その辺の電線に止まってるカラスに言いつけてくれりゃ、おれ、飛んでくるから。 背の高い木の梢から、己をじいと見つめるカラスと目が合ったとき、若菜はすぐにあの約束を思い出した。 「ねえカラスさん、お願い、鯉伴さんに伝えて!クラヤミ街に行ったっきり、もう二日も帰ってきてない子がいるんだって。前の学校の、友達なんだ。今、前の学校の友達が報せに来て、わかったの。警察が誘拐じゃないかって捜査してるらしいけど、犯人からの連絡も全然無いし、警察の人たちがクラヤミ街を調べても何も見つからなかったって。 ただあそこで迷って出てこられなくなってるのかもしれないから、探しに行くつもりなんだけど、その……」 「おい若、早く、行くぞ!」 「うん!……とにかく、行かなくちゃ。カラスさん、お願いね」 助けてほしいと言うべきだったか、迎えに来てほしいと言うべきだったか。そもそもあのひとが、どういうことができるひとなのか、若菜ははっきり理解していなかった。 致し方あるまい、若菜が鯉伴と会ったとき、二度とも彼が困っているところにしか出くわしておらず、そのどちらも若菜の方が鯉伴を助けているのだから。とにかく伝えたならきっと来てくれる、そう信じられる相手でることだけは確かだし、情けないところしか見ていないはずなのに、しかものらりくらりとしているだけの彼だったのに、不思議と姿を思い浮かべただけで安心できる何かがあった。 これが、以前と同じクラヤミ街なら、鯉伴に頼ろうとは思わなかったに違いない。 息を殺して、人外の者が目こぼしする程度に気配を殺して、そうっとそうっと暗く陰気な場所を覗き見するだけなら、若菜は何度もやってきたことだ。 でも違う。 今度は違う。 暗くて陰気な静かな場所、ちょっぴり旺盛すぎる好奇心をほどよく満足させてくれるだけだった場所が、最近、妖しく紅く不吉な騒がしさを帯び始めたことを、若菜は感づいている。今までの若菜なら、決して近づかなかっただろう、《本当に危ない場所》へ、クラヤミ街は変わってしまった。 転校するちょっと前くらいから、その兆候はあった。 クラヤミ街の中にしかいなかった、影や霞のようなものが、少しずつ少しずつ学校や道路やよく行く本屋の隅にも現れ初めて、それでも彼等は、自分たちを《視》ない人間に悪さはしないはずだからと油断していたら、すぐ隣を歩いていた友人、美奈子の足首を強く掴んで転ばせてしまった。 何かに躓いたんだろうとその場は誤魔化したが、はっきりとした悪意、敵意を、若菜は感じ取っていたし、美奈子の足首にはしばらく、手の形の痣がついた。 神社だとかお寺だとか、こっそり静かにしていれば許される、ちょっとだけ不思議な世界へ近い場所。 そういうものであった街が、凶悪な世界へ作り替えられようとしていたのを若菜は感じ取り、転校するより前に、もうあの場所の探検はやめることにした。 若菜がやめれば、他の友達も何となく、若が言うならとやめたし、それですっかり安心していたのだが。 今日になって、転校前の友人が店を訪ねて言うことには、あの痣をこさえられた少女が一人、数日前からクラヤミ街に行ったきり、帰ってこなくなってしまったのだと。 一人で危険な場所へ行くような少女ではなかった。 その点は、若菜よりよほど大人しい、一人で行く心配などしていなかった少女であったのに。 数日前から様子がおかしかった、と、若菜を迎えに来た少年はそう言った。 「話しかけても生返事しかしないし、授業中もぼうっとしててさ。あいつ、おばさんもおじさんもベンキョーとか結構、厳しいだろ、だから今までそんなことなかったのに、宿題も全然やってこなくなっちゃって。どこか悪いのかって訊いたら、その時やけに、吹っ切れたみたいににっこり笑って、もうすぐ入院するから大丈夫、って。その次の日から、あいつ、学校にこなくなって。で、今度は行方不明だって」 「入院って……どうして?