彷徨い歩いて、日が暮れて。
 その頃になって、街を見下ろせるほどの高台についた。

 街は、山に囲まれた谷あいの、湖の端にしがみつく、あるいは湖にかけられた桟橋のような形をしていて、今は小さなあの街からこちらの山へ、いくつもの小さな光が蠢いているのだった。
 山狩りの光だった。

 いつもはよく《視え》るばかりの目が、今ばかりは役にたたない。
 この街に入るや若菜が何かを見ようとすると、じいっと、あの紺碧の目が、どこからでも若菜を見返すのだ。
 すべてを見通し逃がさない、若菜にほんの一端を譲った紺碧の目が、今はそれを目印にして、どこからでも若菜を見つめている。

 おかげでろくに、目が《視え》ない。








 若菜は恐怖で震えが止まらなかった。
 それがなくても薬や術で力が入らない足を、何日も横になって眠らされていたために萎えて役にたたない腕を、がむしゃらに動かして、草の根や木の根につかまり、自分の身をここまで引きずってきた。
 綺麗だった着物など、ほとんど脱ぎ捨てて、今は緋袴に白い絹の袷の上から、まだ肌寒い季節の上着代わりに、邪魔な裾を縛った打ち掛けを一枚、羽織っただけだ。
 それだって、何度も転び、元の色などほとんど、泥や草の染みに隠れてしまった。

 あの部屋から連れ出してくれた少年は、若菜が足を踏み外しそうになったときに支えてくれたり、手があと一つすがるものを見つけられないときに、さっと手を差し出して引き上げてくれたりはしたけれど、決して背負ったり抱きかかえたりはしなかったし、若菜もそれで当然だと思っていた。

 若菜の目にも、この少年は、ずいぶん弱っているように見えた。
 疲れているのではない。弱っている。
 平然とした顔をしているけれど、若菜を囲んでいた結界に触れた片腕は、今も肉をつける気配すらなく、無惨に骨をさらしたまま。
 ただの人ならば、あの窓枠に触れてこのような傷を負うはずはない。
 人のように見えるけれどそうでないものなら、これくらいの傷はすぐに癒やしてしまえるだろうし、それができないのなら、弱っている証拠だ。

 いいや、いいや、もしも彼が強くて、背負うと言ってくれたとしても、若菜は自分の足を、腕を、使うと言っただろう。

 これは若菜の戦いだった。
 自分で決めて、力を振り絞って外へ逃げた。
 祖母のときとは違う。
 何もわからないまま手を差し伸べられて、その手を掴んだだけのあのときとは、違う。
 何も知らなかった幼子の頃とは、違う。若菜はもう、自分で自分がどうしたいのかを決められる。好きなひとを自分の心で決めたように、自分で生きたいと願っている。

 同じように、きっとあの黒服のひとたちにも、自分を世話していた女たちにも、会ったことのないお父さんにも、好きなひとがいて、失われては困る暮らしがあって、それでどうしても、こんな風に一人を犠牲にしなければならないからどうかという話になるのなら、若菜だって、仕方がないなと思ったろう。
 嫌だけど、怖いけど、ちゃんと理由を、のっぴきならない事情を、向かい合って話してくれたら、やっぱりそれしか方法が無いのなら、ここに来ようと決めたときと同じように、ちゃんと自分で、仕方がないなと、決めたろう。

 抱きしめてほしいわけじゃない。
 愛してほしいなんて言わない。
 そういうあたたかなぬくもりは全部、祖母がちゃんと、若菜の肌に、残してくれた。

 ただ、人間なんだから。
 人同士のことなんだから、向かい合って、話し合って、それから決めたって、遅くはないはずなのに、なのに若菜はここへ連れてこられるや、心など宿らぬ傀儡のように扱われたのだ。
 犠牲になって当然、毟りとって当然の、踏みにじって当然の、野草と同じに扱われたのだ。

 ありがたがってほしいわけでもない。
 立派な墓を作ってほしいわけでもない。
 ただ、説明してほしいだけだ。
 犠牲の上に成り立つ暮らしが、どうしても必要な理由を、わかるように説明してほしいだけだ。

