからか大きな板切れをつかまえて、両足でバランスを取り、次々に仲間たちをつかまえたのだ。

 ある者は河童に襟首や髪をつかまえられ、あるいは板の端につかまり、板に乗り切れぬ者は河童が通った後の穏やかな水流に身を任せて、一路岸辺を目指して突っ走る。
 もちろん、湖の主は怒り狂っている。睨みつけるだけで済ませてくれるはずは無い。
 怒りのままに、湖を震えさせ、天からいくつも水柱を振り下ろし、重力に逆らって跳ね上がり、水であったものが手の形となり、牙を持つ獣となり、岸を目指す一同に襲い掛かる。

 四方八方、上も下も、どちらを向いても全て敵。
 流石の百鬼夜行も、天から地から湧き出すように襲い来る者どもに、姿が見えなくなるほど覆われて、果てるかと思われたが、ならない。

 青田坊が吼えた。うちの二代目の大事な親友殿を泣かすんじゃねェと大声で怒鳴り、己に飛び掛ってきたものどもを蹴散らした。
 もう片翼を努める黒田坊は網笠を目深に、やはり岸辺でただ一人、己等を見つめる少女を目にして、静かに怒った。彼に飛び掛った妖魚たちは一瞥すらされず、彼が袖を翻した刹那、粉微塵となってかき消えた。
 落ち着きを取り戻した毛倡妓が、後ろから追いつかんと跳ね回る、巨大妖魚から己等の姿をゆらめき艶めく髪で隠し、その合間に首無が殺取の刃で追っ手を貫き絡め取る。

 主の心を映すように湖は泡立ち波立ち、一同を乗せる板切れは何度もひっくり返りそうになりながら、岸へ、岸へ、岸で待つ彼女の元へ。

 あまりの速度で、板切れの先端は浮き上がるほどだが、これの先頭にどっかと片足を乗っけて支え立っているのが、祢々切丸を抜き放った奴良鯉伴。
 湖の主が振り下ろす、一撃でも喰らえば木端微塵になりそうな水の大槌を、一度、二度、三度、四度目以降は数が多すぎて数えることかなわぬほどに、刀身で弾き返し、裏拳で押し退け、蹴り飛ばし、板切れの上であるのに舞うごとく。

 あともう数間で岸につき、鯉伴の足が土を踏むところとなったとき、業を煮やした主は、最後にとどめとばかり、これまでとは比べ物にならぬほどの巨大な槌を空に作り上げ、これで押しつぶさんと振り下ろした。

 怒りのあまりに、駆け寄ろうとした若菜すら、血走った目には見えていないようだった。
 彗星のように襲い来る水の大槌に、彼等の姿は岸からも天空からも、湧き上がる泡に波に掻き消えて見えなくなった。
 そうなってから、ふむ、贄も消えてしまったか、惜しいことをした、と首を傾げたが。



「あっぶねぇなァ、夜刀神さんよォ。お前の嫁さんまで巻き添え食うところだぜ?」



 人の身を借りながらその力、どこまで底が無いのか。
 ほんの小さな身のくせに、霧と化した水面を割いて聞こえる鯉伴の声には、今の一撃、まるで堪えた様子が無い。



 それだけではない。
 知らず知らずの内、湖の主は、夜刀神は、僅かに岸辺から、身を離していた。
 神と呼ばれる身でありながら、湖の主はこのとき、たかが半妖を ――― 畏れた。



 ぎらり、光る黄金の瞳には、もはや一片の慈悲も無し。
 鷹揚にして凄烈、理念よりも情愛、己でもって己は悪の総大将であると名乗りを上げながら、懐の中に抱えているのは全てを拒む無ではない、人がまどろむための星の闇。
 人であったことがありながら、あるために、人の心で妖どもを捨てられなかったそのひとが、今こうして怒るのは、人の心であるがため。
 妖でありながら、あるために、妖だけではなせない、人の心がなくばなせない、至ることができぬ座へ、技量の足りぬところを補って、ひょいと足をかけようとしているのだ。



 神格の座へ。同格の座へ。



「そんな乱暴な亭主にゃ、こんなイイ女、もったいねぇ。悪ィが、こいつはおれがもらってく」



 腕の中に華奢な少女を抱えた主を戴き、百鬼夜行が、旧き神と対峙した。


<4へ続く>






アトガキ
二代目と河童の関係→の○太とドラ○もん。押入れじゃなくて池に住んでるけどね。
原作で若が川で一人考え事したいとき(遠野編前)、川で西瓜冷やしてるときに河童と一緒にいたけど、あれって河童が一番気を使わなくって楽ってことかなーとか想いました。
あと、七分三分の盃かわすとき、あとに河童がひかえてるのに、その手前のつららさん相手に夜姿になっちゃうとかもね。若、気ィつかってないよね。
つまり若と河童は、の○スケとドラ○もんということになるだろうか。

とか色々喋りましたが、奴良家三代とそれを取り巻く妖怪事情を考えるのが楽しいです。
戦闘はあらかたこれで終わりですが、お話はもう少し続きます。