どこが悪いの?」 「知らない。訊いても教えてくれなくて、とにかく、先生がそうしなさいって言うからそうするって。あいつ、ビョーインになんか行ってたっけ?って、その時は不思議に思ったけど、よくよく考えてみたらさ、あのクラヤミ街って、昔はビョーインだったって言うだろ」 ぶるりと、先導する少年が身震いした。 クラヤミ街とは、彼等が名付けたつもりの場所だが、要するに廃墟である。 また、名付け親の若菜は、当然のように、影でこそこそと這い回る者どもから、あの場所がそう呼ばれているのを知って皆に教えただけだった。 自分が今どこに居るのかを知っていれば、決して迷子にはならないはずだから。 「美奈子の奴、もしかしたら、そこに連れられて行ったんじゃないかって、クラスの奴等が言うんだ。だから、ひょっとしたら、若なら何かわかるかって、そう思って。警察の奴等が探したって言うけどさ、もしかしたら見落とした場所だってあるかもしれないだろ」 「……とにかく、日が暮れる前に帰ってこれるようにしよう。絶対に、お陽さまが隠れる前までには、病院から出てくること。これ、約束だからね」 途中から合流した数人を含めて、子供たちだけの捜索隊は男子女子併せ、十人近くになった。 その中の、美奈子と仲の良い三人の少女を橋のたもとに待たせると、もしも誰も戻らないまま日が暮れてしまったら、大人たちに自分たちが病院跡へ向かったことを知らせて彼女等はおとなしく家に帰ることを固く約束し、残りの、足が早かったり背が高かったり活発であったり、少なくともちょっとやそっとでは泣き出さないだろうと思われる子供たちを引き連れて、若菜は橋を渡った。 夏の陽が、駈ける子供たちをじりじりと照らしていた。 +++
そう、夏だと言うのに、クラヤミ街はそこだけがすっぽりと季節から切り取られてしまったように、近づいただけでひんやりとした空気を感じさせた。 取り壊される目処もついていないのか、敷地の中は雑草に覆われており、敷地を囲むブロック塀にはあちこち穴が開いて、傾いた立入禁止の看板はこの穴の存在を黙認しているのか、せざるをえなかったのか、ぼこりとへこんで傾いた、痛めつけられた虐められっこのような姿で、真正面を閉ざした金網にかろうじて引っかかっていた。 ここまで来て、自然と、皆の足が止まった。 今までならば我先に、塀の穴や、金網をよじ登って、塀の向こうへ入ったものだが、今日はそれがない。 美奈子が行方不明になっている。 警察が探したけど、見つからなかった。 そんな話を聞いたからだけではない、何か不吉な気配が向こう側で蠢いているのを、皆が敏感に感じ取ったのだ。 「若、どうする……?」 「二人はここに残ることにしよう。残りの四人が中に入って、四十分後にここへ戻ってくる。もし、一時間経っても誰も戻ってこれないような何かが起こったら、ここに残った二人はさっきの橋のところまで戻って、あの三人と合流してから大人たちにそのことを知らせる。どう?」 忙しい大人が最近持ち始めた、携帯電話やPHSというものがあればこういう時便利なのにな、と若菜は思ったが、子供に手が届くものではない。 無いなら無いで、それなりに決め事をしておけば良いことだ。 四十分だけ中に入って、戻ってくるのを繰り返すのは面倒だが、無事を確認するには一番良いし、何かあればメンバーを交代もできる。 他にも、中では大声を出さない、足音もなるべくたてない等、いくつか決めごとをしてから、若菜を先頭に捜索隊は行動を開始した。 以前は逆に、少し薄暗い場所では大きな声で、お邪魔しますと一声挨拶して入ると、長い廊下などには落ちていた陰りがほんの少しなりを潜めて、あたたかな日差しがすり硝子の向こうから差してきたものだし、ひんやりとした空気もどこかやわらいだ。 だが、今日の病院跡は、以前とはずいぶん様子が違っている。 例えば、病院の待合室に繋がる正面玄関。 