 なのに、若菜にまともな受け答えをしようとする者は、なかった。

 若菜に残された手段は、手足を使って、自分はただ喰われる餌とは違う、ここに来るのだって本当はとっても嫌で嫌で仕方なくて、何度だって逃げだそうと思ったかわからないということを、態度で示すことだった。
 あなたたちがしようとしていることは、それだけ奇異で、奇妙で、古くさい乱暴な行動なんだと、指をつきつけて叫んで見せることだった。
 《視え》てしまう若菜だから納得もするし、もっと昔はあらがう方法もなかったかもしれない、あらがおうとして、手ひどいしっぺ返しをくらったのかもしれない。

 でも昔は昔、今は今。
 せき止められた水が、その土嚢を壊すために、勢いを諦めることがあるだろうか。
 土の下から顔をだそうとする花が、真上にかたい石があるからと、そこで咲くのを諦めるだろうか。
 同じように、若菜だってもっと生きたい。
 生きていたい。ただ泣き寝入りなんて、絶対に嫌だ。
 神様に虐げられているのなら、どうして人間同士、話し合って力を合わせて、もうそんな事は嫌ですと申し上げないのか。
 今、若菜を追って山に入ろうとしているほどの人数がいるのなら、きっと何かしら、方法があるはずだ。
 なのに、彼等は、そうしない。

 若菜はこの街に、来るしかなかった。
 それは別に、むざむざ何か得体の知れないものの、餌になるのを納得したからではない。
 セツ子おばさんを、見捨てられなかったからだ。
 きっとこれが逆なら、セツ子おばさんだって、若菜を見捨てない。
 家族だからだ。
 初めて、若菜を気味悪がらなかった、家族だからだ。

 けれど、彼等は、家族どころか、若菜を人としてすら認めない。
 ただ、若菜を犠牲にしようとだけする。
 若菜が犠牲になって当然のように。
 それだけが、あらかじめ決まった事実のように、右へ倣えだ。
 そんなの、筋が通っていない。

 そんな風に怠惰怠慢な人たちをも愛するような、広い心を若菜は持っていない。
 ただ黙って食べられるのを怯えて待っているのも、まっぴらごめんだ。
 そこは祖母に申し訳ないけれど、少しお転婆になってしまったらしい。








「それで、逃げるのは成功したみたいだけど、この後はどうするんだい?」

 若菜が自由にならぬ四肢を奮い立たせて、高台にたどり着き、涼やかな気配がする大木の洞に身を寄せたとき、街の火が、若菜が進む方向とは真逆の、山向こうへ進んでいるのを見て、少年が口を開いた。
 不思議なことに、この少年が人でないもの、時折ぼんやり白く透き通って見えるところから察するに、幽鬼の類だと思われるのだが、まるで不安や恐怖を感じないので、若菜は素直に応じた。

「…………みず」
「水?水かい?そうだなあ、ちょいと水筒に残ってるけど」

 何度目かに試したとき、若菜の唇を小さく震わせて、声が出た。
 寝起きのような、掠れた声だ。しかも、長くは紡げない。

「…………うみ」
「…………湖?湖の方へ、行こうって言うのかい」

 ここまでの道のりは、決して楽ではなかった。
 胸ではまだばくばくと、心臓が高鳴っていて動けそうにないが、若菜の意識はしっかりしていた。

「湖に ――― いるって ――― みんなが、そう、言ってた ――― この街の、神様が、いる、って」
「ちょっと待て。そんなところにむざむざと、喰われに行ってやるつもりか?折角逃げ出せたってのに」
「逃げ出せてなんて、ない ――― 《見つかって》、いる、から ――― 」
「なに?」
「 ――― 居る ――― 」

 全速力で走り続けたように、息はあがっていて、まともに言葉も紡げない。
 その代わり、光を取り戻した若菜の瞳は、雄弁だった。
 幼い面立ちなのに、己を見つめる大きなものの目玉を、ちゃんと見極めているのだ。