埃がついた硝子の向こうから、そっとこちらを伺っているように見える影は、何だろう。 その影が、若菜の視線がふとそちらを見やっただけで、さっと身を隠したのは、まるで時代劇の中で、これから戦をしようとしている砦の見張り兵のようだ。 あるいは、待合室に入った後、風もないのにどこか遠くで申し合わせたかのごとく、がたんごとりと物音がしたり、ストレッチャーの車輪が床を滑る音がするのは、何だろう。 たまたま、何かどこかに引っかかっていたものが、床に落ちた、それだけか。 いいや違う、ざわついている。 しんと静まり返っているのに、気配だけがある。 気配がした方向を見ると、若菜の視界の端、長い廊下の突き当たりを、右から左へ、影が横切った。 影を見たのは若菜だけだ。 同じ方向を見ていても、他の少年たちはきょろきょろとするばかり。 なのに、影たちは悪意を込めて壁の向こうから、天井の隙間から、棚と棚の間から、こちらをじいと見つめているのだ。 己を見る者に対しても見ない者に対しても、等しく同じ敵意、悪意。 若菜は少し考えたが、かけていた銀縁眼鏡を、ポケットに入れた。 「どうしたの、若」 「眼鏡、割っちゃったら困るから」 嘘だった。 他の子たちは知らないが、眼鏡には度が入っていない。 この場所では、目線が合っても合わなくても、自分たちは敵として見られるらしい。 それなら眼鏡を取ってしまっても同じだし、硝子を通さない方が、若菜も早くあちらを見つけることができる。 遠くまで、《視》える。 さっそく眼鏡を取って見回してみれば、先ほどのストレッチャーの音の方から、何か黒い影が、ゆっくり、ゆっくり、こちらに近づいている。 まだ壁を何枚か隔てた向こう、こちらには気づいていないようだけれど、訝しげに首を傾げて、確かめに来ようとしている。 そういう気配が、若菜には《視》える。 見つかっては厄介だ。 かと言って、皆にそれを言えば恐慌に陥るだろうし、さすがに信じてもらえないかもしれない。 若菜は待合室の角にある案内板に興味を引かれた振りをして、そちらに歩むことにした。すると、もし待合室を廊下の向こう側からまっすぐ覗いたとしても、自分たちの姿は壁の影になって見えない。 直接待合室に来ない限り、《あの影》は自分たちを見ないはずだ。 「美奈子ちゃん、入院するって言ってたんだよね?」 「うん。でもさ、病室なんて、警察がきっと捜したはずだろ」 「それを言うなら、この建物全部探したはずだよ。それでも見つからなかったんだから、もう一回捜して見つかるかどうかだってわからないけど、でもせっかくだから行ってみよう。日暮れまで、まだ時間がある」 廊下の向こうで、影がぴたり、と、止まった。 こちらをうかがっているようだが、気づいてはいない。 しかし、今度は廊下を待合室の方へ、ゆっくり、ゆっくり、近づいてくる。 あちらは駄目だ、と、若菜は案内板からすぐ脇の階段室への扉を開いた。ひんやりとした、黴臭い空気が流れ込むが、真っ暗ではない。上から光が差している。どこか違う階の扉が開いているようだ。 皆を先に中へ導き、若菜は階段を昇る前に、小さく開いた扉の隙間から、待合室をうかがった。 すると。 キイ、こ。キイ、こ。キイ、こ。 やがて、聞こえてきた。 今度は他の子供たちの耳にも、しっかりと。 青ざめた顔色の少年たちは、若菜の方をすがるように見つめ、息を潜めている。 若菜もまた、扉の隙間から何者が現れるのかをじっと見つめ、廊下から待合室に、シーツが黄ばんで破れ垂れ下がったストレッチャーの先っぽが見えたところで、音をさせないように、扉を閉めた。 捜索隊は慌てて上の階へと駆ける。 誰もが必死の表情で、足音をさせないように。 学校の避難訓練なんかよりもよっぽど真剣に、迅速に、汗びっしょりかきながら。 たった一階上がっただけなのに、開きっぱなしの扉の前について座り込むと、みんな、息が上がっていた。 