 すなわち、中天にかかる、赤い月を。それが一瞬、ぎょろりと瞬きをしたのを、決して、見逃さない。

 ぎくりとしたのは、少年の方だ。

「でかっ。奴さん、この街じゃあ、空まで呑み込んでるのかよ。なんだ、ありゃ」
「おばあちゃんが ――― 話して、くれた。一度だけ ――― 蛇の神さまの、お話」
「なんだ、くちなわかよ。馬鹿言え、あんな馬鹿でかい蛇が」
「世界を飲み込んだ ――― 蛇 ――― 自分の尾をくわえた蛇が ――― 世界の外側と内側を、作ってるん、だって」

 薬の抜け切らぬ体で、無理をしてここまで這い上がってきたためだろう、冷たい月と風から身を隠した途端、若菜の体は休息を求め、急に瞼が重くなってきた。
 身を寄せた洞が、赤く輝く月に背いて若菜をそっと隠すように、安堵をもたらす。
 ぐったりと洞にもたれかかると、少年が荷の中から毛布を出して、着せ掛けてくれた。

「蛇が起きると ――― 輪になった世界が ――― 崩れて、壊れて、だから、お腹をいっぱいにしておかないと、いけない、って。でも、そんなの、嫌だぁ。食べられるのなんて、嫌」
「喰われるために、行くんじゃないんだろ?面倒なことは避けて、とっとと逃げた方が得策なんじゃねぇのかい?だいたい、何しに、行くんだ」
「 ――― 起こしに、行くの」
「終わらせに?」
「ううん ――― 始めるために、言いに行くの ――― もうこんな事はやめますって ――― 皆の代わりに、言いに行く」

 ほんの少しの休息を求め、眠ってはいけないと己に言い聞かせながら強い意思を言霊にする。
 そんな若菜に、少年が、くすと笑ったのがわかった。
 お兄ちゃんがいたら、こんな感じだったのかなあと思うと、すぐ脇に座った彼に甘えたくなった。
 名前も知らないのに、懐かしい気配が若菜を包んでいて、これは誰か知っているひとのような気がするのだが、もう一度よく《視て》みるにしても、疲れきっていて、目など開かない。それでも、若菜のほんの小さな望みを掬い取って、そっと肩を貸してくれた少年の、溢れんばかりの優しさが、誰あろう彼女の想い人と重なった。

 それにしても、こんな狂い事、一体どれほどの年月、繰り返されてきたことなのか。
 さらに言うなら幾つもの分かれ道が、今この時、若菜の前にはあったに違いない。
 ただ一人でこの街から逃げ出すも、その前に絶望して自ら命を絶つも、己一人だけに帰着する結果を招くだけでも、幾千通りの方法があったに違いない。

 加えて言うなら、若菜はこの時既に、ただ一人で先へ行こうとは、していなかった。
 《先》とはもちろん、この旧い世界の、《先》だ。
 閉じた円環、己の尾を咥えた蛇が眠る、日ノ本でありながら旧い世界として閉じている、こんな色褪せてくたびれた街など越えて、若菜は《先》へ行くことを願った。蛇が世界を作り出す円環を崩し、長閑に見えて変化の無い今を、打ち破ることを願った。
 彼女は何一つ力を持っていなかったが、幸いにも生まれつき足は二本あったし、腕もあった。
 声も出る。
 彼女は人間であったので、言葉を操ることもできた。

 山狩りの光は、てっきり彼女が山向こうへ逃げるものと考えて見当違いの方向を探していたが、それだって誰を責められはしないだろう。
 特にこの街の人々ときたら、自分たちのために供物を捧げるのは当然であったし、逆に考えて自分たちなら尻尾を巻いて街の外に出るだろうとやはり無意識に考えていたので、捜しても捜しても足跡さえ見つからぬ贄に焦りこそすれ、まさか湖に向かっているなどとは、思いもしなかったのだ。

 おかげで若菜は、少年の霊と大木の加護に守られて、その場所で少し、休むことができた。
 もしも一人だったら、ここですとんと力が抜けて、若菜は眠りに落ちてしまっていたかもしれない。
 振り絞る力もなく、これ以上はもう歩けないと、思考を放棄して、眠りに落ちてしまっていたかもしれない。そうなれば最後、今は遠く見当違いの方向を探している人の群れも、やがてはこちらに触覚を向け、若菜が目覚める前に彼女に気づいて、今度こそ彼女から言葉も意識も奪ってしまったろう。