「今の、見た?」 「見えなかったけど、聞こえた」 「何だよあれ、誰が押してたんだ?」 「シイー……静かに」 扉に張りついて、二階の廊下を伺う若菜が、唇に指をあてて少年たちを宥めた。 中にはもう泣きそうな顔をしている者もあるが、若菜がちっとも泣きそうにないので、我慢強く唇を噛んで耐えている。 若菜は細く扉を開いて中を伺ったが、ここじゃないみたいだと判じて、扉を閉めた。 一階よりも徘徊する影の姿が少なかった。 きっとここは、あまり重要な場所ではないのだ。 あの影たちは、侵入者を見定めて、誰かに知らせる役目を負っているんだろう。 ここに生きている人間たちが入ったと知られれば、隠れるか、それとも取り込んで喰らってしまうのか、どちらかに決めてしまうに違いなく、警察が大勢でここへ入った時には前者だったに違いない。 隠れられてしまえば、彼等が出入りする入り口も全て閉ざされてしまう。 あるはずの無い扉、あるはずの無い階段、そういうものを通った先こそ、美奈子がいるはずの場所なのに。 美奈子は、きっとここにいる。 若菜はそう予感していた。 「この建物、外から見たときは三階建てだったよね?」 「うん」 「じゃあ、四階は無いはずだよね?」 若菜の静かな問いに、捜索隊員たちは顔を見合わせて、次に勇気を振り絞り、螺旋を描く階段の手すりのところから、そっと上を覗いてみた。 彼等の隊長がするように、妙な物がこちらを覗いていても見つからないように、そうっと、そうっと。 次に息を呑んで、 「……光が漏れてるの、四階だ」 既に涙声だった。 「行ってみよう」 若菜ではない、言ったのは、迎えに来た少年だった。 顔を見合わせ頷くと、若菜が先頭に立って再び移動を始める。 腕時計を見ると、ずいぶん時間が経ったように思えたのに、まだ十分も経っていなかった。 かくして、四階の扉の前に捜索隊は立った。 他の階と違って、四階の階段は開け放たれており、また、階段で現在の階を示す場所が通常は1、2、3と数字であるのに対し、四、と漢字で書かれている。 その上、ほんの少し中を覗けば、今度は壁が赤い。 病院にあるまじき、黒ずんだ赤。 そこに、いくつも手の痕がついている。 壁にも、床にも、天井にも。 扉のすぐ側に、ナースステーションがあった。 中には誰もいない。 いないはずだ。 ただ、今まで誰かがそこに座っていたのか、机の側のキャスター付きの椅子が、くるくると回っていた。 何かが縛り付けられている。 美奈子は、ここにいる。 予感は、確信に変わった。 くるりと回った椅子の座面がこちらを向いた拍子、若菜と眼が合うや助けを求めるように、力を振り絞ってわずかに手を伸ばしたような格好をしたのは、そこに無惨に錆びた鎖で縛り付けられた、美奈子の部屋の、クマのぬいぐるみだった。 ここではどれだけ隠れようとしても、無駄だろう。 若菜の目は、今ここに在るものを全て《視》る。 後ろを歩む少年たちの目には見えぬものでも、全て視る。 恐怖というのは、心が感じるもの。誰かに感じさせられるものではない。 本当におそろしいものとは、自分の心しか生み出さない。 意味なんてわからなくても、尼だった祖母が何度も言い聞かせてくれた教えは、もう若菜の一部だ。 忙しくうろつきまわる影たち。 ギョロギョロと天井にぶら下がり壁にへばりついて、いたるところから視線を投げかけてくる黄色い目玉。 死角は無い。 クマのぬいぐるみは、ゆっくり、ゆっくりと、腕を持ち上げ、向かって左の方向を指した。 瞳はまっすぐ、若菜を見ている。 わかったよ、と言うように若菜が扉の影で頷くと、力尽きたように、ぽろりと、首が落ちた。 首を斬られた罪人のように。 <中編へ続く>
アトガキ 続きます。トイレ行けなくなったらごめんね。てへ。 でもぬら孫ってこういう話だよね?合ってるよね?合ってることにしよう。 |