 そうならなかったのは、疲れに負けて瞼を閉じようとしたそのときに、少年の方から、

「そろそろ、行くかい」

 手を差し出してくれたからだった。
 薬も術も体からいくらか消えて、途端に空腹と喉の渇きに苛まれたが、五感は冴え渡っていた。



+++



「夜刀神?なんだそいつは。そんなの、奴良組のシマにいたかい?」
「いいえ、違います総大将。夜刀神とは旧き神、名を失った神の名です。角を生やした蛇であり、その姿を見た者は一族もろとも滅んでしまうと伝えられております。今より千五百年近くも昔に名を失った神なれば、我等もいかな姿をしているのか、まるで存じません。親父の代には、既に姿を消していたそうです」
「するってぇともちろん、おれの親父も知らない奴なんだろうな」
「おそらく」
「そいつが、西方に居る。間違いないな?」
「いるとすれば西方ではないか、ということです。夜刀神であれば、常陸国より追われて姿を消し、以来は野に下って神格を忘れ土着の鳥獣と同じように扱われるようになったということですので、逃れるならば、奥州、蝦夷、あるいは関東より西。我等カラスが若菜さまを見失ったのは、西方でございました。若菜様の小母上殿が仰せであった地元名士の苗字から、とある湖岸の街を搾り出した、それだけが事実です」
「その、見失うってのがわからねぇ。何かに阻まれたのか」
「それが、よくわからぬのです。例の街も既に調べを入れましたが、前回調べたときには何の異変も見つからなかったと、カラスたちが申しておりました。身内贔屓と思われるかもしれませぬが、総大将、我等は前回の探索にも決して手は抜いておりません。若菜さまをただの人間の娘などと思う者は、カラスどもにはおりません。
 ……ただの人間どもは我等との縁を忘れ、我等を翼がある野良犬のように忌み嫌い、石を投げる者もおりますが、若菜様は、総大将と縁を紡がれるよりも前から、不思議と我等を嫌わぬ人間で、雛を庇うあまりに気のたった母烏が人間どもを襲ったときも、巣の在り処を人間たちに教えるなどして、人間の方を遠ざけてくださったことがあるそうです。我等カラスは恩讐を決して忘れませぬ。若菜さまのお側の護衛は、常にその母烏が勤めておりましたし、前回の探索のときにも、夜も昼もなく飛んで探りを入れました。しかし、何も見つからぬのです。見つけようとしても、何も」
「見つけられねぇ ――― 何も、《視え》ねぇ、か」
「はい」
「なァ、黒羽丸。お前たちカラスと若菜と、どっちの方が《目》は利くんだろうな?」
「それは当然に、若菜さまです。我等は妖怪で、人間に比べ異能はございますが、あのように今在るものの本質を《視抜く》力は持っておりません」

 宝船の、上だった。
 奴良組本家につめる百鬼を連れて、鯉伴は西へ向かっている。  宝船に西へ向かわせたその甲板、舳先に腰を下ろして風をうけながら、鯉伴はここでふむと顎を撫でた。

「名前を失った、神様ねぇ。おれたちも千五百年経つ頃にゃ、そうなっちまうのかね。いや、人間ならせいぜい生きて百年。その後も名を残せる人間など少ない。千五百年後となると、尚少ない。妖だとて人間からの《畏》を食い物にしている以上、そうなるのも、当然か。
 そうなっても、《視て》ほしいと思うのかね、自分のことを」

 ぽつりと呟いたその声が、誰の答えも必要としていないのを知っていたので、黒羽丸はこれには答えなかった。
 答えるには、彼はまだ若すぎる。誰かに見ていてほしいという気持ちを、彼はまだ理解できなかった。
 理解するには、もう少し、時間がかかる。そう、もう少しして、本家に幼い若様が生まれたときに、小さな手を伸ばされ握られて、大きな瞳で笑いかけられるまで、もう少し、時が必要だった。

 しかし黒羽丸は真面目の上に真面目で塗り固めたような性質であるので、主の問いかけに答えられぬまでも、考える素振りだけでなく、実際に考え込む。
 そういうわけで、黒羽丸が二代目の行動を止められなかったのは、彼の責ではない。
 なにせ、何をするにしても、鯉伴はぬらりひょんの息子として全く恥じぬ半妖で、常にのらりくらり。
 本気を本気と思わせず、本気なのか冗談なのかまるでわからない。
 ただ一つ、彼の心に嘘は無い。

 今初めて気がついたように、鯉伴は眼下に見える大きな湖、その底に浮かぶ大きな月に、目をやった。
 妙に蒼い月が、さざなみのためだろうか、一瞬だけ、まばたきをしたように見えた。

 あの船遊びの日、若菜を連れ去ろうとした奇妙な気配が、最後にぎょろりと鯉伴を睨みつけたときの、ように。

「若菜を見失ったのは、この辺りかい?」
「はい、そうです。 ――― あの、総大将?一体、何を」
「《あれ》の気配もこの辺りで消えたんだよ。もしかしたらあいつのように、てくてくと歩いてた方が早かったか?こりゃいかん、《あれ》に先をこされちまう」
「《あれ》?歩く?何を仰せです」
「ああ、いいのいいの、気にすんな。お前等は、後から適当に来な。もしかしたら、おれの勘違いかもしれねぇしさ」

 おいっちに、さんし。適当な声を上げて身体を伸ばしたり屈伸したり。
 かと思えば、鯉伴は欄干に足をかけた。ここで初めて、黒羽丸、全身が総毛だった。

「そ、総大将おぉおぉッ?!一体何をッッ?!」

 黒羽丸が止めようと駆け寄り、小物どもが騒ぎ始めて、呼ばれた首無が船内から顔を出すも、もう遅い。

「飛び込み、行っきまーすッ!」
「ちょっ、まっ……鯉伴ッ!!何考えてんだアンタはァァアァッ?!」

 慌てて首無の紐が追うが、これも空を切り、毛倡妓の髪も届かず、遥か雲の上から湖面の月へと真っ逆さま、鯉伴は落ちて ――― 落ちて ――― 落ちて ――― 。
 よもやの事態に、皆が甲板から身を乗り出して、もう胡麻粒のように小さくなってしまった鯉伴の姿を目で追って、その目を見開いた。

 何と、湖がせり上がる。
 湖だと思っていたものが、巨体を震わせて、空から落ちてきたものをしかと、《見据えた》。
 すると、一つだとばかり思っていた月がもう一つ、湖面に浮かんでいるではないか。
 月は二つになった。
 ぎょろり、ぎょろりと、二つの月は鯉伴を睨むや、水面がぽっかりと口を開け、東西南北、四方を包む大きな水の壁に、すっぽりと鯉伴は包まれてしまった。

 夜の闇に黒く深く沈み、姿を隠したその大きな旧き神が、ついに目の前に現れたのだ。
 肌からは常に水が溢れ、あちらで巻いていた渦はそのまま角になり、月は目玉に。
 さらに鯉伴をすっぽり包む水の壁こそが、そやつの口そのものだった。
 その大きさときたら、湖からほんの顔だけを隆起させて形作っただけだと言うのに、宝船すら一口に呑み込んで余りある。
 甲板から身を乗り出していた者等は、つい呆気に取られて目を向いたが、ただ一人、まさにそいつの口に飲み込まれようとしている奴良鯉伴その人だけは、にいと唇を吊り上げて、むしろこの展開を歓迎していたかのようだった。

「神様って言うのは神格失くしたって馬鹿デカイって、昔師匠がそう言ってたっけ。師匠もでけぇナリしてたしなァ。なるほど、見えねぇはずだよ、あらかじめそこに在るモンだって、すっかり思い込んじまってたんだから。この湖こそが神格の正体。そういうわけだ。あのひとにゃあついに勝ち逃げされちまったが、さぁて、今のおれはどこまでいけるかね?」

 空に逆巻く滝のように、せり上がる水の壁の中、長ドスを担いで自ら下りながら、鯉伴はきっちり口上を申し述べた。



「関東奴良組二代目、奴良鯉伴!知己を捜して関東よりこの地まで参ったァッ!
 若菜という名の女を知らぬならばよし、知っているなら、その居場所を教えてもらおうかッ」



 刹那、水の壁は震えて吼えた。
 水が鳴る、空も大地も共鳴して響く。
 口上に答えるより前に怒りを向けてきたのが、何よりの返事である。
 今や鯉伴の四肢は大海に挑む稚魚のごとき。
 しかも四方から迫った水の壁が、空から見るとまるで口をすぼめるような形で閉じようとしているので、見下ろしていた百鬼どもは焦って、

「跳べ!総大将の後に続け!目標は、湖の向こうだッ!」

 一番最初に理解したのは、首無だった。
 これに、特攻隊長は俺だぞと青田坊が当然のように続き、黒田坊も負けじと追った。
 毛倡妓は血気盛んな男どもの後に続く前に、しっかり、居残り組の女衆や小物たちをより分けてから続いた。
 納豆小僧が、火の玉小僧が、豆腐小僧や輪入道、三羽烏、他にもありとあらゆる魑魅魍魎どもが、湖の真ん中、割けた口に目がけて跳んだ。
 しんがりは河童が受けた。湖全体が一つの神格に支配された手足であるのに、これからするりと水を掠め取って泡をこさえ、飛び込む百鬼をすっぽりと包みこんだ。

 そうなれば彼等に恐怖など微塵も無い、ただ己の主の背を追って、湖の底目がけ落ちて行き ―――



 迫る水の壁が、ぐわしゃと音をたてて再び、互いの端と端をつなぎ合わせて一枚の湖面になった。
 浮かぶ宝船の上、空から見下ろす留守番役どもの方こそが、不安げな表情で、しんと静まり返った湖を見つめるばかり。
 いつしか月は隠れ、だと言うのに、湖面の月だけはきっちり二つ、ゆらゆらと、揺れていた。


<3へ続く>






〜木公の頭の中の強さ基準:↑強弱↓〜
「神格有(神仏/天孫系:ex.しろいわんこ、ヤマ)」
「元・神格有(悪神含:ex.伊佐、他土着神、鵺、土蜘蛛、白面の者)」
===ちょっとした壁===
「魔王級(和洋不問:ex.奴良鯉伴、羽衣狐)」
「大将級(ex.奴良家初代(若)、三代目(花霞含)、牛鬼、玉章、月天、他etc...」
「大物(ex.青田坊/黒田坊/首無/毛倡妓/雪女等、奴良家で言う側近衆)」
===こえられない壁===
「小物(ex.納豆小僧/豆腐小僧/火の玉童子)」「土地神・幽鬼等、《想念》タイプ(苔姫、山吹乙女)」

小物・《想念》タイプ以外のクラスは、一つ上のクラスぐらいまでなら、どうにか勝てるんじゃないかというレベル。
しかし、各クラスにも多分、「ハイクラス」「ミドルクラス」「ロウクラス」があり。
大将級一つとってみると、

「ハイクラス」→若初代、花霞(成長中)、鬼纏習得後の三代目
「ミドルクラス」→遠野修行後の三代目、月天(クラスチェンジ後の氷麗さん)、爺初代
「ロウクラス」→遠野修行前の三代目、

で、二代目は「魔王級」のハイクラスです。
なので、リクオさんは土蜘蛛にこてんぱんにやられましたが、「三千世界〜」で二代目は土蜘蛛を下した、ということなわけです。
このクラスは生まれついたパラメーターでほぼ決まりますが、二代目は生まれたときは「大将級」だったけど何かの拍子にクラスチェンジして平成では↑のクラス。
こういうどうでもいい脳内設定で、今回の敵は「元・神格有」のハイレベル設定で考えてます。
あらかじめ強さ決めておかないと、話を作るにもどうにも自分がやり難いだけなんです。